南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆満場一致はないが

2012-03-16 22:32:49 | 矛盾

1156 東北地方以外では東京都に次いで二番目の瓦礫受け入れ自治体になる。静岡では静岡市や浜松市でも受入れの根回しが行われているようです。

こんなことが今頃ニュースになるのが変。どんどん、全国の自治体は瓦礫の受け入れを積極的に行えばいいのです。日本は変な国になってしまったものです。

仕事場の隣町の島田市で市長さんが震災後の瓦礫の引き取りを始めると宣言するといっていた。確か今日だといっていた。実際に焼却テストをして放射能が検出されなかったというデータをすでに発表している。しかし、それでも、放射能が心配だから受け入れは反対と言っている人がいる。何をかいわんやです。この人たちに何を言っても仕方がないと思っている市長さん戸惑いで苦笑いをしていた。私もそう思う。

こういう人たちは、どうしようもない人たちです。無視していい人たちです。無知な人たちの上に、困っている人々や地域に少しでも助けの手を伸ばそうとしない人々を、いちいち相手にしていたらきりがない。

 それと似たような人種は国会議員の中にも多い。私がわからないのは、議論が尽くされていないという反対理由です。何かを解決しよう、問題をなくそうと誰かが何かを提案し、それを実行に移そうとするとき、反対論者が必ずいうセリフです。議論が尽くされたという状況はどういう状況なのでしょうか。反対論者はそこを言わない。反対している自分たちの意見が通って、やるといったことを、やっぱりやめますと言わせた時点で、議論が尽くされたということになるなら、議論は永遠に続く、それが思うつぼかもしれないが、何の解決策も講じないということになる。今、問題になっていることは認識しても解決の方法が異なる場合。何かをしなければ問題はなくならない。だから双方が提案し合えばいいし、期限を設けて議論し、その期間に議論の席に着かなくても期限が過ぎたら採決するのが民主主義でしょう。

  もうひとつ、それをするなら、その前にしなければならないとが沢山あるだろう。という理由で反対する人のことです。その前にその人が言うことをやれば、賛成するのでしょうか、そして、その前にやらなければならないことというのは具体的に何でしょうか、そして、その程度はどのくらいでしょうか。議員定数の削減、天下りの全面廃止、議員報酬の削減や特権の削減、公務員の給料は下げることが決まったようですが、その他の優遇制度はまだまだ沢山ある、それらの廃止、仕分け会議でいらないと言われたものへの予算配分の停止、などなど、消費税上げの前にしなければならないことが沢山あるというのです。その通りだと思う。しかし、どこまでやればやったと認めてくれるのですか、また、そう言っている人たち自身がこれらの廃止に積極的に取り組んでいないどころか、選挙がらみで、係わりたくないと思っている事ばかりです。だから、こういう人のことをいちいち聞いていたら、改革も改善も何もない。それが日本です。日の出国ではなく日没の国日本です。

 

 インドネシアですがどこかわかるでしょうか。

議論 説明 公開

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(^_-)-☆金型焼場

2012-03-15 23:16:45 | 習慣

1155 毎日のように金型を焼きにある場所へ行っている。試作をするのにこんなハンデキャップはない。プラスチックの押出成型に携わって、46年になるが、焼場のない場所で仕事をしたのは始めてで、焼場は常に工場の敷地内にあるものと思っていた。一度使った金型を解体して整備するには、くっ付いている樹脂を取らなければならない。

取るには熔かして何かの道具を使ってはがし取るか、完全に焼いてしまって灰だけにしてしまうかです。熔けただけの状態では完全にきれいにはできないので、一般的には焼いて灰にしてしまうための準備でできるだけ樹脂を少なくしておく手段です。最終的には焼き場に持って行って焼いてしまいます。エアーを吹きかければ灰もなくなってしまうので磨くだけです。

例外がPVCやABSなど金型にペッタリ着いてしまわない樹脂です。また、こういう樹脂は焼くと暗い煙をモクモクと舞い上がらせるし、臭い。これらは最適の温度で、プライヤーなどで引っ張ればきれいに金型から剝すことができる。エアーを金型から離れ際に吹きかければうまく取れる場合が多い。ただし、剝すタイミングを逃すと取れないので、温度を上げなおして取ることもある。金型が複雑になればなるほど、はがしにくくなることは当然です。そういう場合は焼くしかない。焼けばきれいに取れることはほかの樹脂と同じです。

PVCは塩素ガスを大量に発生させるので、金型自身を錆させやすいし、その環境にある鉄類の錆を早めることになるのを承知しておかなければならない。

ということで、焼場は仕事のスピードアップと品質の向上に必要です。使う、使わないは別にして、LPGバーナーの焼場か、急がない時には電気炉は必要です。電気炉は500℃~1000℃くらいでセッティングできればいいと思う。タイマー付は勿論です。夕方、炉に入れておけば朝来たときに金型がきれいになっていて、温度も常温になっているという仕掛けです。

 

場所はこれも当然ながら、外である。雨がしのげればいい場所です。だから、昨日の買い物でバーナーを買った。大きな口径のLPGバーナーがインドネシアでは手に入らないからです。

 

