南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆ブリトゥン島

2015-02-28 21:34:38 | 旅行

 2234 ジャカルタの日系新聞に特集としてブリトゥン島が紹介されましたね。ジャカルタから近いし、景色が最高です。岩の芸術もいいが、海の色が素晴らしい。インドネシアの中で一番気に入っている。しかし、最近は観光地として俗化されつつあり、素朴さが失われかけつつある。新しいホテルも増えている。“ラスカル プランギ”が書かれたころは、そうとうな貧乏島だったよいう、今は。観光産業で潤いが急激に増している。行っておくなら、今の内。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0075.html旅行記

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage00092.html写真集

http://otaenplaext.net/newpage48.html旅行記

http://otaenplaext.net/newpage49.html写真集

バンカ ブリトゥン州のブリトゥン島です。詳しくは渡しにウェブサイトを参考にしてください。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page002.html旅行記

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page003.html写真集

ちなみに、こちらは、バンカ島です。似たように岩の景色は有りますが、ブリトゥンほどではない、露天掘りの鉱物資源の多さが目を引きます。

どちらの島もインドネシアらしい社会、景色、産業、文学が豊富で、近いし、ジャカルタ近郊に住む日本人家族連れの旅には、健康的で、勉強にもなるし、最適だと思います。早朝、立って、次の日の夕方の便での一泊二日で充分です。二泊三日ならもっとゆっくり堪能できるでしょう。カラオケの人とプラウスリブへ行くならブリトゥンの方が、断然お勧めです。金額的に大差ない。逆に家族連れでプラウスリブのどの島へ行くにしても、同じ船の中や島で、若い女の子と一緒の日本人のおじさんを見かけることになる。

勿論、日本からだって、ツアーでなく、個人旅には最適だと思う。

パンガンダランの宣伝マンだが、こちらも宣伝マンです。

 

ただし、一つだけ注意、今日も局地的な雷混じりのスコールが、短時間だが荒れていた。もう間もなく、雨季が開けるでしょうが、名残大雨です。そして、この島へ行くなら、4月から9月までの乾季に限ります。本当は、今、この時期に紹介するのは、時期が悪いと思う。5月に連休がありますね。この辺りが良いでしょう。

 

ラスカル プランギのTシャツ。ついでにコタキナバルで買ったキナバル山のTシャツです。

安 近 短

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(^_-)-☆イミグレ

2015-02-27 22:38:51 | 行動

 2233 ブカシバラットのイミグレに行ってきた。ここも何回目でしょうか。最初はジャカルタまで行っていた。次はカワランの町中でした。そして、4年ほど前からは、ここに行くようになった。ミトラクルアルガ病院の右側の道に入って(ここがバイクの駐車場になっていて、分かりにくく、狭い)暫く行って右に自然に曲がれば、右側にいる口が見える。

 

行き過ぎてUターンして戻って駐車場に入る。分かりにくい場所だと思う。駐車場も狭く、係が導いてくれる。ハンドブレーキを掛けないで、タイヤは真っすぐにして、押して移動できる状態にして、車から離れる、そういう車が多い。常駐のエージェントが、待っていて、直ぐに、管内の手続き部屋に案内してくれる。駐車場からゲートを入ると。右に、インドネシア人のためのパスポートなどの申請や受け取る場所がある。

 

その前を通って左側に外国人のためのKITASなどの手続きの場所がある。こちらも、まだ新しく、汚れていない。入ると、申請書類に二か所サインをする。その後、すぐに、写真撮影室に入る。あっという間に写真を撮り、手の全ての指の指紋を取られ、サインをする。二三分でお終い。いつできるのか聞いたら、明日中にはできる、月曜日にサクラに届けると言っていた。月曜の夕方にはKITASが手に入る。3日に日本行きのチケットを手はしようと思う。

 

イムグレオフィスへ行くのに、サッカースタジアムのすぐわきを通る。かなり、凝ったデザインだと思う。しかし、この施設、使っているのかな。使っている雰囲気がない。駐車場のスペースは有るが、草ぼうぼうに見えるし、よく工事中の施設に見られる、周りをトタン板のようなもので囲ってある。ここのイミグレに始めて行った時、既に、ほとんど、今の状態まで、でき上がっていたと思う。どうしたんでしょう、勿体ない話ですね。

チカランバル(ジャバベカ)のサッカースタジアムもそろそろ、全体像が現れてきている。いつから、使うのでしょうか。ブカシバラットのスタジアムのように、ならないでしょうか。

イミグレ サイン 指紋

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(^_-)-☆始まり

2015-02-26 22:52:50 | 知識

 2232 昨日の続きの説明。キタスの期間中、一か月100US$を前納しなければなりません。1年なら1200US$ですね。半年VISAなら600US$です。馬鹿にならない金額です。期間途中で解約(エポ)をした場合は、残りの期間中の分、払い戻しがあることになっています。しかし、会社が取り戻したという話は聞いたことがない。税金の払い戻しを受けることに成功したという会社がないと、同じ種類の話です。

 

キタスKITAS(住民票のようなもの)これを持っているとパスポートを見せる必要はない。IDカードになる。私は、車の免許証SIMを身分証明として出している。キタスを出す必要もない。これがあると、多くの場合(例外はある)インドネシア人と同じ扱いになり、観光地(ボロブドゥールやチャンディ プランバナンなど)で外国人ツーリストとしてなく、インドネシア人の入り口から、インドネシア人と同じ入場料で入ることができる。ホテルやレンタカーも外国人価格ではなく扱われるし、インドネシア構内のパケット(たとえば、バリで、ゴルフをしたいときに、航空券、ホテル、プレーのセット)旅の料金も安くなる。予約する時に、KITASホルダーかと聞かれるでしょう。特にバリなど、外国人価格とインドネシア人価格が大きく違う場合は有効だ。外国人が多いレストランでは、メニュー(価格表)が二種類ある。

 

マルチリエントリーパーミットは、そのVISAの期間内に、何度でも、インドネシアから出入りできるということです。これがないまま、出国してしまえば、そのビザは、失効してしまい、再入国できません。入るなら、一般観光客のように、短期ビザで入るしかないし、仕事もできません。なので、KITASと同時に、ビザの期間中(ビザが1年なら、1年)のマルチリエントリーパーミットを自動的に取ります。以前、1年ビザでも半年ずつしか取れないときがあって、半年が過ぎる前に、もう半年を取らなければならなかった。それを、忘れていて、期限切れの場合、イミグレで出国を拒否されたケースが多かった。だから、期限内かどうか、チェックしたものでした。

