白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
今まで、天主の存在を見てきました。また天主の本性をもみて、アセイタスと呼ぶ、天主が自分御自らによってだけの存在だということを説明しました。さらに天主の属性あるいは完全性について触れ、天主にとって創造するとは、一体何なのか説明しました。また、創造において創造の働きを延長するという御摂理を説明しました。それから、摂理の働きにおいて、天主は悪を起こすことはないどころか、悪は人間の自由に由来していることをも見ました。
要するに、出来るかぎり、天主が何であるかを見てきてみました。
これから、簡潔に、天主についての幾つかの誤謬を見ておく必要があるでしょう。
第一の誤謬は、無神論と呼ばれています。フランス語の無神論(アテイスム)はギリシャ語の「ア(否定)・テオス(神)」から来る言葉です。「神はない」という意味です。「神は存在しない」。地上において、物事は存在しているけど、天主だけは存在しないという主張です。理不尽な錯誤に過ぎないことは、前にすでに説明した通りです。要約すると、目の前にある物事は何の原因も無しに創られたと信じ込こもうとすることになるので、理不尽です。また、宇宙が存在していて、宇宙の全体と完全性とにおいても存在しているのに、動因抜きに、創因ぬきに、同時に秩序付ける原因無しに存在しているという説です。「天主は存在しない」。無神論主義です。これは知識上の不条理です。その上、信仰に反します。つまり、天主が存在し、天主を信じるべきという信条に反するのは勿論、理性にも反するわけです。「天主は存在しない」と言い出すことは、理性に反します。というのも、理性が調査・検討した結果、天主は存在する、そうでなければありえないと結論せざるを得ないからです。
第一の誤謬は、無神論でした。
第二の誤謬は、次のようです。総ての存在は天主によって与えられていることから、すべての存在は天主からくる、あえていうと、すべての存在は天主そのものである、あらゆるものは天主そのものだとする誤謬です。言い換えると、あらゆる物は天主の流出だ、総ては天主である、という説です。汎神論と呼ばれています。ギリシャ語の「テオス」(神)に「パン」(総て)を結びつけた語源です。パン・テオス。汎神論。総ては天主です。
総ては天主だというのは、私でさえ天主だということです。要するに、この説で、すぐ理不尽になります。たとえば、何かに対して、あるいは誰かと戦ったら、天主は天主と戦う羽目になります。汎神論だと、天主は何かというと、結局、ごたまぜという感じの天主になります。この説による天主の見方は、余りにも物理的でありすぎます。汎神論だと、天主はある種の広がりになってしまって、その広がりの内の全てが天主だということになります。要するに、この説だと、天主は、無形の不明な何かでありながら、同時にすべての事でもあるから、そもそも、天主には、不変化も単一性も同一性も全くないということになります。つまり、完全性を一つも持たないことになってしまい、天主ではなくなります。要するに、汎神論といっても、結局のところ、天主を天主として否定しています。
第三の誤謬は、以上よりも、流行りました。特に、ローマ帝国とギリシャ帝国では盛んでした。
多神論です。ギリシャ語の「ポリ(多)・テオス(神)」から来ます。なぜ誤謬でしょうか。多神とは、神々の間に、上下関係があるか、上下関係ないか、です。神々の間に、上下関係はある場合に、明白で、優位の神もあることになります。頂点の神は天主であるはずですが、第二の神はもう天主ではありえません。頂点の神は、第二の神より、多くの完全性をもつからです。つまり、第二の神は、何か欠いている必要があります。さもなければ、第二でなくなりますから。しかし、欠陥があるのなら、天主でありえません。したがって、本来の多神教を冷静に見たら、無意味です。あえて言えば、天主は一つだけ、それから他は、多くの半神がいると言った方が意味を成します。しかし、結局、すべての完全性を持てる存在は一つでなければなりません。他の神々は、天主たる頂点の神の後に続くのなら、すべての完全性を持たないことになります。つまりは、天主ではありません。何か欠いているから、欠陥を持っているわけで、天主でありえません。
