青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

貴聯・Monicaの故郷2013.6.12~13【翁源紀行(part)】

2013-06-20 03:25:46 | 
貴聯は広東省北部の山中の農村です。詔関市(日本の県に相当)翁源県(日本の市に相当)の北東端、河源市達平県との境界に位置していて、村の中に境界があります(モニカの叔父さんの家は二つの市・県に分断されている)。歩いて行けるすぐ裏山の向こうは江西省。モニカたち村民の先祖は、北方から移住してきた“客家”と呼ばれる人々で、その独特の集合住宅は、最近は日本でも良く知られています。

前日、モニカは一足先に村に帰りました。久しぶりの帰省、ゆっくりと家族団欒を楽しんで貰おう、と思っていたので、僕は今日の夕方家を訪ね、夕食を一緒にして、翌日の昼過ぎのバスで、一足先に町にもどる予定を立てていました。




足の状態は最悪、一応薬で抑えていたのですが、ここ数日歩き回っていたこともあって、再び激痛が襲い出しました。最終のバスで行って、翌日早くに帰って来るならば大丈夫だろうと。実は、一週間前に、一度一人で(お忍びで)村を訪ねているのです。その時に中途半端にしかチェックできなかったコンロンカの分布状況を再度確かめておこうと、お昼のバスで出かけることにしたのです。しかし、モニカの気が変わったのか、2時のバスで来いと。そこで、9時半のバスに乗って、約一時間後に手前の山中で降り、足を引きずりながらコンロンカのチェックをしつつ、2時のバスに乗って向かえばいいと思っていました。


ところが、モニカから電話。何してるの、もう12時よ!昼食に間に合わないじゃない、迎えに行くから動かずにそこでジッとしていて、と。で、東莞(広州とセンツェンの中間の都市)の職場からとんぼ返りで帰省していた弟とバイクで迎えに来たところです。コンロンカの花をバックに。


翁源の名産「三華李」。美味しい! 元はといえば今回の帰省は、この時期に開かれる“三華李節(祭り)”に行かない?というモニカの提案から始まったのです。


お父さんに挨拶した後、3人で慌しく食事。これで結構美味しいのです!


モニカは、これからこの“霊茸” (病気に効き目絶大なんだそう)を取りに3人で江西省との境に横たわる山に行く、と勝手に計画を立てています。ヒィエ~! あ、足がチョン切れてしまうョォ!でも、せっかくのモニカの誘い、断るわけにも行きません。


結構ハードな山登りです。痛いのを堪え、必死でついていきます。稜線の向こうは江西省でしょうか。一体どこまで行くのだろう。


道を逸れてジャングルの中に。ミカン畑(たぶんほったらかし)を横切ってあちこちを歩き回ります。どうやら、昔、もう20年近く前、モニカが7歳か8歳の頃まで自分たちの家の作業小屋があったという場所を探しているようです。でも環境が全く変わっていて、場所を特定することが出来なかった。いろんな虫が沢山いたんだって!






“霊茸”が生えているという、原生林に行き着くためには、時間が遅すぎます。夕食までには帰らなくては、とUターン。僕にとっては、ホッ、というところ。でも道は泥だらけで、村までは相当に時間がかかりそう。なにやら見つけて真剣に作業を始め出しました。道脇に生えていたドクダミを片っ端から引っこ抜いていきます。持ち帰って“どくだみ茶”にするのだとのこと。それにしても真剣です。以前にも似たような姿を見たことが何度かある。弟が手伝おうとするのですが、取り方が全くなってない(根をちょん切ってしまっている)とダメ出し。都会人っぽい弟と違って、モニカは完璧な山ザル(笑)。川の水で根っこを綺麗に洗って、はい、記念撮影。僕とのツーショットもあるのだけれど、みっともないのでブログではパスさせてください。


帰宅して、お父さんを交えて4人で夕食。僕より10歳余り若いお父さんは、なかなかの好漢です。弟もナイスガイ!モニカは風体(みてくれ)は2人に格段に劣りますが、中身はきっと共通するものがあるのでしょう。




翌日、弟は朝一番のバスで、東莞の会社に戻ります。僕は夕方のバス。なんとならば、昨日のリベンジに、“霊茸”の生える山に2人で再挑戦するのだとか。ヒェィ~~!! さすがに今日は無理だよー! でもモニカが行くなら覚悟してついていかねばなりません。そこに救いの神が。おばあちゃんがやって来たのです。今日はおばあちゃんの相手をしなくちゃいけないので、“霊茸”取りは中止。おばあちゃんは神様です!!
2時半のバスで帰ることにしたので、一人で昨日行った山道の入り口辺りまで行きます。収穫は“野生苦麦菜”アキノノゲシの発見と、ウラフチベニシジミの交尾の瞬間との遭遇。交尾の瞬間から約40分、写したカットが何と268枚(うち260枚近くは後で消去)、その268枚目がこのカットです。むろん昼食は抜き、バスの時間の2時30分ギリギリまで粘り、交尾を終える瞬間を見届けようと思っていたのだけれど、お昼ご飯だよ~!すぐに戻ってきなさい、と無慈悲な電話。モニカはおばあちゃんたちと一緒じゃなかったの? 結局2人だけで食事です。なんかちょっと違うような、、、。




応接間(?)に戻ったら、お父さんが帰ってきていました。自家製の蜂蜜(「中国ミツバチ」、日本での和名は「ニホンミツバチ」です)。正式な養蜂の勉強をしたのではなくて、見よう見まねで作っているのだそう。知られざるこの村の名産。これがかけがえなく素晴らしい。甘いものがダメな僕にも、しっくりとくる美味しさです。そういえば、モニカは以前から、「羅平の蜂蜜なんて全然ダメ、うちの田舎の蜂蜜のほうが圧倒的に美味しいんだから!」と言っていたのを思い出しました。納得です。


このあと、お父さんとの激論が始まります。中国人は喧嘩をしているのか、普通に話をしているのか、分からないときが多々あります。でもどうやら喧嘩。モニカが出て行ってから、お父さんに「何の話をしていたのですか?」と訪ねたら、「お前、話の内容が分かったのか?」と不安げなお父さん。むろん一言も理解出来ていません。夕方のバスで帰る準備をしていたら、モニカが突然「同じバスで帰る」と言い出した。もう一日、家族とゆっくりしていれば良いのに、と思ったのだけれど、、、。お父さんの家(お母さんの家は山際の別の場所にあるのだけれど、僕はお母さんに会う機会はなかった)のすぐ前がバス停、なかなかバスがやって来ず、2人で待っていた時間がとても永く感じたように思う。道の向こうに100m余行った所が河源市達平県との境。


翁源(地元の人は“龍仙”と呼んでいる)の町のバスターミナル(?)。センツエンや広州などの大都市に向かう本物のバスターミナルは、100mほど離れたところにあります。モニカが担いでいるリュックは、ラムダのザック。僕が知人の佐久間氏から、厚かましくもモニカ用に頂いてきたもの。佐久間氏と奥さん、息子さん夫婦の4人が、ハンドメイドで作成している、アルパイン・カメラザック専門の、知る人ぞ知る老舗の店です。市販価格は6万円だとのこと(僕はお礼に、リュックカバーをかけず常時ロゴが見えるようにして、宣伝しているのです)。モニカはとても大事にしていて、僕には触らせてもくれません(笑)。




翌朝、長距離バスに乗って2人でセンツエンに向かいます。本物(?)のバスターミナルの前で、僕のお土産に、名産「三華李」を買ってくれました。中国人は果物を買うときも、永い時間をかけて、一個一個丹念に調べます。
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苦麦菜(断片)、そのほか【翁源紀行(part)】

2013-06-19 20:51:59 | 

注:この項目は有料です。青山潤三ネイチャークラブ会員および協力者以外の方で、このブログを継続して訪問される方は、各自自主的な判断の上、入会または協力基金をお願いしています((「野生生物」以外の記事の読者や、たまたま立ち寄られた方を除く)。

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広東省詔関市翁源県貴聯ほか2013.6.4~13


ジョウザンDichroa febrifuga(アジサイ科Family Hydrangeaceae)。広東/江西省境2013.6.5。野生アジサイ“繡球花”の一種。でも僕が探しているのとは別の種。貴聯周辺の山中でごく普遍的に見られる。


ボタンクサギ“玉叶金花”Clerodendrum bungei  (クマツヅラ科F amilyVerbenaceae) 。広東/江西省境
2013.6.5。一見アジサイそっくりに見える、モニカも自分の携帯で撮影してきて、「これがジュンゾウの探している花ではないの?」と。ガッカリさせるのは可哀想だったけれど、仕方がない。


テンニンカ“桃金娘”Rhodomyrtus tomentosa(フトモモ科Family Myrtaceae)。2013.6.4貴聯。この一帯の山野に非常に多く、少し離れた位置からはツツジ・シャクナゲの一種に見える。熱帯果樹グアバの仲間、野生か帰化種かは不明(たぶん後者)。日本では屋久島付近から位南に野生種のアデク、栽培逸出種のフトモモが生育、いずれも果実を食することが出来、モニカによるとこの“桃金娘”の実も大変に美味しいとのこと。


ノボタン科の一種。2013.6.12貴聯。めんどうくさい(眠くて仕方がない)ので以下種名や学名を調べるのはパス。この一帯に非常多い花。モニカによると、この花の実も美味しく食べられるとのこと。ともかく熱帯各地はノボタン科の天国。屋久島ではヒメノボタンに北限種のハシカンボクとミヤマハシカンボク。


フヨウ(アオイ科)の一種。2013.6.12貴聯。南西諸島に自生するサキシマフヨウと異なり、花の色が一様に濃い。僕のフィールドのひとつに広西壮族自治区北端(湖南省との省境)の芙蓉村があり、同名の村はこの広東省詔関市翁源県にも存在する。自生か栽培かは不明。おそらく自生の群落から選抜して栽培しているのではないかと思われる。


キンゴジカ(アオイ科)またはその近縁種。2013.6.4貴聯。極小の花をつける草本(あるいは草本的小潅木?)で、拡大して花を見ると、ハイビスカスやフヨウの仲間であることがよく分かる。