久しぶりに会社に行ってみた。仕事の始まりです。いきなり、大問題があることが分かったが、ダイレクターさん、意識をしていないし、客先に現状を話していない。輸入原料の手配が遅れていて、商社の公庫に在庫がない。どうするつもりでしょうか。お金も問題ではない。

 

PT.ENDOTAの真向かいの様子です。

 

出て、右側の様子です。この先、200mほど行った所に右側に、カワンラマの倉庫と配送センターがあります。小売スペースも在る。その向こう隣がACEのデリバリーセンターです。ここは小売スペースがないと思う。    

始まり 手続き 請求 

 

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(^_-)-☆始まりの始まり

2015-02-25 22:40:07 | 行動

 2231 ようやく、アドバイザーの仕事を始めることができるようになった。しかし、まだ、手続きが残っている。大体、こういうことは、会社の担当者が進めるものだが、私に場合、自分でできることは自分でやってしまう方が、簡単で、早い。しかし、私ではできないこともある。そういう場合は、インドネシア人の担当者を決めてもらって、私が方法を教えてやってもらう。技術を教えることと同じで、方法を全て教えて、教えっぱなしだと、本当にやっているのか、いつまでにやるのか、そういう、経過も分からないし、報告もないので、聞かなければならないし、まだだったら、催促をしなければならないし、場合によっては、もう一度、最初から、教えなければならない。インドネシア人の世界とは、こういうものです。

 

ま、日本人にも、そんな人がいる。頼んでも、なかなかやってくれない、何度も催促し、やっと出てきた書類が間違えていたり、とんでもない、考え違いを前提として、データが出てくる。それを、説明し、訂正し、それから、また、長い時間待つことになる。やっと、それらしき書類を渡されたときに、“3か月も、遅れましたね””というと、「こうして、今、だしたじゃないですか、これでいいでしょ」と、言われてします。催促し、やり方を教え、確認し、訂正し、もし、そうしなければ、3カ月、遅れた、今になっても、また、いつまで待っても、データや書類は出てこないというのに。開き直られてしまう。

 

とにかく、始まりの始まりがやっと来た。KITASの申請用にパスポートやUS$を届けに、エージェントに行ってきた。会社の担当者は、そのUS$の支払いに関しても、知らなかった、聞いていない、という始末だった。多分、一週間後くらいには、ブカシバラットのイミグレオフィスに行くことになる。その数日後にはKITASが手にはいる、マルチリエントリーパーミットの印もパスポートに押されて戻ってくる。もう、何回も繰り返している状況だ。

 

知らず知らずにブキッ ティマー通りを西に向かって、植物園の北側の入り口の前を通過した。

 

イセタンの映画館直行などのエスカレーター。

 

この書類とパスポートと写真二枚をシンガポールのエージェントに渡した。

弁護士から、話をしてもらうと、書いてきたが、10日過ぎても何の音沙汰もなし、気の毒な気がする。

申請 支払い 弁護士 

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(^_-)-☆シンガポール

2015-02-24 22:38:41 | 行動

 2230 疲れた、タクシーを使えばいいのに、使わなかった、というより、タクシーが止まってくれなかった。何故でしょうか。

 

 朝3時過ぎに出発、ガルーダでシンガポールへ、出国は、何かいわれるかと思ったが、問題なし、拍子抜けで、あっけなかった。エージェントとの待ち合わせ場所のホテルに着いたのが、現地時間10時だった。オチャードロードのグラン パークという。ちょっと戸惑う、エレベーターに入ると、ボタンがBIとか1とか他の数字が打ってある。ロビーはどこだ?迷っていると、他の人が入ってきて、多分、ロビーだろう、押したので、私は何もしなかった。四階でした。着くと、私は乗ってきた側が開くと思っていたら、背中側が開いた。その人は、そっちを向いていて降りてしまった。私も慌てて、降りたという次第。読めば、各階は何か、書いてあった。しかし、出口は反対側とは、どこにも書いてなかった。四階がロビーとは、思わないのが普通だと思う。

 

10時に写真とパスポートと書類を渡し、外にでた。さて、どちらに向かおうか、オーチャードを北に向かうことにした。自然に東に向かっていたようだった。そこで、北にまた向きを変え、西に向かって、戻ろうとした。ところが、道が、自然に曲がっているので、方向がどちらか分からなくなってしまった。晴れていて、カンカン照り、しかし、太陽のいつでは、方角がわからない、ほとんど、真上だからだ。2時間ほど歩いて、疲れ切っていた。通りの交差点や分かれ道の手前に、どちら方面という看板は出ている。しかし、書いてあるのは、通りの名前だけ、真っ直ぐは、今歩いている通りの名前、右も左も交差する道の名前、これでは、どこに行く道なのか分からない。

北西方向遠くまで歩いてしまったと思うので、そんなことを思いながら、ひたすら、南東方向だろうともう道を選んで、歩いた。3時間経過、やっと、オーチャード通り方面という看板を目にすることができた、結局、オーチャードに戻ったのは、14時を回っていた。

 

歩いてきた道の途中にコンビニやカキリマが全くなしで、水も買うことができなかった。オーチャードに入って直ぐに水を買って、ガブ飲みをした。足は吊ってしまうし、頭は帽子をかぶっていたが、朦朧としていた。こんな状態が酷くなると、熱中症なのだろうなと思ったし、よく熱中症にならなかったなと思う。

 

5時にホテルに戻ることになっていたが、まだ、3時前、ホテルの近くのショッピングモールの中から、バロンサイの音が景気よく聞こえてきたので、入って行って、様子を写真に撮った。その時に、マッサージの看板が見えたので、疲れ切った体をほぐそうと、マッサージを受けることにした。痛くて、痛くて、ひたすら、耐えるマッサージを一時間半受けた。100SDでした。高いと思う。4;45にエージャントから電話が入り、もう、ホテルに到着しているというのだ、私も、すぐ近くにいたので、その5分後にはVISAが貼られたパスポートを受け取った。