それなら、真面な多神教は、こういい返すでしょう。「多神を認めているけど、神々はすべて同等です」。しかし、これはもう一つの錯誤です。神々が皆同等だったら、複数あるのはなぜでしょうか。たとえば、二柱(二位)の神がいるとしましょう。二柱(二位)なので、両方を区別できるわけです。区別できるのなら、一方はあることを持ち、もう一方はそのことを持たないということを意味します。なぜかというと、もし、全く一緒だったら、同一になる他ないからです。いや、それ自身で二柱(二位)を区別しようがなくなるだけではなく、もう二柱(二位)は同一になります。
この課題を考えてみる時に、難しいところがあります。なぜかというと、すぐに、一卵性双子は思い浮かぶからです。双子を見て、私が、区別はつかないかもしれません。しかしながら、同一とはなりません。というのも、双子はそれぞれ違う場所にいます。一人は右に居て、もう一人は左にいます。その違いだけで、二人を区別し得ます。少なくとも、一人目は、二人目の違う場所にいるとは言えます。
天主は、体がありません。従って、天主において、場所の区別はありません。つまり、二神は全く同じということはあり得ないことで、意味をなさないことです。二神あるのなら、何か、違いがないと成り立ちません。
第四の誤謬は、「二元論」また「マニ教主義」と呼ばれています。というのは、神は二つあって、善の神と悪の神があるという説です。両神は絶えず地上において戦いあうとし、すべての物と人間の支配をお互いで分けています。こういった宇宙観から出発して、具体的に表現したものは多様にありました。たとば、悪の神は物質の神とするカタリ異端があります。物理的のゆえに、生殖と結婚は悪の神の業だとするカタリ派です。この場合、善の神は、まったく霊的の神だけになります。
前に見たとおりに、天主はすべてを創造しました。それに、物理的な物でさえ、すべて良いことです。「初めに、天主は天地を創った」それを「良しとされた」とある通りです。霊物両方においてこそ、創造全体は良い事です。物質は悪ではありません。前回に見たとおりに、悪は天主によるものではなくて、また、他の神によるものでもありません。そうするのなら、人間の責任を逸らすことになります。地上における悪は、自由の乱用に由来しています。つまり、悪の神なんてありません。
とはいえ、悪魔がいるというのは、確かです。しかも、複数います。悪魔は人間を墜落させようとする存在で、人間を悪へ誘うわけですけど、悪魔は悪の原因ではありません。悪魔は、悪の機会にすぎません。悪への誘いにすぎません。悪魔は悪を産むのではありません。人間は自分で、与えられた自由の乱用のせいで、悪を成します。
第五の誤謬は、理神論と呼ばれています。
特に18世紀において、いわゆる啓蒙世紀において、流行った誤謬です。この誤謬によると、天主の存在を辛うじて認めてはいます。啓蒙家らの頭がよかったので、天主がいると認めざるを得なかったわけですけど。しかし「天主」とは言っても、天主について人間は何も知らないと主張します。天啓はない。御自ら自分を示したことはないといいます。この誤謬を反駁するのは簡単です。聖書を開いてみたらそれまでです。聖書の中身である幅広い天啓を見たらそれまでです。
聖書の中身を検討し、実際に経験したり観たりしていることと照合してみると、天主は御自らを啓示したことが自明になります。天主御自らは奇跡を起こしました。天啓があったことの証明を天主御自らが残しました。何故なら聖書や、代々に変化なく受け継がれてきた真理として聖伝、聖徳の実践などといった証もあります。それから、世々を通じて、ずっと一貫性を持ち続けている教義という証しもあります。紀元当初の多くの殉教者が、死を惜しまずに、命を投じた英雄たちがいたという事実の証しです。以上のそれぞれは、人間のために、天啓があったことを証言するものです。
18世紀の理神論主義は、一言で言うと、天主を少しずつ、社会と人間から追い出す思想だったと言えます。理神論から出発して、自然に無神論に至ります。天主が存在する、御自らを人間に啓示した、というのは聖伝でした。そこで、少数の思想家が「まあ存在することは認めよう。しかし天啓なんてありない」と言い出したのです。そこから後に「天主は存在しない」になってしまうのです。理神論です。
