青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

現代ビジネス:アメリカ記事

2018-07-07 08:41:50 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


ミズバショウや杉も?日本の植物がなぜか「北米大陸」で見つかる謎

U氏への私信 Ⅲ 2018.7.6

仕事とは無関係の、全くの個人的な話です。
(心情をすぐに伝えられる相手が日本には限られているので)

全く、意味が異なるということを承知のうえです。
どうしても「大逆事件」を思い出してしまいます。
繰り返し言いますが、全然意味が違うし、彼ら(オウム信者たち)のやったことは、死を持っても拭えないことです(まあ、それを言えば安倍さんだって、、、、この話はやめましょう、笑)。
でも、僕の思いは「大逆事件」に重なる。

非常に仲のいい友人が、オウム(それも幹部)にいました。僕を全面的に信頼してくれていました。むろん(といって良いか)死刑囚の人たちには含まれていません(実行犯ではないので、、、でも彼女と一緒にいる時は僕も尾行されたのですよ)。

彼女の人柄は、「真面目」「物事に対し真剣に向き合う」「自分中心ではなく常に他人の事を考えている」「素直」「質素」「明るい」「頭が良い」「それなりに美人」、、、、いいとこだらけですね。友達として、少なくともU氏よりは(僕自身よりも)ずっと上です(笑)。

サリン事件があった後、しばらくして連絡が途絶えました。それっきり会っていません。最後の電話での短いやり取りが、今も頭にこびりついています。ずっと以前から彼女にしていた質問の答えです。永い間、ずっと考え続けてきたことなのだそうです(敢えてここには書かない、笑)。

話しが飛躍します(むろん僕の中では直結しているし、人によってもそう~空白部を埋める能力がある~と思いますが)。貴兄からすれば「支離滅裂」で「幼稚極まりない」ということは、理解していますけれど、、、。

僕は、死刑は、いかなる場合でも、絶対に反対です。僕の唯一の信念です。




U氏への私信 Ⅱ 2018.7.5

これ、送信しようかどうか迷っていたのです。立て続けにメールして、これ以上貴兄に嫌われたくないですし、、、(笑)。

でも、もう一つ言っておきたいことを突然思いついて、メールすることにしました。そのもう一つ、とは。

貴兄へ訂正願い。僕に「余生」はありません。全て「人生」です。貴兄も僕の年になれば分かると思います(分からない人もいるかも知れないですけれどね)。もう、一日一日が勝負なので、早めに言っておきます。

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なぜアナゴはウナギの代わりにならないのか、その違いは?


非常に失礼な表現になるでしょうが、、、。そして、こんなことを書くと、貴兄に益々嫌われる(バカされる?)結果になるだけなのかも知れませんが、、、。

むろん自分の為でもあるのでしょうけれど、貴兄の将来、そして日本のメディア(ひいては日本人)の為を思っての、意見です。僕は貴兄の友人だと思っているので、はっきりと言います。

貴兄や、その所属するマスメディアという背景が、今更ながら恐ろしく思えてきました。重ね重ね言いますが、失礼に当たるようならば、どうかお許しください。

前にも同じような質問をして「否」という答えを頂いたのですが、、、上の記事は、貴兄が執筆されたのですか? そうであれば、ホッとするのですけれど。もし、本当に“そうでない”ならば、非常に怖いです。

僕から見れば、論調や言葉使い、話しの進め方が、余りにも酷似している(というか、全く同じ)。これが貴兄の筆によるものなら、「個性」で一件落着です。

しかし、別人の筆によるならば、、、、まさにクローンの世界ですね。「良い文章の書き方」というものが、それこそ「クオリティ・コントロール」され切っている。

(本人でないとすれば)U氏ご自身は気付かれないだろうど、いつの間にか「正しい文章の書き方」というのが「教科書的」に定義・構築されてしまっている。中にいる人間には分からないだろうけれど、外(現実的には、好むと好まざると、日本の社会の仕組みの「外」にいることの出来る日本人は、ごく少数派)から見ると、異様ですよ!

