青山潤三の世界・あや子版

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なぜ、コロナに感染しちゃいけないのですか? 「香港デモ」と「新型コロナウイルス」 補遺

2021-05-12 21:20:16 | コロナ、差別問題と民主化運動、明治文学


★5月11日の記事に、いいね!その他ありがとうございます。


読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

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今日のブログ記事は、前々回の「つづく」を受けて、その後半の『「香港デモ」と「新型コロナウイルス」~“陰謀論”の本質を考える』を書く予定でした。しかし想うところがあって二つに分け、「後半の前半」を『「香港デモ」と「新型コロナウイルス」~“現代ビジネス”との軋轢の経緯』として、分割掲載することにしました。しかし、更に想うところがあり(突然の思い付きですが、笑)、「後半の前半」にもう一つ「前半(補遺)」を付け加えることにしました(「補遺」が本文の先に来ちゃいます)。

イミグレーション出入国時に、申請用紙に記入しますね。チェック✓欄があります。全部、是(はい)か否(いいえ)か、どちらか一方に✓(質問の方向性を受け止め間違えて、うっかり反対側に✓を入れる人が結構いそうだけれど、そういったのは“勘違い記入”との判断でスルーされちゃってるんだろうな)を入れれば良いわけです。

あの自己申請✓が、どうにも解せません。「危険なものを持っていますか?」と言われても、「持ってます」と答えるわけないでしょう? そもそも、そんな人は搭乗出来ません(まあ、それを承知で乗ったのが、バイオリンケースの中のゴーンさんですが)。インターネット使用時に「承諾しますか?」というチェック欄が出てくるけれど、「しません」という人は、最初から使う気はないでしょう。むろん、「意味」と言う事で言えば、国や企業の側の責任逃れ(リスク管理、証明)としては、✓記述の有無が最終的な免罪項として意味をもつのでしょうが。

最近は余り出会わないのだけれど(たぶん国や航路で異なる?)、こんな項目もあります。
「あなたは反社会的人間ですか?」
これは、いつも結構考えます。
僕は、十分に「反社会的」な思想を持っているので。
行動は起こしませんよ。思想です。
したがって、「はい」「いいえ」で答えるならば、「はい」のほうに✓を入れたい衝動にかられます。
でも、しちゃったらどうなるのか?
最初に挙げた例ならば、勘違いで全部「はい」と「いいえ」を取り違えた結果と、暗黙の了解でスルーされてしまう可能性が大でしょうが、一か所だけ違っていれば、そういうわけにはいかないかも知れません。拘束されちゃうかも知れない。
それでいつも、迷った挙句「いいえ」のほうをチェックしています。

ということでして、ここ(このブログ)は飛行機の中でもイミグレーションでもないですから、「あなたは反社会的人間ですか?」と問われれば、堂々と「はい」と答えます。

ここで言う「反社会」の“社会”とは、政権とか大企業とか目に見えた権力ではありません。「大衆」(の無意識強要同調空気からなる圧力)で構成される「日常社会」です。

暗黙の了解で、言ってはならぬのだろうことを言った場合、どうなるのか?「表現」と「行動」では、「自由」に対する束縛力が異なるでしょうから、言うだけなら、なんという事もないと思います。

もっとも、大逆事件(1910-11年)では、言っただけ(皇室批判)で、多くの人が死刑に処されています。それから100年以上経っているので(100年ちょっとしか経っていない、とも言えますが)、さすがに言っただけで重罪に囚われることはないでしょう。それに、僕の為し得るプラットホームからの発言など、全くスルーされてしまうでしょうから。プラットホームがまともなところ(いわゆるメジャーなメディア)からの発言だと、どうなるのかは分かりませんが。

今、プラットホームと書いて気付いた(全く偶然です)のですが、昨夜たまたま、広津柳浪の「昇降場(プラットホーム)」という短編小説を読みました。

1905年(明治38年)に発表された(執筆は前年)、ごく短い小説。全編、会話を切り取っただけで構成されています。しかし複数の発言人物の会話が非常に複雑に入り組んでいて(正直読みづらい)、たぶん何10回繰り返し読まねば良く把握できないかも知れません。

ブックレビューの感想が4人ありました。どれもよく纏められています。だいたいこんな内容です。

>主人公の美子さんが友人の若子さんと一緒に、若子さんの兄の出兵を見送りに行った時のお話。この言葉が不適切でなければ、ものすごく面白かった。何の心配もなく戦ってこいという赤子を抱いた気丈な嫁もいれば、迷惑がる兄をよそに死ぬなと泣きわめく妹もいる。謎の強面の学生もいる。色んな人間模様があり、最後の一文「顔だけは何見ても日本の人!」が最高。思わず笑ってしまいました。女性言葉で書かれていて、当時の女性の感覚が感じられます。

>日露戦争に出兵する兵士の見送りをしているプラットフォームでのワンシーンを切り取った小作。その様子は千差万別で当時、どのような態度が美徳とされていたのかよくわかる。

>出征前の駅を描く。泣いて出征を止めようとしたり、生きて帰ってくることを望み、そのことを大声で訴えることが、当時どのような目で見られていたのかが垣間見える。死の可能性を受け止めて送り出すひと、ただ生きて帰ってくることを望むひと、出征を表面上応援しながらも内心では心配でたまらないひと、短い短編だが、色々な人々の顔がみえて面白い。

>会話がかわいらしくて良いな…。心情が伝ってきて泣いた。どの人間の気持ちも分かってつらかった、時代によって白い目で見られたり同情されたりするのが。この三者三様を並行して書いてるのがまた良いな。かなしいな、ほんとうに。

