本日は、捨て曜日の報告と、少し内容がかけ離れますが、言葉の使い方(というか使うシチュエーション?)について、少し触れます。
今回処分するモノ
今回、処分するモノのリストです。
・白ブラウス 1着
・黒ブラウス 1着
・サイン 枚数不明(数えていません)
・サイン色紙用クリアポケットファイル 1冊
・サイン帳 1冊
・使用期限切れの使い捨てカイロ 5個
このブログを書いているのが、夕方なので、さらに何か処分するかもしれません。
ブラウスを処分する理由
白と黒のブラウス1着ずつですが、実は再就職する際の面接で着用する可能性があったことと、サイズや自分の体形へのフィット感から、ずっと処分せずにいました。
しかし、一向に再就職活動を始められない(というかタイミングをつかみ損ねている)ので、普段着として着てみることにして、先日ブラウスとパンツというスタイルで、スーパーへ買い物へ行ってみました。
その際感じたこととして、
・このスタイルを常態化できそうにない
・スーパーへの買い物スタイルとしては堅苦しい(笑)
・今の自分には似合っていない(形が古いのかもしれない)気がする
などがありました。
ざっくり言うと、今のライフスタイルにも自分自身のボディラインにも似合わなくなってしまった、ということですね。
加えて、丸洗いできるモノを求めて、当時はポリエステル100%のブラウスを購入したのですが、光沢感がある分ラフな着こなしをするには、かなり無理がありました。
ということで、ブラウスは必要だと感じるときまで、持たずに過ごそうと思います。
次回購入の必要が出てきたら、そのときの自分に似合うブラウスを吟味して購入したいと思います。
サインとサインを保管していたグッズを処分する理由
これらは、主にスポーツ選手からいただいたサインです。
シーズン前のキャンプを見学に行き、その際に頂いたモノや、スタジアムで観戦した際に頂いたモノや、とにかくそれぞれに思い出があり、また頂いた方の(ファンへの)思いなどもあるので、処分はしたくないと思っていたモノです。
しかし、今回それぞれを画像に収めて、いちばん好きな選手(今は引退していますが)のサインだけを残して、処分することにしました。
今回、なぜ、大切にしてきたサインを処分する心境になったかというと、自分が旅立った後のことが、最近になって以前より強く気にかかるようになってきたためです。
サイン色紙は、自分にとってはとても大切な思い出の品ですが、私以外の人、とくに選手のことを知らない人にとっては、色紙に文字が書かれているだけのモノでしかありません。
中には、価値が上がるサインもあるかもしれませんが、私が旅立った後に、大切なサインを売買されるのは、正直な気持ちとして、とても嫌です。
かといって、私が頂いたサインを欲しいという人を探す気持ちにもなりません。
なぜなら、本当にそのサインの選手を好きかどうかを、判断する材料を集める手段が少ないからです。
自称、大ファンだと言われても、その裏で転売などされたら、本当にいやですからね。
そんないやな思いをするくらいなら、自分で処分したほうがいい、と思いました。
自分で手に入れたモノに対しては、自分で責任を持つ。
この気持ちで、今回は一番好きな選手(元選手)のモノだけを残すことにしました。
サインを処分するなんてとんでもないこと?