 焼場があれば30分で済む仕事、今の職場に焼場がない。だから、金型を整備するのに数時間かかってしまう。それも、某社の焼き場を借りてでの話です。もし、某社に焼き場がなければ、もっと時間がかかってしまうし、納得いくきれいさにならなくても、この程度でいいかと、セットしてしまうしかない。そんな状態では試作が思うようにできないが、仕方がない。

何十年も焼場がない会社に、いても1年程度の人間が、思うように仕事ができないからといって、焼場を作ってほしいとは言えないし、説得もできない、稟議書を書いても環境がどうのこうのといって、却下されることは分っているので、提案もしない。

 

焼場 電気炉 整備

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(^_-)-☆再々スタートへ準備

2012-03-14 20:43:12 | 知識

1154 朝晩は冷えるが昼間の車の中はクーラーを使っている。花粉症は期待に反してやっぱり来ている。春の陽気は私に合わない。何だ、この訳のわからない中途半端さは、桜の花などわざわざ見に行きたいとは思わない。たまたま、通った道に咲いていれば、昔なら綺麗だと思っただろうが、今は、桜や桃の花を見てもなんとも思わなくなってしまっている。

先日、ノギスの写真を添付した。それも、ダイヤルノギスです。ノギストは、長~~い長い付き合いです。私の仕事で一番大事な道具です。仕事をしているときは必ず私の傍に置いてあります。ダイヤルノギスは40数年使っている。同じものではない。区切る区切りでその場の私の一番弟子に置いてきた。10年、20年と私のもとで働いてくれて、私がその場にいなくなれば、その人間が私の後継者になれると見込んだ人です。中には半年とか、一年半くらいで、その場を離れる時もあって、そういうときは、未熟であっても、まだ頼りなくても、私がそこに存在していたという証拠を残すかのように、置いてきた。

今回も私のノギスは私の手から間もなく離れる。

大分前からデジタルノギスが主流になっていて、ダイヤルノギスを手に入れるのが難しくなっていた。最近はついていないのでしょうか、メーカーのカタログには紹介されなくなった。私は、ダイヤルノギスを使うのが苦手である。右手の親指に力加減がしにくいのです。正確には測れないと思っている。百分の一まで数字が出ることに違和感を覚える。せいぜい0.05が最低見分けられればいい。それにはダイヤルノギスが最適だと思いこんでいる。次の場に新しいダイヤルノギスを持っていかなければならない。板前が、包丁を持って行くようにです。通信販売で買った。一丁、9000円です。インドネシアへ持って行く、インドネシアでは手に入らない。

 

何回目かの新しい職場にも、私が使いやすいと思っていて、インドネシアで探すのが難しい工具や道具を日本で買って持ち込まなければならない。その準備をそろそろ始めようとしている。一つがハサミである。ナイロンやPCのチューブや小型異形品を切るのに日本の剪定鋏が最高。岡恒のハサミです。日本でも一番値段が高い高級品です。これも地元のホームセンターにはここ数年前から無くなっている。通信販売で買うしかない。

大井川からの富士山と南アルプス方面の山々

通販 ジャパンメイドゥ 必需品

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(^_-)-☆楽しかった

2012-03-13 22:23:47 | 押出成形

1153 40年以上前の私に嫉妬する。東洋プラスチック精工の人々はぜひ当時の事を、間違いのないように知ってほしい。

灯油で冷却の理由は隙間に入った水が突沸して製品が飛びはねまったく形にならなかったので、ジワリと沸騰して揮発する灯油を使ったのです。他にもポリエチレングリコールやグリセリン(コイリングチューブを作る時に150℃にして中に通した)を使っても良かったが、値段が高すぎた。

66ナイロンに6ナイロンを混ぜたり、それらのナイロンにエポキシ系の熱硬化性樹脂の液体を混ぜたり、色々な方法で成型性の悪さを改善しようとした。だから、純粋にその原料だけを使った製品では無い事の方が多かった。それをノウハウというか、テクニックというか、ごまかしというか、原料偽装というか、色々の見方は有るだろうが、それを積極的に明かすことはしなかったし、その混ぜものに依って何らかの問題や害を与えたことはなかった、製品が出来たことで誰からも喜ばれたし、評価された。その他に、ステバリなどの滑剤を混ぜたり、グリスを混ぜたり、お餅ではないが澱粉を混ぜたりして、製品の物性を改善しようとした。ひらめきは次々と浮かび、実行した。若いころの頭の柔軟性と実行力には我ながらすごかったと思う。今は、そんな元気は全く無い。

 

 私が二十代の頃はアメリカに既にある製品を日本で作り上げることに80%位の力を注いだと思う。しかし、技術を真似しようとは思わなかったし、アメリカでの製法を解明しようとはしなかった。独自のひらめきで、似たような製品を作り上げた。確実に私の方法の方が、設備は簡素だし、製造速度も速かったのではないかと自負していた。アメリカからの輸入をしなくても良いようにしてきた。破格の安さで提供したがそれでも当時ナイロンの価格は600円/kg以上していた、それを製品にすれば1800円/kgで売れた。

PCはナチュラルで900円/kg色ものは1200円/kgした。製品にすれば2700円、3600円で売れた。会社の利益に貢献するとともに、ベースアップや労働協約の交渉を強気ですることが出来た。