柳浪は、この暫く後に筆を折ります。ちなみに前回紹介した漱石の「一夜」と同時期の執筆。漱石は柳浪と入れ替わるように、第一線に登場するわけです。

漱石は20年間に亘って「雌伏」していたことになりますが、改めて考えると、近代文学がスタートしたとされる明治20年代の初頭から(一葉が没した明治29年を挟んで)自然主義が台頭する明治30年代にかけての20年間、漱石は周回遅れ、鴎外が再び活動を始めるのは明治40年代(実質大正)、逍遥は小説の場から自ら退場し、美妙は退場を余儀なくされ、二葉亭は翻訳に専念し、露伴も多くは書かない(緑雨曰く、露伴は書けないのではなく書かない、紅葉は書いてはいるけど中身のある作品は書けない)、そして、その緑雨、紅葉、一葉らは既に亡い。

結局、明治20年代初頭から30年代を通して、一貫して第一線の小説家であり続けたのは柳浪一人で、他に誰もいないように思います。

柳浪は明治40年代に入って、完全に小説の筆を折りました。日本が日露戦争に勝利し、世界の列強の一員に加わり、やがて大逆事件が起こるなど、「異論」が日常社会から抹殺されて行く頃です。

前にも触れたのですが、緑雨(明治37年、1904年没)が生きていたなら、晩年極めて親しくしていて、強い思想的な影響を与えたであろう幸徳秋水と共に、大逆事件に関わったのだろうか?と考えることがあります。

「世の中おかしい」と、秋水らは行動を準備し、一方、片山潜のように組織作りを目指したりする人たちもいるわけです。でも、それ以外の立場で、個人的に「おかしい」に対しよう、という人もいた。

「その時々の流行を追っている、つまり、捻じれた、時代を超越したような考えは持ってもいず、解せようともしない、飽くまで穏健な、眼前に提供せられる受用を、程好く享受しているという風の、下町の聡明な若旦那の生活」を「羨ましく思う」ことで、(それは、緑雨、柳浪、漱石、鴎外、逍遥、露伴、、、別に誰でも良いのですが)それぞれの立場や方法で、「無意識強要同調空気」に対する懸念を、深く掘り下げて対峙しようとしていた人たちです。

彼らが「正しかった」かどうかは、別問題です。例えば鴎外。軍医のトップでもあった彼は、脚気の原因を読み違えて、多くの兵士を死に至らしめました。「今であれば極悪犯罪人として裁かれる」と、なだいなださんが言っていました。

でも、流されてはいない。ひとつの方向に、識者論客全員が突き進んでいくことはなかった。今の識者論客の話を聞いていると、頭脳だけ立派な、AI人間の劣化版のような人たちばかりで、ガッカリです。100年前と同じ、いや、100年前のほうが、今よりずっとマシだったと思います。

雑踏のプラットホームの中に入り組んだ個々の声や想いは、塊となった集団の声の中でかき消されるわけですが、同じプラットフォームでも、辺鄙な田舎の駅のプラットホーム(僕のブログの事です)には、もしかすると人ひとり乗降客がいない(訪れる人がいない)のかも知れないわけですから、かき消されるどころか、何を言っても誰にも届かないわけです。

そんなわけで、誰もいないプラットホーム(発信の場)から、不謹慎承知で発言し続けます。

「コロナに感染しない感染させない」「ワクチンを打とう」「マスクで防ごう」
全部意味ないですね。

別に、コロナに感染しても良いでしょう? ワクチン打つ必要もないと思うし、マスクなんていりません。

バカの一つ覚えと言われようが、繰り返して言います。

コロナは風邪です。
風邪は大変に怖い。

マスクを付けた方が良い場合もあるだろうし、ワクチンが必要な時もあるでしょう。

・・・・・・・・・・

「昼は明るい」「夜は暗い」、、、とは限りません。人間にとっての「明るさ(暗さ)」の基準と、他の様々な生物にとってのそれは、同じものではないでしょうから。光と闇は相対的な存在で、昼には光が強すぎて見えない(感じない)対象が、夜には透徹して感じることが出来る、ということも有るでしょう。

「命に代わるものはない」と言いますね。それは本当なのでしょうか? 「殺人は悪」、それも本当なのかどうか、僕は分からないでいます。

「ロジカル(理論的)に」という人は、それらの事を、ロジカルに説明できるのかどうか、余り信用も期待もしていません。もとより「~的」という語は、「誤魔化し」と同義語と僕は思っているので。

・・・・・・・・・・

今、今日の大リーグ(野球)の結果が報告されています。
大谷、マエケン、菊池、日本人三人が同日先発(ダルは明日)。
三人とも好投したけれど、勝ち星がつかなくて残念。
というニュースです。

そのコメント欄を見るに、
>今は「勝ち星」重視の時代ではない(勝ち星に拘るなんて何と古い考えなのか)。
>大事なのは、クオリティスタート、登板数、防御率、奪三振数、、、
>そのほか様々な数値をもって客観的な評価が成されるべき。
みんな、一斉に口を揃えて、見事に同じ発言をしています。
むろん、その通りです。

でも、この間まで、そんなこと言ってなかったよね?
僕も現場(アメリカ)のファンの人たちも、ずっと昔から指摘していたはずだけれど、日本の野球ファンは、無視嘲笑し続けていたよね?
それが、ひとたび「正統な意見」として認知されるや、今度は全員が一斉にそれに従いだす、、、、。

「意見」の内容の是非以前の問題。
一斉に同じ方向を向き、そうでないものを無視・排除する。

「その時々の流行を追っている、つまり、捻じれた、時代を超越したような考えは持ってもいず、解せようともしない、飽くまで穏健な、眼前に提供せられる受用を、程好く享受しているという、、、、聡明な」(鴎外「百物語」)人々から構築されている世界が、コロナよりもずっと怖いです。






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