「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭には、とこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。」(イザヤ51:11新改訳)
待ち望んでいたメシアがナザレのイエスであると知り、悔い改めたイスラエルは全世界から聖地に帰り、千年王国が始まる。その時の喜びがここに歌われている。何千年ものあいだ世界に離散し、迫害と差別のため震えおびえ、ひっそりと隠れ家に暮らすように息をひそめていたイスラエルが、喜び歌いながらシオンに帰ってくるありさまは、どんな言葉にも十分に表せないであろう。▼私たちキリスト者も、個人的にはこのように贖われた者である。異邦の空しい習慣と偶像礼拝の奴隷、因習と差別、暴力に苦しんでいたが十字架を示され、悔い改めて救いに入れられた。そして心のシオン、つまりイエス・キリストのふところに帰り、永遠の安らぎを得たのである。こうして、栄化された教会と地上で祭司の王国となったイスラエルは、ともに測り知れない喜びにあずかるときが来るであろう。▼「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる『割礼』を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については<神のいろいろな協約、神の諸契約について、なんの知識も権利もない>他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」(エペソ2:11~13同、<>内は詳訳)
子どもの頃、私は農村に住み、近くには大きなお寺があった。毎週のように葬列が墓地に向かって歩いていた。黒の喪服を着た老婦人たちが十人ほど前を歩み、金属の小鉢を棒でチーンと次々にたたきながら、低い声で念仏をとなえ、あとには風呂桶のような棺(その地方は座棺だった)に納められた死者の前後を天秤棒で担いだ男性たちが歩き、そのうしろを遺族と見える人たちが続いていた。とくにもの悲しいのは、秋から冬の夕方である。黒々と夕焼けに浮かぶお寺の森、墨絵のような森の中に墓地があり、そこに向かって歩く葬列のさびしげなこと。▼小学校の帰り道、私はその光景をしばしば眺め、子どもながら何とも言えない寂しさといおうか、空しさといおうか、複雑な気持ちを抱いたものである。同時に、死という現実に一種の恐ろしさもおぼえたことがいまでも忘れられない。あの死者は墓地に掘った穴に埋葬され、やがて消えてなくなっていく。人間とはなんとはかない存在なのだろう。うまく説明できなかったが、そのあたりから、人の一生とは何なのか?そう思い始めた気がする。▼パウロが記していることばは、ほんとうであった。それは私の体験そのままだといってもよい。「この世にあって望みもなく、神もない者たちでした」、たしかにそのとおりなのだ。しかし今は思う。キリストにより、復活の希望が与えられた喜びは、天地にあるどんな存在・宝より尊く、大切なものであると。