■「がんばります」
弁護人と支援者と共に、一度だけ面会したことがある。
この時の奥西さんは、大きな点滴バッグをぶら下げ、車いすで面会室に現れた。
感染防止のためだろう、大きいマスクもしていて、
アクリル板越しだということもあって、
言葉は必ずしも明瞭に聞こえなかったが、
私が事件についての本を書いた者だと自己紹介すると、
「分かっている」というように「うん、うん」とうなづいた。
まったく縁のない土地に移されて不安を感じているかもしれないと思い、
「東京にも、奥西さんの無実を信じて応援している人がいっぱいいますよ」
と声をかけると、この時にははっきりと
「がんばります」という返事が返ってきた。
別れ際には、点滴のついていない右手を握り、ガッツポーズをするように、
拳を上下に振っていた。食事が取れなくなってだいぶたっており、
かなり痩せてはいたが、闘志は衰えていないようだった。
この面会は、移管直後ということで、特例として認められたらしい。
その後、他にも面会に行った人がいたが、会えなかった、と聞く。
死刑囚は、ただでさえ面会が厳しく制限されているうえ、
病人ということもあり、その後の面会は弁護団と親族、
特別面会人の稲生昌三さんだけに限られた。
東京の支援者たちが面会できないため、名古屋に在住の稲生さんが、
頻繁に八王子まで面会に通い、最後まで奥西さんを励まし続けた。
その点、刑務所はもう少し柔軟に対応すべきだったと思うが、
稲生さんの話を聞く限り、医療面では適切な対応がなされていたようだ。
寝たきりになってからも褥瘡ができることもなく、
肺炎による危機的な状況も、奥西さんの生命力もあって、何度も乗り越えた。
遺体は、想像していたほど痩せてはおらず、髪の毛もふさふさ。
89歳という年齢のわりに、黒髪がかなりあった。
■無罪から死刑へ。再審開始決定も取り消され。
奥西さんの半世紀以上にわたる戦いは、天国と地獄を行き来するような、
壮絶なものだった。
逮捕前から「任意」とは名ばかりの強引な取り調べを受け、
「自白」に追い込まれたものの、起訴直前に否認に転じ、
裁判では一貫して無実を訴え続けた。
一審の津地裁は、捜査の途中から住民たちの「証言」が一斉に、
奥西犯人説に沿って変遷したのは警察の誘導があったと看破し、
捜査の問題点を指摘して、無罪を言い渡した。
こうして一度は自由の身になったが、名古屋高裁での控訴審は、
「自白は信用できる」として逆転有罪。
死刑判決が出され、1972年6月に、最高裁への上告が棄却され、確定した。
以後、刑の執行におびえる日々が始まる。
しばらくは、獄中から自分で再審請求を行った。
孤立無援の状態が続いたが、その後支援者が現れ、弁護団が作られ、
第5次再審請求から本格的な再審への戦いが始まった。
有罪判決を支える根拠は、
弁護団が次々に出した新たな証拠によって揺さぶられ、崩され、
もはやガタガタとなった。
事件と奥西さんを結びつけるものは、無理な取り調べで得られた「自白」と、
一審判決が「検察官のなみなみならぬ努力の所産」と皮肉をこめて批判した、
住民たちの変遷後の「証言」くらいだ。
そして、とうとう第7次再審請求で、名古屋高裁が再審開始決定を出した。
決定は、事件に使われた毒物の鑑定など、
弁護側が出した3つの新証拠を重要視し、
「自白」についても丁寧な検討を加えて、
「信用性には重大な疑問がある」とした。刑の執行も停止され、
奥西さんは安心して眠ることができるようになった。
津地裁の無罪判決に続いて、まったく別の裁判体が、
有罪に疑問を持ったのだ。
この時点で、速やかに裁判がやり直されていれば、
奥西さんの晩年はまったく違ったものになったはずだ。
ところが、名古屋高裁の別の部は、検察の異議を認め、
再審開始決定を取り消して、開きかけた扉を閉じた。
死刑の執行停止も取り消され、再び執行の恐怖を向き合うことになった。
決定は、奥西さんの「自白」を大量に引用しており、
裁判官たちがいかに「自白」に引きずられているかを示していた。
これには、奥西さんも落胆しただろう。
ところが、この決定は最高裁に破棄され、審理が名古屋高裁に差し戻された。
奥西さんは、「こんどこそ」と希望を持ったに違いない。
しかし、その後の名古屋高裁は、検察が主張せず、
鑑定人も言及しなかった独自の推論まで持ち出して、再審の扉を閉め直した。
奥西さんの体調が悪化したのは、その直後だった。
まもなく、肺炎を発症し、外部の病院に入院した後、
八王子医療刑務所に移されてた。
こうした経過を見れば、司法が奥西さんの命を奪ったとも言えるだろう。
■再審を開かせない理由を探す裁判所。
