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大山の北裾を斜めに下る形で樹海の中を走った後、琴浦町域に達して赤碕地区に入った時点で上図の光(みつ)地区に行きました。Tさんお気に入りのスポットである鏝絵の集中地区でした。
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光地区は、いわゆる中世期以降の集落形態を色濃く残す所で、土蔵が多いことでも知られます。
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これが鏝絵(こてえ)です。漆喰を用いて作られるレリーフです。左官職人がこて(左官ごて)で仕上げていくのでこの名があります。モチーフは、福を招く物語、花鳥風月などが多いです。
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鏝絵は、全国各地の古い町並みに見られる建築意匠の一つで、時期的には江戸末期から昭和初期にかけてのものが多いですが、伝統技術として現代にも受け継がれているため、いまも新築の和風民家に鏝絵を施している事例が少なくありません。漆喰で造りますので、漆喰造りの土蔵に多く多用されています。
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古い時期の鏝絵は家紋や文様をあしらった浮彫程度の薄いものですが、昭和になってからは鳥や魚などを表すことが多くなり、表現も立体的となって上図のようにリアルな造りが好まれました。これは全国的な傾向ともよく一致していますが、要するに庶民の建築文化の一端であるので、庶民の裕福化にともなって鏝絵の質が向上してくるわけです。
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光集落においては、大抵の民家が富裕農民の系譜にあるようで地割も大きくとり、母屋に土蔵が並ぶL字配置の構えが一般的です。これは中世の平安京の一般的な「住居と付属施設」の構えが主に西日本各地に流布したものですが、ここ光集落のスタイルはどちらかというと武家屋敷のそれに近いです。母屋と土蔵が離れずに接しているケースが多く、間を広く空ける農民の住居のパターンとは違います。
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上図の作例は彩色を施してあります。本来の鏝絵は、漆喰の色をそのまま生かして「白眉ヲ競フ」状態を目指したので、白い漆喰のままに仕上げられるのが普通です。したがって彩色付きのものは昭和期に入って価値観が多様化していったプロセスを示していると解釈出来ます。
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この光地区では、全48戸のうちの24棟に鏝絵が施されています。半分というのは相当の密集度であり、全国的にも珍しいです。
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ただ、作例の大半が昭和期以降のものなので、文化財的観点での評価はまだなされていません。現在も続いている建築意匠ですから、伝統的技術の範疇で捉えられるほうでしょう。
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とにかく色々ありますが、土蔵全体の漆喰の仕上げにも見るべきものがあります。他地域の鏝絵はそれのみに造形作業が集中するので立派なものがありますが、こちらは土蔵全体を綺麗に仕上げたなかでのワンポイントという感じでまとめた鏝絵です。
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私の見てきた限りでは、九州の大分県エリアの鏝絵が最も豪華で華美で状態も良いものとして印象に残ります。鏝絵そのものは全国に約3000の作例を数えますが、そのうちの約1000が大分県にあります。かつて大分県に住んでいた頃に、大分県宇佐市の安心院(あじむ)の鏝絵を見てものすごく感動しました。
あと、静岡県賀茂郡松崎町の鏝絵も印象に残っています。大分も静岡も、優れた左官職人が多く活動した地域であるので、鏝絵がよく残っています。ここ光地区でも、腕の良い左官職人が活動していたのでしょう。
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集落の外縁ラインに接する土蔵は、上図のように外回りの壁の大半を黒漆塗りの下見板で囲みます。一般的には雨除けですが、本来は蔵の一階部分が木造吹き放ちであったために周囲を板壁で覆ったのが始まりです。
もともと蔵は古代以来の高床式であり、中世にもその形式が踏襲されたため、蔵の一階は厩であったり物置であったりしたのです。これが戦国期になると武器庫または防御区画に転用されたため、板壁に狭間を取り付けて、弓や鉄砲などの射撃を行ないました。
上図の土蔵は、集落の出入り口である木戸に接して塁線上の「折れ(防御上有利な屈折または突出部)」の位置に有り、番所または見張り所の機能も果たしたようです。有事の際にはここに守備兵を配して木戸に進む敵を迎撃することになり、「折れ」の位置にあることでいわゆる「横矢(横からの攻撃)」が効きます。よく見ると、周囲をめぐる道路は不自然に曲がったり屈折したりしているので、もとは環濠であった可能性があります。
つまり、この光集落は、中世戦国期の自衛的色彩の強い集落の形態を色濃く残しています。中世戦国期の歴史に関心を持つ自分にとっては、そちらの要素も大変に興味深いものでありました。
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なので、内部の民家の多くが武家屋敷の構えをみせて母屋と土蔵が隣接している点は、中世戦国期の自衛的色彩の強い集落の形態としてみれば、納得出来ます。敷地の入口に土蔵を置いて護りを固めている形だからです。そして江戸期からの平和な時代になった結果、荒壁仕上げだった蔵に漆喰を塗って綺麗に仕上げ、鏝絵を飾るようになった、という流れではないかと思います。
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ともあれ、なかなか興味深く参考になりました。奈良県に住んでいた頃に、県内の約200ヶ所の中世戦国期からの環濠集落を訪ね回って探査した日々が懐かしく思い出されました。 (続く)