「サウルは言った。『私が間違っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。もう、おまえに害を加えない。今日、おまえが私のいのちを尊んでくれたのだから。本当に私は愚かなことをして、大変な間違いを犯した。』」(Ⅰサムエル26:21新改訳)
サウルは自分に手を下さなかったダビデの寛容を知り、涙を流さんばかりに悔い改めた。だがそれはにせの悔い改めであり、しばらくたつと、今までとおなじようにダビデのいのちをねらい始めるのであった。▼ダビデが生きているかぎり、自分の王位はあぶない。どうしても殺さなければならない、との思いから生涯自由になれなかったサウルは、一面、あわれな男であった。すべてを支配される神の存在を信じなければ、人間は何かにしがみついて生きていかざるを得なくなる。▼サウルを捨て、ダビデを選んだ神の御手が明白になっているのに、あくまでも王位を保持しようともがくサウルの姿は、現代人の生き方に似ているといえるかもしれない。すでに世界はイエス・キリストに与えられているのにそれを受け入れず、反抗してやまないからだ。▼「本当に私は愚かなことをして、大変な間違いを犯した」との告白がほんものであったら、サウルはただちに王位をダビデに明け渡したはずであった。だが告白はウソであり、一時的、表面的なものにすぎなかった。その結果、サウルは自分で自分を追い詰め、最後に悲惨な死を迎えることになる。しかも3人の息子たちと一緒に死ぬのだ。▼神の前の悔い改めは真実でなければならない。それ以外に救われる道はないからである。イスカリオテのユダも、主イエスが死刑に定められたとき、目が覚め、「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」と言った(マタイ27:4)。だが、もうすでに遅かった。それまで何度も悔い改めの機会があったのに、そうしなかったからである。こうして自分から首をつった彼は、永遠の暗黒に落ちて行ったのである。