白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
今まで、天主が存在することを示し、証明しました。天主の属性、また完全性を示しました。さらに天主についての諸誤謬を示しました。今まで、天主について説明してきた課題は総て、人間の理性によって、部分的にしても、辿り着けるところでした。
しかしながら、人間の理性が一切達し得ない領域があります。それは、天主の奥深い深淵です。天主において流れている生命です。天主とは一体何か。
この問いに対して、神学だけが、つまりここでは公教要理のことですが、答えられます。天主は一体何か。
その答えは、極まりない玄義に入ることになるので、理性を遥かに超えます。三位一体という玄義です。理性を越えた玄義とはいっても、理性に反する玄義ではありません。13世紀の聖トマス・アクィナスが典型的な例ですが、多くの神学者はこれを説明してきました。つまり、天啓された真理なる玄義は、理性に反しない、と。さもなければ、玄義といっても、理不尽に過ぎないことになってしまって、信じるに足りないこととなるからです。人間の本性に反することになるからです。
ところが、天主に啓示された玄義は、理性に反しないものの、理性を越えます。理由は簡単で、人間の知性は被造の知性にすぎないからです。そこで天主は人間の知性を超越するので、人間の知性で知り得ない真理を啓示なさいます。
三位一体という玄義は、天主の奥深い生命を語る真理で、私たちを遥かに限りなく超えます。
例えてみましょう。人間にとっての最も深い親密なものとして霊魂の生活を成す要素などは、動物からみると、どう想像して考えようとも、遥かに超えているということと似ています。動物と人間の間に、溝があります。動物は、人間の最も深いところを知ることはできません。人間と動物の本性は、お互いに全く違って、遠いからです。
同じように、天主と人間の間に溝があります。それが、天主の最も深い奥底の生活は、人間にとって、自力で近寄れない所以です。
要するに、天主は人間へ御自らを啓示して、御自身の最も深いところを啓示します。これこそ、三位一体の玄義です。
唯一の天主でありながら、三つの位格(ペルソナ)があるという玄義です。これは公教要理の定義です。唯一の天主は、三つの位格があります。これから、これを示していきたいと思います。ただ、説明や理解は無理です。私たちを越えているからです。ところが、天主の啓示と理性の道具とを相まったものを幾つか紹介できます。
先ず、理性に反しないことをあげられます。そして、私たちを越えていながらも、この玄義がどうやって、私たちを豊かにするのかも紹介できます。天主が啓示したのは、まさに人間のためですから。
旧約聖書において、三位一体の玄義は暗々裏に啓示されているだけです。要するに、この玄義の影は見いだせますが、完全にはっきりした明白な啓示はないということです。
旧約において、例えば、人間の創造の後に、天主のこの次の言葉があります。「我々にかたどり、我々ににせて、人を創ろう」。ここに、注目すべきところは、複数形です。単なる敬語複数形ではありません。「我々にかたどり、我々ににせて、人を創ろう」。また、「人は我々のようなものになって」とも創世記の三章にあります。
旧約聖書では、以上よりも不思議な言葉もあります。のちに、私たちの主イエズス・キリストがこれを明白にしますが、例えば、詩編109があります。「主は私の主に言った。Dixit Dominus Domino meo.」ここでは、「主」が二つあります。
「主は私の主に言った。『私の右に座れ Dixit Dominus Domino meo : sede a dextris meis(…)私の懐からあなたを生んだ。ex utero … genui te. 』」
この文面が良く示すように、二つの位格(ペルソナ)は一致しながら、区別できます。しかも、主は二つです。「主は私の主に言った。『私の右に座れ(…)暁星の前から、私の懐からあなたを生んだ。ex utero ante luciferum genui te.』」
他に、イザヤの幻視において、三位一体の玄義の暗黙の表現を見いだします。というのも、イザヤの幻視の中に、天使らは、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。万軍の天主なる主」と言っています。つまり、三重の聖なるかなです。
とはいっても、はっきりした明白なものはありません。
新約聖書になって初めて、つまり私たちの主イエズス・キリストの到来を機に、この玄義は、いよいよはっきりした(明白・明瞭・明確な)形で表現されます。
~~
例えば、私たちの主イエズス・キリストは、自分の使徒たちを世界中に派遣して使命を果たさせようとします。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」とあります。
聖ヨハネも、その書簡で、先の表現ほど、明白にこう書いています。勿論、イエズス・キリストから直接に受けた教えです。こう書いています。
「実に天において証言するもの三つある。御父と御言葉と聖霊である。」加えて「この三つは一である。」
このように、三位一体の玄義が示されています。
要するに、三つの位格(ペルソナ)、聖父と聖子と聖霊の玄義ですが、唯一の本性における三つの位格、天主です。言い換えると、三つの神があるのではなく、唯一の神という意味です。しかしながら、一つの位格はなくて、三つの位格があるという意味です。
誰かが、「一が三だということはないだろう」と言い出すかもしれません。確かに、数学の先生が、1イコール3と書いてしまったら、生徒も分からなくなります。矛盾ですから。三つは一つではありません。三つは、一つを三倍にしたものですから。三位一体の玄義において、決して1イコール3ではありません。
天主において、本性は三つではありません。位格が三つです。天主において、位格は一つだけではないが、本性は一つしかありません。
つまり、この三つの位格は、一つの本性においてありますが、本性と位格は別のものです。これこそ玄義です。
次回から、この玄義を深めていきたいと思います。
今日は、簡単に覚えておきましょう。三位一体の玄義は、唯一の天主でありながら、三つの位格があるということです。
