白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
神は存在する!
私たちの使徒信経の第一命題には、「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」とあります。
非常に短いこの文書の中に、多くの真理が織り込まれています。
第一、 天主の存在という真理。
第二、天主の本性と属性という真理。
第三、天主の本質的な内奥の心なる三位一体という真理。
第四、 総てを創造した天主が全能であるという真理。
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
一先ず、天主とは一体、どういうものでしょうか。カトリックでは天地の創造主を他の神々と区別するために「天主」と呼んでいます。
天主は霊である。
永遠である。
限りなく完全である。
創造者である。
総ての物事を司る者である。
非常の定義を説明する前に、一先ず問うべき課題があります。
天主は実際に存在するのか、です。
もし天主が存在しなければ、なおさら天主を語ることはそもそもないからです。
その場合には、夢想について語るに過ぎないことになるわけです。
従って、第一に問うべき課題は、天主が実際に存在するかどうか、です。
この質問に対して、存在すると答えざるを得ません。
天主が存在する。これを我々が信じる、しかしながら同時に、知ると言えます。
まず、天主が私たちに御自分を啓示したからこそ、その存在を信じるのです。
一方、天主の存在を証明できるので、その存在を知ります。
緻密極まりないことですが、この信条があります。「天主の存在を理性によって証明できることを信じるべきであります」と。
天主の存在を信じる理由は、天主自身が言ったから信じる。聖書の証言に基づく。
しかしながら、同時に、天主の存在は、人間の理性と知性によって証明できる事実でもあります。
天主の存在に関する証拠の種類は、一般的に、五つあります。
それぞれの難易度も推考度もまちまちです。しかし、皆、同じ事実確認から出発する。つまり、我々の周りにあるすべての物が存在するという事実からです。
あるモノが存在する。それで、存在しているモノがあっても、しばらく実在してから、無くなる。ある日には存在していなかったモノが、他のある日に存在している。
我々一人一人に関しても、言えることですが、自分が自分の存在の主(あるじ)ではない。何故ならある日、自分が存在していないからです。
自分が存在していなかったときがあると、一体どうやって自分が自分の存在の主になれるのでしょうか。
それに、いつか自分が無くなるわけだから、一体どうやって自分が自分の存在の主だと言えるでしょうか。
我々の存在は、儚(はかな)いものに過ぎず、我々がその存在の主であるのではありません。
同じように、周りの物事についても言えるのです。特に、腐敗していく物理的な物については、なおさらです。
腐敗するものは、非常に儚(はかな)い存在です。かかる存在を「偶然」の存在といいます。
偶然とは、あるモノが存在しているが、別に存在しなくても良いという意味です。そのモノ自体が、いつまでも存在する必然性を持たないのです。
偶然なるモノの反対が、必然なるモノと言います。
偶然なるモノが存在している。しかし、存在しなくてもよいモノだ。たとえば、我々が生まれなかったとしても、世界は変わらない。
必然なるモノが存在している。しかし、存在しないことはできない存在。
これを見てわかるように、偶然なるモノが、それ自体として存在する必然性を持たないわけだから、必然なるモノによってしか存在できないとしなければなりません。
また、言い換えてみましょう。偶然なるモノは、そのもの自体によって存在理由がないのですから、自分で自分の存在を与えることはできないことになります。したがって、その存在を与えるどこかの必然なる存在が必要となります。
もしかしたら、こう言われるかもしれません。別の偶然のモノによってこそ、ある偶然のモノの存在を与えると。しかしながら、もう一つの偶然なるモノが、どこから存在を受けているか。もう一つの偶然なるモノから受けるのだと。
しかしながら、限りなくその連鎖を続けることはできません。無意味でしょう。あらゆるものが、偶然なモノだとしたら、あらゆるモノが、ある日に存在しなくてもよかったということになります。それなら、なぜ、現在に存在しているモノは存在しているのでしょうか。あらゆるモノが、存在しなくてもよかったモノだったのに。
存在には、原因がなければなりません。さらに、この原因は、自分自身で必然でなければなりません。
言い換えると、その原因によって、この原因の存在が自分自身に与えられているので、必然の存在の存在理由は、必然なる存在それ自身となります。
必然なるこの存在を、天主と呼びます。
要するに、天主が自分自身によってしか存在しない原因です。自分自身においてしか、存在理由がない。