ボンテンカ(アオイ科)またはその近縁種。2013.6.4貴聯。やはり極小の花をつける“ミニチュア野生ハイビスカス”。前種共々屋久島の低地帯で見慣れた花で、中国南部では各地の人里で最も多く見られる花のひとつ。


ミゾカクシ(キキョウ科)。2013.6.12貴聯。水田や湿性地の代表的雑草。モニカの案内で、痛い足を引きずって、山の奥に分け入って行った。ミカン畑。20年近く前、この辺りにモニカ達が住んでいた小屋があったとのこと。一生懸命探したのだけれど、場所を特定することはできなかった。その時に撮影した一枚。


ムラサキシキブの仲間(クマツヅラ科)。2013.6.12貴聯。


野生コンニャク?(サトイモ科)。2013.6.4貴聯。


ツリフネソウの一種(ツリフネソウ科)。2013.6.12貴聯。日本には3種しか自生しないが、中国には非常に多くの種が分布している。ちなみに園芸植物として著名な“鳳仙花”も同じ仲間。


マンリョウの近縁種(サクラソウ科)。2013.6.13貴聯。小さな花だが拡大してみるととてもチャーミング。


サルトリイバラの一種の葉(シオデ科)。2013.6.13貴聯。

ここから苦麦菜の話題です。








苦麦菜(キク科タンポポ連)。2013.6.4貴聯。おばさんたちの話だと、葉の広いのも細いのも全て苦麦菜。この辺りでは麦菜と言えば苦麦菜を指し、油麦菜のほうは冬を中心とした季節に栽培する由。


苦麦菜。2013.6.5貴聯。






バスターミナルからホテルに向かう300mほどの道、僅か1分間に6人、苦麦菜を買って持ち帰る市民とすれ違った。いかに普及しているかということがよく分かる。2013.6.5 翁源(龍仙)。


夜食にホテルで食べた、生菜(レタス)の入った卵ラーメン8.5元(日本円約140円)。これが大変に美味(インスタントラーメンぽい麺が最高に美味しい)。苦麦菜入りはあるか?と聞いたら、明日朝なら可能と。2013.6.11 翁源(龍仙)。


ということで翌朝、苦麦菜卵ラーメンを。値段が2元(約35円)高い。その理由は麺が高級であるからとのこと。これが頗る不味かった。苦麦菜も少しシコシコし過ぎ。2013.6.11 翁源(龍仙)。


その前に間違えて持ってきた生菜と苦麦菜のセット。バスの時間が迫っていたので「頼んだのはラーメン」と食べずに下げてもらった。料金には含まれていなかったので悪いことをした、こちらを食べておけば良かったと後悔。2013.6.12 翁源(龍仙)。


モニカの行きつけの食堂で彼女が頼んだ夕食。それが苦麦菜入りの丼。あわててカメラを取りに、再び激痛の始まり出した足を引きずりつつホテルを往復。これが抜群に美味しかった。値段はたぶん100円ちょっと。2013.6.13 翁源(龍仙)。


モニカと故郷の山を散策中に遭遇した、野生苦麦菜、すなわちアキノノゲシと思しき若年株。モニカも野生苦麦菜の意見に同意。2013.6.12貴聯。




翌日、ほぼ同じ場所で、花をつけた塔立ち株を発見。若年株とは相当に雰囲気が異なり、本当に同一種なのかどうかは不明。花は、確かにアキノノゲシだと思うのだが、幾分小型で、舌状花の数も大分少ないように思える。後で以前に写した写真と比較したら、苦麦菜では20枚前後、日本のアキノノゲシでは15枚前後、この2つの株の頭花は10枚前後だった。2013.6.13貴聯。




葉の印象は、苦麦菜ともアキノノゲシとも大分異なるように思うのだけれど、、、。2013.6.13貴聯。








頭花は小振りで舌状花の数が少ないとはいえ、確かにアキノノゲシ。2013.6.13貴聯。


冠毛を持ち帰って種子を撮影。楕円の概形、中央の溝、周囲の翼、確かに苦麦菜やアキノノゲシのそれと相同である。2013.6.13貴聯。




ついでに、同じアキノノゲシ属の野生植物、ムラサキニガナ。同属の、レタス(≒油麦菜)、アキノノゲシ(≒苦麦菜)などに比べて、頭花は著しく小さい。ちなみに、3者をそれぞれ別属とする見解もある。広東/江西省境2013.6.5。


口座番号 三井住友銀行 大船支店 普通口座6981197 アオヤマジュンゾウ

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ウラフチベニシジミの求愛・交尾、そのほか【翁源紀行(part)】

2013-06-19 04:45:17 | 
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ベニシジミ属の種は、これまでに計12種を撮影していますが、その中で意外に撮影枚数が少ないのが、世界規模でみれば12種中の最普通種の部類に入る、ベニシジミ(北方広域分布種、日本に産する唯一のベニシジミの仲間)とウラフチベニシジミ(南方広域分布種、台湾に産する唯一のベニシジミの仲間)です。


2013.6.13。モニカの故郷、広東省詔関市翁源県貴聯。畑の脇の路傍で、もつれ合って飛ぶ2頭のウラフチベニシジミ。他のベニシジミ類同様の、♂同士の占有飛翔、と思ってカメラを向けなかったのですが、葉上に静止してからの♂同士(そっぽを向く、、、正確には同じ方向を向く)とは、どうも趣が違います。一方の個体は他方の個体に、ジリジリとにじり寄って行く。日本のベニシジミでも良く見られた、♂♀の求愛行動です。



葉上に止まった当初は2頭とも翅を閉じていましたが、やがて♂は小刻みに震わせながら翅を開き、横を向いた♀を目指して近寄っていきます。

ある一定の距離まで来ると、小刻みに震わせながら開いていた翅を閉じ、

いきなり腹部を♀の腹部に向けて急角度に折り曲げます。



外部生殖器を露出している。

やがて、♀の腹端と接触し、

交尾が完了しました。2013年12時6分。

雌雄の体の向きを、それまでのV字形から水平に変える。

静止。

昼飯の時間、「すぐに戻って来い」とモニカから電話が。2013年12時43分。スタートから37分間、この後どれくらい続くのでしょうか?

湿地に生えるサトイモの一種の葉上で。



この2枚のみ、広東(詔関市翁源市)と江西(赣州市大全)の省境付近。



♂の翅表は角度により真っ黒に見える。




以下、普通種のオンパレードでいきます。

ヤマトシジミ

イチモンジセセリとヤマトシジミ

イチモンジセセリ

イチモンジセセリ属の一種

オオチャバネセセリ属



キマダラセセリのグループ(ネッタイアカセセリ属1)

キマダラセセリのグループ(ネッタイアカセセリ属2)

キマダラセセリのグループ

ホシチャバネセセリ近縁属だと思う

ホソバセセリ(またはその近縁種)





ユウマダラセセリ(またはその近縁種)

タイワンタイマイ

モンシロチョウ

タイワンホシミスジ

キタテハ

ウラキマダラヒカゲ



ヒメウラナミジャノメ(交尾中のウラフチベニシジミのすぐ横で交尾していた)




トンボについてはまるっきり無知なので、同定は“あてずっぽう”です。
広東省詔関市翁源県 2013.6.4~13

シオカラトンボ属1(コフキショウジョウトンボ)

シオカラトンボ属2

シオカラトンボ属3



シオカラトンボ属(だと思う)4

ベニトンボ



思いつかない(ちょっとカオジロトンボに似た印象です)

アカネ属、、、ですよね?

コシアキトンボ



チョウトンボ属



今回の大収穫は、ツクツクボウシの声をチェックしたこと。


【本文後送】



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白花のコンロンカ(「翁源紀行」part)

2013-06-15 17:08:39 | 

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今回の“翁源”(モニカの故郷)への旅の目的は、①に年金受領(その後病院での本格診察)までの時間稼ぎ、②にモニカの帰省に同行しての静養、に尽きるのですが、本来ならば、この季節、この地域では、野生アジサイの探索・撮影という大テーマが存在します。

と言うわけで、今回は静養に徹すべきところ、結局は、痛い足を引きずって野生アジサイの調査(はちょっとオーバーな表現だけれど)に出歩くことと相成りました。結局、目的の野生アジサイには出会えなかったのですが、その際に遭遇した、今までに見たことのない白花のコンロンカ(アカネ科)をはじめ、3(4)種のコンロンカについて記しておきます。

その前に、これまでに何度も述べて来たことの繰り返しになりますが、「野生アジサイ」の定義を、ごく簡単に説明しておきましょう。

狭義には、園芸アジサイの母種、およびそれにごく近縁(容易に交配が可能)の野生種。
広義には、アジサイ科Hydrangeaceae(旧ユキノシタ科)アジサイ属Hydrangeaの各種。

実に分かり易いですね。でも実態は複雑です。まず後者について。“アジサイ属”とは、少なくとも現時点では、生物学的な実態を充分に反映した概念ではありません。外観が“いかにもアジサイ的”な種が「アジサイ属」のメンバーであり、一方、外観が著しく異なる幾つかの種は、「アジサイ属」の各種と基本的な形態形質になんら有意差はなくとも、別属として扱われています。アジサイ属の中での各種群(節として扱われることが多い)間の遺伝的な距離よりも、別属とされている幾つかの種と、アジサイ属中の各種群との間の距離のほうが、本当は(生物学的な類縁関係は)ずっと近い場合が少なくないのです。

それらのことを、これまでに指摘し続けてきたのですが、顧みられることがありませんでした。それらの事実は、分子生物額的な手法の解析(DNA解析)が行われるようになって、やっと証明されたのです。改めてアジサイ科(アジサイ連Hydrangeeae)全体を見渡し、「属」の再編を行わねばならないのですが、最終的な判断を下すには、まだ多くの未解明の問題点が残されています。とりあえず現時点では、広義のアジサイ属のメンバー(すなわち広義の“野生アジサイ”として、アジサイ科アジサイ亜科(またはアジサイ連)に含まれる、ほぼ全ての種を想定しておきます。