 自分が経営者になってから20年くらいは、既に開発した製品の量産に追われていたし、アメリカや他の先進国から見つけて来た新しい製品といって頼まれることも無くなっていたので、それまで積み上げてきた技術で受注をこなしていた。

 

インドネシアへ来てからは日系企業が日本から輸入している押出製品の現地調達のお手伝いをし始めた。日本から輸入しなくても良いようにしてきた。そしてそれらの全てが日本の中小企業の押出成形技術者がそれこそ何年も掛けて物性や形状を確立したものです。私はそれらの製品を作ったことがなかった。状況はアメリカからの製品を国産化した時と同じだった。製法は同じはずがないが、そっくりさんを3ヶ月以内には作ってサンプルを提供してきた。今の会社ではそれが出来ないでいるので、間もなく、それが出来るような状態にする。独自の方法で製品を作り出すのは快感~~~~!!!

平均的なインドネシアのレストランの価格とヤーカンクン(空芯菜)というメニュー

 独自 真似ず 国内調達

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(^_-)-☆あれから一年

2012-03-12 22:12:47 | 矛盾

1152 このことに触れるのは自然でしょう。私はインドネシアにいてこの大惨事を知った。多くの人と違った見方をする私です。その時思ったことは、また、何の予知も出来なかった。何十年も前から東海地震について直ぐ起きてもおかしくないと警告していた人はいるが、その他の地では全く地震や津波の予知や警告をしていた地震学者は一人もいなかった。少なくとも阪神淡路大震災を目の当たりにして、自分たちの無力さ、何をやっているんだという反省が在って、その後の研究のしかたや歴史的解明など、やらなければならないことが沢山ある、今迄の研究のし方では何の役に立たないという事に気が付かなければならなかった。去年静岡に集まった地震学者が口々に自分たちの無力さを嘆いていた。何も役に立っていないことを認識したようでした。

 素人の私でも三陸沖海岸の地震は小学校のころから、いつ起きてもおかしくないという事をしていたし、どこらへん辺り(30m以上)まで津波が過去に達していたことも知っていた。なのに、5m(中には12m以上の場所もある)の防潮堤を作って、津波が来たら、この扉を閉めれば良いという説明をそのあたりへ行くたびに説明されていた。地震学者はそれでいいと言っていたのでしょうか。歴史的な事実を全く無視していたというしかない。

 誰だって、東北地方の地震について大きな声で警告しなければならなかったし、原発の立地としてそこを選ばなければならに理由が一体なんだったのでしょうか。最低でも、太平洋側に原発を作ることに大反対する地震学者がいても良かったと思うし、政治家も行政も電力会社の人達にも反対する人がいても良かったと思う。

 

 阪神淡路大震災のあと約15年の間に日本の各所で大地震が起きている甚大な被害が発生している。それらの全てを誰もが警告しなかった。其のたびに地震学者は自分たちが一体何をしているのか、反省する機会になっていたのに、全く、他人事のように、何故起きたかと解説をしているだけである。プレートの沈み込みに地盤が耐えられなくなって反発したのですと言っている。馬鹿じゃないの、地震が起きるたびに同じ解説を繰り返すだけです。それなら地震学者はいらないでしょう。

 

 東北大震災の後、今後は、今迄の予知を見なおして、ドンドン、大規模になると変更している。東海地震や東京直下型地震について、より深刻になることを警告しだした。ここでも、馬鹿じゃないのと、言いたい。その他の日本の各地方についてまったく触れていない。九州は、山陰は、東北の日本海側は、北海道は、警告しなくていいの? 内陸地方(関東北部、中部山岳部)はどうなの?予知や警告を出来るわけがない、それが現状です。だから、今予告している自信についても何の根拠もないのです。ただ、大きい自信がおきる確率が何%といってその確率を上げているだけです。地震学者にとっては当たっても当たらなくてもいのです。確率直ですから。

2004年のインドネシア、スマトラ東北端部のバンダアチェの2011年1月の様子です。死者、行方不明者は10数万人でしたがその面積は東日本大震災の10分の1もない。その地に約5年間に渡り先進国を始め多くの国々から援助隊が来て街を復興させた。地元民は政府の指示に従っただけでした。だから震災前以上の洗練された町になったのです。地震妻に対策については、高台に住宅を移したことと、避難ビルを作ってだけです。それに比べれば、住民の自立心は違うし、生活水準、製造業の水準が余りにも高度だし、農業や漁業の水準も大きく違う。外国の援助隊が来ても回復させるだけの力はない。全部、自力で元以上にするには10年以上掛るでしょう。

 

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page229.html

 