第六の誤謬も、かなり一般的になっています。17~18世紀に生まれて、19世紀に盛んになった誤謬です。「理性主義」「合理主義」という原型から、「実証主義」へ展開してきた誤謬です。「理性主義あるいは合理主義」は、その呼称に見るとおり、理性だけで、宗教を含めるあらゆる物を説明するに足りるという説です。言い換えると、人間は物事を説明するのに天主の助けを必要としないということになります。つまり、神秘・玄義はありません。
しかしながら、また後で詳しく触れますが、天主は、諸玄義を啓示しました。その中で、幾つかの一番大事な玄義を、後に紹介します。たとえば、三位一体の玄義。あるいは托身の玄義。私たちの主は実際に人となりました。これは歴史的事実です。これを見た人は多く居たし、触った人もいるし、奇跡を通じて、イエズスは天主であることを証明しました。玄義です。
天主は十字架に付けられて死にました。私たちの主は、自らを十字架に付けられるがままにさせました。人類の贖罪のために、つまり人類の償いのために、自分の命を捧げました。玄義です。天主から12人の信徒へ教えられた諸真理は、現代まで20世紀前と全く同じく教え続けられています。このカトリック教義の絶えない継続も玄義です。この天主から来る使徒継承的教義の保存も確かに玄義でしょう。また、他にも、色々の玄義を今度、紹介していきます。
要するに、神秘・玄義が、この世にあります。理性で玄義を説明するには足りません。理性主義を極端化する場合、人間を中心とした宗教を創るということになります。もしも理性であらゆる物を説明できるのなら、いわゆる理性の女神となりますね。ちなみに、革命当時、パリ大聖堂の中で、理性の女神を礼拝させることまでして大変でした。理性の女神をもって、結局は、人間は天主の代わりに、自分を天主だとするようになったのです。
現代のどこを見渡してみても、人間への礼拝ばかりではないでしょうか。近代の宗教礼拝は、完全に人間を中心にしているのではないでしょうか。あまりに訴えられている「表現の自由」をはじめ、絶対的な自由と平等と博愛といった宗教は、まさに人間の宗教なのではないでしょうか。この宗教は、理性主義の当然の結果です。理性主義こそ、玄義の上に、玄義の前に、理性を置こうとしたからです。いや、玄義を消したうえに、天主の代わりに、人間を置いた誤謬です。理性主義です。
嘆かわしいことですけれど、現代のすこぶる衰退を見るだけで、周辺の事実を見るだけで、理性主義は極まりなき錯誤であることは自明となります。それは何時でも確認できます。
実証主義は、理性主義の一種だといえます。理性主義と同じように、実証主義は、理性において総てを説明するとします。が、哲学をもってのではなくて、科学をもってすべてを説明するとします。科学だけで、すべての物事を説明するに足りる、と。科学こそ、最後に勝つ、と。要するに、ある種の科学主義であって、それで、天主を消します。
それによって、物理的な法則だけを見るようになります。天主を消すのは、天主が純粋な霊なので、目に見えないし、聞こえないし、触れることもできないし、科学の枠に入らないから、邪魔だからです。科学は、物理的なことに関してしか言及しないからです。
いや、より厳密に言うと、数学の原理に留まります。しかしながら、霊的なことに関して、一切触れません。霊魂は、科学の対象になりえません。あるいは、霊魂を物理的な物に還元してしまいます。所謂、精神分析を通じて、科学的対象にしていますが、霊的な次元がすべて消されています。
そして、科学が証明できないことなら、幻想に過ぎないということで、片付けられています。
しかしながら、良き天主は、人間の知らないうちに、人間のために働きます。19世紀をはじめ、それより20世紀と21世紀において、科学が飛躍的に進歩してきました。あえていえば、神秘的にまで進歩してきました。それで、天主は、実証主義者と科学主義者に対して、証言を残しました。「我は天主であり、科学の上にある」という証言です。聖骸布に他なりません。科学主義者がいたら、彼が、誠実に聖骸布を検討したらよいでしょう。必ず、科学的に解けず、敗北してしまいますから。聖骸布の前に、科学主義者が屈せざるを得なくなるに違いありません。そして、人間の科学より、遥かに上にある科学の前に、屈します。聖なる科学という神学です。そして、神学の要約は、公教要理に纏まられています。
