来年の8月に沖縄でコンクールがある。このコンクールの中でも私が受ける新人部門は例年8月前半にあるのだが、その審査日程が直前の6月末までわからないらしい。これでは飛行機のチケットや宿泊予約が取れない可能性があるのでは?台風の影響も心配しなくてはならないし、思い切っていっそのこと沖縄に長期滞在しようか。そうなると今度は時間を持て余すので、この際、沖縄の色んな所を見て回ろうか。ついでに古典や民謡の歌を石に刻んだ歌碑(石碑)巡りでもしようかと思う。色々調べて見るが、「内閣府 沖縄総合事務局 北部国道事務所」のHPに面白いものが載っている。「やんばる国道物語 - やんばるの文学碑めぐり」というのがある。こういうのも参考にして今から旅行日程を準備してみようかと思う。
昨日、11月12日14:30から川崎市教育文化会館大ホールで、「第80回沖縄芸能大会」が開催されると書きましたが、わずかな情報しかない中で、唯一わかっているのが、「汀間とぅ」(てぃーまとぅ)が演奏されるということ。これは「汀間節」という曲と「月の夜節」の2曲がセットになっているようですが、工工四を見ると「月の夜節」の調弦は「三下げ」(二揚げでも可)と書いてある。ということは、一の弦(男弦)を使用しないということですね。実際「合」「乙」「老」の文字は一切見つかりません。一方「汀間節」はどうかと見てみると「三下げ」とだけ書いてある。そして、こちらも「合」「乙」「老」の文字は見つかりません。結局、どちらも「三下げ」で尚且つ「二揚げでも可」ということですね。それにしても、ギターなんぞは6本の弦をもっているのに対して、三線はわずか3本の弦で歌の伴奏を務めているわけで、更にそのうちの2本の弦だけでも充分な伴奏ができてしまうとは。楽器の構造が単純な方が逆に色んな可能性を秘めているということでしょうか。
風邪がまたまたひどくなってきました。
一時的におさまったので、前回の名古屋レッスンも問題なく行ってきて、もう治って免疫ができたと思ったいたのに、再びセキがひどくなってきました。明日は土日出勤の代休で休みをとって、何とか治すつもりです。
ところで、肝心の琉球古典音楽の話題ですが、11月12日14:30から川崎市教育文化会館大ホールで、「第80回沖縄芸能大会」があり、私の師匠が出演されるので、私も勉強のため川崎に行って聞いてきます。もう北陸新幹線の切符も予約しました。
しかし、この「第80回沖縄芸能大会」の内容は、ネットで検索しても全く出てこないので、主催者さまはもう少しそのあたり御配慮いただいたほうが助かるのですが。
一時的におさまったので、前回の名古屋レッスンも問題なく行ってきて、もう治って免疫ができたと思ったいたのに、再びセキがひどくなってきました。明日は土日出勤の代休で休みをとって、何とか治すつもりです。
ところで、肝心の琉球古典音楽の話題ですが、11月12日14:30から川崎市教育文化会館大ホールで、「第80回沖縄芸能大会」があり、私の師匠が出演されるので、私も勉強のため川崎に行って聞いてきます。もう北陸新幹線の切符も予約しました。
しかし、この「第80回沖縄芸能大会」の内容は、ネットで検索しても全く出てこないので、主催者さまはもう少しそのあたり御配慮いただいたほうが助かるのですが。
工工四には「稲まづん節」と書いてあります。
稲真積とは、豊作で倉庫に収納しきれなかった米を、稲穂の状態のまま、稲の穂先を内側にして円柱状に屋外に積み上げて保存する方法とのこと。このことは、柳田国男氏の「木綿以前の事」という本に書かれてますね。この本によると、昔は沖縄のみならず日本の南北の広い範囲で同じ方法があったとのこと。まあこれは、この方法が全国に伝わったというより、みんな似たようなことを考えるというパターンなのかもしれません。
私がまだ小さな頃(昭和30年代)、北陸の田舎ではそれに似た風景が当時はまだ残っていて、たしか、もうその時代には先端の稲穂は付いてなくて、稲ワラを保存するために存在していたのかもしれませんが、その中が空洞になっていて、小さな子供が一人入れいるくらいのスペースがあり、当時、私が中に入って遊んでいて、親戚のおじさんから叱られたのを覚えてます。
稲真積とは、豊作で倉庫に収納しきれなかった米を、稲穂の状態のまま、稲の穂先を内側にして円柱状に屋外に積み上げて保存する方法とのこと。このことは、柳田国男氏の「木綿以前の事」という本に書かれてますね。この本によると、昔は沖縄のみならず日本の南北の広い範囲で同じ方法があったとのこと。まあこれは、この方法が全国に伝わったというより、みんな似たようなことを考えるというパターンなのかもしれません。
私がまだ小さな頃(昭和30年代)、北陸の田舎ではそれに似た風景が当時はまだ残っていて、たしか、もうその時代には先端の稲穂は付いてなくて、稲ワラを保存するために存在していたのかもしれませんが、その中が空洞になっていて、小さな子供が一人入れいるくらいのスペースがあり、当時、私が中に入って遊んでいて、親戚のおじさんから叱られたのを覚えてます。
またまた「かぎやで風節(カジャディフウブシ)」です。
カジャディフウの「カジャ」の部分は鍛冶屋から来ているらしく、ウチナーグチで鍛冶屋のことを「カンジャヤー」と言うとか。
私の出身の北陸では、田舎の方で昔の人は鍛冶屋を「カンジャ」と言ってました。(「患者」ではありません・・・)
これはたまたまなのか、遠く離れていても昔の言葉にはどこか共通点があるのか・・・。
柳田国男氏の説はどうなのか?
カジャディフウの「カジャ」の部分は鍛冶屋から来ているらしく、ウチナーグチで鍛冶屋のことを「カンジャヤー」と言うとか。
私の出身の北陸では、田舎の方で昔の人は鍛冶屋を「カンジャ」と言ってました。(「患者」ではありません・・・)
これはたまたまなのか、遠く離れていても昔の言葉にはどこか共通点があるのか・・・。
柳田国男氏の説はどうなのか?