天主が、天主自身にとって自分の存在であります。つまり、天主が必然的に存在する。
言い換えると、天主だけが、存在しないことはできない存在です。これが天主です。
~~
また、他の視点からこの問題を見ることができます。宇宙を見れば見るほど、秩序があることを確認できます。当然、人間によらない秩序です。八百万の星、八百万の天体。より単純に太陽を回る惑星。間違いなく、規則正しく回る惑星。信じられないほどの数です。数百億万年から前ずっと、人間の技術を遥かに超えて挑むかのように、宇宙の秩序が確認できます。
それより、我々に近いことを挙げてみましょう。大自然において確認できます。秩序です。また、自然のそれぞれの界にある秩序。植物界でも動物界でも確認できます。生態系と呼ばれる秩序。
かかる秩序を作らなかったのに、人間はこの秩序を快く享楽しています。
秩序があって、それに必要なのは、誰かがこの秩序を整えたか、ということです。世話役が必要です。何れにしても、ある知性がなければなりません。秩序をつくった知能が必要です。というのも、智慧の本質が、秩序付けることにあるからです。つまり、秩序付けるのは智慧あるものです。ひとり、智慧ある者だけが、秩序付ける能力があるからです。
要するに、宇宙の上に、いや、宇宙のかなたに、第一原理或いは、第一知性が存在します。これは、宇宙の理由と原因となる知性がなければならない、ということです。かかる知性を、天主と呼びます。
~~
先ほどの見方が、我々が否定のできない目の前にある事実の確認から出発して、第一原因までさかのぼることで成り立ちます。
第一原因を天主と呼ぶのです。
不敬虔なるヴォルテールでさえ、こう明かします。宇宙を指して「この大時計が常に機能していることを見て、時計製造職人がいないことを、私には考えられないことだ」と。
要するに、以上をもって、天主が存在することが証明されます。しかも、聖パウロもこういっています。「被創造世界を見ても、天主を見ないふりにしている人々には、弁解の余地はない。」
まさに、すべてが、天主の事を語っているのです。言い換えると、被創造世界において、すべてが「天主が存在する」と語るのです。
例えば、芸品的な絵画展示会に行ったとしたら、作品を鑑賞する時に、どうしても、この作品の裏には、作家がいると考えざるを得ないと想定すると同じようなことです。この芸術を創造した者が存在していると。誰だろうか。この作品を描いた者は誰だろうか、と。この像を作った者が誰だろうか、と。誰もいないとお互いに答えを出すとしたら、無理があります。この作品が自発的に自分で作りあがったと誰かが言い出したら、意味をなしません。そんな事を言うなら、自分を馬鹿にしていると皆が考えるでしょう。この像物が、自発に発生したわけがありません。この絵、この作品には、職人がいなければならないからです。今使っているこの家具、このベッド、この布団、この明るい蝋燭、時間が分かるためのこの時計には、職人がいなければならないのです。
その証拠には、現代において、すべての商品が、作られた銘柄が記されていることからも明瞭です。
それでも、被創造宇宙だけが、天主の銘柄がないとは?そんなことはありません。宇宙にある秩序こそ、この銘柄で、秩序付ける者と至上知性の存在を表明しているのです。これが天主に他ならないのです。
また、他に心証上の証拠とでも呼びうる証拠があります。
歴史に照らして、総ての民族が、一つも欠かさずに、天主の存在を認めたと言えます。少なくとも、至上且つ究極的な存在を認めた。皆が、天主と呼んでいる。勿論、それぞれに、天主のあり方について、まちまちでありますけど、古代を見ても、原始民族を見ても、みんな、いつも、欠かさないで、天主か神々かといった存在を認知しているのです。少なくとも、皆、至上者と宇宙を秩序付ける者なる存在を認知しています。
また、その他に自分の内面において、証拠を見つけることができます。これはまた、心証上の証拠となります。自分の内面において法が刻み込まれていることをどうしても感じるからです。自然法という法が存在します。後に、何れかまた触れますが、自然法は、われわれに、直感的に声をかけています。たとえば、子供が、両親に嘘をついたときに、直感的に悪い事だったことを自然に知っています。
総ての人間が、直感的に無罪なる人を殺すのは、ひどいことだと知っています。自然法は人間の本能にあるかのようです。
それでは、自然法がどこから来るのでしょうか?自然法の主なる至上立法者からこなければなりません。この至上立法者のことを、天主と呼びます。
要するに、天主は存在します。天主は宇宙の第一原因です。宇宙の至上知性です。それによって、宇宙のすべてが、善たる天主に向けて秩序付けられて善です。これが天主です。
私たちは天主が存在することを信じます。「全能なる天主を信じる」のです。しかしながら、人間の理性に従って、天主が存在することをも知ってもいるのです。
公教要理-第二講 「天主は存在する」は証明できる
神は存在する!