公教要理-第九講 三位一体について(上)
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
今まで、天主が存在することを示し、証明しました。天主の属性、また完全性を示しました。さらに天主についての諸誤謬を示しました。今まで、天主について説明してきた課題は総て、人間の理性によって、部分的にしても、辿り着けるところでした。
しかしながら、人間の理性が一切達し得ない領域があります。それは、天主の奥深い深淵です。天主において流れている生命です。天主とは一体何か。
この問いに対して、神学だけが、つまりここでは公教要理のことですが、答えられます。天主は一体何か。
その答えは、極まりない玄義に入ることになるので、理性を遥かに超えます。三位一体という玄義です。理性を越えた玄義とはいっても、理性に反する玄義ではありません。13世紀の聖トマス・アクィナスが典型的な例ですが、多くの神学者はこれを説明してきました。つまり、天啓された真理なる玄義は、理性に反しない、と。さもなければ、玄義といっても、理不尽に過ぎないことになってしまって、信じるに足りないこととなるからです。人間の本性に反することになるからです。
ところが、天主に啓示された玄義は、理性に反しないものの、理性を越えます。理由は簡単で、人間の知性は被造の知性にすぎないからです。そこで天主は人間の知性を超越するので、人間の知性で知り得ない真理を啓示なさいます。
三位一体という玄義は、天主の奥深い生命を語る真理で、私たちを遥かに限りなく超えます。
例えてみましょう。人間にとっての最も深い親密なものとして霊魂の生活を成す要素などは、動物からみると、どう想像して考えようとも、遥かに超えているということと似ています。動物と人間の間に、溝があります。動物は、人間の最も深いところを知ることはできません。人間と動物の本性は、お互いに全く違って、遠いからです。
同じように、天主と人間の間に溝があります。それが、天主の最も深い奥底の生活は、人間にとって、自力で近寄れない所以です。
要するに、天主は人間へ御自らを啓示して、御自身の最も深いところを啓示します。これこそ、三位一体の玄義です。
唯一の天主でありながら、三つの位格(ペルソナ)があるという玄義です。これは公教要理の定義です。唯一の天主は、三つの位格があります。これから、これを示していきたいと思います。ただ、説明や理解は無理です。私たちを越えているからです。ところが、天主の啓示と理性の道具とを相まったものを幾つか紹介できます。
先ず、理性に反しないことをあげられます。そして、私たちを越えていながらも、この玄義がどうやって、私たちを豊かにするのかも紹介できます。天主が啓示したのは、まさに人間のためですから。
旧約聖書において、三位一体の玄義は暗々裏に啓示されているだけです。要するに、この玄義の影は見いだせますが、完全にはっきりした明白な啓示はないということです。
旧約において、例えば、人間の創造の後に、天主のこの次の言葉があります。「我々にかたどり、我々ににせて、人を創ろう」。ここに、注目すべきところは、複数形です。単なる敬語複数形ではありません。「我々にかたどり、我々ににせて、人を創ろう」。また、「人は我々のようなものになって」とも創世記の三章にあります。
旧約聖書では、以上よりも不思議な言葉もあります。のちに、私たちの主イエズス・キリストがこれを明白にしますが、例えば、詩編109があります。「主は私の主に言った。Dixit Dominus Domino meo.」ここでは、「主」が二つあります。
「主は私の主に言った。『私の右に座れ Dixit Dominus Domino meo : sede a dextris meis(…)私の懐からあなたを生んだ。ex utero … genui te. 』」
この文面が良く示すように、二つの位格(ペルソナ)は一致しながら、区別できます。しかも、主は二つです。「主は私の主に言った。『私の右に座れ(…)暁星の前から、私の懐からあなたを生んだ。ex utero ante luciferum genui te.』」
他に、イザヤの幻視において、三位一体の玄義の暗黙の表現を見いだします。というのも、イザヤの幻視の中に、天使らは、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。万軍の天主なる主」と言っています。つまり、三重の聖なるかなです。
とはいっても、はっきりした明白なものはありません。
新約聖書になって初めて、つまり私たちの主イエズス・キリストの到来を機に、この玄義は、いよいよはっきりした(明白・明瞭・明確な)形で表現されます。
~~
例えば、私たちの主イエズス・キリストは、自分の使徒たちを世界中に派遣して使命を果たさせようとします。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」とあります。
聖ヨハネも、その書簡で、先の表現ほど、明白にこう書いています。勿論、イエズス・キリストから直接に受けた教えです。こう書いています。
「実に天において証言するもの三つある。御父と御言葉と聖霊である。」加えて「この三つは一である。」
このように、三位一体の玄義が示されています。
要するに、三つの位格(ペルソナ)、聖父と聖子と聖霊の玄義ですが、唯一の本性における三つの位格、天主です。言い換えると、三つの神があるのではなく、唯一の神という意味です。しかしながら、一つの位格はなくて、三つの位格があるという意味です。
誰かが、「一が三だということはないだろう」と言い出すかもしれません。確かに、数学の先生が、1イコール3と書いてしまったら、生徒も分からなくなります。矛盾ですから。三つは一つではありません。三つは、一つを三倍にしたものですから。三位一体の玄義において、決して1イコール3ではありません。
天主において、本性は三つではありません。位格が三つです。天主において、位格は一つだけではないが、本性は一つしかありません。
つまり、この三つの位格は、一つの本性においてありますが、本性と位格は別のものです。これこそ玄義です。
次回から、この玄義を深めていきたいと思います。
今日は、簡単に覚えておきましょう。三位一体の玄義は、唯一の天主でありながら、三つの位格があるということです。