さて、前者、狭義の“野生アジサイ”。今回はアジサイについて述べる予定ではないので、ごく簡単に結論だけ纏めておきます。アジサイ属のコアジサイ節Series Petalanthaに相当し、大きく3つのグループに分けることが出来ます。3グループは、基本的な形態は共通しますが、細部に於いては明確かつ安定的な相違点が見られます。しかし、グループ間に於いても相互の交配が可能であることから、血縁的にはごく近い間柄にあることが推察し得ます。

●①「園芸アジサイ」の(種の単位での)直接の母種、広義のヤマアジサイHydrangea macrophylla(野生ガクアジサイやエゾアジサイを含む)。主に日本列島に分布、中国大陸からは、ごく少数の(かつ実態未検証の)ヤマアジサイと同一グループに所属すると考えられる種が知られている。

●②本州中部以西~九州、西南諸島、台湾、ルソン島、中国大陸(長江以南)に分布する、ガクウツギHydrangea scandens ~トカラアジサイHydrangea kawagoeana ~カラコンテリギのグループ。

●③中国大陸(北部を除く)から東南アジアにかけての広い範囲に分布する、ジョウザンのグループ(通常、アジサイ属とは別属のジョウザン属Dichroa とされる)。

このほかに、ごくマイナーな存在として、日本固有種のコアジサイHydrangea hirta、沖縄本島北部の山間部に稀産するリュウキュウコンテリギHydrangea liukiuensis、ハワイ諸島固有のハワイアジサイBroussaisia arguta、これらは、中国南部産の数種と共に、“無装飾花”の種です。

今回チェックしようとしたのは、
■②の、主に広西北部(南嶺)から雲南南部山地に分布するカラコンテリギ(雲南産は通常別種ユンナンアジサイHydrangea davidiiとされる)の大陸部での分布東南限地の確認。  
■①(これまで、ごく僅かな種が、福建、広西、湖南、江西、および雲南北部などから記録されている)の、新産地の探索。一昨年、広西北部の貴州・湖南との省境山地で、そのうちのひとつ“ヤナギバハナアジサイHydrangea kwangsiensis”を確認。同種はより広い範囲に分布する可能性があり、また酷似した“ヤナギバアジサイ”が広東北部山地帯から記録されているので、両者の関係の実態を探りたい。

たまたまモニカの故郷の広東北部の村が、江西との省境付近の“南嶺”東端付近に位置し、標高1500m近い幾つかの山塊を擁することから、①②とも分布している可能性があると睨んだのです。といって、足の状態から考えても、予算(交通費・宿泊費など)的な面からも、今回は本格的な探索は難しい。とりあえず、モニカの故郷の村「貴聯」の周辺で、軽く探索してみることにしました。

結局①②とも見つけることは出来ませんでした(③のジョウザンDichroa febrifugaが多数生育)。おおよその推定標高は、400m~800m辺り。①②とも、今後この地域から見つかる可能性は充分にあると思うのですが、僅かながら標高が足らないのでは、という気がします。広西北部のカラコンテリギの生育地は、おおむね標高1500~2000mの山塊の500m以上(1000m前後に多産)の地域。広西西北部のヤナギバハナアジサイの生育地もほぼ同様です(今のところ両種の混成地は確認していない、ともにジョウザンとは混生)。この地域の山々も標高は1500m前後を有しますので、もう一歩奥に踏み込んで探索すれば、発見の可能性はあると思うのですが。

さて、ここからはアカネ科のコンロンカMussaenda parviflora(およびその近縁種)の話。

カラコンテリギの装飾花とコンロンカの萼苞は、ともに純白で、バスの中からや、やや離れた場所からは、区別を付け難いのです。カラコンテリギが豊産する広西北部の山地や、ヤナギバハナアジサイを産する広西西北部の山地では、標高の低いところではコンロンカばかりが見られ、その分布上限付近になって、カラコンテリギやヤナギバハナアジサイが出現します。アジサイ属(ことにヤマアジサイやカラコンテリギのグループ)は、どちらかと言えば温帯系の植物、コンロンカ属は、明らかに熱帯植物です(ただし日本には南西諸島産のコンロンカのほか、もう一種ヒロハコンロンカM.shikokianaを本州の東海地方、四国、 九州に断続的に産し、これがコンロンカ属の分布北限種になると思います)。

屋久島の山麓には、野生アジサイのヤクシマコンテリギHydrangea grossaserrata(上記②のグループ)を豊産し、屋久島を代表する本来ならばもっと注目されても良い野生植物なのですが、他の有名固有種たちに比べて、ずっと粗末に扱われているように思えるのは、とても残念です。

それはともかく、ヤクシマコンテリギに混じってチラホラと見られる、同じような白い清楚な“花”がコンロンカ。僕が始めて屋久島を訪れた50年近く前、熱帯生物の代表ツマベニチョウHebomoia graucippeが、渓流に咲くコンロンカに群がって吸蜜しているのを見て、感動したものです。むろんツマベニチョウに対する知識は少なからずあったのですが、コンロンカについての知識は皆無、図鑑で調べて、屋久島や種子島を分布北限とするアカネ科の熱帯性植物であることを知ったのです。アカネ科Rubiaceaeといえば、本州などではごく地味な花の咲く小さな草本を思い浮かべますが、屋久島の麓の渓流には、野生のクチナシGardenia jasminoidesをはじめ、ギョクシンカTarenna gracilipes、タニワタリノキAdina pilulifera、ミサオノキRandia cochinchinensis、コンロンカなど、花の美しい木本性の種が多数見られ、熱帯地方に繫栄するグループであることを認識しました。

また、ツマベニチョウといえばハイビスカスとの組み合わせが定番ですが、むろん園芸植物、ツマベニチョウにとっては2次的な吸蜜源であるわけです。現在ではハイビスカスを訪れる“人里の蝶”となっているのですが、本来は、(熱帯の各地では)渓流に咲くコンロンカやタニワタリノキなどの野生植物が蜜源であると、納得できた次第です。

そんなわけで、コンロンカは僕のなかで強いインパクトを持っていたのですが、最近はインパクトが薄れつつありました。というのも、中国南部や台湾、フィリッピンやベトナムやラオスなどでは、他にめぼしい花が見当たらない場所や季節でも、このコンロンカだけはいつどこにでも咲いている、熱帯地方での最普通種のひとつという印象があり、それでもって有り難味がやや薄れつつあったのです。

それらの種が屋久島や沖縄のコンロンカと同一種なのかどうか、正確な同定は僕には出来ないのですが、濃い黄色の小さな筒状の花と、純白の大きな萼苞(5裂する萼片のうちの一片が大きく発達し、一見純白の花弁のようにも、あるいは白い葉のようにも見える)の組み合わせは、どの産地のものも似たように見えて、どれも代わり映えがしないのです。

アフリカなどを原産とする種には、萼苞が真っ赤になる「ヒゴロモコンロンカ」をはじめ、様々な色彩の園芸種が存在することは知ってはいましたが、派手な色彩の野生種は、少なくとも中国には分布しないはずです。

今回も、貴聯の周辺(地域A)で、もしやカラコンテリギ?とチェックしたものは全てコンロンカで、屋久島産と同じ半蔓性の花黄の種【Mussaenda sp.Ⅱ】でした。例えば、トカラアジサイが稀産する沖縄伊平屋島でも、最初はコンロンカばかりが目に入り、「もしかしたらこの島のトカラアジサイの記録はコンロンカの誤認?」と諦めかけたのですが、めげずにより山深い地の探索を続けているうちに、トカラアジサイが発見出来ました。諦めてはならない、とは言っても、標高がやや低すぎる(目算400~500mぐらい?)ような気もします。

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.4

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.12

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.12

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.13

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.13

翌日、貴聯のすぐ(10km前後)北の江西省との省境の峠(地域B)を訪れてみました。標高は少なくとも700~800mぐらいは有りそうです。天然林が結構広がっていて、野生アジサイが生育している可能性は充分。しかし、カラコンテリギもヤナギバハナアジサイ(またはヤナギバアジサイHydrangea stenophyllaなど)も見つけることが出来ませんでした。ちなみに、もうひとつの“野生アジサイ”であるジョウザンは、ABC各地域とも非常に多く見られたのですが。

前日の観察地よりも標高やや高いとはいっても、やはり見られる“白い花”はコンロンカばかりです。それでもって、コンロンカであることが分かった時点で、近寄ることもなく、あまり注目せずにいたのですが、突然気が付きました。花(本物の花)が白い!【Mussaenda sp.Ⅲ】。その後、コンロンカに出会うたびに気をつけてチェックしたところ、この辺りに生えている全てのコンロンカは白花。

Mussaenda sp.Ⅲ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅲ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅲ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅲ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅲ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

コンロンカの仲間の魅力は、結局のところ、萼苞と筒状花の色のコントラストにあります。世界の各種を見渡せば様々な組み合わせがあるわけですが、中国や北部インドシナ半島で、僕がこれまで出会った種は、 全て屋久島産と同様に黄花だったはず。「白い萼苞」と「白い筒状花」の組み合わせが存在するとは、これまで考えたことがありませんでした。興味をもってチェックしたところ、この地域のものは、すぐ近くに隣接した貴聯の集団と明らかに異なり、全てが白花の種です。実は数日後、貴聯を再訪した際、(もしかしたら白花種もあるのに見落としているのかも知れない)と改めてチェックしてみました。やはり、黄花のコンロンカばかりでした。

もう一ヶ所、貴聯から広東/江西の峠とは反対側に位置する(やはり10~20kmの距離)、隣町との境の峠の周辺(地域C)にも足を運んでみました。ここも全てが白花。(後述する木本性の種を除き)黄花の個体はひとつも見られませんでした。標高は地域Bよりはやや低く、地域Aよりはやや高いような気がします(600m前後?)。一応、より低所では「黄花」、より高所で「白花」ということも出来そうなのだけれど、標高が、それほど違うとも思えない。中間形質の個体が見当たらないこと、ガク片の形に一定の差があること、などから、「黄花種」と「白花種」は、明らかな別種であると考えています(両者の“混生地”もどこかにあると思うのですが)。

