しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <喜び歌いながら>

2022-09-08 | イザヤ書
「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭には、とこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。」(イザヤ51:11新改訳)
待ち望んでいたメシアがナザレのイエスであると知り、悔い改めたイスラエルは全世界から聖地に帰り、千年王国が始まる。その時の喜びがここに歌われている。何千年ものあいだ世界に離散し、迫害と差別のため震えおびえ、ひっそりと隠れ家に暮らすように息をひそめていたイスラエルが、喜び歌いながらシオンに帰ってくるありさまは、どんな言葉にも十分に表せないであろう。▼私たちキリスト者も、個人的にはこのように贖われた者である。異邦の空しい習慣と偶像礼拝の奴隷、因習と差別、暴力に苦しんでいたが十字架を示され、悔い改めて救いに入れられた。そして心のシオン、つまりイエス・キリストのふところに帰り、永遠の安らぎを得たのである。こうして、栄化された教会と地上で祭司の王国となったイスラエルは、ともに測り知れない喜びにあずかるときが来るであろう。▼「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる『割礼』を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については<神のいろいろな協約、神の諸契約について、なんの知識も権利もない>他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」(エペソ2:11~13同、<>内は詳訳)

子どもの頃、私は農村に住み、近くには大きなお寺があった。毎週のように葬列が墓地に向かって歩いていた。黒の喪服を着た老婦人たちが十人ほど前を歩み、金属の小鉢を棒でチーンと次々にたたきながら、低い声で念仏をとなえ、あとには風呂桶のような棺(その地方は座棺だった)に納められた死者の前後を天秤棒で担いだ男性たちが歩き、そのうしろを遺族と見える人たちが続いていた。とくにもの悲しいのは、秋から冬の夕方である。黒々と夕焼けに浮かぶお寺の森、墨絵のような森の中に墓地があり、そこに向かって歩く葬列のさびしげなこと。▼小学校の帰り道、私はその光景をしばしば眺め、子どもながら何とも言えない寂しさといおうか、空しさといおうか、複雑な気持ちを抱いたものである。同時に、死という現実に一種の恐ろしさもおぼえたことがいまでも忘れられない。あの死者は墓地に掘った穴に埋葬され、やがて消えてなくなっていく。人間とはなんとはかない存在なのだろう。うまく説明できなかったが、そのあたりから、人の一生とは何なのか?そう思い始めた気がする。▼パウロが記していることばは、ほんとうであった。それは私の体験そのままだといってもよい。「この世にあって望みもなく、神もない者たちでした」、たしかにそのとおりなのだ。しかし今は思う。キリストにより、復活の希望が与えられた喜びは、天地にあるどんな存在・宝より尊く、大切なものであると。


朝の露 <私を義とする方>

2022-09-07 | イザヤ書
「私を義とする方が近くにいてくださる。だれが私と争うのか。さあ、ともに立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来るがよい。」(イザヤ50:8新改訳)
これはユダ王国で預言活動をするイザヤ自身の告白、ととらえることができよう。また彼の姿と、ナザレのイエスとして地上を歩まれた御方の姿が二重写しになっているともいえる。同胞の罪を指摘するイザヤは白眼視され、非難され、孤独の日々を送ったことだろう。▼しかし彼は言う、私と争うなら、神のさばきの前にいっしょに立とう。そしてどちらが正しいか神に決めていただこうではないか、と。これはまさに、パリサイ人たちに囲まれ、四面楚歌の真っただ中を歩まれた主イエスとおなじであった。そもそも預言者は神の審判の切迫を、好きで述べているのではない。このままいくなら、亡国の運命が待ち受けていることが手に取るようにわかるから人々に語るのだ。神の御霊が内側から火のように燃えて急き立てるから語るのである。▼イザヤとおなじく主イエスもイスラエルに「来るべき神の審判のとき」をお語りになった。そして平然として聞こうとしない彼らのため「ああエルサレムよ!」と涙されたのであった。私たちが生きる21世紀の世界も、ひとつも変わっていない。神ご自身が救いの道を備え、なにもかもととのえて、全時代、全世界の人たちを招いておられる。「さあ、ともに立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来るがよい。十字架で成し遂げられた完全なあがないの前に一緒に立とう。そうすればすべてがゆるされ、神のもとに迎えられるのである」と・・・。▼この聖なる招きに応じ、どんなに罪深い者をも義として下さる救い主の前に、ともにちかづこう。ともに立とう。主の日が刻一刻と迫ってきているのだから。

朝の露 <ふところに抱いて>

2022-09-06 | イザヤ書
「神である主はこう言われる。『見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を諸国の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちを懐に抱いて来る。あなたの娘たちは肩に担がれて来る。』」(イザヤ49:22新改訳)
キリストが地上再臨されたとき、世界中からイスラエルの民が聖地に集まって来る様子を描いたものである。諸国民はイエス・キリストをおそれるがゆえに、イスラエル人たちを丁重に扱い、その帰還を助けるのであろう。懐に抱くとか肩に担ぐとかいった表現がそのことをよく表している。次の節も興味深い。「王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたの乳母となる。彼らは顔を地に付けて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる」(23同)・・。▼つまり異邦人諸国は、最も高位の人たちまで先を争うようにしてイスラエル人たちを聖地の送り届けるのだ。世界中で迫害されて来た選民たちは、これまでと違った扱いに驚き、いまさらのように救い主キリストの御名をほめたたえることになるだろう。

