《1996年決勝 松山商×熊本工》本人が振り返る“奇跡のバックホーム” NO2。
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松山商業 奇跡のバックホーム
◆「写真を見たら数センチ届いていなかった」
店のテレビには、熊本・愛媛のテレビ局が共同で制作した
“奇跡のバックホーム”の検証番組が繰り返し流れる。
「去年の5月にオープンしてから、
あのシーンだけで5000回は見たでしょうね。
お客さんが来るたびに見たいと言われるので、今も多い日で一日7~8回。
今年中には1万回を超えるんじゃないですか」
矢野が右翼からダイレクトで返球したボールは、
突入する星子の顔の直前を横切りドンピシャでキャッチャーミットの中へ。
一拍置いて、田中美一球審の「アウト、アウト!」のコールが響く。
20年目の今、改めて見ても鳥肌が立つ奇跡の場面。
星子が人生で何千回目かの、このシーンの解説をしてくれる。
「あの飛球で周りは優勝を確信したようですが、
僕は簡単ではないと思っていました。
投手交代などもあり、考える時間はあったので状況は見えていた。
浜風が強く、打球が戻され、返球が伸びることも予測できたし、
スタートも走りもスライディングもベスト。
あの瞬間は足が入ったと思ったけど、
翌日新聞に載った写真を見たら数センチ届いていなかった。
あれを見て『審判はすごい』と僕の中では完結できた。問題はその後ですよ」
10回裏の“後”。
悲願の初優勝が決まる歓喜から一転、
エラく理不尽な奇跡によってアウトの宣告を受けた熊工ナインは、
完全に失意に打ちのめされていた。
「アウトになった後、僕は頭の中が真っ白のまま呆然と守備に就きましたが、
皆も同じだった。
11回表、先頭の矢野が初球を叩いてレフトの澤村が後逸しましたけど、
あれは誰でも同じ結果だったでしょう。
あそこで切り替えることができなかった。
本当に大事なのは、失敗した次だったんです」
同じような場面は松山商にもあった。
9回裏2死走者なし。
あと一人で松山商の優勝が決まる場面で、
熊本工の1年生・澤村幸明が起死回生の同点本塁打を放つ。
後に星子がビデオで見た松山商ナインはその時、
マウンドで崩れ落ちた新田浩貴投手を内野陣がすぐさま抱え起こし、
声を掛けていた。
それが「夏将軍」と呼ばれる優勝4回の松山商と、
優勝を逃し続けた熊本工の違いだと、後になって知った。
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◆言われ続けた「お前、あの時のアウトになったランナーだろう」
卒業後、星子は社会人野球の松下電器へ進んだが、2年半で退社。
あの決勝を戦ったメンバーで最も早い引退だった。
「野球をすることに飽きたんです。
あの話を聞かれるのが嫌なわけじゃない………………………
ただ自分がそこまで思っていないのにいろいろ気を遣われるのがキツかった。
『あの審判がヘボだ。お前は悪くない』とかね。
あのプレーは矢野を褒めるしかないと完結した話なのに……それが面倒臭かった」
野球に飽きた……その言葉は嘘か本心か。
熊本に戻ると野球を振り払うように昼は現場、夜は飲食店で働いた。
だが、その先々で『お前、あの時のアウトになったランナーだろう』
という声は聞こえてくる。
どこへ行っても、
「熊本の夏の初優勝にあと数センチまで近づいた男」
という事実から逃れられなかった。
だが、悪いことばかりではなかった。24歳で独立すると、
名刺がなくとも相手が自分を知っていることで商売も軌道に乗り、
バーから居酒屋、唐揚げ屋にキャバクラと20代後半で10軒以上の店を出した。
◆球審・田中の遺言「あの判定は生涯最高のジャッジだった」
一方、奇跡のバックホームをした矢野は生真面目で内気。
努力はするが空回りする、そんな性格を改善しようと、
澤田勝彦監督は矢野に毎日ガッツポーズをする練習を課していたという。
星子とはまるで逆の性格だ。
矢野も松山大へ進学後、
あの決勝の舞台で奇跡を起こした自らの大きすぎるプレーと、
本当の実力とのギャップに悩んだ。
そんな時に連絡をくれたのが、あの試合を裁いた球審、田中だった。
「あのプレーは間違いなくアウトだ。自信を持ちなさい」
その言葉に矢野は救われたという。
2013年。当時星子が経営していた店に知人が矢野を連れてきた。
大学を卒業した矢野は地元の愛媛朝日テレビに入社。
記者として高校野球に携わっていた。
17年ぶりの対面。そうは思えないほど二人の間には、
古い友人のような感覚が共有されていることに驚いた。
星子が感慨深そうに振り返る。
「朝まで話をして、矢野も同じようなキツい思いをしてきたんだと。
そしてこの17年間、あの話をする度、互いを身近に考えてきた。
おかげでメンバーより近い存在になっていたように思うんです。
それは矢野も同じでしょう。球審の田中さんも……」
田中は3年前に鬼籍に入っていた。知人伝手に聞いた話では、
生前本人が書いた「あの判定は生涯最高のジャッジだった」という遺言が、
柩の中に納められたという。
「あの場面に出くわした3人は、それぞれ何かを抱えて生きてきた。
それが運命だったんでしょうね。
ただ矢野と会ったことで、この経験から目を背けては、
野球を捨ててはいけない、しっかりと向き合い、
人々に伝えなければいけないと感じたんです」
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