 

外は突然の雷混じりの多雨、タクシー乗り場に既に長蛇の列ができていた。その後ろに着いたが、タクシーが止まらない。長距離の客が待っている可能性が高い乗り場に向かうために、私達が待っている場所には、止まらず素通りしてしまう。目の前で客を降ろしても、直ぐに道の中央方向に行ってしまう。完全な、乗車拒否だ。大雨がなかなか止まない、だから、なお、タクシーは遠距離客が待っている方に行ってしまう。20組ほど待っているのに全然減らない行列に後ろに着いていても、イライラするばかりなので、近くの大きなホテルの車寄せの場所に行った。客を送ってきたタクシーをそのまま使うためだ。これが、見事に的中、行ったと同時にタクシーが入ってきた。客を降ろすと同時にホテルのボーイが空港だから頼むドライバーに言ってくれた。ドライバーも、私のような客をこれから捜そうとするわけだから、運が良かったと言える。

 

空港には早めに到着し、19;40の登場時間まで2時間半以上の余裕だった。しかし。ここも二も不満が、コンセントやワイファイを使う場所は、一杯あるが、全てが塞がっていた、ワイファイを使わない人が、占領しているからです。それと、どういうわけか、私は無料ワイファイを使えなかった。問題があると出てしまう。問題が分からなかった。

 

とにかく、VISAは修得した。入国も問題はなかった。空港からの帰りのタクシーは、個人タクシーだったが、35万Rpで交渉成立していた。マチェット無し、だったが、22;30 何もできない、ほっとした事も在り、直ぐに寝てしまった。

アドバイザー ビザ 普通

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(^_-)-☆雨季も最終段階

2015-02-23 06:39:32 | 情報

 2229 昨日今日と雨季とは思えない好天に恵まれた。今朝などは、無風で、晴れ、6時前の、まだ、薄暗い内にスタート、朝霧が消えず、移動せず、ボールの行方を追うのが難しい程だった。太陽が昇ると同時に靄は消えていった。幻想的ない風景でした。その後は、急激に暑くなった。

 

3月2日から仕事をするために出勤できる段取りになった。本当に、お待たせでした。新会社にとっては、大きな損失だと思うが、どうも、インドネシア人の責任者はそういう意識がないようだ。この間、従業員はオペレーターだけでも6人になり、検査や梱包やデリバリーの担当者も5人、購買や経理も一人ずつ、人は着実に増やしていて、この一月から、最低賃金も昨年より20%ほど、上がっている。収益の状態が益々、難しい環境になっているにもかかわらず、それも、あまり、意識していない様子。残業や休日出勤など、割増しに給になるオーバータイムは、禁止しているにもかかわらず、管理職、オーバータイムの時間に仕事をしても、割増し給料を貰えない人達、ダイレクターやマネージャー達は、善意に時間外の仕事はしない。

 

これでは、納期は送れるし、仕事に対する姿勢も、一般従業員への手本を示していないどころか、悪い見本を示してしまっていて、労使の関係の近い将来も心配しなければならなくなる。インドネシア人が経営する会社というものはこんなものなのだろうか。企業として成功する可能性も期待できなくなる。やっと仕事でできる状態になろうとしている私の仕事は、押出の技術に関してではなく。経営連中の仕事振りに、口出しする事から始める必要がある。考え方や姿勢を変えることができなければ、技術の指導の段階には行かないし、途中で放り投げてしまう段取りも考えることになるかもしれない。要するに、この新しい会社を諦めて、他のやる気がある会社に対して技術を教えようと思うようになるかもしれない。

 

ローカルの押出成型会社に声をかけようかという会社は二社ある。チカランバルとデルタマスでルコを工場としている会社だ。スマランのオーナーにも注文を付けて、3月中に結論を出そうと思う。なかなか、上手くいかないものである。期待通りにいかないものである。

 

前の会社は日本人が社長だったが、客先に対する納入責任という考えが全くなかった。私が何とかしなければならなかったが、その資金を、今、装置や原料を売ったにもかかわらず、返そうとしてくれない。今度の会社も、その点、余りにもお粗末、同じ事を繰り返したくない。その人たちのためにもならない。

策 迷い 期待外れ

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(^_-)-☆くつろぎの一日

2015-02-22 22:28:55 | 思うこと

 2228 ゴルフ、久しぶりのような気がする。一緒に回った方のスコアーが39,37の76、オリンピックが36ポイント、別世界の人でしたが、親しみやすいく緊張感が感じられなかった。バグスBagusでした。自分のスコアーは書けない。

 

VISA修得用の写真を撮りにいってきた。シンガポールのエージェントに渡すためである。リッポチカランモールの二階、ハイパーマートの入り口正面の手前、右側に、あまり目立たなくあるフォトスタジオです。1万8千Rpで4×6cmの4枚一組の写真とCDを受け取れる。行くとすぐに何枚かの写真を撮り、その内の一枚を選ぶ、それをCDに保存し、4枚の写真を作るので、20分後に、再び来れば、出来あがっている。安いと思う。CDを無くさないようにしたい。

 

そのショッピングモールは、流石、“立宝“リッポ、中国系の財閥の一つ。中国正月セールが繰り広げられていて、賑わっていた、色々な催しが繰り広げられていた。中でもバロンサイ(中国獅子舞)が各店の前で、踊りを披露し、鉦や太鼓、シンバルの演奏でモール無いが盛り上がっていた。

 

その前に、また、ヒュンダイ工業団地の中の、やはり、韓国系企業を訪問した。日系企業の収益状態も厳しい中、韓国系企業も、聞くところによると、50%以上は、赤字だという。LGなどは、納品後月末締めの3か月後の支払いだそうです。別に三カ月に手形を月末に発行するのではなく、支払いが3カ月後なのです。原料費を三カ月分、自腹で用意できなければ、対応できない。そんな商売で、通っているのが、韓国方式なのです。だから、韓国系企業といえども、日系企業と付き合いをしたいのです。私が訪問した会社も、行くたびに、日系企業を紹介してほしいと言います。当然です。

 

ヒュンダイの工業団地を奥まで、入ってみる機会はほとんどないが、今日の会社はちょっと奥にあった。そこまでの道の状態の酷き事、直さないのですね。深く掘れているその場所はその土を盛り上げてしまっている。写真より、実際は酷い。雨季が終わるまで、もっとすごい状態になるでしょう。

活動 急な動き 準備

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(^_-)-☆まだ休みが続くが

2015-02-21 22:42:48 | 情報

 2227 スマトラ最北部、あの大地震、大津波があった州です。山の中で、20トンの翡翠の原石が見つかった。2億円と言っている。地元民と発掘や発見のために来ている外部の人間と所有権で揉めていて、警察が間に入っているようです。

Penemuan batu giok(ヒスイ)seberat 20 ton di Nagan Raya Aceh sempat menimbulkan ketegangan antara masyarakat lokal dengan warga pendatang. Untuk mencegah konflik sosial terjadi,pendatang diminta menghargai adat setempat.

