徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

一枚絵・『カタリマ』

2025-03-19 00:22:54 | イラスト



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サントリー 烏龍茶

2025-03-15 00:24:33 | 
今日はスケベブタです。




いい汗かいたら~、流し込むだけ~♪
『ドラゴンボール』の初期メンバー、ウーロンとプーアル。烏龍茶は日本社会にすっかり定着したのに、プーアル茶はさっぱり。この差はどこからくるのでしょうか。
烏龍茶を飲むとさっぱり。そう、さっぱりした話をしましょう。散髪の話。
数年前、近所の床屋さんに行ったときのことです。1000円カットほどではないにせよ、平均よりもだいぶ安い床屋さんです。
その当時、僕はヒゲを2~3センチほど伸ばしていました。オシャレではなく、ただの無精ヒゲです。そのヒゲを剃ってほしいと頼みました。
散髪のあと、理容師さんは、まずバリカンでヒゲをザッと刈り取り、残りをカミソリで剃り落としてくれました。それが終わると、シャンプーをしてもらいました。お店によっては2回シャンプーをしてくれるところもありますが、ここは料金が安い店なので、1回です。
それから整髪料を付けてもらい、軽いマッサージを受けて終了。お金を払ってお店を出ました。
そこから少し歩いて、公衆トイレに入りました。何気なく鏡を見ると、鼻の穴から、思いきり毛が飛び出ていました。
なんということでしょう。バリカンで刈られたヒゲが鼻の穴に入り、洗髪でも流されずに残っていたのです。
その姿、鼻毛がモロに飛び出ている人にしか見えませんでした。
実際にはヒゲなのですが、ハタから見たら鼻毛なのです。ズボラな人が、鼻毛を伸ばし放題伸ばしている姿になっていたのです。
ヒゲはそこそこ太く、露出部分は2センチほど。鼻毛を2センチ飛び出させているような状態になっていたのです。鼻毛が出ている人はたまにいますが、2センチも出ていたりはしません。僕は異常なほど長くて太い鼻毛を出してる人になってしまっていたのです。
散髪してもらった床屋さんは、料金の安いお店ならではというか、作業がわりとおおざっぱなところがあるんですよね。髪の長さキッチリそろってなかったりとか、顔剃りで剃り残した産毛があったりするんです。つねにじゃないけど、そーゆー場合もある。
お安いんだから、そこは文句言うべきじゃないというか、当然のことなんですよね。それに、安い店だから客も多く、理容師さんは次々さばかなきゃいけないので、ひとりひとりにそんな時間かけてられないし、疲れるから、細かいところまで見てられないのでしょう。
だから、刈られたヒゲが鼻の穴に残っていたのは、しょうがないことです。理容師さんは責められない。
問題は、誰かに見られてしまったのではないか、ということです。実は、床屋からトイレまでのあいだに、コンビニに立ち寄っていました。そこで、パンを買ったのです。
会計の際、店員さんに、鼻の中の毛を見られてしまったのではないか。ハタから見たら、鼻毛にしか見えない毛を。太さのあるヒゲだったので、だいぶ目につきやすかったはずです。フェイク鼻毛を目撃され、「コイツめっちゃ鼻毛出とる」と思われてしまったのではないか。
もはや取り返しがつきません。コンビニに引き返し、「さっきのは鼻毛じゃないんです、ヒゲなんです」と弁明するわけにもいかない。
さらしてしまった恥をそのままに、忘れ去られることを祈るしかありませんでした。