 今日はテレビ画像を見て何度も涙を流した。

娘も妻も留守で私と孫の三人で留守番。

無力 その場限り 無駄使い

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(^_-)-☆面白いことばかり

2012-03-11 20:09:22 | 体験

1151 私の履歴です
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0069.html 
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0060.html
50年史の20.21ページは、ABSシート以外、大部分が私の仕事でした。プロファイルに関しては、100%私が手がけました。自転車の泥除けは、テナイトブチレートは商品名で、セルロースアセテートブチレートcellulose acetate butyrateという樹脂です。揮発するガスはウンコ臭かった。この製品は結局、両端の切断が洗礼されたスマートなものにならず、一年程度で終わってしまった。ちょっと話しの種にはなったが、実用的ではなかった。これも、曲げ加工は簡単に出来たし、チェックも用のアルミ箔の挟みこみも簡単に出来た。寝食を忘れて、などということはなかった。他の難しい仕事のついででした。正月返上の仕事は泥除けでは無く、ボビンスリーブやPCチューブの生産が間にあわなかったためでした。
押出用の6ナイロンがまだ、無い時代、ワイヤーカットや放電加工機がなかった時代、両足の厚さや長さを同じにするのも難しかった、形を決めるのに大変苦労しましたが、灯油を使うことで一挙に解決しました。誰もが、その方法について、仰天したし、皮肉や批判もしたが、その人達には到底できない仕事なので、納得するしかなかった。その時の方法で今もエッジングやグロメットを作っているし、他の6ナイロンプルファイルでも灯油を使って作っている。エッジングやグロメットは灯油を掛けるだけだが、灯油を循環させ、冷却しながら、他の樹脂を作るバキュームで引っ張る冷却金型にも使っている。
グロメットの切り込みを入れる方法として、会社の上司達は剃刀の刃を上下往復させトントンと切り込みを入れることを提案した。長いチューブを後で短く切るのにその方法が取られていたからです。しかし、私は、カッターナイフの刃を回転させて払うように切り込みを入れることに決めてそれで走った。コの字を作っておいて水分を吸わせ柔らかくしてから、きれば、割れてしまうことはなかった。私一人のアイディアと休日返上の労力(当時は何の苦労とも思っていなかった)の産物でした。だから、短期間で出来上がったのです。

また、11ナイロンと12ナイロンのことだが、どう考えたって12ナイロンの物性が11ナイロンに比べて劣っていた。両方とも可塑剤を適当量混ぜて柔らかさをコントロールするのだが、同じ硬さ柔らかさでも破裂強度やキンクテスト(折り曲げの繰り返しテスト)で劣っていた、製品の艶でも11ナイロンの方が上だった。12ナイロンは11ナイロンに負けたのです。当時、そのチューブでコイリングチューブを作った。これも日本で初めてでした。今ではPU(ポリウレタンチューブ)に変わっていますが、エアーを送る天井から吊るされたくるくるコイル状になっているチューブです。当時はマックスエアネーラという会社に出荷していました。コイリングチューブは一週間ぐらいで出来ました。両端を真っ直ぐにする事やコイルにしてからひっくり返すと数倍の反発力になることも、遊んでいて直ぐに気が付きました。

全ての新製品は、営業からは私にこういうものが出来ますか、という、問合せから始まり、私がやりますと言えば客先から試作依頼を受諾したのです。チームで技術を確立したのではありませんでしたし、大体三カ月以内には客先へサンプルを提出した。
インフルエンザB型に感染した二人、タミフルを処方されている。体重に依って量が違うようです。
楽しい 短期 休まず

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(^_-)-☆東プラ精工

2012-03-10 22:26:08 | 行きすぎ

1150 実名をだしても差し支えないと思い、実名で書きました。東洋プラスチック精工(株)TPSの50年史が突然、家に届けられていた。何故、私の元へ届けられたかというと、主な理由は組合長を二年間と前後4年間組合の執行部に属していたからです。労働組合創設の記事は出ていますが、その翌年には教育宣伝部長として執行部にはいった。翌年副組合長、三年目に組合長になっていた。大卒、はえ抜き第一号入社から3年目で労組の執行委員長になっていたからです。

 この50年史の中に、私がいた時代に関して、大きな間違いが二つあります、初代組合長の現在についてです。それと、6ナイロンコの字型プロファイルの製品名が「エッジグロメット」になっていますが、『エッジング』と『グロメット』の二種類です。当時、開発に時間がかかったと書いてありますが、私は3カ月で作りますと納期を明言して、一か月遅れの4ヶ月で作りあげた。現在でもこの製品については私の関係会社がその当時のお客様北川工業のお手伝いしています。TPSでは現在作っていません。詳しくは次のウェブサイトで。
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.html
この他にも小さな間違いが点在しています。40年以上前のことですから、仕方がないでしょうが、事実と違っているので、重要な二つだけ書かせていただきました。
 日本アンテナのデルリン(POM)チューブ、昭和丸筒のABSボビンスリーブ、臼井国際産業へは6ナイロンチューブ、厚木プラスチックへはポリカペンダント用PCチューブ、http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage007.html
その他、6ナイロン、11ナイロン、12ナイロンチューブを当り前に作り、POM(ジュラコン)の異形品はソフトクリームの製造販売機の前面に使われた。今でも、同じ構造なので、ソフトクリームを孫に買ってあげるたびに懐かしく思う。ナイロンプロファイルの一号は、66ナイロン二硫化モリブデン30%入り馬蹄形のチェーンコンベアーの滑りガイドに使われたりしていた。岩谷産業が間に入って、名古屋機工という会社に納めました。エッジング、グロメットもそうですが、ナイロンのプロファイルはアメリカのポリペンコ社製が在って、形状と全量は、その物まねです。しかし、私の製法は、物まねではありません、明らかに、全く違います。全てが、日本で最初の製品です。全て、私が製品化したと言って過言ではありません。何日も徹夜をしたし、休日にもほとんど会社にいた。今の妻とデートの後も会社に戻った。