逆説的な意見になりますが、このような記事が、「理論の飛躍と矛盾のない」「具体例が示され」「一定の水準に達した」文章として(個人の個性としてではなく)共通認識されているとすれば、もちろんのこと、僕の書くような文章は「矛盾だらけの飛躍した理論」に基づく「具体例の示されていない」「公に発表出来る一定水準に達していない」記事として、全否定されてしまうわけです。

繰り返し言うけれど、自分を守ろう(自分の文章なりを正当化しよう)と思って言うのではありません。また、この文章や記事の内容自体を批判するつもりはありません。それなりに面白く、単独で見れば好意的に受け取りたいです。

でも、まるで金太郎飴のような、「飛躍と矛盾のない理論」「具体例の提示」による“いかにも”な構築で成された記事ばかりが、横並びで示される現状に対しては、つくづくウンザリするしかありません。

「一定の水準に達した文章」を言い換えれば、ある意味、自己保身を過剰に纏った文章であるような気がします。そして、想像力に欠けた、形通りに収まった思考パターン。僕を含め、全体からすれば少数かも知れないけれど、たぶん少なからず数の読者は、そのような記事によって発せられる、メディアの吸引力に辟易し、未来を危惧しているのです。



U氏への私信 Ⅰ
2018.7.4

> 「天安門の話、そう卑屈にならずに書いてみたらいかがですか?」というU氏からの提案を受けて。

天安門事件の話は、たしか「逮捕」の記事のコメント欄の中で、当時北京の大学にいらした「不倒翁」さん共々、お互いの体験談をかなりの分量(一回400字なので互いに7~8回)書き記しています。

ただ、お送りしたメールにも書いたように、「体系的な知識がなく、稚拙な表現しか成し得ない」(別に卑屈になっているわけではなく、半分くらいは誇りです)僕には、貴兄の望むような文章は書けないと思います。おそらく、たまたま一般人が遭遇した、どうでも良い、つまらない(重厚さに欠ける)話、としか受け止めてもらえないことと思います。僕自身や(一部の読者は)、そのような「重厚さに欠ける、さりげない(つまらない)部分こそ、深遠部分に繋がる」と信じているわけですが、大勢はそうではないわけですから。

天安門事件との関りについては、これまでも何度か貴兄にお伝えしている(はず)です。繰り返し言うけれど、「重厚さに欠ける、さりげない(つまらない)話」でしかありません。

●留学生たちは、ひと月ほど前から、ある意味「今か今か」と事態の展開を待ち構えていた。毎日のように、その話題で議論を交わしていた(それ以外はゲームと相当に乱れ切った男女交際)。僕は、全くその輪に入れてもらうことが出来ず、連日、山に調査に向かっていた。

●北京で事件が起こった当日、僕は終日、(日本人以外の数人の欧米人や中国人学生と共に)成都最大のホテル「錦江賓館」屋上のレストランバーにいた(日本人学生たちがどこにいて何をしていたかは知らない)。

●非常に緊張・高揚した空気が、町中に漂っていた。僕は、錦江ホテルの向かいにある、もう一つの高級ホテル「ミン山飯店」との間に挟まれた、町(地方都市と言っても人口1000万人を越す東京並みの大都市)の中心の広場を兼ねたメインストリート(東京で言えば銀座4丁目)を見下ろしていた。

●午後になると、刻々と人が集まってきた。まるで甘いお菓子に集まる蟻のように。その数は膨れ上がり、やがて膨大な黒山の人々の群れとなった。

●正直、僕は政治のことなど何も知らない。2か月前までは重慶にいて、仲の良かった中国人日本語学科学生たちに、何度も何度もこう尋ねられた。「日本の昔の学生は素晴らしい、我々は手本にしなくてはならない、60年安保、70年安保の時の状況を、何でも良いので教えて欲しい」と。、、と言われても、完璧ノンポリの僕には、その頃何が起こっていたのかも知らないでいた(70年代末には東大の弥生の校舎内に寝泊まりしていたので、朝晩パトカーがやってくること、有名歌手のご主人という人からの電話をいつも取りついていたこと、、、などから、以前“そういうこと”があったのだな、という空気だけは知っていたけれど)。

●そのような、全く「無知」な人間としての感想。裏付けなどないわけだから、感じたこと、としか言いようがない。

●広場に波のごとく押し寄せてきた人々は、とても「政治的」思想を持った人々とは思えなかった。どう見ても、ただの一般市民。それらの人々が、まるでお祭りのごとく、(まるで無関心な僕でさえ高揚した気持ちでいたほどだから、その時点では、政府に対する学生や民衆の動向も、変則的な形であるとはしても、随時報道されていたようである、、、、“事件”後は、全く報道されなくなったが)ストリート・ファイトを始めた。ものすごい人数。それはもう、世界の終りのような光景。

●その夜、(静寂に包まれた)大学の宿舎の個室に戻った僕に、日本から電話がかかってきた。日本のメディアからである。日本人学生が一人もいず(何処に行っていたのだろう?)、守衛さんが仕方なく僕に電話を回したのである。僕はまともな感想は何も言えず、(日本人)学生たちは非常に高揚していること、構内は安全地帯であること、日本人にはまだ帰国勧告は出されていないこと、および昼間見た光景、などを短く伝えた。