恥をかいたと言えば、こんなこともありました。
とある中華料理屋さんに行ったときのことです。ショッピングモール内にあるお店で、いつもけっこう繁盛しています。
その日は、厨房から離れた、奥のほうの席に案内されました。注文を決め、店員さんを呼ぼうとしましたが、あまり店員さんが足を向けない地帯の席のため、なかなか声をかけられませんでした。
そこのお店、今では呼び出しのボタンが設置されてますし、注文用のタッチパネルもあるのですが、当時はどちらもなく、直接声をかけて店員さんを呼ぶしかありませんでした。
誰かこっちに来ないかと待っていると、ひとりの店員さんがやってきました。これ幸いと、「すみません」と声をかけました。
すると店員さんは、「あ、ちょっと」と言って、奥のほうを指し示しました。僕の席より、さらに奥の席に、ひとりのおじさんが座っていました。
店員さんは、そのおじさんに呼ばれていたのです。おじさんも注文するために、たぶん手を上げて店員さんを呼んだのでしょう。僕はそれに気づかず、フリーの店員さんだと思って呼び止めてしまったわけです。
店員さんをインターセプトしたのです。店員さん泥棒です。
「ああしまった」と思いつつ、引き下がろうとしましたが、おじさんは鷹揚に、「先にいいよ」と言ってくださいました。それで「すみません」と謝りつつ注文させてもらいましたが、恥ずかしくて仕方ありませんでした。

ああ、なんと恥ずべき思い出。恥をかいた出来事は忘れることができず、ひたすら記憶に蓄積されていくのです。
積もり続ける恥の思い出。恥のアーカイブス。
それはふとした瞬間に脳裏によみがえり、変わらぬ鮮度で悶絶させてくるのです。
口の中の油とともに、烏龍茶で流し去りましょう。そうしてきれいさっぱりになったら、今日はもう寝る。

R-1グランプリ2025 感想

2025-03-14 01:38:15 | 雑文
関東では雪が積もっていたようですが、九州はわりと穏やかな気候が続いており、このまま春になってくれればいいと願わずにはいられないけれど、寒の戻りは避けられないであろうことは想像に難くなく、再び冬眠することも覚悟してはいるものの、「シャレになってないじゃん」的自粛が継続中の今日この頃、皆さんご機嫌いかがですか的なR-1グランプリの感想文です。
芸歴制限が撤廃されて2年目。最年長ファイナリストのチャンス大城を筆頭に、ベテラン多めとなった今大会。ベテランが長年の悲願を達成しそうな予感がしていたのですが・・・。

個別の感想は以下の通り。まずはファーストステージから。


ヒロ・オクムラ・・・大学時代の男友達3人で立ち上げたベンチャー企業の就職面接。面接に来たのが工学部の可愛い女の子だったため、会社の存続を考えて不採用にしようとする。
さながら「オタサーの姫」や「サークルクラッシャー」の会社版。いや、よくできていたと思いますけどね。演技もうまいし、本人以外の登場人物が3人というのも、多すぎずでちょうどいい。脳科学的に、人は同時に3つまでのものなら把握できるけど、4つ以上になると把握が難しくなるらしいんですね。だから、本人以外が4人以上だったら、ずっとわかりにくい話になっていたはずです。強いて短所を挙げるなら、先の展開が読めてしまうところでしょうか。「女の子をめぐって争ってしまいそう」と予告しておいて、実際そうなるのですから。
キワモノぞろいのSMAにあって、実に正統派のオクムラ。今後の活動に期待します。

チャンス大城・・・ハリウッド女優と照明のおじさんのラブロマンス。立場を越えた恋の物語がくり広げられる。
野田クリスタルが「ただ自分の特技を披露したいだけ」と指摘していた通り、オハコのモノマネなどのネタをねじ込むためのストーリー展開は、やや強引に思えました。でもそれが、ひとつひとつのバカバカしさを堪能するにはちょうどいいというか、「お笑いに意味なんかなくていい。メチャクチャでいい」と受け止めることができます。まさかこの舞台で地下芸人・ゆきおとこの話が出るとは。最後はまっくろくろすけを口から吐きながらのギター演奏。やりたい放題でしたね。

田津原理音・・・棚の組み立てを失敗し、取扱説明書を確認する男。読めば読むほど作り方がわからなくなっていく。
トレーディングカードと同じく、変形フリップネタですね。説明書によくある絵柄を模倣してあるのが心憎い。徐々に説明書の中で物語が展開していき、思わずのめり込んでしまいます。とにかく思いつくアイディアをたくさん書き出していって、そこから絞り込みを行った、厳選されたネタであることがうかがえました。