どう解決するのでしょうか、面白そうですね。

 

24日なら確実だという話で、チケットを取ってあったが、エージェントからテレックスが遅れていて、ヤキモキしていたが、ようやく、午後4時過ぎにテレックスが入ったと連絡があり、シンガポールでの行動予定とVISAの申請内容の書類を受け取った。インドネシアから出てコタキナバルへの旅に出る前の話では、15日頃には準備が出来ているという話だったが、本当にギリギリだった。それでも、二か月掛かってしまうこともあるらしいから、申請完了の日から早い方だと思う。24日にシンガポールへ行くことが決定した。結局、なんだかんだで、死後とをするために出社するのは、3月1日からになりそうだ。

 

もう一度書くが、70歳過ぎてのアドバイザーとしてのVISAです。60歳以上では絶対取れないという人が絶対的に多いし、エージェントが面倒なことは避けようとするのでしょう、やはり、無理だというエージェントも多いと思う。しかし、私が、前々から、お願いしているエージェントは、いつ聞いてもできると言っていた。アドバイザーとしてもVISA修得の条件に、大卒以上でなければだめだとか、60歳以上は駄目だとか、経験が5年以上無ければだめなどという条文はないそうです。言われていることは、運用条件だそうで、審査を厳しくするということです。本当に、アドバイザーとしての能力があるかどうか、インドネシア人が持っていない技術を教えることができるかどうか、が、審査対象ですが、条件を絞った方が、能力を確認しやすいという考え方でしょう。

 

私がアドバイザーとしてもVISAが取れて、ショックを受けている人がいるはずです。絶対取れないと言っていた人達です。不正なやり口で修得すれば、会社の存続が危なくなるとまで言って、否定していた。私は裏金を使ったわけでもないし、政府の高官やイミグレの上の人にコネがあるわけでもない、ちゃんと審査を通ったのです。

経営から一歩引いて、技術の指導や経営の指導、アドバイスが出来る人で、必要なら、60歳以上でも申請すればいいのです。自分で言うのもなんですが、厳しいという審査を通った私がよい見本だと思います。

 

先ほどのジャラン カリマランの園芸店、最近できたようです。

見本 好例 審査通過

背景が白で4×6cmの写真が二枚必要だ。

私のメールアドレスです。ウェブサイトの表紙にも書いています。kota02@y6.dion.ne.jp

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(^_-)-☆中国正月

2015-02-20 22:34:04 | 状況

 2226 春節ですね。イムレックIMLEKといいます。ナショナルホリデーです。ジャカルタなど大都市に中国人が多いので、賑やかだろうが、チカランはほとんど普通だ。メンバーが揃わなくて、ゴルフ、キャンセルでした。終日、波の雨、降ったり、止んだりだが、降っている時間が70%以上だった。

それでも、朝の内に洗濯と掃除、ちょっと簡単な料理をしただけで、あとはくつろいだ。

 

3時ごろ、ヒュンダイにある韓国系企業へ遊びに行ってきた。韓国へLEDチューブランプを輸出している会社だ。昨年の8月くらいからの付き合いだが、ここへきて、急激に輸出が増えているようで、エンドタが対応に遅れが出ているらしい、それで、KIMさんが、心配して、私に来てほしい、現状を聞いてほしいということで、伺った。

私は韓国系の押出成形会社は進出していないのか、プラスチック袋でもストローでも、ボールペンの芯のようなものでも、とにかく、押出機を使って成形している会社があったら、そこで、可能だから、相談してみたら、と、提案した。私が手伝うからとも言ってやった。どうも、彼、自分の国の関係の押出成形屋を信用していないようだし、元々、押出成形企業には知り合いがいないようす、ちょっと、難しそうだ。もっとも、日系押出成形会社でも出来ないのだから。とにかく、エンドタで何とかしましょうということになったが、まだ、仕事ができない。この会社だけでなく、問題が多い。困ったものである。

 

コタキナバルの沖に見える島、ガヤ島Pulau Gayaだが、コタから見ると、知らなければ、岸辺に、陸上に家が並んでいるように見える。しかし、近付くと、全てが海上にあることが分かる。遠浅になっているので、桟橋の先に上陸すると、岸まで250ある、その両側に家が並んでいる。聞くとことによると、コタと島を往復するボートタクシーの所有者は全てこの島の人だそうで。それで、生計を立てている人が多い。私を誘った人も、この島の住民で、上陸すると、全てが知り合いなので、いちいち、挨拶をしながら過ぎる、日本人を載せてきて案内をすると、いちいち言っている。案内すると言ったって、学校しかないので、学校につれて行ってもらう。それだけだが、彼にとっては、誇らしげだった。水は100mほどの山の上に大きなタンクがあり、真水をコタから海底パイプで送っているそうだ。しかし、どの家の前にも雨水を貯めるプラスチックのドラム缶が置いてあり、屋根から引きいれている。マンディは海水だそうだ。

 