公教要理-第八講 天主についての諸誤謬
今まで、天主の存在を見てきました。また天主の本性をもみて、アセイタスと呼ぶ、天主が自分御自らによってだけの存在だということを説明しました。さらに天主の属性あるいは完全性について触れ、天主にとって創造するとは、一体何なのか説明しました。また、創造において創造の働きを延長するという御摂理を説明しました。それから、摂理の働きにおいて、天主は悪を起こすことはないどころか、悪は人間の自由に由来していることをも見ました。
要するに、出来るかぎり、天主が何であるかを見てきてみました。
これから、簡潔に、天主についての幾つかの誤謬を見ておく必要があるでしょう。
第一の誤謬は、無神論と呼ばれています。フランス語の無神論(アテイスム)はギリシャ語の「ア(否定)・テオス(神)」から来る言葉です。「神はない」という意味です。「神は存在しない」。地上において、物事は存在しているけど、天主だけは存在しないという主張です。理不尽な錯誤に過ぎないことは、前にすでに説明した通りです。要約すると、目の前にある物事は何の原因も無しに創られたと信じ込こもうとすることになるので、理不尽です。また、宇宙が存在していて、宇宙の全体と完全性とにおいても存在しているのに、動因抜きに、創因ぬきに、同時に秩序付ける原因無しに存在しているという説です。「天主は存在しない」。無神論主義です。これは知識上の不条理です。その上、信仰に反します。つまり、天主が存在し、天主を信じるべきという信条に反するのは勿論、理性にも反するわけです。「天主は存在しない」と言い出すことは、理性に反します。というのも、理性が調査・検討した結果、天主は存在する、そうでなければありえないと結論せざるを得ないからです。
第一の誤謬は、無神論でした。
第二の誤謬は、次のようです。総ての存在は天主によって与えられていることから、すべての存在は天主からくる、あえていうと、すべての存在は天主そのものである、あらゆるものは天主そのものだとする誤謬です。言い換えると、あらゆる物は天主の流出だ、総ては天主である、という説です。汎神論と呼ばれています。ギリシャ語の「テオス」(神)に「パン」(総て)を結びつけた語源です。パン・テオス。汎神論。総ては天主です。
総ては天主だというのは、私でさえ天主だということです。要するに、この説で、すぐ理不尽になります。たとえば、何かに対して、あるいは誰かと戦ったら、天主は天主と戦う羽目になります。汎神論だと、天主は何かというと、結局、ごたまぜという感じの天主になります。この説による天主の見方は、余りにも物理的でありすぎます。汎神論だと、天主はある種の広がりになってしまって、その広がりの内の全てが天主だということになります。要するに、この説だと、天主は、無形の不明な何かでありながら、同時にすべての事でもあるから、そもそも、天主には、不変化も単一性も同一性も全くないということになります。つまり、完全性を一つも持たないことになってしまい、天主ではなくなります。要するに、汎神論といっても、結局のところ、天主を天主として否定しています。
第三の誤謬は、以上よりも、流行りました。特に、ローマ帝国とギリシャ帝国では盛んでした。
多神論です。ギリシャ語の「ポリ(多)・テオス(神)」から来ます。なぜ誤謬でしょうか。多神とは、神々の間に、上下関係があるか、上下関係ないか、です。神々の間に、上下関係はある場合に、明白で、優位の神もあることになります。頂点の神は天主であるはずですが、第二の神はもう天主ではありえません。頂点の神は、第二の神より、多くの完全性をもつからです。つまり、第二の神は、何か欠いている必要があります。さもなければ、第二でなくなりますから。しかし、欠陥があるのなら、天主でありえません。したがって、本来の多神教を冷静に見たら、無意味です。あえて言えば、天主は一つだけ、それから他は、多くの半神がいると言った方が意味を成します。しかし、結局、すべての完全性を持てる存在は一つでなければなりません。他の神々は、天主たる頂点の神の後に続くのなら、すべての完全性を持たないことになります。つまりは、天主ではありません。何か欠いているから、欠陥を持っているわけで、天主でありえません。