今、たまたま偶然、このブログを目にした、私のようにスポーツ選手やアイドルやアーティストのサインを、たくさん持っている方がいたら、きっと私の行為についてモヤモヤしたり、許せなかったりする気持ちも湧くかもしれません。
ただ、私はこの先、確実におひとり様の老後を過ごすことになるので、私が天寿を全うするまでには、なるべく自分の所有物を減らしておきたいのです。
他に、年齢的な理由もあります。
もし、私がまだ若かったら、自分が旅立った後のことなど、考えることもないので、サインはいつまでも大事に保管していると思います。
実際、頂いたサインで一番古いモノは、20年以上前に頂いていて、ずっと大切にしてきました。
保管状態もよかったので、シミも日焼けもしていません。
ですが、私の現在の残り寿命は、20年あればラッキーですし、30年もあれば、奇跡だとも思います。
つまり、老い先が短いのです。
ですから、自分が旅立った後、あるいは自分のことが自分でできなくなったときに、このサインの存在が、お世話をしてくれる人の手を煩わせることは、割と簡単に想像できます。
サインだけではなく、趣味で集めたモノで、他の人には価値が想像できないくらい興味のないモノで、なくても暮らしが成立するようなモノは、片付けたり整理整頓したりするのが面倒くさいはずです。
それを考えると、やはり、自分でできるうちに処分はしておきたいので、今回、思い切ってサインを処分することにした次第です。
今できること、それは、責任をもって身辺整理をし、できれば老い先短い中でも、今以上に充実した暮らしを目指せるように、せめてモノだけでも一度リセットしておくことだと思っています。
もし、何か新しい何かを始めるとき、余計なモノを所有していないことで、新しい何かに集中できる、そう考えています。
「勿体ない」という言葉にモヤっとした日
モノを処分しながらも、ずっとモヤモヤが消えない言葉がありました。
それが「勿体ない」という言葉です。
この言葉は、ある若手俳優の方が自死した報道を受けて、昼間の情報番組でコメンテーターや司会者の方数名が発していました。
伝えられた内容は、自死に関して現在明らかになっている事実と、予定されていた仕事や、俳優自身の人柄や仕事への向き合い方などで、知人や友人や仕事を共にするスタッフなどのコメントも紹介されていました。
その俳優は、これから予定されているドラマや映画、舞台などの予定がたくさんあり海外での仕事やCDのリリースも決まっていて、スケジュールだけを見ると、本当に順風満帆なとても充実した俳優人生に思えました。
未来への希望がたくさん詰まっていて、それが形となっているのだと、感じました。
しかし、彼は誰にも知らせることのない苦悩があったのか、その未来への希望を、自らの手で絶ってしまいました。
彼が自死を選んだことに対しては、部外者である私が言えることはないのですが、やはりなぜその選択をしてしまったのか、どうにかして、彼の心を助けることはできなかったか、と考えてしまいます。
特別ファンであったわけでもないですが、いい俳優だと思いながら彼の活躍をみていたので、涙は出たし、いろいろな感情も湧いては消えていきます。
そんな気持ちでいる中、昼の情報番組では、活躍を約束されていたことに対して「勿体ない」と言ったコメンテーターがいて、それに同意している周囲の司会者や他のコメンテーターに、とてもモヤモヤする気持ちが湧いています。
何に対して「勿体ない」のかというと、私が感じる限り、これから俳優としてのステイタスを確立していける大きな仕事がいくつも予定されていて、俳優として素晴らしい人生が待っていたはず、ということだと解釈しました。
また、仕事が充実していれば、私生活への充実にも繋がる(はず)ということも、含まれていたのかもしれません。
しかし、果たして人が生きていく姿に「勿体ない」という言葉が、当てはまるだろうか?
と、個人的に思ってしまいました。
現実問題として、興行面やビジネスとしての損失は大きいのでしょう。
このことをきっかけに、お金のことだけではなく、それにかかわる人々も、これから先の調整が大変だということも、現実です。
そういう意味では「勿体ない」ことも、あるでしょう。
だた、彼が過ごすはずだった人生にピリオドを打ったことは「勿体ない」ことでしょうか?
それは、彼が活躍するはずだった作品を鑑賞できない人、あるいは作ることができなくなった人側の勝手な感情に過ぎないような気がします。
人生には、遠回りだったり、一見するとムダに思える時間があったりします。
しかし、それは人生の中で必要な時間や行動だという確信があって、歩んできているはずですし、強制的に何かをやらされたとしても、それをきっかけに自分の人生を考えることもできるはずです。
人生には、つらいことや、経験しなくて済むなら、しないでおきたいことはたくさんありますが、それらを経験したことが「勿体ない」とはなりません。
ここまで綴って、自分でもどのように書いていいのか、よくわからなくなってきましたが、少なくとも亡くなった人本人でもないのに、人の人生に対して「勿体ない」と言ってしまうのは、なんだかおこがましいというか、言うべき言葉ではないような気がして、とてもモヤモヤしています。