ハギノリザードマン・・・東京に移り住む息子との別れを惜しむ父親。息子と一緒によくやっていた遊びを再現する。
自分が得意とするモノマネやるための設定ですね。チャンスと比べてだいぶ自然です。全部レベルが高くて、安定感がある。大袈裟な箱に入ってるAmazonの商品、悲しい顔で表現するのが秀逸。おでこについたソースに哀愁を感じました。最後のTikTok、自分自身の宣伝にもなってて、ちょっとズル賢いですね。

ルシファー吉岡・・・友達と飲み屋で、「菅田将暉になりたいか」という話をする男。外見だけじゃダメなんじゃないかという持論を熱弁する。
雑談としては面白いし、言ってることの説得力もあるんだけど、「笑い」という点ではやや弱かったと思います。ラジオみたいな感覚で聴いてるぶんには心地よくて、ずーっとニヤニヤしちゃうんだけど、声を出して笑うまでには至らない、というかね。アパホテルの経営と、古民家カフェのたとえは秀逸。
ルシファーの脱・下ネタ路線、成功していると言えるのでしょうか。

吉住・・・婚活中の女性。たぶんマッチングサイトで知り合ったのであろう男性とデートをする。おしゃべりしながらの脳内会議が漏れ出てしまう。
吉住はファイナリスト発表の記者会見で、「仕事もあって順風満帆な人生だと思われているかもしれないが、そんなことはない。私は一度も恋人がいたことがないんだ」という意味の発言をしていましたが、その「こじらせ」をそのまま形にしたら、このようなネタになるのでしょうか。ひねくれ・偏見・毒舌がてんこ盛り。脳内の「積極的な自分」も「消極的な自分」も、性格の悪さはほぼ変わらず。3人で男のうさん臭さを追及する流れに。もっとプロファイリングで追い詰める展開になってたら、なおよかったかもしれません。最後に落語でオトすのは、必然性がまったくないのですが、でもそこがいい。
吉住に恋人ができたら、どうなるのでしょうか。精神的に満たされることで、毒気を失い、ネタがつまらなくなってしまわないでしょうか。だとしたら、このまま交際経験ゼロであり続けてほしい気もしますが、人の不幸を願うのはよくないし・・・。複雑ですね。

さや香 新山・・・挨拶も前置きもなく、いきなり話を切り出す新山。普段から思っていることを次々まくしたてる漫談。
共感を求めるという意味では、これも一種のあるあるネタなのでしょうか。勢いよくまくし立てたり、ピタッと止まって間を取ったり、緩急のつけ方、うまかったです。ですが、イマイチ共感を得ることができず、観客置いてけぼりになっていた感が否めません。「男の乳首いる」と主張し始めたので、下ネタに行くのかと思いましたが、そうはならず。なぜいるのか、その理由を言わないので、不発に終わってしまいました。打ち上げ花火に火がつかなかったみたいなかんじ。
ハリウッドザコシショウが、「センターマイクが置いてあるのに、なんでその前に立たないのか」って評してましたけど、これは、せっかくマイクが用意してあるのに使わないというボケでやってるんですよね。芸人でありながらその程度のこともわからないとか、ちょっと信じられません。

友田オレ・・・演歌歌手「かざまかずひこ」(漢字不明)が、唯一の持ち歌「辛い食べ物節」を歌う。
食べ物という普遍的なテーマだけに、共感を得やすい、という面があったと思います。特に、苦手な食べ物を無理に薦めてくるうっとうしさは、体験したことある人多いはずですしね。
友田本人ではなく、キャラを演じて歌うという点。いきなり歌うのではなく、受賞の挨拶をしてから歌った点。これらは余計な付け足しに思えるかもしれませんが、キャラクターの背景や、40年歌い続けてきたという歴史を含めて聴くことで、笑いに奥行きが出るのですね。いっさいリズムを取らない歌唱法、サビを歌い上げるときに右上を向くクセなど、細部の造形がよくできていました。

