絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

授業をやらないくらいでは

2007年10月17日 14時03分10秒 | Weblog
板書したり、プリント作成したり、わかり易い説明をしたり、、、と
教師としてそんな当たり前のことをしなければ
子ども達はどのようにしてものごとを(最低限のことでも)
身に着ければいいのだろう。

おなじクラスの人が何人かでうちのクラスの現状を校長先生に訴え
校長先生は「文書」で担任に改善を促したらしいが…
はたして、普通に授業が行なわれるようになるのだろうか?

いままでほとんど宿題は出されていない。
数回あったかなかったか、くらいだ。
小学生としてはそれもよくないだろうが
もっといけないのは、算数にしろ社会・理科・国語にしろ
ほとんど板書がなく(つまり先生によるまとめというか流れがなく)
ノートがほとんど減っていない、ということだろう。
じゃあ、毎日何してるの?ということだが
先生は子ども達に教科書を読ませて『口頭で』質問して
(板書はせず)それで終わりという。
社会は歴史だが、単元のまとめをこどもたちそれぞれにやらせたという。
なに、それ?先生、超気楽!!ちんぷんかんぷんのまとめに
なっているだろう。

この人、ほんとにどういうひとなんだろう?
勉強を教える立場にいるが、「勉強なんて」と他のお母さん達にいって
いるらしい。「ただ元気に学校来ていれば、みんな仲良く。。。」
それなら勉強教えるような職種に就かないことです。
担任の補助かなんかの仕事の方がむいています。

はっきりいって、子どもらはみなだらだらになり
字は汚く漢字は忘れ、いま算数は分数のところだが
文章題は壊滅状態らしい。
そうでしょう、塾に行っていたって、一日8時間近く学校にいて
この担任の影響を受けるわけですから
このひとのだらだらした「楽しけりゃいいじゃん」みたいな
雰囲気が猛烈にうつって来るだろう。

4月の頃、このだらだらを無性に嫌がっていたうちの子も
もう何も言わなくなった。
クラスがいつもうるさいらしいが、それも言わなくなった。
うるさいことを気にかけているのがばかばかしくなったのか、
はたまた自分もしゃべるようになってしまったのか
それはわからない。。。
いつもいつもしゃべっている子どもは、1人2人ではないようだ。
あっちが静まればこっちがしゃべり、、、というような。

しかし、、、
それにしても、、、
大きな事件とかないと、こういう授業を普通に出来ない先生でも
担任降ろすわけにはいかないらしい。
「勉強を教えないくらいでは」首にはならないって
仕事放棄とおんなじなのに。
(犯罪犯したものだけが、教職首になる?)
こんな人、きっとうちの学校だけじゃないと思う…

花のいのちは

2007年10月17日 09時37分48秒 | Weblog
金木犀の花ってとても寿命が短いらしい。
あの香りもまた…。

夕方犬の散歩に、出るときは気づかなかったのに
帰ってきたら急に庭いったいがあの香りに包まれていて
びっくりしたことがあった。

香りがその花の実態を想像させるということがあると思うが
実態が消えてなくなっても香りが残るということがあるだろうか?
そんなオカルトチックな小説を読んでしまい気が滅入る。

篠田節子の「妖櫻記」だ。
この作家が賞をもらったときに数冊読んで結構面白かったが
なかにオカルトめいた結末になっているのがあって
なかなか納得しがたく、それ以来この人のは読まなくなって
忘れていたのだった。

まじめに?小説を書いていて、霊魂だのナンだのって話になるのは
ごまかしではなく実はその作家の必然なのだと
今になって思うけれども
やっぱりそれに付き合う気にはなれないなあ…
水木しげるがあれだけのものをかける、つくりだせるのも
それ相応の実体験やらこだわりやらやむにやまれぬ何かが
そうさせるんだろうから、きっと篠田節子もそういうことがあるのだろう。
映画と違って「ああ、怖かった」「面白かった」では済まない何かが
残るのが書き言葉で、なんとも言えず鬱々とする。

気分を転換しよう~~