それなら、真面な多神教は、こういい返すでしょう。「多神を認めているけど、神々はすべて同等です」。しかし、これはもう一つの錯誤です。神々が皆同等だったら、複数あるのはなぜでしょうか。たとえば、二柱(二位)の神がいるとしましょう。二柱(二位)なので、両方を区別できるわけです。区別できるのなら、一方はあることを持ち、もう一方はそのことを持たないということを意味します。なぜかというと、もし、全く一緒だったら、同一になる他ないからです。いや、それ自身で二柱(二位)を区別しようがなくなるだけではなく、もう二柱(二位)は同一になります。
この課題を考えてみる時に、難しいところがあります。なぜかというと、すぐに、一卵性双子は思い浮かぶからです。双子を見て、私が、区別はつかないかもしれません。しかしながら、同一とはなりません。というのも、双子はそれぞれ違う場所にいます。一人は右に居て、もう一人は左にいます。その違いだけで、二人を区別し得ます。少なくとも、一人目は、二人目の違う場所にいるとは言えます。
天主は、体がありません。従って、天主において、場所の区別はありません。つまり、二神は全く同じということはあり得ないことで、意味をなさないことです。二神あるのなら、何か、違いがないと成り立ちません。
第四の誤謬は、「二元論」また「マニ教主義」と呼ばれています。というのは、神は二つあって、善の神と悪の神があるという説です。両神は絶えず地上において戦いあうとし、すべての物と人間の支配をお互いで分けています。こういった宇宙観から出発して、具体的に表現したものは多様にありました。たとば、悪の神は物質の神とするカタリ異端があります。物理的のゆえに、生殖と結婚は悪の神の業だとするカタリ派です。この場合、善の神は、まったく霊的の神だけになります。
前に見たとおりに、天主はすべてを創造しました。それに、物理的な物でさえ、すべて良いことです。「初めに、天主は天地を創った」それを「良しとされた」とある通りです。霊物両方においてこそ、創造全体は良い事です。物質は悪ではありません。前回に見たとおりに、悪は天主によるものではなくて、また、他の神によるものでもありません。そうするのなら、人間の責任を逸らすことになります。地上における悪は、自由の乱用に由来しています。つまり、悪の神なんてありません。
とはいえ、悪魔がいるというのは、確かです。しかも、複数います。悪魔は人間を墜落させようとする存在で、人間を悪へ誘うわけですけど、悪魔は悪の原因ではありません。悪魔は、悪の機会にすぎません。悪への誘いにすぎません。悪魔は悪を産むのではありません。人間は自分で、与えられた自由の乱用のせいで、悪を成します。
第五の誤謬は、理神論と呼ばれています。
特に18世紀において、いわゆる啓蒙世紀において、流行った誤謬です。この誤謬によると、天主の存在を辛うじて認めてはいます。啓蒙家らの頭がよかったので、天主がいると認めざるを得なかったわけですけど。しかし「天主」とは言っても、天主について人間は何も知らないと主張します。天啓はない。御自ら自分を示したことはないといいます。この誤謬を反駁するのは簡単です。聖書を開いてみたらそれまでです。聖書の中身である幅広い天啓を見たらそれまでです。
聖書の中身を検討し、実際に経験したり観たりしていることと照合してみると、天主は御自らを啓示したことが自明になります。天主御自らは奇跡を起こしました。天啓があったことの証明を天主御自らが残しました。何故なら聖書や、代々に変化なく受け継がれてきた真理として聖伝、聖徳の実践などといった証もあります。それから、世々を通じて、ずっと一貫性を持ち続けている教義という証しもあります。紀元当初の多くの殉教者が、死を惜しまずに、命を投じた英雄たちがいたという事実の証しです。以上のそれぞれは、人間のために、天啓があったことを証言するものです。
18世紀の理神論主義は、一言で言うと、天主を少しずつ、社会と人間から追い出す思想だったと言えます。理神論から出発して、自然に無神論に至ります。天主が存在する、御自らを人間に啓示した、というのは聖伝でした。そこで、少数の思想家が「まあ存在することは認めよう。しかし天啓なんてありない」と言い出したのです。そこから後に「天主は存在しない」になってしまうのです。理神論です。