マツモトクラブ・・・日本語学校のネタ。教師がうんちくを交えつつ漢字を教えようとする。
いやー、生徒のセリフ、だいぶ詰め込みましたね。けっこう早口、かつカタコトの日本語なんで、聴き取りづらい箇所がありました。背後にBGMが流れていたのでなおさら。それから、生徒が全部で何人いたのか、最後までわかりませんでした。わからなくても楽しめるネタではありますが。セリフの聴き取りづらさに目をつむり、「教室の騒がしさ」「生徒の話を聞いてくれなさ」に振り回される教師の気苦労という視点で見るなら面白いかと。ダジャレは万国共通で、日本語覚えたての外国人にも笑ってもらえるってのは、日本語学校あるあるらしいです。


続きましてファイナルステージ。


田津原理音・・・「ぜんぜんええねんで」というくくりのあるあるネタ。引っかかるんだけど、いちいちとがめるほどではない日常の出来事を挙げていく。
1本目と打って変わって、実にシンプルなフリップネタ。1本目と比較して、少し物足りなさを感じてしまいます。面白いんですけど、1本目がよくできていただけに、どうしても工夫がないって思っちゃうんですよね。なぜこのシンプルフリップにしたのか。「確実に獲りにいく」ことを意識しすぎたのではないでしょうか。その結果、「冒険してない感」が出てしまった。そこが残念です。
いや、面白いのは面白いんですよ。きっと、もっといっぱい「ぜんぜんええねんで」があって、その中から特にウケがいいのを、絞り込んで持ってきてるはずですから。だからハズレがない。セリフの読み上げ方も、強弱のつけ方も、間の取り方もうまい。ただ、どうしても1本目と比べて「ちょっとな」って思っちゃう、ということです。
つまりはネタのチョイスミス。1本目と同じく変形フリップを持ってきていたら、2度目の優勝が現実となっていたかもしれません。

ハギノリザードマン・・・小学校の、生活の授業。日常にどんな人がいるのかを先生が紹介していく。
こちらも1本目と同じく、自分が得意とするモノマネのための設定。なんか見たことあるって(見たことなくても)思えるし、演技もうまい。99%の掃除は、小学生時代を思い出しました。2本とも安定して笑いを取っていた印象です。
かまいたちと同期のハギノ。これまでのキャリアで作り上げたネタを、厳選して持ってきたわけですから、面白いに決まってますよね。

友田オレ・・・法被姿の友田が、「ないないなないなない音頭」を歌う。様々な「ない」ことを挙げていく。
最初の2,3個聞いた時点で、「向こうは俺を~」という、関係性のアンバランスを言っていくネタであることがわかります。なので、ある程度オチが読めてしまう。ですが、読めても面白いんですね。これは音楽の力、音楽の気持ちよさのなせるワザなのでしょうか。「ないとぉ」の「とぉ」のところが特に気持ちいいんですよね。
こちらはキャラではなく、友田本人による歌唱。これは、キャラの背景による面白さを必要としない、というのもありますけど、自分を下げるネタなので、年配のかざまより、若い友田じゃないと受け止めにくいからですね。
ファイナルステージのネタ、3者ともあるあるネタでした。そして、田津原→ハギノ→友田の順に、見せ方の工夫、変形具合が上がっているのです。こうなると、どうしたってあとから出てくるほうが強く見えてしまう。ということは、はからずもですが、田津原はハギノの下地となり、ハギノは友田の下地となったのです。この偶然。組み合わせ順によって、友田の優勝は作り上げられたということです。いや、順番が違っていても優勝はしていたでしょうけど、3者の差がより明確になったのですね。そんな、運命のイタズラのごとき発表順となりました。