奥西さんの死の後に残るのは、司法に対する絶望的なまでの不信感である。
裁判員裁判が導入され、一部の事件には取り調べの全課程の録音録画を
義務づける法案が参議院で継続審議になるなど、
制度の改革は行われてはいる。
しかし、過去の裁判の誤りを認めることについては、
裁判所の姿勢はほとんど変わっていない。依然として実に消極的だ。
いくら有罪判決の根拠が崩れても、DNA鑑定や真犯人の出現などによって、
別の犯人像が証明されでもしない限り、なかなか再審の扉を開かない。
私は、第五次再審請求から本件をフォローしているが、
裁判所は確定判決に問題はないかという視点から証拠を見ようとせず、
再審を開かずに済む理由を懸命に探すのが、基本的な姿勢なのだと知った。
再審を開かせないためには、
すでに残骸のようになった証拠にしがみつくだけでなく、
検察側も言っていないような化学反応を、
裁判官の頭の中で作り上げさえする。
特に、ひとたび再審開始決定が出た後の、門野決定や下山決定、
さらにはそれを追認した最高裁の決定からは、
何が何でもこの事件での再審を開かせまい、という強烈な意思すら感じた。
結局、司法にとっては、囚われた人の人権や人生よりも、
「裁判所は間違わない」といった無謬神話の方が大事なのだろう。
「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が再審請求審にも
適用されるとした最高裁「白鳥決定」は、
ごく一部の稀有な裁判官にしか通じなくなっていると、言わざるをえない。
■裁判所としがらみのない市民を再審請求審に入れよ。
これでは、過去の裁判の誤りを正し、無辜を救済する機能を、
裁判所に期待することはできない。再審制度を根本から変えていかなくては、
冤罪に巻き込まれた者は救われない、と思う。
たとえば、再審開始を決める再審請求審は、
今のように裁判官が密室の審理で決めるのではなく、
裁判所とは何のしがらみもない市民が関わるようにすべきだ。
市民によって判断をする検察審査会方式か、
市民と裁判官が協力して判断する裁判員裁判方式がよいのかはともかく、
市民が参加して、もっと常識的な目で事件を見直せばよい。
さらに、鑑定人などの証人尋問は公開で行うべきだろう。
また、現在の刑事裁判であれば、開示されるはずの捜査側の証拠は、
再審請求の場合にも、検察は開示すべきだ。
名張毒ぶどう酒事件は、今なら裁判員裁判の対象になり、
公判前に広範な証拠開示が行われる。
たとえば、事件の現場となった公民館には、
証拠として提出されていたぶどう酒王冠以外に、
いくつもの王冠類が押収されているようだ。
証拠とされた王冠が、
本当に本件に使われたぶどう酒のものだったのかを確認するためにも、
当然開示の対象になるべき証拠だろう。
王冠類は「ざくざくあった」という話も伝わっているが、
それが全く開示されない。
原審に提出されていない調書や捜査報告書などが
新たに開示されることもなかった。
裁判所は、今後も続く再審請求審において、
検察側の手持ち証拠を全面的に開示させるべきだ。
■再審請求は、奥西さんの実妹が継承する。
しかし、この実妹もまもなく86歳になる。
この事件で、奥西さんの妻も死亡している。
子どもたちは、母親を事件で失い、父親を逮捕で奪われ、
世間の目から身をひそめるようにして生きていかなければならなかった。
そうした親族が、自らの生活を守るために、
事件に関わることを恐れるのはむしろ当然だとう。
そういう場合、個人の遺志を親族が適切に受け継ぐことは難しい。
ならば、戸籍や血のつながりにこだわらず、事前に本人が意思表示をすれば、
支援者が継承することもできるようにすべきではないか。
本件であれば、300回以上にわたって面会を続け、
故人の遺志を一番よく知っている特別面会人こそ、
再審の継承者としてふさわしいように思う。
■遺された課題。
こうして考えてみると、
奥西さんは私たちにたくさんの課題を遺していったように思う。
取り調べの録音録画にしても、
これからの法改正で認められるのは被疑者の取り調べに限定され、
関係者の事情聴取については録音すら義務づけられない。
名張事件のように、証人の不自然な供述の変遷があっても、
後から検証することはできない。
司法に対する途方もない不信感を抱えつつ、
そうした課題に向き合っていくことが、
この事件と関わった者の務めなのかもしれない。
そして、新たに起こされる再審請求での裁判所の対応も、
しっかり監視していかなければならない。
奥西さんは亡くなったが、名張毒ぶどう酒事件は終わらない。