●翌日、改めて町へ出た。まだあちこちでファイトは続いていた。数多くの車が焼き討ちにあったりひっくり返されたりしていた。一目で、多くの死傷者が出ているだろうことが見て取れた。「ミン山飯店」に行ってみた。ホテルの玄関は破壊されていた。馴染みの受付嬢たちに会おうと思ったのだけれど、フロントには誰もいない。「誰かいる~?」と声をかけたら、フロントディスクの下から彼女たちが顔を出した。まだ怖くて、普段は隠れているのだと。

●僕が最も感じたことは、、、この町でも実際に血生臭い大暴動が起こったのにも関わらず、市民たちは(多くの学生も)誰一人としてその話題に触れようとしなかったこと。テレビの画面では、朝から晩まで、延々と「首謀者学生」たちの顔写真が流され続けている。それが全て。この時ほど中国の「不気味」を感じたことはない。

●数日後(事件の翌々日だったかも知れない)、いつものごとく僕のフィールドの都江堰(のちの四川大地震の被害中心地)にバスで向かった。中間地点で公安が乗り込んできて、僕と連れの中国人学生は、バスを下ろされた。中国人学生が自分の身分を証明し、僕についても詳しく説明してくれた。僕としては、その後の対応が印象に残っている。公安が、僕ら二人を、横に座席が付いたパトカーにそれぞれ乗っけてくれて(一度乗りたかった!)、目的のチョウやセミの観察地点まで送ってくれたこと。

●諸外国の留学生には、次々と母国からの帰国勧告が出たようだが、日本は最後まで出されなかったように覚えている(僕の帰国はひと月ほど後)。

●僕は、日本人学生たちからは、いじめと言っても良いほどの差別待遇を受けていたが、それでも自分からは積極的に話しかけるなりしていた。中年の日本人教師の一人が、常に僕の部屋にやってきた。彼は非常におびえていた。一刻も早く日本に帰りたい。勧告が出されるのを待っているわけにはいかない。どうか、一緒に日本に帰ってくれ、と。それとは別に、彼は日本人の留学生たちとは全く接点がなかった。可愛い女子学生がいる。自分が話しかけるチャンスはない。どうか橋渡しをして欲しい。結果は、代わりに話しかけた僕自身が(今でいう)セクハラ扱いを受け、悲惨な思いをした。結局僕は(成都を離れるも)中国には後一か月ほど滞在したのだが、彼は帰国の準備が整うと、いの一番に逃げ出したようである。そして、笑ってしまうことに、帰国後すぐにあちこちでインタヴューなどを受け、事件当時の自分の振る舞いを、武勇伝として本まで出版した。

●成都における天安門事件時の印象を纏めれば、、、。

●ひと月ほど前からの、日本人留学生たちの政治談議(中国人学生による決起が近く起こるだろうという予想)が、異様なほどに盛り上がっていたこと。

●成都に於いても大暴動があった。報道は成されないが、多くの(一般市民の)死傷者が出たと思われる。

●ただし、少なくても成都における暴動の「主体」は、(引き金になったのはそうであるとはしても)「政治的」な思想に基づく人々によるものではない。巨大な「野次馬」の塊だったように思う。

●そして「血生臭い現実」と、それを「全く口にすることのない市民」の対比。

●その数日後、僕は一人で、その当時はまだ今のような巨大な観光地化とはされていなかった、九賽溝に向かった(路線バスを何度も乗り継ぎ)。そこで出会った、スロバキア、イギリス、ドイツ、スイス、アメリカ、イラクの人たちとの旅行。ちょうど20歳の誕生日を迎えたイギリスの“自称パンク”の女の子との、悲惨極まる(全ての公共バスへの乗車拒否、困難を極めたトラックのヒッチハイク)帰路。その話は前に書きました(ボツにされたけれど、笑)。

●日本へは一月近く経ってから、上海経由で戻った。上海では数日間「師範大学」宿舎に滞在した。以前から仲の良かった、有名歌手と同姓同名の田園調布出身の女子学生が残っていた。彼女における傑作な話。日本に、婚約者がいたのである。しかし、天安門事件勃発の恐怖(上海でも大変だったらしい)から、親切にしてくれた近くにいたイスラム系の学生と出来てしまった。時間が経って冷静に考えれば、これは「大失敗」なのではないか、と。

