今日は薬味と肉です。
わさビーフといえば、吉本新喜劇座長の小藪千豊が、「ベジタリアンに育てられたから肉食えないけど、わさビーフはめっちゃ好き」って言ってたのが印象深いですね。2020年にパッケージの牛のキャラが、キングコングの西野さんのデザインに変更されてて、それに対してけっこう反発があったらしいんですけど、それって、「元のデザインのほうがよかった」ということより、「西野みたいなうさん臭いヤツのイラスト使うな」っていう意見が大きかったんじゃないでしょうか。
「沈む船の寓話」というのがありますね。客船が嵐に遭って沈みそうになっている。脱出ボートで逃げなきゃならないけど、全員乗ることができない。女性と老人・子供を優先し、男性には海に飛び込んでもらわなくてはならない。このような場合、「どう説得すれば飛び込んでもらえるか」が、国によって違う、という話。
アメリカ人であれば、「飛び込んだらヒーローになれますよ」
イタリア人であれば、「飛び込めば女性にモテますよ」
ドイツ人であれば、「規則でそうなっています」
日本人であれば、「みんなそうしています」
この話のオチは、「日本人はどんなことでもみんながしていると言われればやってしまう」というもの。日本人の主体性のなさ、極端な全体主義を揶揄した話なのですね。
日本人の中にはこの話を聞いて、「だから日本人はダメなんだ」と考える人もいます。日本人のダメさ加減をわかりやすく戯画化した話なので、それは当然の反応ではあります。でも僕は、「だから日本人はダメなんだ」という反応自体が、極めて日本人的だと思うんですよね。
だって、「日本人ってダメだよね」って話を聞いて、素直に「ダメだなぁ」って思ったわけでしょ。それって、まったく自分の考え、つまり主体性がないってことじゃないですか。
「主体性がない」という話を聞いて、素直に「ホントに主体性がないよね」と受け入れる、その態度がまさに主体性の欠如の表れなんですよ。
だから、「主体性がないのはよくない」というのであれば、この話を聞いたときに、素直に「ホントそうだよな」って受け入れるのではなく、「それの何が悪いんだ」って反発すべきなんです。素直に受け入れるのは、この寓話のワナにまんまと引っかかっていることになるんですよ。
だいたいこの話、日本人だけがバカなんですか?ほかの国の人たちも、考えようによっちゃそうとうバカですよ。
アメリカ人はお調子者と言えるし、イタリア人は恋愛や性愛のことしか念頭にない助平、ドイツ人は頭の固い杓子定規。考えようによっちゃあみんな「どっちもどっち」なんですよ。必ずしも日本人だけがバカとは言えない。
さらに言わせてもらうと、主体性がないのはそんなによくないことなのか、ってことですよ。たしかに問題点もあります。「それがホントに正しいのかどうか」を考えず、みんながしてることにつき従うのには、危険性がある。間違った方向に向かっているのに、それに気づかず破滅してしまう恐れがありますから。あたかも、ゲームの『レミングス』のように。
しかし、「個」を殺してきたからこそ経済成長を成し遂げることができた、という側面もあります。震災などの有事の際に、人々が物資の奪い合いなどのパニックを起こしにくい、という面だってあるのです。主体性のなさは、悪いことばかりではない。
僕がこの寓話に反発するのは、「日本人の国民性は短所でしかない」という安直なメッセージが込められているからです。国民性は、短所でもあり、長所でもあるのです。そういう視点を持たず、ただ短所だけをクローズアップした物語には、どうしたって反発せずにはいられません。
主体性がないのが国民性。だったら、その長所を活かし、短所を補うにはどうしたらいいか、を考えるべきです。なぜ「だから日本人はダメなんだ」という結論に達し、一足飛びにその国民性からの脱却を訴えるのか。
国民性を捨て去るなど、そうそうできることではありません。それはアメリカ人もイタリア人もドイツ人も同じです。それに、今現在の国民性を捨て去ることができたとしても、また新たな国民性が生まれるだけです。その新たな国民性にも、やはり長所と短所、両方あるのでしょう。
だからどのみち、長所を活かし、短所をおさえるすべを模索するしかない。
この寓話は、そのような教訓を含むものとして読むほうが、よっぽど生産的ではないでしょうか。