私たちの使徒信経の第一命題には、「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」とあります。
非常に短いこの文書の中に、多くの真理が織り込まれています。
第一、 天主の存在という真理。
第二、天主の本性と属性という真理。
第三、天主の本質的な内奥の心なる三位一体という真理。
第四、 総てを創造した天主が全能であるという真理。
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
一先ず、天主とは一体、どういうものでしょうか。カトリックでは天地の創造主を他の神々と区別するために「天主」と呼んでいます。
天主は霊である。
永遠である。
限りなく完全である。
創造者である。
総ての物事を司る者である。
非常の定義を説明する前に、一先ず問うべき課題があります。
天主は実際に存在するのか、です。
もし天主が存在しなければ、なおさら天主を語ることはそもそもないからです。
その場合には、夢想について語るに過ぎないことになるわけです。
従って、第一に問うべき課題は、天主が実際に存在するかどうか、です。
この質問に対して、存在すると答えざるを得ません。
天主が存在する。これを我々が信じる、しかしながら同時に、知ると言えます。
まず、天主が私たちに御自分を啓示したからこそ、その存在を信じるのです。
一方、天主の存在を証明できるので、その存在を知ります。
緻密極まりないことですが、この信条があります。「天主の存在を理性によって証明できることを信じるべきであります」と。
天主の存在を信じる理由は、天主自身が言ったから信じる。聖書の証言に基づく。
しかしながら、同時に、天主の存在は、人間の理性と知性によって証明できる事実でもあります。
天主の存在に関する証拠の種類は、一般的に、五つあります。
それぞれの難易度も推考度もまちまちです。しかし、皆、同じ事実確認から出発する。つまり、我々の周りにあるすべての物が存在するという事実からです。
あるモノが存在する。それで、存在しているモノがあっても、しばらく実在してから、無くなる。ある日には存在していなかったモノが、他のある日に存在している。
我々一人一人に関しても、言えることですが、自分が自分の存在の主(あるじ)ではない。何故ならある日、自分が存在していないからです。
自分が存在していなかったときがあると、一体どうやって自分が自分の存在の主になれるのでしょうか。
それに、いつか自分が無くなるわけだから、一体どうやって自分が自分の存在の主だと言えるでしょうか。
我々の存在は、儚(はかな)いものに過ぎず、我々がその存在の主であるのではありません。
同じように、周りの物事についても言えるのです。特に、腐敗していく物理的な物については、なおさらです。
腐敗するものは、非常に儚(はかな)い存在です。かかる存在を「偶然」の存在といいます。
偶然とは、あるモノが存在しているが、別に存在しなくても良いという意味です。そのモノ自体が、いつまでも存在する必然性を持たないのです。
偶然なるモノの反対が、必然なるモノと言います。
偶然なるモノが存在している。しかし、存在しなくてもよいモノだ。たとえば、我々が生まれなかったとしても、世界は変わらない。
必然なるモノが存在している。しかし、存在しないことはできない存在。
これを見てわかるように、偶然なるモノが、それ自体として存在する必然性を持たないわけだから、必然なるモノによってしか存在できないとしなければなりません。
また、言い換えてみましょう。偶然なるモノは、そのもの自体によって存在理由がないのですから、自分で自分の存在を与えることはできないことになります。したがって、その存在を与えるどこかの必然なる存在が必要となります。
もしかしたら、こう言われるかもしれません。別の偶然のモノによってこそ、ある偶然のモノの存在を与えると。しかしながら、もう一つの偶然なるモノが、どこから存在を受けているか。もう一つの偶然なるモノから受けるのだと。
しかしながら、限りなくその連鎖を続けることはできません。無意味でしょう。あらゆるものが、偶然なモノだとしたら、あらゆるモノが、ある日に存在しなくてもよかったということになります。それなら、なぜ、現在に存在しているモノは存在しているのでしょうか。あらゆるモノが、存在しなくてもよかったモノだったのに。
存在には、原因がなければなりません。さらに、この原因は、自分自身で必然でなければなりません。
言い換えると、その原因によって、この原因の存在が自分自身に与えられているので、必然の存在の存在理由は、必然なる存在それ自身となります。
必然なるこの存在を、天主と呼びます。
要するに、天主が自分自身によってしか存在しない原因です。自分自身においてしか、存在理由がない。
天主が、天主自身にとって自分の存在であります。つまり、天主が必然的に存在する。