そして、興味深い現象がもうひとつ。白花の産地には、「白い萼苞」+「白い筒状花」の集団だけではなく、白い筒状花だけをつける(すなわちコンロンカがコンロンカである所以の白い萼苞を欠く)株【Mussaenda sp.Ⅳ】も少なからず(というよりも半々ぐらいの割合で)見られる、ということ。

Mussaenda sp.Ⅳ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅳ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅳ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅳ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅳ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5(痕跡的な萼苞が生じています)

これは“個体変異”とか“たまたま”というレベルではなく、萼苞を欠く花序をつける株は全ての花序の萼苞を欠き、萼苞を有す花序をつける株は全ての花序に萼苞を有す、という、極めて安定した現象を示します。ちなみに貴聯の黄花種の集団中には、萼苞を欠く花序の株は、全く存在しません。したがって、この両者も、それぞれ独立種である可能性が考えられますが、萼苞の有無以外の形質に有意差が見られないこと、花序を良く確かめると、極めて僅かではあるのですが、未発達の白い萼苞の痕跡がときに出現することなどから、一応、同一種の個別の表現形、と暫定的に解釈しておきます。

黄花の種にも、もうひとつ別の種があります。半蔓性でコンパクトな葉をもつ他の各種と異なり、葉が大型で、柔らかいといえ直立木本になる【Mussaenda sp.Ⅰ】です。花の形も他の各種と明らかに異なり、ことに萼片が楕円型で被針状にならないことが大きな違いです。おそらく、他の2(3)種とは、グループが異なるものと思われます。この種は、産地1では黄花の半蔓性種に、産地3では白花の半蔓性種に混じって同じ場所に見られますが、今のところ産地2では確認していません。

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.12

以上の観察結果は、半径50kmほどの非常に狭い範囲に於けるものです。この一帯だけでなく中国の他の地域でも同様の状況にあるのかどうか、資料を持ち合わせていないため全く把握し得ていません。

はじめに記した野生アジサイ(カラコンテリギやヤナギバハナアジサイのグループ)では、装飾花を有するか欠くかで、種の帰属の判断が成されているようです。それが実態を反映しているのか否かは不明です。【Ⅲ】と【Ⅳ】の関係に於いても似たことがいえそうです(個体変異の範疇に入るのか、何らかの安定的な表現形なのか、種が異なるのか、等々)。それらのことと併せて、今後の検討課題としたいと思います。


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「痛み」の程度と、その数値化について

2013-06-15 16:45:38 | 

もう30年も経ちます。日浦勇氏(1932~1983)が亡くなる、少し前のことです。大阪長居の「大阪府立自然史博物館」の一室で、日浦さんや若い学生たちと共に雑談をしていました。ちょうど屋久島へ通いつめ、植物の撮影をしていた頃です。すでにツクツクボウシの鳴き声に興味を持っていて、その録音のため屋久島の近くのトカラ列島や三島列島にもしばしば渡っていました。三島列島の黒島では、ついでに雑昆虫もいろいろと採集し、日浦さんへのお土産に博物館を訪れたのです。「おい、駄目じゃないか!ゴキブリが入っていないぞ。」と日浦先生。そう、南の樹林の昆虫にゴキブリは欠かせません。痛いところを突かれてしまいました。

何人かの若い学生の中で、一際声高に喋っていたのが、京都大学学生の某君(断じて小路君でも北脇君でもありませんよ)。曰く、これからの生物分類は、分岐学的な手法による、数値化された客観性を基に成されるべき。新しい系統分類で、これまでは知る術もなかった、すべての実態が判明する。以前の古いスタイルの分類学とは決別しなければならない。我々の時代がやってきた。云々。

日浦先生、うんざりとした顔で、話には加わらずにぽつねんと座っていました。その話題は無視をして、ウラナミジャノメの話に。「天竜川下流の個体群には、しばしば余剰紋が出るでしょう?これは大変な問題を反映していると思いますよ」と僕。

Ypthima属の大多数の種は、♂交尾器の形状から、2つの群に大別することが出来ます。ヒメウラナミジャノメを含む一群と、ウラナミジャノメを含む一群です。交尾期の形状と、ある位置(後翅裏面第〇室)に眼状紋があるかどうかとが、例外なく見事に一致するのです。ただひとつの例外が、天竜川下流一帯のウラナミジャノメ。同じ種群の個体には絶対に表れることのない、かつもうひとつの種群の個体には例外なく現れる形質が、この地域の集団のみしばしば出現する。これは単なる「個体変異」で済まされる現象ではありません。

この場所は、ちょうどフォッサマグナの南の端(*)に相当します。非常に古い時代の、かつ複雑に入り混じった地層から成っている地です。種としての分布の東限は、静岡県の大部分を跳び越して、伊豆半島の付け根付近に存在しますが、その個体群と天竜川下流域の個体群とは、成立の過程が異なると僕は見ています。天竜川下流域の個体群は、非常に遺存的な集団なのではないか?と。この集団を中心に、対馬や台湾や大陸の集団(それぞれを独立種とする見解もあります)あるいは八重山諸島のマサキウラナミジャノメなどの近縁種を併せて比較検討することにより、日本列島や東アジアの、それぞれの成立過程や相互関係を窺い知ることが出来ると思うのです。

日浦先生は、「君、凄いことを言うじゃないか、よし、やろう! 我々でその謎を解き明かしてみよう!」と多大な興味を示してくだされました。しかし付け加えて、「でも青山君、これからは彼のように能率的な方法論で勝負しないと、出世できないぞ、こんな厄介な、壮大なテーマに興味を持って、手作業で取組んでいたら、永遠に貧乏を覚悟しておかなければ」と。

その後暫くして、日浦先生は突然に亡くなられたのです。次に屋久島から帰阪した際、自然史博物館を訪ねました。宮武頼夫氏から「今、形見分けをしているところなんだ、日浦先生の奥さんから、“これを青山君に”と託されているので、貰ってくれるかな?」と手渡されたのが、W. H. Evansのセセリチョウ科の系統分類書「A catalogue of the Hesperiidae from Europe, Asia and Australia in the British Museum」の4冊セットです。当時知られていた全ての種のゲニタリアが図示されていて、ごく簡単な略図ではあるのですが、それだけにポイントがよく抑えられています。今でも充分に通用するのです。ゲニタリアによる系統分類の考察に際しては、細部を詳細に描けば良い、あるいは明瞭な写真を撮ればいい、ということではありません。いかに有意な指標形質を見つけ、その比較に基づいた検討が成されるか、と言うことなのです。

去年(2012年)の夏、長い間東京の自宅を留守にしていたら、大量のゴキブリが発生、外国製の本の表紙の多くは、糊で繊維を貼り付けているものですから、表紙を綺麗さっぱりゴキブリに舐め尽くされ、厚紙の地が現れて真っ白になってしまっていました。でも中身には影響ない。僕は、標本を「研究の為の材料」と考えるのと同様に、本も「読む為のもの」と割り切っていますので、外観はどうでも良いのです。とはいえ、日浦さんに申し訳ない想いでいることも確か(ゴキブリを疎かにしたバチでしょうね)。いずれにしろ、早くお金を稼ぎ、新しい顕微鏡を手に入れて、この“指南書”を充分に活用せねばなりません。

今の時代、全ての現象が機械的に数値化され、アナログ的な手法に基づく(私的な)概念を排除した“科学的”な考察が成されていきます。DNA解析に基づく系統分類など、その最たるものでしょう。確かに、以前の(顕微鏡を覗いての形質比較などの)手作業による手法に比べれば、大変な進歩だと想います。しかし、それだけで全てが分かるわけではない。(信頼度は従来のアナログ作業による解析よりも格段に高いとはいえ)剥き出しの材料が提供されているに過ぎません。答えとは別物です。生命とか進化とかの実態は、紙の表に文字や数字を羅列して示せるような、そんな生易しいものではないはず(そのことについては、ここでは深入りしません)。

数値化による物事の解析は、果たして万能なのでしょうか?

今、僕が言いたいのは、“痛み”について、です。

以前から、自問自答を重ねて来ました。僕は、人並み外れて痛みに弱い(我慢できない)のだろうか?
あるいは、人並み外れて痛みに強い(我慢しすぎ)のだろうか?

この10数年来、体のあちこちが激痛に襲われ、その場所がある一定の期間を置いて、移り変わって行くのです。たまに医者に行ってそのことを訴えても「気のせいでしょう」と取り合ってくれない。「体の中に巨大な虫か何かが棲んでいて、あちこち動き回っているみたい」とか冗談を言って済ますしかなかったのです。医者が「気のせい」というのですから、僕自身が「激痛」と感じている痛みは、他の人にとってはほとんど感じないような、ごく軽微な痛みなのかも知れません。それとも、医者が疾患を「気が付かない」だけで、普通の人なら我慢の仕様もない、大変な痛みを我慢しているようにも思えるのです?

