「というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。」(ヘブル2:5新改訳)
来たるべき世とは、新天新地のことを指す。これを相続するのは、復活されたイエス・キリストであられるのは、いうまでもない。しかも主は御使いの一人ではなく、人としてのからだを持っておられ、そのからだは栄化した教会である。「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」(黙示録21:23同)▼父なる神は永遠の復活世界を、御使いでなく人の子イエスが相続するようお定めになった。じつにそのためにこそ、イエスは十字架で血を流し、万物をあがなうため、宥(なだ)めの供え物となって苦しまれたのである。▼御使いは血肉のからだを持っていないので死の苦しみを味わえない。それができたのは完全な人としてのキリストであり、だからこそ主は「救いの創始者(そうししゃ)」とよばれるわけである。私たちは人として十字架の主を信じたので、新世界の中心に置かれる。なんと幸いな未来であろう。▼「死のおそれは全く消えぬ、イエスを信ぜしより、天つ住まい備えたもうイエスを信ぜしより、イエスを信ぜしより、イエスを信ぜしより、喜びにて胸は溢(あふ)る、イエスを信ぜしより」(新聖歌262・4節)