寓居人の独言

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想い出話 「ミュンヘンで(4)ドイツ博物館 」

2013年12月15日 23時22分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

  ミュンヘン国際学会の期間中5日間の間に4回の宴会が行われた。その中でドイツ博物館で行われた宴会は軽食と飲み物が中心であった。ドイツ博物館はミュンヘン中心部から南東方向のイザール川の中州にある。会議は放射性物質に関わるものだったので  ドイツ博物館での懇親会は興味深いものであった。  ドイツ博物館はオスカー・フォン・ミラーが提唱し、1925年から一般に開館された。農業、鉱業、航空工学、鉄道、機械、(宇宙)に至るまで、ドイツの科学技術を次の世代へ引き継ぎ、学習させるための博物館である。展示品目は約1万7千点以上あると言われている。
 博物館の建物に入ると、飲み物を渡され全館自由に見学しても良いと言われた。もちろん写真撮影も自由であった。ちなみに、私の行ったヨーロッパの博物判、美術館などは発光体を使用しなければ大方写真撮影が可能であった。
 私は、ドイツの科学技術については非常に興味があったのでわくわくして出かけた。第2次大戦中に開発された、映画でしか見たことがないあこがれのメッサーシュミット戦闘機が展示されていた。この戦闘機の開発者が女性であり,ジェットエンジンの原型と言われていた。さらに一説にはこの戦闘機がもう1年早く開発されていたら戦争の行方が変わったかも知れないと言われるほどのものであった。
 さらに原子核分裂現象を発見し、1944年にノーベル化学賞を受賞したオットー・ハーンの実験設備が展示されていた。現今の実験装置と比べると原始的なものであったが、まだ放射線が人体に危険であることが認識されていない時代だったのでオープン状態で実験していた。このことはキュリー夫人も同様であった。キュリー夫人は晩年放射線障害で苦しみながら実験を続けていたという。その他にもドイツの科学技術の粋が収集展示されていた。
 ドイツ人の科学技術に関する自負の思いは大変なものがあると言われている。こんな話がある。昭和の初め頃にドイツから日本の技術を調査するために調査団が来た。日本のN光学機械メーカーの技術者が調査団員を宮城県と山形県の県境にある蔵王山に連れて行った。その日は珍しいほどの快晴であった。蔵王山の頂上からは太平洋と日本海が見える。日本人技術者が自社製の双眼鏡を示し、東と西方向を見るように言った。
 ドイツ人調査団員は,太平洋と日本海がくっきりと見えることを認めて、やはり我が国(ドイツ)の技術はすばらしいと言ったという。日本人技術者はそれは我が社で製作したものであるというと、こんなによく見えるのは我が社のものであると強調した。しかし、このときドイツ人の調査団員の頭の中では日本の技術を恐れたという。
ドイツも日本と同様に第1次産業が中心の国であった。したがって、資源を輸入してそれに付加価値を付けて輸出して国のいろいろなものをまかなうと言う経済政策を実行しなければならない。 
 何故かそんなところに日本人とドイツ人の共通性があるように感じた。