なかなか結論が出ません。他人との比較の仕方、程度の計り様がないのです。人一倍痛みに弱いのかも知れない、という気もしてきます。でも考えてみれば、骨の一本や二本(肋骨とか足の指とか)が折れていても、平気で(もちろん激痛を我慢してですが)何10kgのリュックを担いで、何10kmと山の中を歩き回っている、真冬でもTシャツ一枚でO.K.だし、真夏にも冷房は使わない。人一倍、我慢に強いのかも知れません(単に鈍感なだけ?)。

*ここからは2週間ほど前、ベトナム滞在中に記した「差別と人種について、そのほか」からの抜粋です(未アップ・加筆部分あり)。

「痛風」について調べてみました。あや子さんが送信してくださった「公益財団法人・痛風財団」による「痛風とはどんな病気?」から一部を引用します。

【ある日突然、足の親ゆびの付け根の関節が赤く腫れて痛みだします。痛みは万力で締めつけられたように激烈で、大の大人が2、3日は全く歩けなくなるほどの痛みです。発作的な症状なので痛風発作と呼びますが、これはたいていの場合、1週間から10日たつとしだいに治まって、しばらくすると全く症状がなくなります。ただし油断は禁物で、半年から1年たつとまた同じような発作がおこります。そして繰り返しているうちに、足首や膝の関節まで腫れはじめ、発作の間隔が次第に短くなってきます。このころになると、関節の症状だけでなく、腎臓などの内臓が侵されるようになってきます。華々しい関節の症状と深く静かに進行する内臓障害。陽と陰のある病気ですが、陰の方が目立たないのが重要です。】

まさに、今回の状況に、ピタリと当て嵌まります。もっとも、ひと月が経つのに、同じ場所の激痛が全く治まらない、というのは、上記の説明とはかなり異なりますが。そのほかにも、上記の症例に当てはまらない、非常にイレギュラーな問題があるように思われます。すなわち「最初は」という部分。今に始まったわけではなく、(上記したように)かなり以前(10年、あるいはそれ以上前)から、似たような症状に苦しんで来たのです。

まず、ごく直近の(今回の)症状について。激痛が始まる4~5日前、梅里雪山や白馬雪山の周辺を歩き回ったとき、相当にハードな行程だったものですから、その結果、足の多くの部分(おおむね指)を痛めてしまいました。その時点で複数の骨折(ヒビ?)や裂傷に基づく、重大な疾患が生じていたものと思われます。今回の「痛風」とは、おそらく無関係(偶然なのか必然なのかは不明)に、この数週間、足の痛みに苦しみ続けてきたのです。

遡って、この一年の期間で思い起こして見ます。昨春に一度ブログと閉じる直前の頃ですが、一昨年の暮れから昨年早春にかけ、原因不明の激痛に襲われ続けました。具体的には鼻を中心とした顔面から各部位に激痛が移行して行く。それと並行して、やはり10数年前から不定期的に苦しみ続けている、気管支炎モドキ(「モドキ」としたのは、医者からは正式に“気管支炎”とは診断されていないことに因ります)の再発。いやもう苦しいの何の。実際“もう駄目”と覚悟していました。でも簡単に死んでしまうわけには行きません。といって、医者に行くにも、経済事情が許さない。そこで“救済要請”をブログに綴ったのですが、結局誰一人として助けてはくれませんでした(その期間、読者数・閲覧数は飛躍的に増えていましたが、、、、、無関係の人間が苦しんでいるのを、きっとバラエティ番組のような感覚で見ているのでしょうね)。

助けてくれたのは、モニカをはじめとする中国人やベトナム人や欧米人、日本人では沖縄の某行政のトップの方。あや子さんとはこの時に決別し、ブログは閉じることにしました。

結局、深センとベトナム・サパ(3食つき1泊10ドル後払い可)にひと月間滞在(終日部屋に閉じこもったままウンウン唸っていた)した後、昆明に移ってさらにひと月近く、その昆明滞在中に劇的に回復、日本に帰ってからの診察(ことに顔面の激痛を探るための)では、いつも通り「どこにも疾患は見られません、気のせいではないですか?」という次第です。

昨夏の間は、体調が特に悪くはなかったため、ベストシーズンの6月末から7月にかけて、雲南北部の山間部を探索していました(その後、仕事の成果の資料や写真を日本に送ろうとしたときに思わぬアクシデントが起こり、そうこうしているうちに例の尖閣問題が勃発して、決まりかけていた仕事も全て白紙に戻ってしまったのですが、そのことについてはまた別の機会に)。

秋、再び日本に帰国。年末近くに中国に再渡来したのだけれど、また全く別の原因不明の激痛に襲われ  続けました。改めて日本に帰ることにし、帰国前日になってモニカを伴って病院に行ったら「尿酸値が余りに高く危険な状態である、すぐに入院が必要」と1日入院を余儀なくされてしまいました。点滴7本で1万5千円ほどの支払い(モニカに立て替えてもらった)。

このときも、モニカや他の外国人たちが親身になって面倒を見てくれたのだけれど、助けを求めた日本のメデイアや知人は、(ごく少数の方々を除き)まるっきり無反応。

医師からモニカには、相当に深刻な状態にあると告げられていたようで、それがあってか、その後は厳しい健康管理をされているのです。

年末、再度日本に帰り、どのような形でも資金を作らねばと、今年一月いっぱい、某昆虫コレクターの
経営する会社の後始末(?)を打診され、引き受けることにしました(その顛末はまたの機会に)。

一ヶ月間倉庫に寝泊りして、日夜ぶっ通しで数10万枚にも上る書類のシュレッターがけや、数百箱のダンボール運びなどを、一人で行うことになったのです。その結果、(重いダンボールを運び続けたため)肩を痛めてしまった。リアルタイムでは、なんら異常がなかったのです。それが中国に戻る2月中旬になって、左肩に激痛が走り出しました。ひと月あまり、我慢の限度を越えるほどの痛みが続いたのですが、しかし物理的な原因(重い段ポール運び)が分かっていた(つもりだった)ので、仕方がないと、ついこの間まで、痛みを堪え続けていたのです。

考えて見れば、肩の痛みは、必ずしも重労働が原因ではなかったのではないか、という気がします。なぜなら、足の指の激痛が突如始まる、その少し前に、肩の痛みのほうは治まっていたからです。入れ替わるようにしての足の激痛。肩の痛みも、イレギュラーな形での痛風だったのかも知れません。

さらに、数年から10数年前に遡って思い出してみます。痛みの程度や我慢の程度は、本人にしか分からない。自分が我慢強いのか、いくじないのか、客観的に図りようがないと思うのです。

30年近く前、高山植物のフィールドガイドブック作成のため、日本の山を歩き回っていた頃のことです。
高山植物は、それぞれの種ごとに開花季節が限定されていますから、一年の間に撮影を終えようとすれば、それはもう、とんでもないハードな行程となります。

例えばある年の6月下旬、それぞれの山で必要とされている“ただ1種の”固有種や希少種の撮影のため、まず北アルプス白馬岳から北海道北端の礼文島・利尻島に移動、利尻岳に日帰りで登って、稚内→網走→知床、翌日は、羅臼~硫黄岳を縦走、真夜中に宿舎に戻り、翌朝旭川から大雪山黒岳、そこから走って旭岳、ロープウェイで下山、旭川から盛岡まで航空便、翌日、早池峰の麓までタクシー、山頂を往復して、仙台空港→東京、そのまま夜行列車で甲府、朝一番のバスで広河原、北岳山頂まで走って往復、再び夜行で帰京し、世田谷区のアパートに(その後も、同じ山々の再トライを含めて7月いっぱいフル活動が続きました)。山に造詣の深い人ならば、超人的なスケジュールだと分かって貰えると思います。

その頃の僕の「持病」とも言えたのが、あまりに疲れた日が続くと、眠れなくなると言う不思議な現象。寝ない日が続けば続くほど、眠れなくなってしまうのです。そして眠れないままハードなスケジュールを繰り返していると、発作に教われます。東京に戻った翌日、近くの病院(初診)に診察に向かいました。対面した医師は、僕の風貌(日焼けはしていても痩せて小柄で、いかにも弱々しく見えるのだと思う)を見て開口一番「あなたは、今、自宅からゆっくりと歩いて来たのでは」「走ってくるぐらいの元気がないと」「眠れないのは単なる運動不足」「精神的なものだから、部屋に閉じこもっていず散歩にでも出かけるように」。

バカらしくなって、「いや、診て貰わなくて結構です」と診察を打ち切りました。「眠れないのは、眠ろうと気にするから眠れなくなってしまう、精神的なもの」と大抵の医師は説明します。でも、「眠ろうと気にする」も何も、疲れ切って、気にする余裕など微塵もない、「バタンキュー」なのです。問題は、就寝して間もなく目が覚めてしまう、あるいは発作に襲われる。結局、睡眠不足で意識朦朧とした状態のままでのハードな行程を、何日も繰り返し続けることになります。

やはり20年近くもの間悩まされ続けてきた“気管支炎モドキ”の場合も、同様のことが言えそうです。その苦しさは、筆舌には尽くし難いほど、と本人は思っています。激しい空咳のため、軟骨を何本も折ってしまい、それと共に各関節や体のあちこちに激痛が走ります。そして夜は眠れない。また、しばしば夜中に発作(「過呼吸症候群」というのだそうです)が起こります。それでも重いリュックを担いで山の中を歩き続けているのですが、ある日突然、全く予測が出来ないタイミングで、それまでの苦しさが嘘のように、ピタリと治ってしまう。

しばらく(“気管支炎モドキ”は翌年まで、、、毎年春から秋頃に発現)は平穏な期間が続きますが、またある日突然、どこかの部位が激痛に襲われるのです。

医者に行っても診断は常に同じで、「精神的なもの」。実際、検査の結果は大抵悪いところは発見出来ないものですから、「我慢が足りない」といったような結論になっても仕方がありません。まあ、症状がよく分からない診断結果の場合は、患者の側の精神的なもの、とされてしまうのが、落ちなのだと思います。

今考えれば、すでに10年20年以上前から、「痛風」の傾向があったのではないかと思うのです。痛みを訴え続けても、(日本の医者も知人も)誰もが無関心、なんらのアドバイスも貰えません。僕の体調に気を使って、食事についてのアドバイスをし続けてくれたのは、スーリンだけ。その後、具体的に健康管理のコントロールを続けてくれているのはMonica。病状の実態が判明し、詳しく説明してくれたのが、外国語での会話にコミュニケーションのハンデがある、昆明やハノイの、中国人や欧米人の医師。

日本人の医師からは唯一人、数年前に(相当に変わり者の)老年医師から、「生きているのが不思議なほど体中が酷い状況、、、検査の結果には現れないので、普通の医者には診断が付かない、、、このままだと一年も持たない」と言われたことがあります。高額の診察費が払えないので、そのままになってしまっているのですが。

酒とタバコはやりません。甘いものも嫌い。それらの点に於いてはヘルシー極まりないのですが、それ以外の食生活を考えると、滅茶苦茶な不摂生をしてきたことは間違いありません。一日3食を毎日一度に纏めて食べるとか、一ヶ月間ぶっ通しで朝昼晩マクドナルドのハンバーガーで過ごすとか、コーヒーをブラック(おおむねエスプレッソ)で日に7杯も8杯も飲むとか、、、、。

その結果、体は壊滅的な状況にあると自覚しています(先程の医師の言では、実質80歳代、とても60歳代の体ではない、と)。普段は部屋の中のトイレに行くのにも、這って行く状態。頭は常に意識朦朧としていて、目は、ほとんど見えないと言っても良いほど(顕微鏡とカメラのファインダーを通してなら良く見えるのですが、笑)。

それでいて、ひとたびフィールドに出れば、標高4000~5000mの氷河の周辺、道のない林内や渓流、一日に何10kmの道を一人で歩き続け、町に戻ればノー天気に20代の若者たちとつるんで(?)いるわけです。自分ではそうは思わないのだけれど、外観上は60代半ばにはとても見えないのだとのこと(40代、あるいは50歳前後と思われていることが多いみたい、、、、ここのところ、イミグレーション等で65歳以上の老人用ブースを利用するのですが、大抵注意をされてしまう)。いかに体調が悪いかを説明しても(いかに貧乏であるかの説明とともに、笑)誰も信じてくれない。

むろん冗談なのですが(半分本気?)もう何十年も前から、末期の病状にあって、しかしながら、気が付かずに放って置いたら、いつの間にか治っている、ということを何度も繰り返しているのではないかと。(経済的に余裕のある)一般の人ならば、診察、治療、手術、入院、、、ということで、その結果、とっくの昔にお陀仏になっている。気が付かずに(我慢をしつつ)放って置いたことが功を奏しているのではないかと。

今回も、このまま我慢をして“突然の回復”に期待すれば良いのかも知れませんが、ただ今回ばかりは我慢にも限度が、という状況です。

一体、どうなるのでしょうか?
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報告5

2013-06-14 00:03:09 | 

痛い、痛い!!!!