「勿体ない」は、モノやお金に対して使う言葉であり、人生に関わることに使ってほしくない。
そんな気持ちが、いちばん今の私の気持ちに合っているかもしれないです。
実を言うと、自死された俳優の方の話題は、ブログでは触れまいと思っていました。
ただ、モノをたくさん処分してきている中で、常に「勿体ない」という言葉と向き合わなくてはならなかった私は、人生までも「勿体ない」とは、思いたくないし、思う必要もないと思っています。
たしかに、ムダな時間やムダなお金は使ってきましたが、その時は充実すると信じていましたから、人からとやかく言われることではないのですよね。
情報番組のコメンテーターが、何を思って「勿体ない」と言ったのか。
人生に無理にピリオドを打ったことに対してだとしたら、それは彼の人生に対して失礼だし、もしもビジネスライクな意味合いがあったのだとしたら、今言うことではない、そう思いました。
自死した俳優の方には、新しい世界で充実したときを過ごしていてほしいと願うばかりです。
今回処分するモノ
今回、処分するモノのリストです。
・白ブラウス 1着
・黒ブラウス 1着
・サイン 枚数不明(数えていません)
・サイン色紙用クリアポケットファイル 1冊
・サイン帳 1冊
・使用期限切れの使い捨てカイロ 5個
このブログを書いているのが、夕方なので、さらに何か処分するかもしれません。
ブラウスを処分する理由
白と黒のブラウス1着ずつですが、実は再就職する際の面接で着用する可能性があったことと、サイズや自分の体形へのフィット感から、ずっと処分せずにいました。
しかし、一向に再就職活動を始められない(というかタイミングをつかみ損ねている)ので、普段着として着てみることにして、先日ブラウスとパンツというスタイルで、スーパーへ買い物へ行ってみました。
その際感じたこととして、
・このスタイルを常態化できそうにない
・スーパーへの買い物スタイルとしては堅苦しい(笑)
・今の自分には似合っていない(形が古いのかもしれない)気がする
などがありました。
ざっくり言うと、今のライフスタイルにも自分自身のボディラインにも似合わなくなってしまった、ということですね。
加えて、丸洗いできるモノを求めて、当時はポリエステル100%のブラウスを購入したのですが、光沢感がある分ラフな着こなしをするには、かなり無理がありました。
ということで、ブラウスは必要だと感じるときまで、持たずに過ごそうと思います。
次回購入の必要が出てきたら、そのときの自分に似合うブラウスを吟味して購入したいと思います。
サインとサインを保管していたグッズを処分する理由
これらは、主にスポーツ選手からいただいたサインです。
シーズン前のキャンプを見学に行き、その際に頂いたモノや、スタジアムで観戦した際に頂いたモノや、とにかくそれぞれに思い出があり、また頂いた方の(ファンへの)思いなどもあるので、処分はしたくないと思っていたモノです。
しかし、今回それぞれを画像に収めて、いちばん好きな選手(今は引退していますが)のサインだけを残して、処分することにしました。
今回、なぜ、大切にしてきたサインを処分する心境になったかというと、自分が旅立った後のことが、最近になって以前より強く気にかかるようになってきたためです。
サイン色紙は、自分にとってはとても大切な思い出の品ですが、私以外の人、とくに選手のことを知らない人にとっては、色紙に文字が書かれているだけのモノでしかありません。
中には、価値が上がるサインもあるかもしれませんが、私が旅立った後に、大切なサインを売買されるのは、正直な気持ちとして、とても嫌です。
かといって、私が頂いたサインを欲しいという人を探す気持ちにもなりません。
なぜなら、本当にそのサインの選手を好きかどうかを、判断する材料を集める手段が少ないからです。
自称、大ファンだと言われても、その裏で転売などされたら、本当にいやですからね。
そんないやな思いをするくらいなら、自分で処分したほうがいい、と思いました。
自分で手に入れたモノに対しては、自分で責任を持つ。
この気持ちで、今回は一番好きな選手(元選手)のモノだけを残すことにしました。
サインを処分するなんてとんでもないこと?
今、たまたま偶然、このブログを目にした、私のようにスポーツ選手やアイドルやアーティストのサインを、たくさん持っている方がいたら、きっと私の行為についてモヤモヤしたり、許せなかったりする気持ちも湧くかもしれません。
ただ、私はこの先、確実におひとり様の老後を過ごすことになるので、私が天寿を全うするまでには、なるべく自分の所有物を減らしておきたいのです。
他に、年齢的な理由もあります。
もし、私がまだ若かったら、自分が旅立った後のことなど、考えることもないので、サインはいつまでも大事に保管していると思います。
実際、頂いたサインで一番古いモノは、20年以上前に頂いていて、ずっと大切にしてきました。
保管状態もよかったので、シミも日焼けもしていません。
ですが、私の現在の残り寿命は、20年あればラッキーですし、30年もあれば、奇跡だとも思います。
つまり、老い先が短いのです。
ですから、自分が旅立った後、あるいは自分のことが自分でできなくなったときに、このサインの存在が、お世話をしてくれる人の手を煩わせることは、割と簡単に想像できます。