僕はM-1とキングオブコントの優勝予想はちょいちょい当たるんですけど、R-1は外すことが多くて、今回も大ハズレでした。いや、まさか友田がくるとは。
友田のネタ、観たことあるのは全部歌ネタなんですけど、歌ネタしかないんでしょうか。歌ネタ以外もあるならぜひ観てみたいです。そして、歌ネタしかないのであれば、その理由を訊いてみたいです。
芸歴3年目で、最年少優勝となった友田。大学のお笑いサークルで活動していて、そのままプロになったのですが、そこに「学生時代の活動も芸歴に含めるべきだ」って物言いつける人もいるんですよね。学生のときからお笑いやっててプロになったら、ゲタはいてスタートするようなもんじゃないかって。まあわからなくはないですけどね。
でもそれを言い出したら、友達とふざけたり、バカ話をしたりとかも、のちにお笑いに生きてくるわけで、保育園や小学校でふざけだしたその瞬間に芸歴が始まってた、ってことになっちゃうんじゃないでしょうか。だからプロになる前のことを言い出したらキリがないんですよ。気にするのはやめましょう。
友田の未来が明るいのは間違いないとして、準優勝のハギノも売れてほしいです。ハギノは現在、元スーパーニュウニュウの大将と、ベルナルドってコンビを組んでまして、そっちもどうなるか気になるところ。ハギノのほうは元々ローズヒップファニーファニーってコンビでした。スーパーニュウニュウとローズヒップファニーファニー、名前も似てれば芸風もそっくりだったんですよね。偶然なのか、なにかの運命なのか。
「準優勝のほうが売れる」というジンクスが今回も当てはまるかどうか。そこも注目です。
驚いたのは、さっくん(佐久間一行)が審査員になったこと。内気で、あまりテレビに出たがらないイメージあったし、審査とかも好きじゃなさそうって思ってたんですよね。いや、勝手なイメージですけども。しかし「千鳥のクセスゴ!」が終わった今、さっくんのネタ、どこで観ればいいのでしょうか。POWER!
あと、ちょいちょいカメラアングルが気になりました。ステージが低いのか、客席が高いのか、観客の頭が大きく映って、ステージが見えにくくなってるアングルがありましたので。そのへん、リハーサルで確認してなかったのでしょうか。
なんだかんだで23回も続いているR-1グランプリ。当面のあいだは終わることはないでしょう。フジテレビがどうにかならない限りは。

一枚絵・『マカエルス』

2025-03-11 00:21:23 | イラスト



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カルビー クリスプ うましお味・旨味コンソメ味

2025-03-08 01:05:06 | 
今日はサクッとしたやつです。






一般的な、スライスしたじゃがいもを揚げたやつじゃなく、すりつぶしたじゃがいもを固めて揚げてます。こっちがほしい気分のときもある。
「筒入りだったのが袋入りに~」とかいうCMやってましたね。僕は筒入りの時代を知りません。ひょっとして、最近まで九州じゃ販売してなかったのでしょうか。
あのね、ちょっと聞いてくださいよ。1年くらい前の話なんですけどね。
ある日の買い物帰り、交差点を通りかかりました。JRの駅近くの交差点で、けっこう人通りがあります。
その交差点の、歩道に設置してある信号機の柱に、80前後のおじいさんが寄りかかって座っていたんです。なんか、不自然な光景に見えました。
休憩しているようでもありますが、普通はわざわざこんな場所で休まない。時間をつぶしているようでも、人を待っているようでもありません。
そこの交差点は、歩車分離信号になってます。車道が全部赤信号になってから、歩道が青になる。だからナナメ横断もできるわけです。
歩行者が青になり、僕は自転車で渡ろうとしました。柱にもたれていたおじいさんは立ち上がり、小刻みに足踏みを始めました。
おじいさんが何をしようとしているのか、よくわからないまま横断歩道を渡り、渡った先でふり返りました。おじいさんは、立ち上がったその場で、足踏みを続けています。やがて信号は赤になり、おじいさんはしゃがみ込んで、再び信号機の柱にもたれかかりました。
事態を呑み込めないまま自宅に向かいました。帰宅途中で、おじいさんは足が悪くて歩けなくなっているのではないか、と気づきました。
普段は、なんとか歩くことができている。でも、たまに具合が悪くなり、足が動かなくなってしまう。
おじいさんはあの交差点で動けなくなり、座って足を休め、信号が青になれば立ち上がって歩き出そうとしていたのではないか。僕が目撃したときも、足を動かそうと試みたものの、とうとう動かず、また座り込んでしまったのではないか。そう推測しました。
たぶんそれが正解だな、と思いながら帰宅しました。そして、おじいさんのことがどんどん心配になってきました。
おじいさんはまだあの交差点にいるのではないか。何度も歩こうと試みては、うまくいかず座り込んで、をくり返しているのではないか。
気になって気になって、仕方ありません。いても立ってもいられない。
家を出て、再び自転車に乗り、交差点へ向かいました。
交差点に戻ると、果たしておじいさんは、まだその場にいました。柱を背に、車道のほうを向いて座っています。
僕はおじいさんに、「大丈夫ね?」と話しかけました。おじいさんは僕の言葉を理解していない様子で、「ん?」と答えました。
僕は、「どうかしたのかな、と思って」と言いました。おじいさんは、「え?」と答えました。なおも僕の言っていることを理解していない様子です。
僕は、「今何しよると?」と尋ねました。おじいさんは、「帰りよるところ」と答えました。
僕は、「歩かれんと?」と尋ねました。おじいさんは、またも質問を理解できず、意味のわからないことをゴニョゴニョ言っていました。