助けて! と叫びたくなるほどの激痛が続いています。昨夜は特に激しく、痛みで眠ることが出来なかった。朝方になってやっと眠れました。

薬が複雑でよく分からない。はっきりしているのは痛み止めは効かない、ということ。ハノイと広州でそれぞれ5日分の特別な?薬を貰っているのですが、、、(いくらか)効いたような気がするのは、最初の2~3日だけです。痛風の場合、足の親指の激痛は数日で治まると、文子さんから送信していただいた痛風についての案内書にあったけれど、もうひと月近く経つのに激痛が治まりません。濃い紫色に変色し、大きく腫れ上がっている。

一昨日、この連休(端午節と次の土日)中に帰省するモニカと合流、(迎えに行くことになっていたのだけれど広州への到着時間をAMとPMを間違えてメールしてきたので入れ違いに、、、てんやわんやでした)、僕はノービザ滞在期限更新のため、一度香港を往復、昨夜は(香港から7時間ほどの江西省との省境近くの農村の)モニカの実家にお世話になりました。

今日の午後、モニカと一緒に町(翁源)に戻り、ネット可能なホテルに宿泊(もちろん別々の部屋なのでご安心を、笑)、モニカがクレジットカードを持っているので立て替えておいて貰いました。明日14日に年金受領、もう一度センツエン経由で香港に出て(一日でもビザ期間を延ばすため)、モニカは(たぶん)センツエンのお姉さんの家に、僕はユースに泊まります。15日に広州、16日に昆明へ。

広州で一日近く時間の余裕があるので、モニカを通訳にもう一度病院にかかるか、昆明に戻ってから、集中して診察・治療を受けるかを考えます。その後のことは、、、考える余裕がないです。

このあと、すでに記述済みのままアップを保留していた「激痛」についての話を(一年半前にも別の場所の激痛が続き、結局ブログを閉じるハメになったことなども併せて)、明日の朝か明後日あたりにブログにアップする予定です。

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柳浪/眉山

2013-06-06 20:14:41 | 

雨、広津柳浪ですね。この4日間、連日の雨です。雲南は晴れの日が多いのですが、広東や広西の山間部は、この時期、梅雨の真っ只中のようです。

降り続く雨を背景にして物語が進んで行く、柳浪の短編小説「雨」は明治35年の発表、有名な「今戸心中」や「変目伝」「河内屋」「黒蜥蜴」などよりも5年余り後、彼の作家生活終盤の作品です。

「落ち目の柳浪」と呼ばれたりもします。風貌、代表作、そして彼の実生活、、、、“落ち目”はいずれにも相当するのでしょう。なにしろ柳浪といえば「悲惨小説」です。「観念小説」の川上眉山、泉鏡花と、3人セットで扱われます。

研友社の総師・尾崎紅葉より6つ下の鏡花は“紅葉の弟子”というポジションで、大正、昭和初期を通じて永く活動を続けますが、6つ上の柳浪、2つ下の眉山は、紅葉に対しては“友人”という立場。別段、紅葉と対立していたわけではないのでしょうが、微妙に距離を置いていたと言われています。明冶も30年代で実質活動を終えます。

「文章は美しさをもって第一とする」という紅葉のポリシーを前提として、思想的なエキスも(それとなく)加味したのが、柳浪や眉山の作品の特徴です(心理描写が素晴らしい)。

「雨」の執筆された明治35年は、一葉(29年没)、紅葉(36年没)、緑雨(37年没)等の、旧(ここで言う“旧”とは“古い”という意味ではなく“昔の文体”という意味)時代が終わり、花袋、藤村、秋声ら自然主義文学興隆の真っ只中(“自然主義にあらずんば作家にあらず”と言われた由)。このあとすぐに“新時代”の若者、荷風、潤一郎、直哉などが登場、遅れてきた中年、漱石がデビュー、鴎外、二葉亭も活動を再開します。その直前の時代です。

柳浪が作品を書き続けていたならば、漱石と並ぶ存在と成っていたのでは?と感じることがあります。しかし彼は、20年近くの余生を残して、筆を折ってしまいました。机の前に座って、何も書かず過ごす日々が、延々と続いたそうです。

子息の作家・広津和郎の有名な随筆。ある年の中秋の名月の夜、眉山が訪ねてきました。二人で月見をしていたのですが、やがて暇を持て余したのか和郎を呼び寄せ、オイチョカブを伝授した、、、。また、ある夜、 眉山が「世間は我々の時代は過ぎ去ったと言うけれど、これからが勝負、巻き返し図ろうではないか!」と興奮して語るに、柳浪は押し黙ったまま、、、、。

僕が思うに、このとき眉山は“無心”のため柳浪宅を訪れたのではないかと。しかし、和郎の親友、芥川龍之介曰く、「柳浪の子供たちは、あまりの貧乏ゆえ、飼っていた金魚を食わされていた」、、、、幾らなんでもそれは無い、と和郎は言いますが、それほど貧していたことは事実なようです。柳浪としても、どうにもしようが無かったのでしょう。

やがて眉山は自殺します。柳浪は相当うろたえたようです。「自殺の原因は生活苦ではない、芸術的思想に行き詰ってのもの」と、ほとんど自己弁護とも言えそうなコメントを対外的に発します。むろん、生活苦も芸術上の行き詰まりも、ともに原因(裏表一体)であることは、柳浪こそ充分承知していたはず。

「自然主義」文学の全盛期、旧世代の作家はお呼びでない、と言っても、柳浪も眉山も、ある意味その先駆者だった。でも彼らは“剥き出しの思想”を小説として表すことを、良しとしなかった。何よりも“文章”が大事であり、それをもって“芸術”として昇華されねばならなかった。

唐突ですが、「テーン・ポップス」と「ビートルズ」以降の新世代音楽との関係ともクロスします。また、従来のC&W音楽(ことにポップ・カントリーやナッシュビル・サウンドと呼ばれている都会派C&W)と、ボブ・ディランに始まる“フォーク・ロック”とも(当時圧倒的な支持を集めていた“フォーク・ロック”に対して、ポップ・カントリーの代表としての、ジョニー・ティロットソン[自作]の「カントリーボーイ」とトム・ジョーンズの「思い出のグリーングラス」を褒め称えた、高山宏之氏のコラム記事が素晴らしい)。

大衆に受け入れられるためには、文章なり、思想なり、どちらにしろ明確な立ち位置を示しておくことが必要です。紅葉の名言「時代の半歩先を進むこと」。時代(大衆)と同じ足取りでは先駆者足りえませんし、一歩先を進んでしまえば大衆はついて来れません。

今はマイナーな作家としてしか認識されていないのでしょうが、明治30年前後、柳浪、眉山は、実力的には(貧乏のため早世した樋口一葉を含めて)第一人者と目されていたのです。太宰治の「眉山」で示されているように、昭和の初期頃までは「川上」と言えば「眉山」と反応するほど高名な存在でもあったのです。鴎外・露伴・緑雨らによる「三人冗語」や「雲中語」で「たけくらべ」をはじめとした一葉の作品が絶賛されたことは余りに有名ですが、柳浪の作品について割かれた項も一葉のそれに劣らずあることは、現在では余り知られていません(柳浪は露伴のライバルと目されていたふしがあります)。

柳浪1861年生まれ。研友社の総師・紅葉(1967年生まれ)より6歳上(鴎外より1歳年長)。眉山1869年生まれ。紅葉より2歳下(露伴や漱石からも2歳下)。柳浪と眉山は8つ違いです。

自決したデル・シャノンは1934年(暮)生まれ。相棒のブライアン・ハイランドは1943年(暮)生まれ。9つ違い。ちなみに二人と仲の良かったジョニー・ティロットソンは1939年(春)生まれ、ちょうど中間でそれぞれ4歳半づつの差。脈絡は全く無いのですが(笑)、助けてあげられなかったのでしょうか。

まるっきり話が逸れてしまいました。

「雨」は良い作品です。ドラマチックな出来事が起こるわけでも無く、淡々とした展開で、結末ともいえぬ結末に向かって進んで行きます。Sad Storyではあるのですが、どこか暖かい眼差しが、、、。「悲惨」のなかに「救い」も感じる、柳浪の作品に共通した特徴です。


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中国旅行情報 広東省詔関市翁源県

2013-06-06 18:24:21 | 


度々指摘しているように、中国の「市」は日本の「県」に、「県」は「市」に、おおむね相当します(日本の「県」や「市」より広い)。翁源(地元の人は「龍仙」と呼んでいる)は、詔関市の中の幾つかの県のひとつで、日本の小さな県の県庁所在地ほどの規模です。

