青邨の「神輿ぶり」(?)が古径の「阿弥陀堂」と並んで展示されていた。両者とも好きなタッチの画家で、数年前のお正月にも
青邨のこの絵を同じ会館の別の展示場で見かけた。急いでいたうちにざっと見て眼に留まった絵巻だった。
描き方が斬新で、橋のたもとの人々の表情と視線から光景が広がる。 展示する場所によって距離が異なり、迫り方も違うと感じた。
古径の絵画は、「阿弥陀堂」で、建築物なのに芳しい。赤い色の風合いなのだろうか。 高田の夜桜を見に行ったときに居宅に寄った。
http://www.city.joetsu.niigata.jp/sisetu/kokei/index.htm
珍しかったのは、中国の明以降に日本に渡った漢民族の作品の展示だった。独立性易という人の書、絵画などあり、日本の文化にも
影響を及ぼした。満州族による清に追いやられたための渡来だそうだ。 確かに桃の描き方は、そのまま焼き物に描かれた桃そのものだ。
珍しく中国絵画作品の絵ハガキがあり、本と一緒に手に入れる。 静かに見学ができる東洋館も建造中。あそこの昼食、海外の博物館ランチのように
休めて、もう少し何とかなればいいのに。
と、見学しながら、「ち」の題名を思い出し、歩きながら提案者の発意がなんとなく覗けてしまった。ああそうだったのか・・・。
そして、今頃になって、なぜmisをミスのままにして活字にするのか、講師が手をつけなかったのも、やっとわかった。 (自分を低めても、投げつけられるなんて、この世ははなはだしく間違っている。それを利用しようとしたのもわかる。 詫びも見えるけれどね。言いたくない人は言いたくないし、書きたい人は書くでしょう。いろいろいます。どうして大事な関わりを言葉にできるのでしょう。商売って、そういうものなのでしょうか。私はしたくないのですが。自分が気まずいことをした覚えがあるなら、どんどん社会的弱者に貢献することですね。 )
私がつけたタイトルは、「可」だけ。それにしても、登場者がマルマルしています、と告げてくる。(私の何が、当時の力関係の何が想像できていようか・・・・。 ) 結構なことです。
胸のうちで密やかに手や心を添わせれば良いだろうに、ねえ。 (「おれおれ」の変態版じゃありませんか。 おかしな法律のCMなんかもあって、あれも相当な強迫的利用CMに見えた。)
○非の力、発展に貢献す 観光産業・美容・ファッション・文化メディア向上・資産活用etc
そして、「文芸・文学」が何かも知らずに過去の文学軌跡に遇いながら、書いて心症にまで及ぼす部分もあったのでしょう。(今、世界と繋がりながら活動が始まっているのを誌面で拝見しました。)
叙情は増長すると、あまりよからしからぬ・・・・・
健康体だからこそ、自律神経の乱れに敏感に作用していたのかもしれません、と素人判断。 心の安定が保たれなくて鬱嵐がときおり吹き荒れたのでしょう、更年期障害的生態医科学変化。どんどん書くことが安定になったり、マイナスになっていったのかもしれません。
(自律神経に添えない時刻になると、睡眠障害が影響するのか、敏感に心の不安定な様相まで感覚が追体験して浮上し、気分が悪くなりました。 提案した題に「自律神経失調症」がありました。なんとクリアーでしょうねえ。更年期の心の不調の時に、洗礼を受けているのに、女性は知らないで姉はカトリック教徒よなんて、「か」反応して吐かれてしまいました。 当時、学校の役員会で、「すごくいいものを見つけたのよ、と当時の生きがい探し現象に添い、神様!」などと言ったときのその女性と、その後の自分の状況が重なるなどと、誰が想像したでしょう。エストロゲン作用だったのですか。 )
同じことの繰り返し文を、日常生活の出合った他人の「か」反応に応えて言葉でここで現わしていますねえ。誰かに返す内容を訊ねられることもなく・・・。まあ、出かけて相手が捨て台詞を投げるとすれば、同じ解をここで繰り返しても仕方がありませんね。ブログという解消です。
と、自分の仕事に手をつけ、休みぼけも明けるとましょう。 心が安らかでいられる人や、ことがあれば、こうしてどうでもなく書いてもいられるでしょう。
会う人が ひとこと悶着つけて 「愛対話」 きっとテレビと同じようにし始めるのかしらん。
会いたいわが 空恐ろしく 愛たいわを 望み ああ遇いたくないわと 飛ぶのぴょん