だんだんおじいさんの態度に違和感を覚えてきました。
おじいさんは、こちらの質問に答えてはくれるのですが、ひとことだけしか答えず、会話が続かないのです。
それに、ひとこと答えたら、すぐに僕への注意をなくすのです。こちらが質問したら、横にいる僕の顔を見て返事をしてくれる。でも、それが終わるとすぐに前を向き、僕のことは意識の外に出てしまうのです。そして、あたかも隣には誰もいないような無感情の顔で、ただ前を見つめるのです。僕がすぐ隣にいるのに、それをいっさい知覚できていないような気配なのです。
普通、町中で知らない人にいきなり話しかけられたら、何かしらの関心を持つものです。「誰なんだろう」とか、「なんの用だろう」とか、「何を考えているのだろう」とか、「なんか企んでいるんじゃないか」とか。積極的に興味を持つ場合もあるし、警戒心を抱く場合もある。ですがいずれにせよ、相手に対して「かまえる」ものです。
ですがそのおじいさんは、僕に対して、いっさいかまえなかった。僕に何の関心も起こさず、ただ質問に端的に答えるだけだったのです。
それに、僕はそのとき、あからさまに「あなたのことを助けたいと思ってますよ」という雰囲気をまとって話しかけました。人の様子をある程度察することができるなら、すぐにその雰囲気を読み取れるはずです。
しかし、おじいさんはそれをまったく理解しなかった。僕がどのような意図をもって話しかけたかを理解せず、ひとつの質問にひとことずつ答えるだけだったのです。
町中でいきなり話しかけられた知らない男に、いっさい関心を持たず、相手の雰囲気を察することもできず、質問に端的に答えるだけ。しかも、答えたらすぐに相手に対する注意を失う。いや、そもそも質問に答えている最中ですら、僕をいっさい注意していないのかもしれません。
質問には答えてくれるけど、答えたらすぐに前を向き、僕に対する意識がフッと途切れる。これが何度もくり返されました。
僕はおじいさんの、極端なコミュニケーション能力の欠如に戸惑いました。ですが、戸惑いつつも、とにかく助けてあげねばならないと、行動を起こすことにしました。
僕は、「担いであげようか」と尋ねました。おじいさんは、「え?」と答えました。もう一度「担いであげようか」と尋ねましたが、反応は同じでした。おじいさんは、僕の言葉の意味がわからないどころか、僕が助けてあげようとしていることすら理解できないようでした。