言い換えると、天主だけが、存在しないことはできない存在です。これが天主です。
~~
また、他の視点からこの問題を見ることができます。宇宙を見れば見るほど、秩序があることを確認できます。当然、人間によらない秩序です。八百万の星、八百万の天体。より単純に太陽を回る惑星。間違いなく、規則正しく回る惑星。信じられないほどの数です。数百億万年から前ずっと、人間の技術を遥かに超えて挑むかのように、宇宙の秩序が確認できます。
それより、我々に近いことを挙げてみましょう。大自然において確認できます。秩序です。また、自然のそれぞれの界にある秩序。植物界でも動物界でも確認できます。生態系と呼ばれる秩序。
かかる秩序を作らなかったのに、人間はこの秩序を快く享楽しています。
秩序があって、それに必要なのは、誰かがこの秩序を整えたか、ということです。世話役が必要です。何れにしても、ある知性がなければなりません。秩序をつくった知能が必要です。というのも、智慧の本質が、秩序付けることにあるからです。つまり、秩序付けるのは智慧あるものです。ひとり、智慧ある者だけが、秩序付ける能力があるからです。
要するに、宇宙の上に、いや、宇宙のかなたに、第一原理或いは、第一知性が存在します。これは、宇宙の理由と原因となる知性がなければならない、ということです。かかる知性を、天主と呼びます。
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先ほどの見方が、我々が否定のできない目の前にある事実の確認から出発して、第一原因までさかのぼることで成り立ちます。
第一原因を天主と呼ぶのです。
不敬虔なるヴォルテールでさえ、こう明かします。宇宙を指して「この大時計が常に機能していることを見て、時計製造職人がいないことを、私には考えられないことだ」と。
要するに、以上をもって、天主が存在することが証明されます。しかも、聖パウロもこういっています。「被創造世界を見ても、天主を見ないふりにしている人々には、弁解の余地はない。」
まさに、すべてが、天主の事を語っているのです。言い換えると、被創造世界において、すべてが「天主が存在する」と語るのです。
例えば、芸品的な絵画展示会に行ったとしたら、作品を鑑賞する時に、どうしても、この作品の裏には、作家がいると考えざるを得ないと想定すると同じようなことです。この芸術を創造した者が存在していると。誰だろうか。この作品を描いた者は誰だろうか、と。この像を作った者が誰だろうか、と。誰もいないとお互いに答えを出すとしたら、無理があります。この作品が自発的に自分で作りあがったと誰かが言い出したら、意味をなしません。そんな事を言うなら、自分を馬鹿にしていると皆が考えるでしょう。この像物が、自発に発生したわけがありません。この絵、この作品には、職人がいなければならないからです。今使っているこの家具、このベッド、この布団、この明るい蝋燭、時間が分かるためのこの時計には、職人がいなければならないのです。
その証拠には、現代において、すべての商品が、作られた銘柄が記されていることからも明瞭です。
それでも、被創造宇宙だけが、天主の銘柄がないとは?そんなことはありません。宇宙にある秩序こそ、この銘柄で、秩序付ける者と至上知性の存在を表明しているのです。これが天主に他ならないのです。
また、他に心証上の証拠とでも呼びうる証拠があります。
歴史に照らして、総ての民族が、一つも欠かさずに、天主の存在を認めたと言えます。少なくとも、至上且つ究極的な存在を認めた。皆が、天主と呼んでいる。勿論、それぞれに、天主のあり方について、まちまちでありますけど、古代を見ても、原始民族を見ても、みんな、いつも、欠かさないで、天主か神々かといった存在を認知しているのです。少なくとも、皆、至上者と宇宙を秩序付ける者なる存在を認知しています。
また、その他に自分の内面において、証拠を見つけることができます。これはまた、心証上の証拠となります。自分の内面において法が刻み込まれていることをどうしても感じるからです。自然法という法が存在します。後に、何れかまた触れますが、自然法は、われわれに、直感的に声をかけています。たとえば、子供が、両親に嘘をついたときに、直感的に悪い事だったことを自然に知っています。
総ての人間が、直感的に無罪なる人を殺すのは、ひどいことだと知っています。自然法は人間の本能にあるかのようです。
それでは、自然法がどこから来るのでしょうか?自然法の主なる至上立法者からこなければなりません。この至上立法者のことを、天主と呼びます。
要するに、天主は存在します。天主は宇宙の第一原因です。宇宙の至上知性です。それによって、宇宙のすべてが、善たる天主に向けて秩序付けられて善です。これが天主です。
私たちは天主が存在することを信じます。「全能なる天主を信じる」のです。しかしながら、人間の理性に従って、天主が存在することをも知ってもいるのです。