上画像の引用元(https://yuripasholok.livejournal.com/8882732.html)
太平洋各地における、特二式内火艇カミの戦時中の動向については詳しい事が分かっていないままですが、各地で接収または鹵獲されたもの、放棄されてそののままになっている車輌などが幾つか現存しています。大まかに見ますと、北方千島諸島のエリアと南方パラオ諸島のエリアとに大別されるようです。
前回で述べたように北方千島諸島では占守島などで数輌が接収されたようですが、そのうちの一輌がテスト用にソ連本国に送られたといいます。いまクビンカ博物館のパトリオットパークに展示される上図の車輌がそれであるそうです。前後のフロートも備えた完全な個体ですが、多くの小部品が失われています。前部フロートが左右分割式となる後期型の特徴を示しています。
この車輌がガルパンの劇中車のモデルとなったようで、製作側の取材が行われており、劇中車にみられる特徴の幾つかがこの展示品より採られているそうです。
上画像の引用元(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Type_2_Ka-Mi_-_Victory_Park,_Moscow_(27041889469).jpg)
さらに同じくモスクワのビクトリー・ミュージアムにも前後のフロートを外して前後に置く形の車輌が展示されています。これも占守島から持ってきたもののようですが、残骸をレストアしたものらしく、前後のフロート、砲塔、通風筒がレプリカとなっているそうです。
上画像の引用元(https://www.indiedb.com/members/taranov/images/type-2-ka-mi-amphibious-tank-shumshu)
占守島には、現在も数輌分の残骸が戦跡に残されているそうです。千島列島地域にてソ連軍によって接収されたカミは、占守島のほかに幌筵島にもあったといい、大部分は戦後に処分されたようです。
Sさんの話によれば、北方への配備は南方への配備より早かったらしいという事です。昭和19年3月に訓練を受けた際に知らされた輸送船団によるカミ輸送計画は、全て南方向けであったそうです。
「つまりですな、カミの配備はまず北方にてなされたんでしょうな。・・・カミが制式化されたのは昭和17年の秋頃ですが、訓練教程が始まったのは確か昭和18年になってからだったと思います。その3月から北方のアッツ、キスカ方面へ輸送作戦が始まっとりますでしょ、そのときにカミも小隊単位で積んで行ったんではないかと思いますね・・・。確か、その頃でも輸送船に積み込むカミは3隻ないし6隻となっていたようです。私らのカミを運んだ輸送作戦でも、6隻を輸送船の甲板に3隻ずつ並べて係止しとりましたからねえ・・・」
ちなみにSさんたちのカミが運ばれたのは、昭和19年3月22日に館山を出てパラオへ向かった輸送船団であったそうです。
「・・・我々の部隊は南方のパラオに行くんだということで、輸送作戦の船団は「松」と呼ばれたんです。同じ南方でもフィリピンやニューギニア方面に行くのは「竹」と呼ばれてましてね、要するに絶対国防圏の外郭を守備するということで、その兵力を二方面に急遽展開させるべく輸送したわけですな・・・。訓練終了後すぐに、同期の5人と共に館山に行きまして、そこで初めてカミの乗員と合流したんです・・・。その際に特別陸戦隊の編成命令も受けましたから、とにかく慌ただしいもんでしたよ・・・。小隊長への報告も後でいいから、って急かされて輸送船に乗せられてしまいましてね、そのままパラオ行きですよ・・・ハハハ・・・」
この輸送船団の正式名称は「東松3号船団 」といい、3月30日にサイパン島に到着、船団の一部はサイパンまでとなり、残りがパラオに向かおうとしたところ、その日のうちにパラオ方面に米軍の空母機動部隊が来襲したとの知らせがあって引き返し、4月2日にサイパンへ避難したのち、再出航して4月14日にパラオに到着したそうです。
「・・・パラオに着いた時点で報告に行きまして、守備地域の指示を受けたんです。出発前の編成命令ではパラオ根拠地隊となっていたんですが、我々が着いた時点でまだパラオの海軍第30根拠地隊は3月に編成されたばかりで人員も装備もまだ揃ってませんでした。先発隊は居たようですけど、大方の人員と物資は次の輸送船団で来る予定だから、と言われてねえ・・・。最初に追移動を命ぜられた先はコロール島でした・・・。ひとまず陸軍さんとも協力し合う体制になっていましたが、その14師団もまだ来てなかったんですよ。我々より後の輸送船団で10日後に来ましたね・・・」
Sさんの話によれば、パラオに到着した時点で既に現地のバベルダオブ島にカミが2小隊、6輌配置されているとの連絡を受けたそうです。おそらくはこの2小隊、6輌の先行配置が、第30根拠地隊の編成にともなう最初の配備であったのだろう、と推測されます。しかし、Sさんたちの小隊にはそれへの合流命令も無く、連携を取るどころか、分遣隊として隣のコロール島へ配置されたということです。