 私が入社した時、素材類(丸棒や板)はドイツの技術を導入して作られていました。しかし、ドイツ人の技術で作られた装置はごつ過ぎる上に、樹脂漏れが多く、また、焼けが発生しやすかった。私は、そのあとじゅつ技術を否定して改良した。金型は簡素化され、樹脂漏れロスも焼けも少なくした。その方法が今でも使われていて、その後の改良はないと聞いている。
 私が係わったのは昭和41年から48年(1966~73)まで、わずか7年間でしたが、最期の二年間は、N6、N66,PCなどにガラス繊維(ロービング、チョップドストランド)入りのペレットを作る部門まで任されていた。炭素繊維まで入れたペレットも作った。押出のベルト基材とシート以外の全てを見ていた。売り上げでは、私がリーダーでいた部門が会社を引っ張っていた。ロスが多いと言われていたが、開発商品ばかりなので最初から100%近い収率とはいかない。ただし、利益率は群を向いていた。
  50年史を手にして、大変懐かしく思いました。私が在籍していたころ、私の人格が形成された頃、の記事しか読みませんが、何十年もの間、思いもしなかったことがこの本によって思い出されます。送ってくれたことに感謝します。

 まだまだ これから 昔は昔

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(^_-)-☆パニック障害前兆

2012-03-09 23:01:06 | 複雑

1149 前兆はというか初期症状は、後で考えると1年以上前からあった。脈が飛んだとは思わなかったが、頭がくらっとして立っても坐ってもいられなくて床に寝転がるしかなかった事が在った。気を失うのではないかと思ったが、それはなかった。何十秒間に3回、へたりこんだ。只事ではないと思い、近くの医者へ行ったが、症状はその時の何秒間だけで、医者へ行く途中、行ってからも、その後、一年以上その症状は現れなかった。もう一つは、体のあちこちが攣ったことです。特に、ゴルフなどそんな過激とは思わないスポーツの後、必ず攣るようになった。そのころ、海水浴場で沖まで泳いでゆくことを止めた。パンガンダランなどインド洋に高波を潜り込んで通過して沖へ泳いで行って、大きなうねりの上でぷかぷか浮いているのが私の海の楽しみ方でした。インドネシア人は誰も出来ない。それを止めた。万が一でもライフガードに迷惑を掛けたくなかった。

もう一つそのころ気になりだしたのが目の渇きでした。チクチク痛むようになって目薬を欠かせなくなった。

それから約一年後、頻繁に心臓の脈が飛ぶようになって病院へ駆け込むしかなくなった。シロアム、心臓病ではインドネシア一番のハラパンキタ、スハルトが晩年通っていたプルタミナ、近所のアニッサ、日本人医師がいるタケノコ、それからSOSやビンタローのインターナショナル、もう一か所日本人医師がいるメディカロカ、次々と症状が出るたびに相談に行った。全てインドネシアでは超一流の病院です。全ての病院であなたは全く異常が在りません。全ての数値は正常です。と言われ、追い返された。自立神経失調症やうつ病と診断されたこともない。ただただ、あなたに悪いところは有りませんと言われてしまっていた。症状を云う度に神経質になり過ぎているのでしょう、とも言われた。それなのに、飛行機に乗ることは危険だ、とんでもないとも言われていた。何でも無いのに飛行機禁止とはつじつまが合わないことを日本人医師はいう。自分の責任問題になることを心配した、護身的な言い方をするしかなかったのでしょう。時のパワハラ日本人も同じで帰国はまかりならぬになってしまっていた。インドネシア人の医師も日本人医師も誰一人としてパニックのパの字も云わなかった。ただただあなたは神経質すぎるということと、飛行機に乗ってはならない、という事だけでした。

 それではどうすればいいの?インドネシアから脱出するしかなかった。そして、誰にも話さず、決行した。

 日本へ帰ってからも、一か月、何か所もの病院を回ったがパニック障害を疑った医師はいなかった。一ヶ月後にやっと、あなたは典型的なパニック障害ですよ、今は良い薬が在ります。直ぐに治ります。といってくれた医者に会うことが出来た。その次の日から、嘘のようにパニック障害の症状は消えてしまった。

 

 その医者がいう原因は、頑張りすぎだそうです。自分がそう思っていなくても回りの人から見れば頑張りすぎている人、多分私はその口でしょう。さぼり薬を処方してもらって治ったのです。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0063.html