サインだけではなく、趣味で集めたモノで、他の人には価値が想像できないくらい興味のないモノで、なくても暮らしが成立するようなモノは、片付けたり整理整頓したりするのが面倒くさいはずです。
それを考えると、やはり、自分でできるうちに処分はしておきたいので、今回、思い切ってサインを処分することにした次第です。
今できること、それは、責任をもって身辺整理をし、できれば老い先短い中でも、今以上に充実した暮らしを目指せるように、せめてモノだけでも一度リセットしておくことだと思っています。
もし、何か新しい何かを始めるとき、余計なモノを所有していないことで、新しい何かに集中できる、そう考えています。
「勿体ない」という言葉にモヤっとした日
モノを処分しながらも、ずっとモヤモヤが消えない言葉がありました。
それが「勿体ない」という言葉です。
この言葉は、ある若手俳優の方が自死した報道を受けて、昼間の情報番組でコメンテーターや司会者の方数名が発していました。
伝えられた内容は、自死に関して現在明らかになっている事実と、予定されていた仕事や、俳優自身の人柄や仕事への向き合い方などで、知人や友人や仕事を共にするスタッフなどのコメントも紹介されていました。
その俳優は、これから予定されているドラマや映画、舞台などの予定がたくさんあり海外での仕事やCDのリリースも決まっていて、スケジュールだけを見ると、本当に順風満帆なとても充実した俳優人生に思えました。
未来への希望がたくさん詰まっていて、それが形となっているのだと、感じました。
しかし、彼は誰にも知らせることのない苦悩があったのか、その未来への希望を、自らの手で絶ってしまいました。
彼が自死を選んだことに対しては、部外者である私が言えることはないのですが、やはりなぜその選択をしてしまったのか、どうにかして、彼の心を助けることはできなかったか、と考えてしまいます。
特別ファンであったわけでもないですが、いい俳優だと思いながら彼の活躍をみていたので、涙は出たし、いろいろな感情も湧いては消えていきます。
そんな気持ちでいる中、昼の情報番組では、活躍を約束されていたことに対して「勿体ない」と言ったコメンテーターがいて、それに同意している周囲の司会者や他のコメンテーターに、とてもモヤモヤする気持ちが湧いています。
何に対して「勿体ない」のかというと、私が感じる限り、これから俳優としてのステイタスを確立していける大きな仕事がいくつも予定されていて、俳優として素晴らしい人生が待っていたはず、ということだと解釈しました。
また、仕事が充実していれば、私生活への充実にも繋がる(はず)ということも、含まれていたのかもしれません。
しかし、果たして人が生きていく姿に「勿体ない」という言葉が、当てはまるだろうか?
と、個人的に思ってしまいました。
現実問題として、興行面やビジネスとしての損失は大きいのでしょう。
このことをきっかけに、お金のことだけではなく、それにかかわる人々も、これから先の調整が大変だということも、現実です。
そういう意味では「勿体ない」ことも、あるでしょう。
だた、彼が過ごすはずだった人生にピリオドを打ったことは「勿体ない」ことでしょうか?
それは、彼が活躍するはずだった作品を鑑賞できない人、あるいは作ることができなくなった人側の勝手な感情に過ぎないような気がします。
人生には、遠回りだったり、一見するとムダに思える時間があったりします。
しかし、それは人生の中で必要な時間や行動だという確信があって、歩んできているはずですし、強制的に何かをやらされたとしても、それをきっかけに自分の人生を考えることもできるはずです。
人生には、つらいことや、経験しなくて済むなら、しないでおきたいことはたくさんありますが、それらを経験したことが「勿体ない」とはなりません。
ここまで綴って、自分でもどのように書いていいのか、よくわからなくなってきましたが、少なくとも亡くなった人本人でもないのに、人の人生に対して「勿体ない」と言ってしまうのは、なんだかおこがましいというか、言うべき言葉ではないような気がして、とてもモヤモヤしています。
「勿体ない」は、モノやお金に対して使う言葉であり、人生に関わることに使ってほしくない。
そんな気持ちが、いちばん今の私の気持ちに合っているかもしれないです。
実を言うと、自死された俳優の方の話題は、ブログでは触れまいと思っていました。
ただ、モノをたくさん処分してきている中で、常に「勿体ない」という言葉と向き合わなくてはならなかった私は、人生までも「勿体ない」とは、思いたくないし、思う必要もないと思っています。
たしかに、ムダな時間やムダなお金は使ってきましたが、その時は充実すると信じていましたから、人からとやかく言われることではないのですよね。
情報番組のコメンテーターが、何を思って「勿体ない」と言ったのか。
人生に無理にピリオドを打ったことに対してだとしたら、それは彼の人生に対して失礼だし、もしもビジネスライクな意味合いがあったのだとしたら、今言うことではない、そう思いました。
自死した俳優の方には、新しい世界で充実したときを過ごしていてほしいと願うばかりです。