南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆あれから15年

2013-05-14 22:27:59 | 情報

 1579 私のブログ、昨年の5月14~17日まで(1216~1219)、“あれから14年”として、インドネシアの大暴動について書いてある。今となっては、その時、インドネシアにいて、目の当たりにその状況を見た日本人は、インドネシアにほとんど残っていないと思う。インドネシア人でも知らない人の方が多くなっている。

その日、ジャカルタで大暴動が起きていると、会社の誰かが言いだした。テレビでは、その時、多くの場所からライブで報道し始めていた。ブカシバラットから、次第にブカシティムール、タンブン、チビトゥン(MM2100の高速道路を挟んで反対側)を通過し、チカラン(リッポチカランではなく、コタ チカラン)そして、私が当時住んでいた、ルマーアバンを過ぎてカラワンに達した。工業団地が対象になってはいなかった。一般国道沿いの町が対象だった。それぞれの町で独立単独で始まったのではなく、あたかも、誰かが先頭に立って、扇動して、次の町、次の町と移動し、打ち壊していったように感じた。

 

ガソリンの補助費の削減をできないのは、未だに、その時の記憶が残っているからだと断言できる。SBYがガソリンの値上げをしようとすると、反対派は、必ず、暴動が起きれば、大統領の責任だといって脅かす、その繰り返しを数年以上やっている。

 

あれから1年は、スホイがサラックに激突してからです。

 

 平和な話、タンゲランの会社で作っている、酒、飲み方として、一日三回、食後、20~40mlと、勧めている。薬ですね。

 

 五階建てのホテルを建設中、レンガを手渡しで上の階に上げている。チャップリンの喜劇映画を見ているようです。

 

 これが、パンガンダランからグリーン キャニオンへ通じる、ジャラン ティクス(ネズミの道、抜け道)です。メイン道路より遥かに凸凹が少ないが、狭い。

 安全 暴動 記憶

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