近付く船から岸辺近くに並ぶ水上住宅、トイレは当然、海である。

島の学校からコタを見る。豪華客船が停泊している。ホテルやデパート、オフィスビルが林立しているのが見える。別の世界だ。  

ウェブサイトにアップしました。

旅行記 http://otaenplaext.net/newpage69.html

写真集 http://otaenplaext.net/newpage70.html

迷惑 成長 間もなく

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(^_-)-☆コタキナバル旅終わり

2015-02-19 22:51:00 | 旅行

 2225 10;10コタキナバルから離れた。マレーシアのSabah州、どんな産業があるのでしょうか。この数日では分からない。ただし、町中に活気がある。それは、日本に比べれば、汚いし、臭いし、込み合っているし、狭苦しいし、対岸の島と貧富の差は酷いものだし、いいところはあまりないようだが、他の東南アジアの都市と比べれば、随分、いい方だと思う。一番感じたことは、親切だと思う。交通信号のあるところでは渡らないことを徹底していて、広い通りでも車の車間を通りぬけるときが多いが、人を見れば、早めにブレーキを掛けてくれるので、安心して渡れるし、込み合ったパサールや屋台村の様な場所でも。向こうから来た人は、私が避ける前に避けてくれる。道を聞くことはしばしばだった、というより、ちょっと、分からなくなれば、通りがかりの人に躊躇なく聞くことにしていた。聞かれた皆さん、結構丁寧に教えてくれるし、その人が知らないと、通りがかりの人に声を掛けてくれて聞いてくれたりした。私がしゃべれるからかもしれないが、とにかく親しげに対応してくれた。

 

ショッピングモールの中のレストランでなく、町のレストランの中で一番目だったのは、何と、マサカン パダンだった。チャイニーズレストラン、シーフードレストランが続く。私は°のレストランも、店の匂いが苦手だった。私にとって、店の外に匂ってくる匂いが臭いので入りにくい。それでも、中華料理をいくつか試してみたが、料理の匂いも味も合わなかった。それと、ご飯もぱさぱさ感だけでなく、何か味が付いていて、これも、苦手だった。

ということで、コンビニでカップラーメンやカップブブール(お粥)やパンを買って来てホテルの部屋で食べていた。カップラーメンは日本のカップラーメンに味が似ていて、辛さも控えめのコショーだった。インドネシアのような唐辛子ではなかった。お粥は美味しい。インドネシアに有ればいいと思った。ドリアンやタラップ、マンガ、パパヤなどの果物は、パサールで買ってその場に座り込んで食べていた。このそれぞれの味もいいが、その場の食べ心地はもっといい。日本人が坐って、地元の果物を食べているからでしょうか。通りがかりの人がじろじろ見ている。

 

空港を間違えた。インターナショナルではなかった。アエーアジアだけ、国内線ターミナル2を使っているのでした。タクシーの運転手にインターナショナルと言っただけなので、ターミナル1で降ろされ、どうも、着いた時の様子と違うので、聞いてみたら、間違いが分かった。タクシーでまた別の空港に向かってやっと間違いないターミナルに到着した。今度は長蛇の列、8;30過ぎで、余裕はあるが、20分以上行列に並んだ。10;10フライトでホテルから出たのが7;40くらい、早すぎるかなと思ったが、丁度良くなってしまった。ぎりぎりだったらとんでもないことになっていたかもしれない。

 

新ターミナル1と旧ターミナル2、エアーアジアは全てこちら。

 

飛び立つと間もなく目には行ったキナバル山頂上。

 

コタキナバルとジャカルタ上空の雲の様子がぜんぜん違う。北緯と南緯5℃なのにこうも気候が違うのかと思う。赤道上を通過しパランカラヤ付近では、ベルト着用のサインが出ていた。エアーアジアなので、ちょっと緊張した。カリマンタン島上空からジャワ海に出た辺りで揺れは収まった。

 

旅に話とは別だが、入国の時にチョッと、文句を言われた。最初、出国のチケットを見せてくれと言われた。シンガポール行きの日が決まっているので、チケットを持っていて、それを見せた。しかし、仕事をしているだろ、こんなに直ぐ入国してくるとは、と言われた。もう、リタイヤし、インドネシアの旅を楽しんでいる、と、説明したが、そんなはずはないという。仕事をするなら、ビザを取ってこなければ、入れないという。面倒なので、いくら?と聞いたら、一万円という。値切って50万Rpで入国となった。「お互いの幸せのために、協力ありがとう」と言われた。横の同僚と目を合わせて、にたっと笑っていた。まったく、私も笑いながら、「しょうがないな」と言ってやった。

原因はやはり、申請が遅れたことでした。1か月以内にすべてが終わっていれば、問題なかった。ま、私にとっては、それほどの問題ではないと思っているが、普通の人では、相当、困ったことになってしまうかもしれない。  

 

渋滞があったが、15;00前に家に戻った。コタキナバルでは雨に降られなかったが、戻ったら、早速、大雨でした。

再入国 間違い ターミナル

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(^_-)-☆コタキナバル雰囲気

2015-02-18 22:36:38 | 旅行

 2224 歩きまわるのは今日が最後なので、ちょっとベルト状の市街地の山側、南側、海岸の反対側を歩いてみた。小規模なバスターミナルと独立広場がある程度で、見るべきものはなかった。東に歩いて、自然に北向きの道になり、結局海岸に出てしまった。Jesselton Pointジェセルトン ポイント、この辺りが、町の発祥らしい。1900年ころからの町の様子の移り変りの様子が大きな写真で示されていた。

 

Tarapタラップ、果物のこれが名前です。得も言えぬ美味しさ、その場で食べてみてびっくり、傍に、ナンカもチンベダックも並んでいて、この果物がつるしてあった。初めてみる様子の果物、色はナンカやドリアンと同じだが、全体が、剛毛の様な、柔らかないブラシの毛のような、妙な掴み感がある。全く、初めてだったが、一個3RMだという。100円くらいだ。食べてみない手はない。その場で、食べごろの柔らかさのものを選んでもらって、手で、ぱかっと開くことができて、実を見ると、ナンカの実の様な形だが小さくて真っ白、食べてみると、種が小さく5mm程度、ほとんど果肉、柔らかい、種から取れてするっと喉に入ってしまう。ドリアンとチンペダックは確かに臭いと認めるが。ナンカと同じで全然臭くない。

インドネシアにはない?とにかく、一度も見たことも、話を聞いたこともない果物でした。感激。このパサールにもう一か所売っている場所があった。このパサール、今日で三度目だったが、今まで、目に入らなかった。

 

