「私に良いことをしてくれたことを、今日、おまえは知らせてくれた。主が私をおまえの手に渡されたのに、私を殺さなかったのだから。」(Ⅰサムエル24:
18新改訳)
ダビデは自分を殺そうとねらう主君サウルを、決して殺そうとはしなかった。それはどこまでも主なる神をおそれたからである。「主に油注がれた方に手を下すことなど絶対にしてはならない」と言って、血気にはやる部下を説き伏せたことに、そのことがあらわれている。▼パウロもまた、新約においてこのことを強調している。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます」(ローマ12:19同)と。▼自分のいのちをねらい続ける者をゆるすことは、至難(しなん)のわざである。が、ダビデは主を心からあがめる敬虔ゆえにそれをした。彼が王位についてから、幾度(いくど)となくあぶない危機(きき)がおとずれたが、そのたびに奇蹟的(きせきてき)に守られたのは、敵をゆるし続けたことに対する神の祝福でもあったのだ。