Monicaに義理があるわけではないのですが(笑)、僕が26年間、中国の各地を行き来した中での、ベスト・シティーだと思います。「親切」「清潔」(あと、女の子が可愛い!)。

そのうち、(痛い足を引きずっての)「翁源紀行」をアップ出来れば、と考えています。

来週から、この地方の特産の果物「三華李(プラムの一種)」の収穫際が始まります。

ホテルは、バスターミナルの向かいの「宝源賓館」個室(ツインルーム)一泊80元、バスターミナルから徒歩5分、ゴージャスな「龍翔大酒店」が同・118元(バイキング朝食付き)。前者もインターネットが使えますが、ワイファイ・ランケーブルとも中国スタイル(?)で僕のノートパソコンはアクセスできなかった(パソコンに詳しい人なら大丈夫と思う)。後者はワイファイのアクセスがとてもスムーズです。「親切」「清潔」が何よりも嬉しいです。

ちなみに広州のユースホステルは、6人部屋一人65元と高め(インターネットの繋がりは著しく悪い)。反対に、省境近くの山の中の宿泊施設は、1泊20元前後。
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あまりに腹が立つので、、、

2013-06-06 18:01:35 | 

ATMに行って来ました。1万円、去年の今頃は800元だったのが、500元しか出せません、去年の今頃に比べて、3分の2以下に目減りしています。アベノミクスやクロダノなんとか、円安で潤うのはお金持ち(大半の日本人が相当?)だけ、真正貧乏人は貧乏になるばかりです。日本人は日本でじっとしていろ、外国には出るな、ということでしょうね。

(6月7日付記:突然1ドル95円台に上がったようです。しまった!もうほんの少し引き出すのを待っていればよかった。このまま円高が進むことを願うばかりです。)
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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第6回】(全面再編草稿)前半

2013-06-02 21:29:16 | アメリカン・ポップスearly60’s

「旧アカウントの停止」「部屋の退去」「痛風悪化」と、三重苦で、途方に暮れています。さりとて、どうすれば良いのか。アパートはモニカの試験の目処がつく10月中旬には、新たに確保する予定です。でも痛風のほうは、いかんともしようがない。モニカは「病気の治療が先決」というのですが(それはもちろん正論ではあるけれど)現実問題として、そうは言っていられない。「仕事の遂行」「予算の確保」「住む場所の確保」それによって、体勢を整えてからの治療ということになります。

他に選択肢も考えられないので、とりあえず地方(雲南北部の四川省境付近の翁水という集落)に移ります。理由はもちろん宿泊費が安いこと、そして(痛風さえ治まれば)取材・撮影活動を行えること。体調のこれ以上の悪化(現時点でも満足に歩くことは出来ないのですが)を防げるか否か、一か八かではあるのですが、まあ、死んでしまうようなことはないでしょう。

と書いた端から正反対の方向に行くことに。考えに考えた末、ウルトラCの方法をとりました。

広東省の翁源(偶然“翁水”と似た名前です)。Monicaの実家のある町です。体調を考えれば、最も安全な策だと思っています。早ければ6月10日頃、遅ければ6月15日頃、Monica自身も一時帰省するので、今後の(治療などの)相談をします。

状況が回復せねば、Monicaの帰省までホテルでジッとしています。回復すれば、付近の山間部で、野生アジサイの探索を行います。状況がより酷くなったときは、Monicaの実家に世話になります。更に危険なときは、香港が近い(バスで4時間ほど)ので、日本に帰るという選択肢も採れます。

今日の午後の夜行列車で、明日広州に着き、夜には翁源に着くはずです(一度香港かセンツエンに寄るかも知れない)。ビザ更新時は香港に出れば良いし、それ以外は一箇所にいるので、交通費そのほかも余りかからず、次の年金まで充分持ちそうです。

年金受領後の中旬にはMonicaと一緒に昆明に戻り、病院でじっくりと検査を受けた後、すぐに雲南四川省境近くの“翁水村”に向かう予定です。もっとも、あくまで体の状態が良くなったら、の話で、でなければ絵に描いた餅。

今回「治療費用」そのほかは、N氏(およびT先生)に全面的にお世話になりました。大袈裟ではなく、命の恩人です。仕事は、新聞連載(6月下旬からにずれ込み)のほかは、企画が決まりかけている、複数の雑誌、単行本とも、最終決定まで一進一退の状況。企画が通ったわけではなく、といって企画が消滅したわけでもない。待ちの状態なのです。この段階で前払いを要求して、それによってせっかく纏まりかけた企画が潰れてしまう、というのがこれまでのパターンなので、今はじっと我慢の子です。

何度も何度も繰り返しお伝えしているように、僕の本職としての守備範囲は「中国の野生植物や昆虫」に関して。そのデータや写真の紹介は、基本的に活字媒体(単行本・雑誌・新聞など)で行い、そこから原稿料を頂いているわけですが、活字業界が未曾有の不況(日本人の「活字離れ」に加えて、「自然離れ」、「国内志向」、、、ことに中国への関心の低さ)にある最中、仕事を得るのも簡単ではなく、並行してインターネットのブログ上でも「仕事の一環として」発表し続けていこうと目論んでいるのです。

だから「野生生物を対象としたブログ記事は、本来援助者に向けての発信ゆえ、継続訪問をされる読者の方は何らかの形で自主的な協力を願いたい」と明記し続けているわけですが、誰一人として反応がない。毎日の訪問者数は、現在150人前後、これまでの“協力者”以外の「定期読者」も少なからずいるはずです。「非常に役に立つ内容で、いつも楽しく読ませて頂いています、でも協力するつもりはありません」そんな返答をしてくる方が、何人か存在します。

無人の新聞スタンドがあって「新聞を持っていかれる方は100円を入れて下さい」と書かれていたとします。誰も見ていないわけですから、100円を入れなくとも持っていくことは可能です。でも、新聞を受け取る代障として100円を入れる、これは人間として当たり前の行為です。

今回のような「(野生生物を対象とした)ブログを訪れる方は、自主的に協力頂きたい」といった要旨の、経済的あるいは体調面で窮地に置かれた故、改めて協力を請う文章を載せたときには、なぜか訪問者や閲覧者が一段と増えます。まあ、大多数の方々は、人の苦境を面白半分で見て、楽しんでいるわけですね。自分とは関係ない、自己責任だ、と。僕にはそのような人々が存在することが不思議でなりません。

それで、協力を頂けた方といえば、僕が趣味でアップしている(従って“援助には及ばない”と明記している)「アメリカン・ポップス」関係の読者のN氏。回りの人々は、氏のことを“変わったやつだ”と見ているのでしょうが、人の苦境を笑いながら見ていることの出来る、それらの人々のほうがずっと変なのではないかと僕は思う(でも数が多く、それが一般的となれば、別段問題はないわけですね)。彼らはいわば常識人なのでしょう、でも僕には実に卑しく感じられます。僕ならば、もしそのような記事が目に入ったなら、(N氏のような積極的な援助は無理としても)何らかの形で具体的に反応します。誰かに助けを求められれば(自分の出来る範囲で)それに応じる、というのが人間としてのあるべき道だと思うのです、、、。

さっき、昆明の駅前で、例の「チョーク女子大生」(僕のブログの“桂林物語”を参照)に遭遇しました。何も食べていなくて「3元(約45円)」を恵んでくれとのこと。ポケットを見たら小銭は2元だけ。「2元(約30円)しかないけれどごめんね」と差し上げました(まるで感謝してくれなかった、笑)。このお金は、N氏からの僕への、僕の生活費や、活動費用や、医療費用などに当てるための援助金です。だから、例えば僕が20元(約300円)を使って夕食を食べるのは、当然認められる行為でしょう。しかし、僕には、このお金の中から「見知らぬ人に2元を恵む権利はない」のでしょうか? ないのかも知れません。仮に「あなたにはその権利がないから人に2元を援助してはいけない」と言われても、僕は彼女に恵んで上げます。それによって非難されることになったとしても。

もちろん、20元、30元となれば、考えます。今の僕には大金ですから。でも2元なら、何かで埋め合わせをすることは充分に可能です(2玉5元の桂林米粉を1玉3元で我慢すれば良い)。それで、彼女が飢えから救われるのなら、なんの問題があるというのでしょうか。もっとも、本当かどうかはまったく分からない。嘘である可能性は限りなく高いでしょう。でも本当である可能性が全くないとも言えない。「お金がなくなったのは自己責任、人に頼るなんてもってのほか」というのは正論です。しかし、他人には諮りえぬ苦しい思いをしているのかも知れません(強盗に身包みを剥がされるとか)。2元でその苦しさを救ってあげることが出来るとしたら、お安いものです(実は僕は昨夜“1元=約15円”が足らなくて宿泊を断られ、終夜営業のマクドで一夜を過ごしたのですが)。

*僕は「チョーク女子大生」には非常な興味を持っていて、出来ることならドキュメンタリーとしてレポートを纏めたいのです。本人および取り巻く人々の実態を探ることで、「中国人とは何か?」という命題の側面が見えてくるように感じているのです。

僕の立場に置き換えようとは思わないけれど(思っているだろうって?)、僕はブログに於いて「中国の野生生物の貴重な“情報”を提供している、この情報を必要とする方には見返りを払っていただく」と明記しているのです。見返りの額を指定しているわけではありません。「1円しか価値がない」と思えば「1円」でもいいわけです。あるいは「自分にはその予算がない」ということならば「ある予算の範囲」でいいのです。本当に「1円も支払う余裕がない(1円の支払いでも手続きで結構かかってしまうことでしょうから)、でもブログは見たい」という方がいれば、そのように申し出てくだされば良い(実際、一人います、笑)。

今回、緊急の助けを求めた僕に反応してくださったのはN氏一人だけで、なおかつ望外の援助をしてくださっています。僕の本来の望みは、ブログの(野生生物の情報に関与した)読者の方々が、一人100円ずつでも援助してくださることを願っていたのですが。まあ、援助してくださらなかった読者の方々を恨むわけにはいかない。しかし、ニヤニヤしながら、面白半分に僕の窮状を楽しみつつ、“援助をしたN氏は変わった人”と傍観している人がいるとしたら、僕は猛烈な嫌悪を感じます。

