徳丸無明のブログ

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ヘイトスピーチのある風景・前編

2015-10-18 20:12:56 | 雑文
在日の人達に対するヘイトスピーチを見ていると、一体、いつからこんなことになってしまったのか、と思う。
「日本から出て行け」などと叫んでいるのを聞くと、思わず「お前は地球から出て行け」(by.オードリー若林)と言いたくなる。でも、それじゃあきっとダメなんだ。排外的な言葉に、排外的な言葉を持って応じると、同じ穴のムジナになってしまう。ヘイトスピーカーに、在日が気に食わないというだけの理由で「出て行け」と言える権利がないのと同様、いくらヘイトスピーカーが気に食わないからといって、「出て行け」と言える権利は、小生にはない。
ちなみに、これに関しては、小説家の高橋源一郎が、「売国奴と他人に向かって言うやつの方が結果として売国奴になる問題」という名称で、端的にまとめて説明している。


「日本がもし100人の村だったら」としますね。そのうちの、「二十人」ほどを、「売国奴!」と呼び続ける。(中略)さて、「二十人」が離脱したとして(しないだろうけど)、残りの「八十人」で仲良くできるかというと、これが違うのである。その中に、また、絶対気に食わない連中が出てくる。なので、最初に「売国奴!」と叫んだ人は、次の「二十人」に向かってまた「売国奴!」と叫ぶようになるのである。(中略)
最後に「二人」しか残らなくても、その最後の「二人」もまた、お互いに「売国奴!」もしくは「クズ!」あるいは「カス!」と罵り合うことになるのである。
(内田樹・編『街場の憂国会議』晶文社)


だから、在日の人達だけでなく、ヘイトスピーカーもまた同時に救う、というやり方を目指すべきだ。でも、どうやって?
「冬のソナタ」をきっかけとした韓流ブームが起きた時、日本の対韓感情は、極めて良好であった。
当時、某大型書店が年末のカレンダーコーナーを設けており、その一角に、韓国タレントのカレンダーが置いてあった。50代くらいのおばさま2人が、誰々がどうのと、小生には1人もわからない韓国人タレントの名前を挙げながら、楽しげにカレンダーを物色していた。その光景をぼんやり眺めながら、「いい時代になったな」と感じたものだった。
日本には、昔から朝鮮人に対する差別がある。差別には、よく「陰湿な」という修飾語が付くが、朝鮮人に対するそれは――関東大震災の時の虐殺において劇的に現れたそれは――陰湿さすら感じさせないほど大っぴらに、当たり前のように行われていた。
もちろん、差別を完全になくすことは難しいし、韓流ブーム華やかりし頃にも、全く差別がなかったわけではない。だが、差別が恥ずべき感情であるとの共通理解は、拡く行き渡っていたはずだ。
今本屋に行けば、「〇韓論」(〇の中には侮蔑的な言葉が入る)などという本が、数多く平積みされており、陰鬱な気持ちになる。最近では「ヘイト本」なる総称があるらしい。
大体、ネトウヨなんかもそうだけど、ヘイトスピーカーの人達は、「日本人」と「朝鮮人」の違いについて、突き詰めて考えたことがあるのだろうか。
「〇〇人」という区分は、国粋主義が発露されている場合には、「血筋」とか「遺伝子」というものに根拠を求められがちだ。では、「血筋」や「遺伝子」は、明確に「日本人」と「朝鮮人」を分かつ根拠となるのか。
ご存知のとおり、日本人というのは、おもに大陸から移り住んできた人々を先祖に持つ。移住が行われたのは、ただの一度きりではない。歴史の中で、何度も何度も半島を通じて、大陸からの移住者を受け入れている。また、北方から来た人達や、南の島から訪れた人達もいる。それら、いろんな時代に、いろんな所からやってきた人達は、それぞれ独自の文化を保ったまま、バラバラに暮らしていたわけではない。歴史の過程で、混交が起こっている。そして、半島から列島に移住する人がいただけでなく、列島から半島に移り住む人だっていた。
もしも、列島への入植が、過去に一度だけ行われ、その後は一切の移住が行われぬまま、今日まで来ているというのであれば、あるいは、日本列島に生息する猿が、進化して人間になり、それが大陸であれ南の島であれ、よその土地の人々と一切交わることなく、今の日本人に至っている、というのであれば、「血筋」において日本人は純粋である、と言える。だが、そうじゃない。
「血筋」や「遺伝子」という観点において、純粋な日本人など、ただのひとりも存在しないのである。
もちろん、このことは朝鮮人にも言える。
「〇〇人」の分類方法を、「どの文明に属しているか」に求めるやり方もある。
だが、文明の交わりは原始時代から起きてるし、特に、この高度情報化社会、グローバル・スタンダードの時代において、明確に文明の独自性を保つことなど不可能だ。キムチを作る日本人もいるし、空手を愛好する朝鮮人もいる。また、ジャパニメーションにしても、韓流ドラマにしても、それぞれの国において作られた、という独自性は尊重するだろうが、メディアを通じて日々いくらでも鑑賞することができる以上、国境を越えた親しみをお互い感じているはずで、そこに明瞭な境界線を引くことはできないだろう。
じゃあ、はっきりと「〇〇人」と呼べる根拠はどこにあるのか、と言えば、それはもう「国籍」しかない。
現代社会は、「国民国家」という国の形式を採用している。国民国家とは、領土、領海、領空を持ち、中枢にある国家機関がそれを統治する、というものだ。この、国家に属している者を国民と呼ぶが、それを規定するのが国籍である。
国民国家の歴史は浅い。1648年に締結された、ウェストファリア条約に基づいているわけだが、人類の長い歴史の中では、ごく最近生まれたばかりである。で、文明という観点でなく、この国民国家という観点から見ると、日本国の誕生は1868年(国籍法の制定は1899年)、韓国、及び北朝鮮の誕生は1948年である。どちらも、つい最近出来たばかりだ。
そして、国民国家は、永久不変の形式ではない。これまで、いろんな形式の国が、現れては消えていったのと同様、いつの日か、違う形式に取って変わられるものだ。実際、国民国家の制度疲労を指摘する声は、既にいくらでもある。
また、「帰化」という制度もある。これは、国によっていろいろ条件があるだろうが、そんなに難しいものでもない。日本に帰化した朝鮮人が大勢いるのは、誰でも知っているだろう。
そんな、歴史の浅い、いつ無くなるかもわからないような、薄弱な制度が保証する、変更することも可能な、「国籍」なるものに基づいて、「韓国人め」「日本人め」などと罵り合っているのである。
こんなに馬鹿馬鹿しいことがあろうか。

(後編に続く)


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