「・・・コロールへ着いたらすぐに海上に出て、(3月30日の空襲で大破擱座した)工作艦「明石」からの物資の運び出しをやらされました。海軍一の優秀艦だけに狙われて散々に爆撃受けて炎上したということで、まあ見るも無残な黒焦げの姿でしたが、工作艦だけにいろんな機材とかがまだ残ってまして、使えるものはとにかく陸へ運べ、ということでしたね。陸軍さんの船舶部の大発も応援に来てくれまして、一緒に筏に物資や器材乗せて曳航して往復したんです・・・」
その時点で、パラオには12輌のカミが有り、次の「東松4号船団 」および「東松5号船団 」で6輌ずつが運ばれてきたため、合わせて24輌に達したということです。そしてその次の「東松6号船団 」はカロリンへ向かったが、それにもカミが6輌ぐらいは乗っていたのではないか、というSさんの見解でした。これをふまえての、アンガウルおよびペリリューに3輌ずつぐらいは配置されたんじゃないか、という推測でした。
上画像の引用元(http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/palaukoror/pic119001.html)
パラオ本島群に配置された24輌のうち、現地にいまも8輌が残骸となって残っているそうです。上図はそのうちの有名な1輌です。旧首都のコロールの市街地の野球場の裏にあり、戦跡観光ルートにもなっているので、最もよく知られてネット上にも多くの写真が挙げられる現存車輌です。
私自身も、平成4年の戦跡巡拝・遺骨収集事業にてパラオ入りした際、コロール島にも行ってこの現存車輌を見ました。他に通信隊施設前のカミ、飛行場跡西側のカミも見ていますが、このコロールのカミでは内部も見ました。当時の観光ガイドの方と割と打ち解けていたせいもあり、この車輌の内部に入る許可もいただいて、ボロボロの艇内にもぐりこんであちこち見学したのを覚えています。もちろんSさんも同行しておられましたが、その時はカミについての話は一切しなかったのでした。
なので、上図の現存車輌についての見解を聞いたのは、今年2020年になってからでした。
「・・・あれは、我々とは別の小隊の艇ですね。我々がコロールにおったのは一週間足らずで、その後はマラカルに移動を命じられまして、それからずっとマラカル島を根拠地としてパラオの沿岸警備および臨時輸送の任務についていましたから、その後に配置された小隊の艇でしょうかね・・・」
「・・・・パラオ本島群は一括して警戒区域になってましてね、どうも米軍が上陸をしかけてくる気配が濃厚である、ということでね・・・・、海上では潜水艦の出没も報告されてましたから、海上での警備活動が手薄なのは困る、輸送船団もまだ何回かやってくるから、とにかく海上の警備兵力が要る、という認識があったようですね。4月に我々が2小隊でコロールに移動して「明石」からの機材運び出しをやってるうちに、次の輸送船団で3小隊が到着しまして、海上で合流したわけです。それからマラカルに移動命令を受けまして、5小隊が内火艇のまま行動してね、5月からは分散して沿岸で哨戒つまりパトロール、それと輸送に従事しておったんですよ・・・」
「・・・・残りの3小隊?いやあ、それはどうなったのか、実は聞いておらんのですよ・・・。海上では見かけませんでしたから、たぶん陸上にとどまっていたんでしょうな・・・。マラカルで一緒に輸送任務をやっていた陸軍さんに聞いても知らないということでね・・・・。その後ずっと合流する機会も無かったですし・・・」
「・・・沿岸で内火艇として作戦行動した5小隊は、6月から敵の空襲や雷撃などで我々の艇も含めて全て撃沈されましたから、いまパラオに8隻が現存しとるというのは、あの頃陸上に配置された3小隊9隻の大部分が残ったということでしょうなあ・・・。たぶん、あと1隻もどこかの密林内に人知れず残されとるんではないでしょうかね・・・」
パラオ本島群における現存車輌は、バベルダオブ、コロール、アラカベサンの各島に点在しています。アンガウルとペリリューでは米軍の上陸作戦が行われて双方の日本軍守備隊は玉砕して全滅しましたが、パラオ本島群に対しては空襲のみで上陸作戦が無かったため、陸軍第14師団主力をはじめとする陸上配置兵力は、戦闘の機会を得ないままに無傷で終戦を迎えたということです。陸上に配備されたカミがほとんど現存しているのも、そのためでしょう。
上図の引用元は(https://imgur.com/)
そのパラオでの現存車輌のもう一例を挙げておきます。平成4年の戦跡巡拝・遺骨収集事業にて見学した飛行場跡西側のカミがこれです。バベルダオブのアイライに置かれた海軍航空隊の飛行場跡の西側のキャンプ・カチュー地域にあります。飛行場跡の大部分はいまのロマン・トメトゥチェル国際空港になっており、空港の周辺の大部分が戦跡保存地区になっています。
先に挙げたコロールのカミや通信隊施設前のカミは一般観光客も気軽に見学出来ますが、こちらは保存地区内にあるためか、許可が必要だそうです。
私がこの現存車輌を見たのも戦跡巡拝・遺骨収集事業での巡拝コースに入っていたからですが、印象としては、コロールのカミや通信隊施設前のカミよりも格段に保存状態が良かったように思います。フロートは後部のみが付いたままですが、前部のほうは周辺にも見当たらなかった記憶があります。
そしていま、気になったのは、これらの現存カミの乗員たちは、その後どうなったのか、という点でした。Sさんによれは、戦後に色々調べたけれど消息は全く掴めなかったそうです。 (続く)