わさビーフといえば、吉本新喜劇座長の小藪千豊が、「ベジタリアンに育てられたから肉食えないけど、わさビーフはめっちゃ好き」って言ってたのが印象深いですね。2020年にパッケージの牛のキャラが、キングコングの西野さんのデザインに変更されてて、それに対してけっこう反発があったらしいんですけど、それって、「元のデザインのほうがよかった」ということより、「西野みたいなうさん臭いヤツのイラスト使うな」っていう意見が大きかったんじゃないでしょうか。
「沈む船の寓話」というのがありますね。客船が嵐に遭って沈みそうになっている。脱出ボートで逃げなきゃならないけど、全員乗ることができない。女性と老人・子供を優先し、男性には海に飛び込んでもらわなくてはならない。このような場合、「どう説得すれば飛び込んでもらえるか」が、国によって違う、という話。
アメリカ人であれば、「飛び込んだらヒーローになれますよ」
イタリア人であれば、「飛び込めば女性にモテますよ」
ドイツ人であれば、「規則でそうなっています」
日本人であれば、「みんなそうしています」
この話のオチは、「日本人はどんなことでもみんながしていると言われればやってしまう」というもの。日本人の主体性のなさ、極端な全体主義を揶揄した話なのですね。
日本人の中にはこの話を聞いて、「だから日本人はダメなんだ」と考える人もいます。日本人のダメさ加減をわかりやすく戯画化した話なので、それは当然の反応ではあります。でも僕は、「だから日本人はダメなんだ」という反応自体が、極めて日本人的だと思うんですよね。
だって、「日本人ってダメだよね」って話を聞いて、素直に「ダメだなぁ」って思ったわけでしょ。それって、まったく自分の考え、つまり主体性がないってことじゃないですか。
「主体性がない」という話を聞いて、素直に「ホントに主体性がないよね」と受け入れる、その態度がまさに主体性の欠如の表れなんですよ。
だから、「主体性がないのはよくない」というのであれば、この話を聞いたときに、素直に「ホントそうだよな」って受け入れるのではなく、「それの何が悪いんだ」って反発すべきなんです。素直に受け入れるのは、この寓話のワナにまんまと引っかかっていることになるんですよ。
だいたいこの話、日本人だけがバカなんですか?ほかの国の人たちも、考えようによっちゃそうとうバカですよ。
アメリカ人はお調子者と言えるし、イタリア人は恋愛や性愛のことしか念頭にない助平、ドイツ人は頭の固い杓子定規。考えようによっちゃあみんな「どっちもどっち」なんですよ。必ずしも日本人だけがバカとは言えない。
さらに言わせてもらうと、主体性がないのはそんなによくないことなのか、ってことですよ。たしかに問題点もあります。「それがホントに正しいのかどうか」を考えず、みんながしてることにつき従うのには、危険性がある。間違った方向に向かっているのに、それに気づかず破滅してしまう恐れがありますから。あたかも、ゲームの『レミングス』のように。
しかし、「個」を殺してきたからこそ経済成長を成し遂げることができた、という側面もあります。震災などの有事の際に、人々が物資の奪い合いなどのパニックを起こしにくい、という面だってあるのです。主体性のなさは、悪いことばかりではない。
僕がこの寓話に反発するのは、「日本人の国民性は短所でしかない」という安直なメッセージが込められているからです。国民性は、短所でもあり、長所でもあるのです。そういう視点を持たず、ただ短所だけをクローズアップした物語には、どうしたって反発せずにはいられません。
主体性がないのが国民性。だったら、その長所を活かし、短所を補うにはどうしたらいいか、を考えるべきです。なぜ「だから日本人はダメなんだ」という結論に達し、一足飛びにその国民性からの脱却を訴えるのか。
国民性を捨て去るなど、そうそうできることではありません。それはアメリカ人もイタリア人もドイツ人も同じです。それに、今現在の国民性を捨て去ることができたとしても、また新たな国民性が生まれるだけです。その新たな国民性にも、やはり長所と短所、両方あるのでしょう。
だからどのみち、長所を活かし、短所をおさえるすべを模索するしかない。
この寓話は、そのような教訓を含むものとして読むほうが、よっぽど生産的ではないでしょうか。