●その年、一度日本に帰ったあと、再び成都を訪れた。重慶の大学にいた時、最も仲の良かった男子学生と、山際の町(例のパンダ棲息地の近く)で再会した。彼の名は「戦」。父親が、抗日運動の闘士で、バリバリの共産党員、日本と戦うため、息子に「戦」の名を付けた。彼はそのことが嫌でたまらず、父親に対する反感からか、猛烈な親日家になった。僕は30年間に及ぶ中国滞在中、彼ほど日本語が堪能で、日本文化を理解している中国人に、未だ出会ったことがない(日本を訪れたことはない)。なにしろ、北原白秋の詩を、空で延々と、淀みのない日本語で読み続けることが出来る。

●重慶を離れる前(すなわち天安門事件の前、、、前述した60年安保、70年安保に非常な興味を持っていたのは彼である)、日本に帰ったら買ってきて欲しい、と頼まれていた、岩波じゃないほうのコンパクトサイズの「漱石全集」と「鴎外全集」の各一部を携えて、彼に渡した。

●その時、彼は康定で採れたマツタケを如何にして日本にスムーズに輸出することが出来るかを思案していたのだが、別れる時、意外な話を持ち出された。自分は、天安門事件に関わっている、と。僕自身は、天安門事件には何ら興味が無かったので、詳しい話の脈絡は忘れてしまった。首謀者の一人の女子学生が友人である。彼女が(たしか香港経由で?)米国に逃亡するのを手伝った。その際に、手記を手渡された。それを日本のメディアで発表してくれないだろうか?もし引き受けてくれるところがあるならば、その時に写しを渡す。

●帰国後、確か週刊朝日の記者に、そのことを伝えたのだが、端から相手にしてくれなかった。その後、彼には会っていない。

まあ、そんな話です。

どれも、たまたま一般人が遭遇した、どうでも良い、検証しようもない、文字通り重厚さに欠ける、非体系的な話です。僕の稚拙な筆力では、読んでもつまらない話にしかなりません。ただ、時代の(全く側面からの)傍観者のリアルな感想として、貴兄に伝えておくことは、(将来何かのきっかけに)意味を成さないとも限らないだろう、と思っています。

>> U氏からの返信概要。
結構面白いですが、おそらく青山さんと僕では面白いと感じるポイントが違うので、これもやはり僕がインタビューして書くほうが(僕や上司が満足する原稿を作るには)話が早いでしょう。なぜいま天安門なのかという疑問はありますが(来年なら30周年です)。

<< 僕の想い。
安易に記事にはしたくないし、もしするならば、僕の想いを、そのまま伝えるだけ。それが読者に受けないのであれば、止めるしかないでしょう。ただしU氏に提供したわけですから、U氏の判断でどのように利用して頂いても、それは構いません。





小笠原返還50年「かつての自然を取り戻す」プロジェクトへの違和感





ネットニュースへの感想[1]



「ホームレスが路上生活を始める意外過ぎる事情」。これは、とても良い記事だと思います。



ネットニュースへの感想[2]

北朝鮮に拉致された田口八重子さん(当時22歳)の長男(母親拉致当時一歳)の方の記事が載っていました。

僕自身は、日本と北朝鮮の問題に関しては、まず関係を回復させることから始めねばならない、拉致問題への言及・交渉は、その後に行うべき、という意見で一貫しています。

日本の(特に若者の)多くの市民が、安倍さん(および周辺の右寄りの人たち)の巧みな尻尾に乗っかって、「和解」ではなく「戦争」に向かうことを望んでいる。“意識して”ではなく、“無意識的に”だからこそ、怖いのです。

自分たちは「右」ではなく、「中道」「正義」だと信じているわけです。最近あった、有名歌手の「日の丸」に関しての歌詞の問題(それに対する当人の見解)も、この上もなく悍(おぞ)ましく感じます。

しかし、下に記した読者のコメントの遣り取りについては、深く考えさせられるものが、、、、。

(読者の一人のコメント)
>たった数人の為に戦争しろと? 帰って来られたとしても、親の面倒を見れないのでは? 生活支援のため国が面倒見ろって事になれば、また税金でしょ、、、、。拉致被害者を帰国させるまでに、莫大な税金が掛かるんじゃ?

(それに対する別の読者の返信)
>たった数人の為に戦争しろと?
そういうこと。それが国のプライドだと思うよ。被害者救出にかかる税金云々は、たいした問題じゃない。

上の二人の遣り取りに関しての僕の気持ちは、「ダブルスタンダード」ということになってしまいますが、後者の方を支持します。

気骨のある「右」、情けない「左」、、、現状は、悲しいかな、そういうことなのだろうと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記:僕もちょうど30年前、中国重慶の大学で、北朝鮮の工作員に拉致されかかったことがあるのですよ。それに関してはどっかに書いたっけ? たぶんまだ書いていないと思うので、いつか詳しく書きましょう。




コメント
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