会う人、全て、言葉が普通にできるね、と言われる。そして、すぐに、打ち説ける。相手は、ペラペラ話してくる。そこまで、ペラペラ、それも、私からすれば、かなり、訛りがあるマレー語だ。なにを言っているか分からなくなれば、分かった振りをする。それでも、面白い。

 

岸壁に座っていた人が話しかけてきた。島へ行かないかと。日本のサッカーチームのユニフォームを着ていたので、それは、私の国のユニフォームだよ、と、言ってやったら、日本人か、50RMでいいから、行ってみないか。上陸して、私が、島を案内するからという、どのくらい時間がかかるか、と聞くと、一時間ちょっとだ、船に乗っている時間は片道10分も掛からないという。それなら、行ってみようかということになった。波は穏やか、島に近付くに従って、家の様子がはっきりしてきた。全て、水上住宅だった。上陸は桟橋の先っぽ、250mあるそうだ、岸までの長さ、岸に着くとそこの家は全くなかった。只、一か所、かなり広い、敷地と面積を占めた学校があるだけだった。その学校に案内してくれた。自慢なのでしょうね。確かに、水上住宅にみすぼらしさ、汚さ、臭さとは、別世界の清潔さ、モスジッドより、素晴らしい施設だと思う。

 

夕方の町の中心部のあちこちが車の進入禁止になり、歩行者天国だが、その道は、急造のテント店が両側にびっしり並ぶ、あること頃が狭い、体を横にしなければ通れないほどだ。今日から学校も会社も休みになったそうで、正月になったよう。ステージも出来ていて、演奏やダンスで大にぎわいだ。一週間ほど休みになるらしい。

 

ドリアンやチンペダックの店の向こうにステージがあり、アンバランスが面白い。

 

今日のサンセット。6時半ごろでした。この向こうはフィリピン。

夜遅くまで、あちこちから、バンドの演奏や歌が聞こえてくる、先ほどは”君といつまでも“が聞こえてきた。

賑わい 活気 狭い

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(^_-)-☆ラフレシア センター

2015-02-17 22:42:26 | 旅行

 2223 バイクがほとんど見当たらない、かといって、自転車も見当たらない。車だけだ。アバンザ セニアなど、車は日本車が圧倒的に多いが、プロトンも多い。トラック、バスは日本メーカー製だ。しかし、日本の文字の看板はほとんどないが、ハングルをたまに見かける。観光客もコレアやチャイナの方が多いと思う。ただし、私は日本人だと分かるらしい。それも、話ができるので、KKからかと聞かれる。KKじゃなく、JKからだという。納得。アルファベットは、こちらは、エービーシーだ。「アセー ティダッ ニャラー」と言ったが通じない、エアコンと言い直した。

 

砂浜がない、この辺りに海水浴場はないようだ。人工でも、今から作るには大変だ。海の汚染が深刻だと思う。浄化するのは、不可能ではないか。ジャカルタのアンチュールも同じだ。

 

9;00過ぎにタクシーが迎えに来る。約一時間、ガンガン飛ばす、道はいいが、上り下りとS字カーブの連続、そんなに飛ばさなくてもいいのにと思う。10時ごろ目的地に着く。受付に行くと、係の女性が一人いるだけ、「ラフレシアは全然咲いていないよ」と、いきなり、言われてしまった。蕾なら、少し見ることができるという。しかし、ここまで来て、ジャングルの中に入らないで引き返すわけにもいかないので、話の種として、トレッキングを申し込んだ。110MR高い。寄付だと思って納得。ガイドが早速案内してくれる。歩く道は、コンクリート舗装の50~100cm幅で出来あがっている。上り下りが激しく、苔が付いているので滑りやすいが、パンガンダランのチャガールアラムよりはるかにすたすたと歩きやすい。ジャングルに分け入ったという感覚がない。

 

入って10分ほどで、多分一週間から十日前に咲いた小さな花が、既に、ほとんど真っ黒な形であった。中のめしべが、ちょっとだけ赤みを帯びていた。それから、約、一時間、歩いたが、言われていた通り、何も会わない、匂いなど全くしない、ガイドは、分かっているので、すたすたと歩くだけ、私も、それに着いて行くだけ、味気ない、歩きながら、会える確率はどのくらいかと聞くと、30%だという。それも、二時間ほどの奥地も含めてだという。そんな遠い場所に在る時も、希望すれば、つれて行くという。毎日、数人が、ジャングルに入って数時間、捜しまわって確認するのだそうだ。今回は奥地へ入ってもないことが分かっているので、一時間ちょっと出ててきてしまった。がっかり、期待外れでした。結局、今回のラフレシア捜しは一個だけに終わった。最低、一か月ほど、住み着かないと、駄目だろうなと思う。

 

水色の建物の最上階左が私の部屋です。

がっかり 運次第 話の種

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(^_-)-☆海岸通りチュチマタ

2015-02-16 23:03:41 | 旅行

 2222 目が覚めたのが8時を回っていた。文章書きやあれこれで、10時に外出することができた。先ず、明日の予定、Raffresia Infometion Centerへのアクセスをチェックするために、バスターミナルへ行ってみた。行き先を書いた立て看板がとう間隔で建てられていて、多分、そこから、出発するというのは分かるが、時刻表がない。近くの人に聞いたら、Tambnan行きは、あそこだと教えてくれるだけで、何時に出るかはわからないという。仕方がないから、その辺りにいたタクシーに聞いたら、バスのことは知らないとそっけない、そして、当然ながら、タクシーで行きなさいよと進められてしまった。一時間ぐらいでゆける、一人なら80MRだという。ま、いいか、帰りはバスにすればいい。予約をした。

 

その後、海岸道路に向かい、西に歩いた。新しいビル、アパートが林立している。なにが産業なのでしょうか。日曜と会って、人出は多い。車もこの時間になると、ショッピングでしょうか。メインの通りは、数珠つなぎになっていて、のろのろ運転だ。30分以上歩くとゴルフ場Setera Harbour Golfが目に入った。一見、海岸の小さな半島の全体がゴルフ場になっているようだ。タクシーの運転手が言っていた。ここのゴルフ場は、上流階級の遊び場で庶民は近づけにと、言っていた。多分、高いのでしょうね。今回は、止めにしておこう。

 