一方、本章を新約の光で味わえば、この二千年間、キリストの福音により、あらゆる時代とあらゆる民から人々が救いにあずかり、主のもとに集められつつある光景を表したものと見ることができる。▼私たちキリスト者は生まれる前からキリストの書(ふみ)に記され、主の手のひらに名前が記されていた。そしてイスラエルから遠く離れた島々や最果ての地から集められたのである。この世ではさげすまれ、いみきらわれ、奴隷とされていた者も福音によって救い出され、天に国籍を記された。シニムの地(12)とはシナ、つまり中国を意味するといわれる。日本はさらに遠い、東の海の島々に属するが、そのような果てからも御聖霊はキリストの民を集めておられるのだ。なんとすばらしく、感謝な事実であろう。▼こうしてキリストの平和が世界をおおったとき、すべての肉なる者が救い主、贖い主、イスラエルの力強き者であられるイエス・キリストを礼拝するに至る。そこにはもはやイスラエルも異邦人もなく、身分や出自の区別もなく、すべてがキリストにあって一つにされた、という事実だけが輝くのである。


朝の露 <聖なる都の出>

2022-09-05 | イザヤ書
「実に彼らは聖なる都の出だと自称し、その名が万軍の主であるイスラエルの神に寄りかかっている。」(イザヤ48:2新改訳)
ここはイスラエルが偽善的信仰に歩んでいるありさまを述べた聖句である。▼私たちの礼拝場所は世界で最も聖なる都・エルサレム。しかも先祖は偉大な族長ヤコブであり、なおかつ、その中からメシアの家系として選び出されたユダ族であり、ダビデ王家が私たちのみなもとだ。そのへんの有象無象(うぞうむぞう)とは違う血筋で、神の聖なる民だ、と人々は自慢してやまない。▼ところが神は答えたもう。わたしはそんな自慢を認めない。お前たちの信仰はわたしが喜び、確証したものではなく、自分勝手な信仰にすぎない。なぜなら、わたしに聞こうともせず、偶像を拝み、不義不正を平気で行い、うなじは鉄のよう、額は青銅のように硬いではないか。だから、バビロンのために滅ぼされるのだ、と・・・。▼ここを読むと、あのステパノが、死を覚悟して、最高法院(サンヒドリン)の議員たちに迫った説教を思い出す。「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」(使徒7:51,52同)▼イザヤと同じく、ステパノの説教は燃える火矢のように議員たちの心を刺し貫いた。そしていたたまれなくなった議員たちは「大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。」(57,58)▼壮絶な彼の殉教である。私たちキリスト者の信仰は、ひとりよがりであってはならない。いわんや、罪を指摘されて怒り狂うようなメッキ信仰であってはならない。それではいざという時、何の役にもたたないのだから。 



朝の露 <わたしは復讐をする>

2022-09-01 | イザヤ書
「あなたの裸はあらわにされ、恥もさらされる。わたしは復讐をする。だれ一人容赦しない。」(イザヤ47:3新改訳)
イスラエル民族を苦しめたバビロン帝国に対する神の復讐が、この章で宣言される。とてもきびしいもので、黙示録にもおなじみことばが引用されている。▼紀元前六世紀にカルデヤ人が築いたバビロン文明は、聖書によればアダムの子、殺人者カインの精神を引き継ぐ人間の歴史を象徴する。それは源流に創造主への反抗心を持っていて、都市はその象徴である。「カインは主の前から出て行って、エデンの東、ノデの地に住んだ。カインはその妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたので、息子の名にちなんで、その町をエノクと名づけた。」(創世記4:16,17同)▼カインは弟殺人のあと、神より「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる」(創世記4:12同)と宣言されたが、それに逆らって町を建て、文明を造ろうとし、神に反抗した。その精神は大洪水のあと、ノアの子供たちに引き継がれ、バベルの塔建設の動機となり、全世界に離散させようとする神にまたしても反抗、ニムロデを中心に王国を建設するに至った(創世記10章)。その都市群にバベルという名が出ているのは意義深い。たぶんこれがバビロンという名の起こりであり、現代文明の根底にある精神の源流であろう。▼世の終わりに、この文明は世界最大の都市建設と偶像礼拝によって頂点に達する、と黙示録はいう。そこにはあらゆる形の堕落、奢侈(しゃし)、聖徒たちへの迫害が満ち、ついに神のさばきが降って焼き尽くされることになる。▼私たちが生きる二一世紀を注意深く観察すると、すべてが黙示録の最後に向かって運ばれていることにきがつくであろう。当然のこととして、聖徒らはバビロン文明とその精神から脱出しなければならない。なぜなら、人を創造された御方への反抗、自己とその成果を賛美、謳歌(おうか)するあり方は、表面的にどれほど華美にみえても、最後は腐敗と滅亡に至るしかないからなのだ。