「私はたゞ歩いてをります、歩く たゞ歩く、歩くことが一切を解決してくれるやうな気がします」。
(山頭火のはがき)
今日(8月29日)の熊日新聞に載っています。この葉書にドキリでした。
大正15年4月14日、坪井(熊本市)の報恩寺から山頭火は
木村緑平にはがきを出している。
「あわたゞしい春、それよりもあわたゞしく私は味取をひきあげました。
本山で本式の修行をするつもりであります。(略)
それまでは熊本近在に居ります。本日から天草を行乞(ぎょうこつ)します」。
味取観音の堂守をやめて最初に向かったのは天草だが、
当時の日記は残っておらず、何の記録もない。
画用紙のように真っ白だ。そこを旅する山頭火を思い画いたとき、
浮かんでくる句がある。
分け入っても分け入っても青い山 (山頭火)
「天草は島でしょう」
「この句は高千穂で作られたのでは」
という声も聞こえそうだが・・・・・・・・・・つづく。(井上智重)
天草の山々。 里道から天草の山々を展望します。 天草観海アルプスです。
分け入っても分け入っても青い山 (山頭火)
(つづき)。 高千穂神社に昭和47年、地元高校教師らによって、
「分け入っても分け入っても青い山」 の句碑が建立される。
本当にこの地で作られたのか、大山澄太に一人が問い合わせたら、
「熊本から浜町に入り、そこから三田尻(高千穂)への途中の作ということが、
緑平さんのはがきではっきりしています」。
その肝心のはがきが残っていない。
第一句集 『鉢の子』 に
「大正15年4月、解くすべもない惑いを背負うて行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出た」
と前書きし、「青い山」の句が出てくる。
最初に向かった天草は島だが、深い山からなっている。
分け入っても分け入っても青い山だ。
炎天をいただいて乞ひ歩く (山頭火)
「炎天―」はそれに続く句で、これも天草らしい。(井上智重)
浜町から高千穂への里道からの展望。
浜町(矢部町)→浜町(山都町)。(蘇陽町、清和村、矢部町が合併 → 山都町)。
分け入っても分け入っても青い山 (山頭火)
画像を見る限り、浜町から高千穂への途中の作に軍配ですね。
天草の観海アルプスの登山道もいいです。
下の画像は、島原の山
分け入っても分け入っても青い山。この時期、遠くの山が青く見えます。
新緑の登山道。