そこから、東に引き返す。昨日寄ったパサールApi-Api centerを通り過ぎると、そこからパサールの連続だ。野菜、果物、魚介類、新鮮だ。刺身でも十分に行けそう。直ぐ傍の岸壁で、仲買人が漁船から直接、魚を買っている。また、ここで、ドリアンを食べた。また、チンベダックの天ぷらも食べてみた。どれも、私に合っていて、美味しい。その場で椅子を借りて坐って食べた。変な日本人だと思ったに違いない。

 

海の向こうにかなり大きな島が見える、二つに見えるが一つでした。Pulau  Gayaと言っていた。日本人か、島、いく?と声を掛けられた。行って何があるんだ、上陸しないで周辺を見てまわるという。何時間で幾らかと聞くと、一時間で70MRという。高い、今、行く気がないし、もっと安くすれば、行く気になるかもしれない、というと50MRでどうかという。まだ、高いから、と言って、その場を通過した。

 

島行きの船のりがから30分ほど歩いて、Ochado Suria Sabahというショッピングモールまでぶらぶら歩いた。トイレを借りた、こんな近代的なショッピングモールで日本食レストランや寿司やはいっていて、日本人らしき人もちらほら目につく。駐車場にも長蛇の列ができている、多分、この町では、最高級だと思うが、トイレは、インドネシアの田舎のスタイルと同じでした。立ちション用も、ちょっとね、私は大用に入った。

 

暑い、じりじり、暑い。先ほど通った道を引き返して、島行きの船着き場のベンチで一休み、いろいろ人がこっちを見ている、私も、挨拶のように目を合せると、話しかけてく人がいる。返す言葉が同じなので、話がはずむ。面白い。なにをしているんだと聞かれる、チュチマタと答える。マレーシアでもチュチマタcuci mata(目を洗う、目の保養をする)同じだねと言っていた。簡単な日本語も教えてやる。その場で自分を撮ってみた。おじいちゃんだよ、こんな所にいるよと。

 

両替は待ちのあちこちでできる。黙ってRpを出せが、黙ってMRが出てくる。レートはどこが良くてどこが悪いのか分からない。ま、たいして変わらないか。

 

四時間ほど掛けて、ほとんど、歩きっぱなし。流石に疲れた。

散歩 暑い チュチマタ

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(^_-)-☆キナバル山周辺

2015-02-15 22:46:39 | 旅行

 2221 何故、今回、コタキナバルにしたのでしょうか。そうです、その通りです。ラフレシアが目当てです。会えるといいな。是非、会ってみたい。そこで、先ず、安易に選んだのが、キナバル山国定公園とポーリン温泉ツアーに参加でした。ホテルのフロントから昨日の内に予約し置いた。8;15ホテル前にバスが迎えに来てくれた。と言いたいが、約束より30分も遅かった、その後、二つのホテルで、客をピックアップ、韓国と中国の人、彼等は何時に待ち合わせ直か知らないが、向けに着いても直ぐに出てこない。結局、コタキナバルの市街地を後にしたのが9;30予定は8;30のはずでした。

10人の客、コリアが5人、チャイナが4人でした。ま、皆さん、勝手気ままな事、待ち合わせの時間を、全く気にしていない様子。やはり、ツアーは失敗だった。

 

車は、飛ばす飛ばす、道はインドネシアよりはるかにいいが、曲がりくねっていても真っすぐでも、登りでも下りでも関係ない、ぶっ飛ばす。タイヤはキイキイなるし、車体は左右に大きくダッチロール、よく、横に倒れないかなと思う。そんな、運転の中、キナバル山のふもとの峠で休憩、何もない、土産物屋が並んでいるだけ、景色?何の変哲もない山の中、次はもう昼食、山の中の中華料理、ご飯も料理も美味しくない、それに、一緒に食べる人たちの食べ方が気に入らない、ペチャペチャ音がする。皆で分けて食べるのだが、均等にという考えがないらしい。早く席を立って、添乗員のテーブルへ行って、しゃべっていたら、日本人四人組が入ってきた。向こうも私を日本人とみて、話しかけてきた。クアラルンプールに住んでいるリタイヤ組だそうで、同じ、マレーシアなので遊びに来たという。80歳平均の方たちでした。

その人たちは、ここへ来る前に、ラフレシアを見てきたという。吉報である。ガイドにその事を話したら、この後すぐに、行く予定になっていますよ、ということだった。10分程度、話をした、日本人とはそれっきりのお別れでした。

その後、ポーリン温泉という場所に行く前に、凸凹の舗装されていない狭い道に入った先にラフレシアが咲いている場所がある。30MRを払って、その家の息子でしょうか、ガイドとして案内してくれた。ほんの50mほど歩いた、普通の小道の先に有った。ところが、木の囲いが遠巻きにしてあって、近づけない、咲いて二日目くらいのものが一つ、咲き始めて数時間が一つ、その蕾からちょっと開きだした話は7~8mくらい遠くからでしか、見ることができなかった。柵の中に入って見たいと頼んだが、だめだった。どうも、胡散臭い、どこからか、持ってきたような感じがする。スマトラ中部山地のブンクルーもそうだったが、そんな場所に、こんなに、纏まって、タイミング良く咲くわけがないというより、こんなに蕾と咲いて二日目と咲き始めと、多分10日くらい前に咲いたであろう、今は真っ黒になっているものが半径5mくらいの円周上にある。あまりにも出来すぎ。おまけに、そこまで行く小道の途中に、なんと、ブンクイルーと同じように、Amorphaphollus Titanum(大こんにゃく)木の苗が植えてあった。同じ場所に自然に在るわけがない。

 

ここの種類はRaffresia Keithiiでした。パンガンダランのパトマに模様も大きさもよく似ているが、やはり、一目違うのは、色だ。赤が強くて、ちょっと、ドギツイ。パトマはオレンジに近い赤。

ここで、見たと言って喜んでおられる方には気の毒だが、ボゴールのクブンラヤと同じように移植して在るものだと思う。ただし、今日の花ではなく、このキナバル山周辺で、本当にジャングルの中を分け行って探し求めて見つけたという人もいると思う、それなら、自然の姿の本来のラフレシアと確信できるでしょう。それを知っていて蚊、元々興味がないのか、韓国の人達は、一人も見に行かなかった。

 

足湯、ぬるくて、ちょっと、硫黄の匂いもするが、実感がわかない。これも、本物か?