第六の誤謬も、かなり一般的になっています。17~18世紀に生まれて、19世紀に盛んになった誤謬です。「理性主義」「合理主義」という原型から、「実証主義」へ展開してきた誤謬です。「理性主義あるいは合理主義」は、その呼称に見るとおり、理性だけで、宗教を含めるあらゆる物を説明するに足りるという説です。言い換えると、人間は物事を説明するのに天主の助けを必要としないということになります。つまり、神秘・玄義はありません。
しかしながら、また後で詳しく触れますが、天主は、諸玄義を啓示しました。その中で、幾つかの一番大事な玄義を、後に紹介します。たとえば、三位一体の玄義。あるいは托身の玄義。私たちの主は実際に人となりました。これは歴史的事実です。これを見た人は多く居たし、触った人もいるし、奇跡を通じて、イエズスは天主であることを証明しました。玄義です。
天主は十字架に付けられて死にました。私たちの主は、自らを十字架に付けられるがままにさせました。人類の贖罪のために、つまり人類の償いのために、自分の命を捧げました。玄義です。天主から12人の信徒へ教えられた諸真理は、現代まで20世紀前と全く同じく教え続けられています。このカトリック教義の絶えない継続も玄義です。この天主から来る使徒継承的教義の保存も確かに玄義でしょう。また、他にも、色々の玄義を今度、紹介していきます。
要するに、神秘・玄義が、この世にあります。理性で玄義を説明するには足りません。理性主義を極端化する場合、人間を中心とした宗教を創るということになります。もしも理性であらゆる物を説明できるのなら、いわゆる理性の女神となりますね。ちなみに、革命当時、パリ大聖堂の中で、理性の女神を礼拝させることまでして大変でした。理性の女神をもって、結局は、人間は天主の代わりに、自分を天主だとするようになったのです。
現代のどこを見渡してみても、人間への礼拝ばかりではないでしょうか。近代の宗教礼拝は、完全に人間を中心にしているのではないでしょうか。あまりに訴えられている「表現の自由」をはじめ、絶対的な自由と平等と博愛といった宗教は、まさに人間の宗教なのではないでしょうか。この宗教は、理性主義の当然の結果です。理性主義こそ、玄義の上に、玄義の前に、理性を置こうとしたからです。いや、玄義を消したうえに、天主の代わりに、人間を置いた誤謬です。理性主義です。
嘆かわしいことですけれど、現代のすこぶる衰退を見るだけで、周辺の事実を見るだけで、理性主義は極まりなき錯誤であることは自明となります。それは何時でも確認できます。
実証主義は、理性主義の一種だといえます。理性主義と同じように、実証主義は、理性において総てを説明するとします。が、哲学をもってのではなくて、科学をもってすべてを説明するとします。科学だけで、すべての物事を説明するに足りる、と。科学こそ、最後に勝つ、と。要するに、ある種の科学主義であって、それで、天主を消します。
それによって、物理的な法則だけを見るようになります。天主を消すのは、天主が純粋な霊なので、目に見えないし、聞こえないし、触れることもできないし、科学の枠に入らないから、邪魔だからです。科学は、物理的なことに関してしか言及しないからです。
いや、より厳密に言うと、数学の原理に留まります。しかしながら、霊的なことに関して、一切触れません。霊魂は、科学の対象になりえません。あるいは、霊魂を物理的な物に還元してしまいます。所謂、精神分析を通じて、科学的対象にしていますが、霊的な次元がすべて消されています。
そして、科学が証明できないことなら、幻想に過ぎないということで、片付けられています。
しかしながら、良き天主は、人間の知らないうちに、人間のために働きます。19世紀をはじめ、それより20世紀と21世紀において、科学が飛躍的に進歩してきました。あえていえば、神秘的にまで進歩してきました。それで、天主は、実証主義者と科学主義者に対して、証言を残しました。「我は天主であり、科学の上にある」という証言です。聖骸布に他なりません。科学主義者がいたら、彼が、誠実に聖骸布を検討したらよいでしょう。必ず、科学的に解けず、敗北してしまいますから。聖骸布の前に、科学主義者が屈せざるを得なくなるに違いありません。そして、人間の科学より、遥かに上にある科学の前に、屈します。聖なる科学という神学です。そして、神学の要約は、公教要理に纏まられています。