 異常なし 原因 治療

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(^_-)-☆パニック障害

2012-03-08 22:08:04 | 行きすぎ

1148 トライが大詰めに差し掛かってきた。始めてクーリングダイへ通した。引取機まで届いた。しかし、出来上がった中途半端な製品は、どうも、使いものにならないような気がする。製品の狙いとしては十分、納得できるし、そんな使い方が出来ればいと思うが、現実問題として、この難しい製品を作り上げたとしても、実用にはならないのではないかと思う。なんとなく、力が抜けてしまったが、とにかく、今週中には恰好をつけて思うともう。使える使えないについては私がとやかく言う立場にはない。原料を変えたら良いかもしれないが、原料が変われば、製法も変わってしまうので、今月中に私が結論を出すことは出来ない。
昨日のビートタケシの番組で不眠についてやっていた。扁桃体という用語が盛んに出てきていた。不眠の人はそれが過敏に反応するからだと言っていたような気がする。それはそれで、分かったような、分からないような話だが、結局はその人がアクティブかポジテュブか、悪い方に考えるのか、良い方に考えるのか、違いらしい。その放送の中で、呼吸困難や過呼吸や心臓の鼓動飛ばしなどでパニックになる人の悩みを取り上げ、結局、精神科に行くようにアドバイスされて、そので、パニック障害と病名を明らかにされ、治療に当たっている、という話が紹介された。
2006年私のパニック障害はこんなものではなかった。それも、インドネシアでの話しである。原因はネガティブでも悪い方に考えるでもない、原因は明らかにパワーハラスメントをインドネシアで受けた事でした。それはそれとして、原因は明らかにストレスとの戦いでした。ネガティブではなく、アクティブだったからパワハラをネガティブ人間から受けたのです。だから、治療はポジティブになることでは無く、神経の誤動作を失くすために神経を使わなくする薬で治す事でした。その薬に依って飲んだ日からパニック症状は消えてしまいました。これほど、見事に治ってしまうことは珍しいと思うが、実際、その後、全く、症状は有りません。
パニック障害という病気を全く知らなかった、知っていれば、すぐに日本へ帰ってその薬を飲めば良かったが、知らないから、パニックになるばかりでした。ただ、うつ病いではないことは認識していた。死にたいと思ったことは一度もなかったどころか、死ぬと思ったことは何度もあったが、ここで死んでなるものか、とその都度、思ったからです。ここで死んだら、執拗なパワハラを仕掛けた人間がほくそ笑む、そんなことは絶対させないと思っていたからです。
パニック障害は知ることです。そして、適切な処置をすれば治る病気です。現在、パニックに苦しんでいる人、薬で治ります。適切な薬を処方してくれる医者に会うことを祈ります。そして、本人は、そういう医者に会うまで、精神科か総合診療科の名医を探すことです。ぴったりの薬が在るはずです。と、私に薬を処方してくれた医者が言っていた。薬で必ず治ると言っていた。
パニック障害 うつ病 完治

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(^_-)-☆春雷 生温か

2012-03-07 23:33:36 | 病気

1147 夜明け前の雷で目が覚めてしまった。大雨が降っていたが出勤途中には止んで、生温かい変な感じの空気が漂ってきた。日本を感じた。こんな気候はインドネシアにはない。それと同時に花粉症の季節到来を感じた。この妙な空気は何十年も前から経験している花粉症の空気だ。そう思っただけで、むずがゆくなってくる。

  花粉症の思い出、小学校の低学年の時は既に、毎年、春になる前にヒドイ風邪を引く体が弱い子だと言われていた。鍛えるために4年生から6年まで冬は半ズボンで過ごした。それでも、毎年恒例の風邪は続いた。ちり紙といって、鼠色したお尻を拭く紙と兼用の鼻かみ用の紙を束でいつも持っていて、授業中も、クシャミは連発し、いつも、チンチン鼻をかんでいた。皆にうるさいから出ていけと言われたことは当り前でなんとも思わなかった。学年末テストの時は、いつも、時間の半分くらいで終わらせて、答案用紙を先生に渡して教室から出ていって、外で、ぶらぶらしていた。一日何科目もある時はその繰り返しだった。中学の時には科目毎に先生が変わっていたが、どの先生も公認だった。一年の時、校庭のテニスコートの脇でしゃがみ込んでハクションを連発していたら、校長先生が現れて、なぜ、こんなところにいるのかと聞かれたこともあった。終業式や卒業式、送辞を読むとき大変だった。そんなに別れが悲しくなくても花粉症で顔の真ん中付近はクシャクシャになっていた。そういう意味ではふさわしかったかもしれない。

 これは、インドネシアで仕事をするようになるまで、毎年、続いた。私が独立したころ30歳の頃、花粉症という病名が世間に現れた。当時は文明人が掛りやすい、野蛮に近い人間は掛らない、などと言われていて、自分は物心が付いた時から花粉症だったと言って、若干、自慢をしていたこともあった。しかし、その症状は毎年、ヒドイものだった。ちり紙ではなく、トイレットペーパーは毎年、5巻き以上は使ってしまっていた。鼻の周りは真っ赤でひりひりしていた。テレビや色々な人が、予防法や治療法や専門医などを云ってくれる。それを、いちいち実行もした。しかし、一向に効き目はない。いつの間にか、何も、対策をしなくなった。もう、完全にあきらめて、一生付き合うことに決めていた。しかし、1997年からほとんどこの季節には日本にいることは無くなったので、完全に花粉症から、解放された。この快感は私でなければ分からないだろうと思うくらいだ。4月1日、日本から離れるまで今年はどうか、十何年も掛っていないのだから、治ってしまっていて、掛らないことを期待する。