よく写真で紹介されている吊り橋も、渡って、どうかということはない、怖がる人を怖がらせるだけで、そこに、在る必要は全くなし、ジャングルを歩くなら、もっと、自然が良いと思うが、ちょっと、ひとが作ったものが多すぎる国立自然公園でした。

 

キナバル山の山頂の様子は、雲の中で、なかなか目に入らなかったが、帰る途中、やったと、ほんの一瞬がだけ、何とか、それらしきものを見ることができた。これは、本当に、運次第、諦めていたので、ちょっと、喜び、奇抜な形をした岩からなるいくつかの峰があるようで、この写真の中に全てが入っているかどうかは知らない。

 

ポカリスウェットがない、セブンイレブンにもない。それ何?と店員に聞かれてしまった。

 

町を歩いていて、直ぐ、気が付くことだが、人は交通信号を守らない。そして、道を渡る場所は交差点ではなく、どこからでも、キャンスを見つけて、渡る。キャンスが多い場所を知っている。日本人は田舎の車が全然来ない場所でも赤信号では渡らない、という話が本当かどうか知らないが、よく、聞く。しかし、この地で、全員が、車が来ない赤信号で向こうまで行ってしまった後に、私一人、待っているのも奇妙な光景じゃないかと、思いながら、青になるまで一人待っていた。その後は、信号のある場所を渡ることを止めて、信号がない場所で渡るようにした。これは、インドネシアで慣れている。

キナバル山 不自然 乱暴運転

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(^_-)-☆コタキナバル

2015-02-14 22:35:17 | 旅行

 2220 Kota Kinabaluどこか知っていますか、マレーシアですが、ボルネオ島の北部です。初印象は、大都市、中国系住民が一杯。言葉がインドネシア語。インドネシアではカリマンタン島といいます。時差は、日本よりい時間遅く、ジャカルタより1時間早い、バリと同じだ。

1マレーシアリンギットMYRは、約33円、私が行きあたったホテルは、コタの中心地にある、数えきれないくらい多くあるホテルの中の一軒、De Galleria Hotel一泊118MYRで4000円弱、朝食は付かない。このホテルの中では、一番安い部屋78MYR、2500円くらい、どんな部屋か知らないが、窓がないと言っていた。空いていなかった。聞くところによると、中級ホテルだそうだ。

 

今朝、2時に夜逃げの様な状態で出発、タクシーを予約しようとしたら、深夜は出せない、3時半以降なら、行きけるという。そんな、営業規則があるとは知らなかった。しかし、頼んだ運転手が自分の車で送ってやるというので、お願いした。空港まで40万Rpで、タクシーのメーター価格より、ちょっとプラスしてやってやった。

 

ターミナル3は初めてだった。エアーアジア、5;15発だが、カウンターで受け付け開始が、4;00。私が3;30に到着した時には、既に長い行列になっていた。国際線は少ないからでしょうか、イムグレが開始されたのが4;30過ぎ、搭乗時間は5:00を過ぎていた。それぞれの時間まで、係員はいない、時間になって現れた。そして、インドネシアから問題なく脱出した。

聞いていた通り、機内販売以外何のサービスもない。何種類かあるが弁当の価格が5万Rp、他人が注文したものを見たが、高いと思った。

 

到着した空港で、イミグレに出すカードはなし、両手の人差し指の指紋を押すだけ、何日入るの?目的は?などの雑談めいた話をしただけだった。空港内に、ホテル予約のコーナーがないと言われ、タクシーで市内に入ってから、一緒に捜してもらった。中国正月が近いからでしょうか、どこのホテルも、適当な価格の部屋が開いていなかったが、なんとか、満足の部屋があるホテルに行きあったった。

 

ホテルに入って、部屋の様子をしばらく眺めて、先ず、必要だと思ったのが、コンセントのアダプターでした。インドネシアのものと形が違う、近くのショッピングモールで売っているというので買いに行った、その中の一角にホームセンターの様な店がった。おいてる場所をに行ってみたら、あるある、色々メーカー、色々な種類がある、日本とインドネシアの差し込みプラグを持って行って良かったと思う。穴のサイズや間隔が違う、グラグラなもの、全く入らないもの、1個に3か所差し込み穴があるが、また、それぞれの状態が違う。いちいち、試してみて、2か所がOKだったものを二つ買った。実際付けてみると、ホテルのテレビにプラグさえ、合う穴と合わない穴がある。しっかり、差し込まないで、途中で止めて斜めに入れると良い組み合わせもあった。よく、許されているなと思う。安全上かなり問題だと思うのだが。

 

ともかく、何日間、ここにいることにする。言葉は、まったく、問題なし。インドネシアにいる時と同じだ。違いは、ほんの少しあるが、インドネシア内の方言の方がよっぽど、わからない。

 

何時間か部屋で休憩の後、どんな街は散策してみようと外に出た、海が近そうなので、そちらの方に向かって歩いた。夕方になると、今まで駐車場になっていたところは全てが露店が設置されていた。海岸の一角に、かなり、広大なパサールがあって、魚や野菜を中心に新鮮さを売っていた。そこで、地元のドリアンを食べてみた。人パック、10MYR330円くらい、美味しかった。その場で全部食べてしまった。

 

サンセットの風景もまずまずでした。

 

この旅の話とは別に、うれしい,便りが入った。尤 海明君(ユウカイミン)、私がまだ、40歳前に中国の桂林で知り合った若者で、日本語の勉強をしたいというので、日本に呼んで、6年間?だった、と思うが、学費の面倒を見た若者でした。彼も、50歳は過ぎたと思う。私の方から、疎外にした感じで、彼と連絡も絶えていたが、娘さんが私のブログを発見して、先ほど、メールと電話が入った。家族の写真を一緒だった。なんだか、うるっとしてしまった。懐かしい、私にとってのお手伝いの第一号でした。今では、何人かの内の一人になってしまっているが、忘れないで、偶に、まだ、元気ですかと、頼りを貰うとうれしい。

気楽旅 余裕 和み 

 

私にホームページ(Web site)

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

http://otaenplaext.net/newpage0.html

よろしく!!!

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