とにかくもう、おじいさんが理解できようができまいが、助けてあげればそれでいいと、行動に移すことにしました。僕がおじいさんをおぶって、家まで連れていってあげればいいのです。
しかしそのとき、僕はちょうど腰を痛めていました。おじいさんは小柄でしたが、それでもおんぶは負担が大きい。腰を悪化させてしまいかねない。
なので、ほかの人を頼ることにしました。人通りの多い交差点なので、頼れる相手はたくさんいます。誰かほかの、それなりにたくましい若い男に、代わりにおんぶしてもらおうと考えたのです。
僕は、ハタチ前後のカップルの、彼氏の方に話しかけました。「あの、お急ぎでなかったら手を貸してほしいんですが」
彼氏さんは、「ちょっと急いでるんで」と答えました。「そうですか、すみません」と言いつつ、「警戒されたか?」と思いました。
路上で、知らない男から突然話しかけられたのです。警戒するのが普通です。
「こりゃ手こずるかもしれんな」と思いつつ、ふとおじいさんのほうを見ると、ちょうど歩道が青になっていて、おじいさんはまた立ち上がっていました。
おじいさんは、また足踏みをしています。するとどうでしょう、おじいさんの足が動き出したのです。
僕との会話が体を活性させたのか。それとも、たまたまそのとき体が調子を取り戻したのか。
それはわかりませんが、とにかくおじいさんは歩き出したのです。ヨロヨロとした足取りながら、横断歩道を渡っています。
僕は念のため、あとをついていきました。しばらくうしろからうかがっていましたが、足取りは弱々しいものの、おじいさんは止まることなく歩み続けていました。もう大丈夫そうに見えたので、尾行をやめ、家に帰りました。

この出来事はこれでおしまいです。おじいさんはケガをすることも、事故に遭うこともありませんでした。おそらく、無事に帰宅したのでしょう。僕の余計なお世話でしかなかったのかもしれません。
ですが僕は、考え込まずにはいられませんでした。おじいさんの、異様なほどのコミュニケーション能力の欠如についてです。
思えば、おじいさんは自分から助けを求めようとしなかった。人通りの多い交差点にいたので、その気になれば、助けを求めることは簡単にできたはずです。
おんぶはなかなか頼めないかもしれませんが、肩を貸すくらいなら気軽にOKしてくれる人は多いでしょう。おじいさんが「ちょっと肩貸してくれ」と頼めば、応じてくれる男の人はいくらでもいるでしょう。
なのに、おじいさんは助けを求めようとはしなかった。柱に寄りかかって座り、信号が青になるたびに立ち上がって、自力で歩こうと試み続けたのです。
僕がおじいさんに声をかけるまで、ほかの誰もおじいさんを助けようとしなかった、というのもなかなか異常な話ではありますが、おじいさん自身が助けを求めなかったというのも、かなり不自然なことです。
なぜおじいさんは助けを求めなかったのでしょうか。
思うに、それもコミュニケーション能力の欠如のせいではないでしょうか。
おじいさんは、僕が助けようとして話しかけたということを理解できませんでしたが、それと同様に、自分が助けてもらうべき状況にある、ということも理解できていなかったのではないかと思うのです。
だから自分から助けを求めなかった。助けを求めようとはせず、何度も自力で歩こうと試み続けた。
僕はさらに想像をめぐらせました。おじいさんは、あのときの交差点の場面だけでなく、普段から人に助けを求めようと考えられなかったり、人の善意を理解できなかったりしているのではないか。コミュニケーション能力の極端な欠如ゆえ、人とつながりを持つことができず、孤独な立場に立たされ、そのうえ自分が孤独であることも理解できずにいるのではないかと。
家族なり友達なり、身の回りの世話をしてくれる人や、安否を気にかけてくれる人がいたらいいでしょうけど、そういった人がひとりもおらず、ひとり暮らししていたらどうでしょう。独居老人には、民生委員が見回りに来たりとかしますけど、そういった福祉も必要と感じることができず、すべて断っていたらどうでしょう。
高齢者であれば、あるいは低収入者であれば受けられる行政サービスも、その存在を知らなかったり、自分が享受すべきと思えず、そこからこぼれ落ちてしまっているのではないか。何かしらの助けが必要なほど体が弱っているのに、そのことを理解できず、自力でなんとかしようとし続け、その結果として、さらに体調を悪化させてしまっているのではないか。
もしおじいさんが、救急車を呼ばねばならないような危機的状態になったとしても、「これは救急車を呼ぶべきだ」と思えず、痛みや苦しみに耐え続けてしまうのではないか。悪くすれば、そのまま亡くなってしまうのではないか。
いや、これらはすべて推測にすぎません。おじいさんには、身の回りの心配をしてくれる家族や友達がいるのかもしれない。そうじゃなくても、いざというときには自分から助けを求めることができるのかもしれない。だとしたら、僕の考えはすべて余計なお世話です。
ですが、推測が当たっていないとも言い切れません。短時間接しただけでしたが、その印象からは、おじいさんが普段誰ともつながっておらず、自分から助けを求める声を上げることもできない人である可能性は、高いと思われました。ここでは、この推測が正しいものと仮定して、以下の議論に進みます。