 花粉症と私の係わりあいは半端じゃない。エピソードは数え切れない、一冊の本が書ける。

 春ですよ、菜の花と桜、梅の花と桃の花。

 鼻水 クシャミ 涙

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(^_-)-☆了解された

2012-03-06 22:11:00 | 行きすぎ

1146 本格的に最終月の仕事が始まった。7月からこの場所に赴任してきたが、不完全燃焼のまま半分居候のような状態だった。10月ごろから、塩ビの二色成形の異形品を作ることを頼まれ、簡単に引き受けたはいいが、障害が多くて思うように進まないばかりか、それが下で、本来、私がやるべき若者への技術伝授の時間が無くなってしまった。ここへ来て、やっと、余裕ができ、追いこみ指導が出来る状態になった。一か月で何ができるかといったって、何もできることはない。しかし、準備した金型について一通り製品を作って見せようと思う。

 ほっとした気分になった一日でした。ひょっこり、時間つぶしに私のところへやってきて、“勝手なことを云ってるようだな、とにかく、一通り、教えて何かを残して置いてくれよな””いい加減、もう、のんびりしたらどうかね“とも言ってきた。”女房にも何もしてやっていないから、人生、ちゃんと、帳尻を合わせてやらないとな“。「その通り、そろそろ、引退したら、人の事より自分のことでしょ」といってやった。”どっちが先に死ぬか分からない“「順番から言ったら、私が弔辞を読んであげますから」と、そんな、会話をした。その後、カンボジア、ベトナム、などへ行ってきたばかりらしく、その辺りの様子を話してくれた。というより、自分の感想を話しながら、確認していたという感触だった。まだまだ、引退など、全く考えていない様子。”後継ぎがいないしな”と、ご自分で言っているが、「後継ぎがいないのは自分の責任でしょ」と、私は言えなかった。

 

 ともあれ、折を見て、私の方からアポを取って了解を得ようと思っていたところ、親父さんの方からひょっこりやってきて、“しょうがないな“と、言ってもらったことで、3月末日で解放されることがはっきりした。インドネシアにいれば、嫌でも、PT.N社やそこの日本人や従業員と会う機会が沢山ある。縁を切ってしまうなどということはあり得ない。外にいて、応援する事になるでしょう。気楽に。

 

 隠居 回遊魚 解放感

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(^_-)-☆ブッディスト

2012-03-05 22:53:01 | 習慣

1145 初の休日、曇天で超寒い、こんな日にゴルフをやったりしたら、我慢大会になってしまいそうだ。インドネシアにいれば確実にゴルフをしているのに、日本はつまらない。若い時なら、日帰りでも、富士山の麓辺りにでもスキーをしに行っているかもしれないが、仲間はいないし、この歳ではそんな気も起きない。孫も家の中で大騒ぎしていてうるさいが、自分の部屋を暖かくしてじっとしているしかない。

   若い坊さんが私たち家族の焼香の仕方というか作法というか、それが気になったのでしょうか。若しかしたら、たまりかねたのでしょうか。一通りの御教供養が終わった後、御焼香の仕方についての講話を始めた。どうでもいいことだと思っているが僧侶にしてみれば作法通りにやってほしいのでしょう。私は最初に合掌して例をしてから、香をつまんでおでこに持って行き、火に掛ける、それを三回して、再び合掌して礼をしてお終い。その前後に親族に礼をする場合もある。今までこれが正式な方法だと信じていた。他人の方法を注意深く観察したことはないし、坊さんに聞いたことも、葬儀屋に聞いたこともなかったが、なんとなく、こういう方法をしていた。

曹洞宗では私の方法で正解ですが、僧侶の多くは御焼香の回数は一回半だとか、二回目はおでこに持っていかないで、只、横に移して落すだけだとか、それが正式だとか、ただし、人数が多い場合はアナウスで一回にしてほしいなどがある、それはそれでいいとか。

 

たかが焼香されど焼香、それぞれの宗派でも違うだろうし、仏教徒ではない人も来るだろうし、基本的には気持ちであり、感謝だと思う。話しは、それるが、そのために合掌をして礼拝が一つの自然な流れになるのが人の本能的動作だと思う。インドネシアのヒンドゥーもイスラムもその動作は自然です。これ等の宗教に共通する習慣が在る。それは日の出を拝むことです。それも合掌してである。宗教が現れる前に人間は拝んだのでしょう。神秘的なこと、神々しいもの、美しいものは人を感動させ、思わず祈りたくなるように出来ている。私も、日の出の写真を大切にしている。

 

 拝礼 焼香 自由

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(^_-)-☆母を見送り

2012-03-04 22:00:01 | 環境

1144 実際は亡くなってから46日、シジュウクニチ(49日)の法要を行った。母親は今日から本格的に極楽での生活が始まったらしい。“この世の中“から”あの世の中“へ到着したという。親父のもとへ落ち着いたと思う。

 

 今は、多分、富士市に統合されて庵原郡ではなく富士市富士川町になっていると思うが、生まれ故郷の富士川町の国1の富士川橋の富士川町側の橋を真っ直ぐの延長線上の山の上に先祖代々のお墓が在り、その中に分家した私が作った親父の墓が在った。小学校の頃、私に生れ故郷でもあるし、親父の兄達の家が何軒か其の辺りに会ったので、夏休みのお盆の頃一週間から10日間ほど、この辺りに遊ぶに来ていた。いとこも大勢いて、彼らは私が静岡の都会からやってくるのを楽しみにしていたようで、毎日のように富士川で魚を追いかけたり、泳いだり、山に入って昆虫を追いかけていた。お盆の時は生き物の殺生は駄目だと言われていたが、そんなことは無視して、山川を走り回っていた。入れ替えあり立ち替わり、従兄弟連中が私に付き合ってくれていた。流石にウサギはいなかったが、“カブトムシを追いしかの山、小鮒釣りしかの川”私の故郷そのものです。

 お墓の中も遊び場の一つだった。写真はそのお墓の一風景で60年以上前から変わっていない。孫が今、この場にいるのが不思議な感覚を覚えさせられる。

 

この地で、私が作った墓の中に次に入るのは順番からいって私である。そう早くは入りたくないが、30年先まではいらないということは確率的にゼロである。この予測は東海地震が30年以内に起こる可能性が80%というものより遥かに確実な予測です。

般若心経を唱えながら、ギャーテーギャーテーハラギャーテーと言いながら、そんなことを考えていた。

 

 思い出 49日 故郷

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(^_-)-☆見通しがはっきり

2012-03-03 22:56:30 | 状況

1143 家からでる時間が真っ暗ではなくなった。車のライトのスモールを点けようかどうか迷う。この状態がインドネシアの夜明けの明るさに似ている、日没時間もほぼ同じに思う。20日程で彼岸なのでそうなのでしょう。気温はずいぶん違うのは当然である。

 

インドネシアから持ってきた金型でトライを始めた。肉厚が均一でないことと補助押出機からの樹脂量が均一ではないことなど、若干の修正が必要です。来週の火曜日辺りに二回目のトライをねらっている。かなり、以前より希望が持てるようになってほっとしている。今月半ばには客先へ出せるサンプルが出来るでしょう。そのトライの合間をぬって、別の製品のトライをする。とにかく、今月一杯、仕事日で20日程しかないので、残りの日の空きを作らないように試作を組み込んでいかなければならない。

ここで、もう一つ気が付いたことが在る。これは今まで全く経験がないことで、私以外に誰も気が付いていない、勿論、この会社の人誰もが気が付かないだろう。私のやり方というより、この種の製品を作る時に、ただ、私が作った方法と同じ方法でサイズが違う製品の金型を作った時に、同じように出来ないでしょう。それを証明してやる必要がある。

 

 きらり光ったその先には何とも言えない喜びが待っている。何度も、そういう気持ちを味わってきた。誰にも分からない、私だけの世界である。多分、今まで日本に無いもの、もしかしたら世界中にもないものかもしれない、無いと思っていて、たまたま、あったとしても作り方が同じはずがないもの、そういうものが自分の力で出来上がって、少人数でもいいから他の人が認めてくれた時です。エンプラやウルトラエンプラの押出成形ではそういう経験を沢山してきた。これからも続く、まだまだ続く。そして、後、十日もたたないうちにそういう時が来ると予想出来る段階になった。

 これも、この世の中で私しか意識していないことかもしれない。

同じ種類のラフレシアですが違いが分かりますか。多くは内側の花弁は裂けていない。

 近い 重要 気付く

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(^_-)-☆車の種類

2012-03-02 22:52:28 | 知識

1142 インドネシアで今一番人気の車は、と聞かれれば、Xenia(ダイハツ)だと思う。Avanza(トヨタ)と同型です。1000~1200ccでしょうか。つい何カ月か前にフルモデルチェンジをして、一層、売れるようになったのではないかと思う。もともとキジャンが国民車のようなものだったが、庶民にとっては高級過ぎる、値段も高いし排気量も大きすぎるという評価になっていて、ちょっと、小金持ちが買う車になっている。キジャン、イノファと言います。そして、明らかにトヨタがダントツに強い。しかし、庶民は燃費が良くて価格も安いダイハツの車を先ず買うようになっているようです。4月から使う車、ゼニアを注文した。セダンはインドネシアの道に合わない。キジャンは良いが、高いし、燃費が悪い、大きすぎる。日本人の多くはキジャン イノファの後部座席で居眠りをしている。

 日本ではネジ合わせだけで1万6千円、嫌になってしまう。日本でなら、50万円くらいする金型を、インドネシアで15万円で作ってきて、その金型のネジ合わせをしただけです。全額の10%掛ってしまった。日本で外注を使うのは、これが最後です。本当にバカバカしい。一事が万事、日本は何でも高い。品質が良い、日本品質は世界をリードしているから高くても買う、などという寝言は通じなくなっている事を知らなければならない。

今や日本しかできなくて東南アジアでは出来ないというものは殆ど無くなっている。逆に東南アジアで出来て、日本では出来ないというもののほうが多くなっている。ドンドン海外へ逃げてゆく、逃げたものは返らない。

 

 最近、私にインドネシアのいろいろな業界の様子を伺いたいという話が多い。インドネシアにいる時には視察で回っているので私からも様子を伺いたいと何社かの人が寄っている。日本でも、私のウェブサイトを見て、私の話を聞きたいと会社へ来る方も多くなっている。いっそのこと、日本にいる時にはインドネシア語を教えちゃおうかな、などと思ったりもする。ついでに、インドネシアの実態を伝えることも出来るし、結構、生徒が集まるのではないでしょうか。

 

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