僕は、「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」という言葉が嫌いです。なぜ嫌いなのか。今まではその理由を、きれいごとに聞こえるからだと思っていました。
しかし今回の件を機に、そんな感情論にとどまらない、もっと根深い問題が潜んでいるということに気づきました。
「誰でも大切に思ってくれる相手がいる」というのは、事実ではありません。端的に間違っています。悲しいことですが、誰からもなんとも思われていない、孤独な人は存在するのです。
しかし、そんな人であっても、幸せに暮らしていける世の中でなくてはならない。できれば大切に思ってくれる誰かを作ったほうがいいんでしょうけど、どうしたってそれが難しい人もいるのです。だから、孤独であるのが動かしがたい前提としたうえで、それでも幸せに暮らしていけるにはどうしたらいいか、を考えないといけない。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」という言葉は、それをできなくさせてしまうのです。だって、大切に思ってくれる人がいるのなら、その人が絶対に幸せにしてくれるはずだから、周りは何もしなくていい、という判断になるからです。
誰からも思われていない人がいて、孤独に暮らしていたとしても、その人を助けてあげようと考える人はいなくなる。助けるべきは自分じゃなく、大切に思っている誰かだ、ということになるからです。そんな人がいなくても、この言葉のせいで、いるかのように錯覚してしまう。
かくして、誰からも思われていない人の孤独は見過ごされ、その人を幸せにしようと働きかける人は現れないままになってしまうのです。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」という言葉には、現に存在する孤独な人から目を逸らし、その不幸を放置してしまう効果があるのです。
悲しいことですが、どうしたって、誰からも思われていない人というのは存在するのです。それを認めたうえで、「じゃあそんな人でも幸せに生きていけるにはどうしたらいいか」を考えないといけない。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」などと言っていたら、それができなくなってしまうのです。
誰からも思われていないような人であっても幸せに生きていけるには、どうしたらいいでしょうか。そこをちゃんと考えないといけません。
福祉や行政の網の目をもっと細かくし、そこからこぼれ落ちる人が出てこないようにすべき、というのもひとつです。弱っている人、苦しい立場に立たされているであろう人を見逃さず、積極的にかかわりを持ち、困ったときに協力し合えるつながりを作る、というのもひとつでしょう。ほかにも、もっといろいろあるはずです。
大切なのは、人任せにしないこと。「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」などと言って、その誰かが自分の代わりに助けてあげるだろうと決めつけたりせず、自分から助けに動くこと。
思えば、あの日の交差点で、僕以外の誰もおじいさんを助けようとはしませんでした。単に気づかなかった、という人もいるでしょうけど、気づいていたのにたいしたことないだろうと決めつけてたり、自分以外の誰かがなんとかしてくれるだろうと、人任せにしてしまっていた人だっていたはずなんです。
そんな積極性のなさ、人助けの消極的態度が、助けが必要な人から目を逸らしてしまう。見て見ぬフリをしてしまうのです。

「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」などというきれいごとに目を曇らされることなく、正しく現実を直視し、誰からも思われていない人にも救いの手を差し伸べられるようになれるか。みんながそんな心がけを持つことができるか。そんな社会を設計できるか。
そんなことを考えました。