まあ、そんなわけで、「ビートルズやアメリカンポップスが好き、ことにジョニーの“うつろなハート”が大好き」という“命の恩人”N氏に対する「お礼」の意味も込めて、「うつろなハート」を絡めての「ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代」【第6回】をアップする次第です。


I “謎”への入り口

「Empty Feeling/うつろなハート」。この曲は、ある意味、日本に於けるJohnny Tillotsonの位置付けを探る上で、エポックメイキング的な存在であるような気がします。そのことを記そうと書き始めたら、日本でのジョニーの軌跡の全てを追う破目になってしまいました(肝心の「うつろなハート」に対する記述は、後半に少し出てくるだけ)。

その前に断っておかねばならぬことが。今回記述していく内容は、以前に何度も繰り返し記述した内容とほぼ重なります。別段、以前の記述をなぞろうとしているつもりはないのですが、書き進めているうちに興味の対象がいつも同じところに向かってしまうのです。なお、今回はyou-tubeをはじめとする資料を一切参照していず、僕の記憶だけに頼って書き進めています。細かい内容(アルファベットの綴りや、ヒットチャートの順位などを含む)は多々間違いがあるかと思いますので、その旨ご了承下さい(間違いは判明次第、随時訂正していきます)。

あともうひとつ注約。先に記した「ブログの定期読者には(自主的な判断の上での)購読料金を希望する」というのは、あくまで僕の“本職”の「野生生物」に関する話題に於いてのこと。趣味でアップしている「Elvisと~」の読者に対してはその範囲ではないので、気兼ねなく訪れて頂きたいと考えています。

さて、やっと本題に入ります。「Judy, Judy, Judyの謎」「涙くんさよならの謎」を探っていくための、イントロダクションでもあります。

60年代初頭、本国アメリカでのジョニーは「ポエトリー・イン・モーション」や「ウイズアウト・ユー」などのヒット曲で、ティーン・アイドルの第一人者の一人として君臨していました。

ただし、他のアイドルたちと異なるところは、日本での知名度が全くなかったこと。日本の市場など無視してもよさそうに思うのですが、実際はそうでもなかったようです。60年代初頭、何人ものアイドルたちが相次いで来日しました。そして日本でもヒット曲を量産していました。ブライアン・ハイランドで例えれば、60~62年頃に於いてはジョニーに比べ圧倒的な知名度を誇っていました。正確に言えばジョニーの不戦敗。所属する米ケイデンスレコードが日本のどのレコード会社とも契約していなかったため、発売自体が叶わなかったわけです。

例えば「ポエトリー・イン・モーション」。4年後には日本でも発売され目出度く大ヒットとなるのですが、リアルタイムでは発売されなかったため、他の歌手のカバー盤でのみでしか聴くことが出来なかったのです。良く知られているのは「君に首ったけ」の日本題のボビー・ヴィー盤で、これはシングルB面に収められています。また同じ「君に首ったけ」の日本題で、マイナーな歌手(今確かめられないので分かり次第追加記入します)のシングルA面盤がyou-tube上に紹介されています。

ジョニー本人は以前から日本が好きだったと聞いていますし、(「こんなに愛して/Why Do I Love You So」「Judy, Judy, Judy」などアジア各国でのヒットも多数あることですから、アジア市場に力を入れていたことが推察出来ます。後の多数の日本語録音のほか、ドイツ語、イタリア語、フランス語、スペイン語などの各国語の作品も多数あり、国外での活躍を人一倍望んでいたはずです。だから日本でレコードを発売できない状況に対して、悔しい思いをしていたに違いありません。

数年後のミュージックライフ誌だったと思うのですが、こんな記事が載っていました。当時多大な人気を誇っていた洋楽D.J.高崎一郎氏の談話です。「私の事務所宛てに、自己の紹介と、日本でのオンエアーを願う文章を添えて、一枚のレコード(Poetry in Motion)が届いていた。こんな律儀な歌手は他に知らない」といった要旨で、ジョニーの熱心さと律儀さを褒め称えています。

ここで本国に於ける、ケイデンス時代のジョニーの航跡を簡単に(ちょっと斜めの方向から)チェックしておきましょう。

ティーンアイドル歌手たちは、一括りで認識されがちですが、一人ひとりの個性や方向性は、相当に異なっています。ジョニーはその中で最も典型的・平均的な“ティーンアイドル”と見られがち。しかし仔細にチェックすれば、個性にしても実績にしても、他の歌手とは相当に異質であることが知れます。個性はさておき、“実績”面では、意外な事実が少なからず見出されます。

まずデビュー(正式なリリース)は1958年9月。“24人衆”の中では比較的早いほうだと思います。「デビュー曲より初ヒットが後」、これはいくらでもあるパターンですね。ところがジョニーの場合は「デビュー曲より初ヒットのほうが先」、これは大変に珍しいケースだと重います。

デビュー曲は自作のラブバラード「夢見る瞳/Dreamy Eyes」。しかしこの曲がBillboard Hot100チャートに登場する前に、B面に収められた、ロックンロール曲(やはり自作)「Well, I’m Your Men」が一足先にランクインし、4週間留まって圏外に消え去ったあと、正式にはデビュー曲と認識されている「夢見る瞳」がランクインしたのです。

多くのティーンアイドル歌手は、現在では一応「ロック」のジャンルで括られています。しかし200曲を 超えるジョニーの録音曲のうち、純粋に「ロックンロール」と呼べる曲は、このデビューヒットの「ウエル・アイム・ユア・マン」を除いてほとんど存在しません(この曲はデビュー前の57年に録音されたC&W10数曲とともにデモテープにも収録されていて、それらの曲はのちに自家版アルバムとしてリリースされています、また、デビューに際して録音した曲のひとつに、リッキー・ネルソンのロックンロールヒットのカバー「アイ・ゴット・ア・フイーリング」があります)。

そして、“これぞロック”と呼べる曲がもうひとつ。デビューから52年後の2010年にリリースされた「ノット・イナフ」。なにか感慨深いものがありますね。

さて ジョニーの初ヒット「ウエル・アイム・ユア・マン」の87位というポジションは、下位ではありますが、一応幸先の良いスタートです。日本の音楽市場よりも遥かに巨大なアメリカのそれは、たとえ100位といっても、実質日本の(例えばオリコンの)ベスト10ぐらいに相当する価値があると思う。後で述べるように、別ジャンル(例えばC&W)のチャートや、地方の放送局のチャートなどで、No.1にランクされた曲であっても、BillboardのHot100では、100位内にランクされるかどうか、という位置付けなのです。

そのBillboard Hot100に登場した新人歌手の以降の航跡は、大きく4タイプに分けることが出来そうです。

●①いきなり大ブレーク。
例:ポールアンカ(「ダイアナ」)。

●②なかなか結果が出ず、何枚も不発を重ねた後、一気に大ブレーク。
例:ボビーヴィントン(「涙の紅バラ」)やトミーロー(「シェイラ」)。

●③まず下位でヒット、次いで大ブレーク。
例:ボビーヴィー(「スージー・ベイビー」→「デビル・オア・エンジェル」)、および雌臥後のロイ・オービソン(「アップ・タウン」→「オンリー・ザ・ロンリー」)。

●④幸先良く下位ヒットもそのまま消えてしまう。
“24人衆”にカウンティングされていない大多数。
(ロイ・オービソン、ブレンダ・リーらは、一度消えてから暫く後に大ブレーク)

ちなみに、いきなり大ブレークした後、続けて大ヒットを続けるのは稀(リッキー・ネルソンやエヴァリー・ブラザースなど少数)で、2~3曲後には消え去ってしまう、すなわち1発屋がむしろ主流です。上記のポール・アンカやブライアン・ハイランド(ブレイクは2曲目)にしても、一度は消えかかって、あわや一発屋になりかけているのです。

いずれにしろ、ほとんどの歌手の航跡が上記のパターン(または幾つかの組み合わせ)なのですが、ジョニーはそのどれにも当て嵌まりません。上記のように、幸先良く下位ヒットでスタートした後は、次は消え去るか大ブレークするかのどちらかなのだけれど、87位→63位→54位→43位と、下位キープのまま消えることなく、しかも少しづつ上昇しています。これは大変に難しい技なのだと思います。この後さらに57位/63位の両面ヒットを放ち、6曲連続40位(メジャーヒットの目安で40位以内曲だけを紹介するメディアも多い)以下のHot100チャートインを続けます。一曲も40位内チャート曲のない最多Hot100チャートイン記録保持者は「9曲」のスティーブ・アライモで、彼の場合は62年スタートですから、ジョニーの6曲というのは、この時点で記録保持者かも知れません。7曲目の「ポエトリー」での大ブレークも以降の計14曲のトップ40曲もなく、あと数曲こつこつとマイナーヒットを続けていたなら、別の意味で歴史に記録を残す存在になっていたのかも知れません。

アライモの本職はDJ兼タレント(デヴュー当時はジョニーもそうだったのですが)、マイナーヒット多数というアーティストは、C&WやR&Bやジャズの歌手、あるいは映画スターとか外国人歌手とか、別ジャンルの大物に多いパターンだと思います。アイドル歌手にあっては珍しいパターンなのです。

ほかのティーンアイドル歌手との違いの一つに、成功したアイドル歌手としては、際立ってリリースの数が少ない、ということが指摘出来ます。デビュー曲「夢見る瞳」のリリース(58年8月)のあと、1年近く経って「トゥルー・トゥルー・ハピネス」(59年5月)。以降、「こんなに愛して」(59年11月)、「アース・エンジェル」(60年4月)、「ポエトリー」(60年10月)と続き、「ポエトリー」での大ブレイク後も、「ジミーズ・ガール」(61年3月)、「ウイズアウト・ユー」(61年8月)、「涙ながらに」(62年4月)と、それぞれ結果が出されているのにも関わらず、リリース間隔が異常に長いのです。「夢の枕を」(62年7月)、「どうにも出来ない」(62年10月)の2曲に上記「涙ながらに」を加えた、同じアルバムからのカットの3曲の期間で、唯一一般的なリリース間隔となりますが、その後「涙でいっぱい」(63年2月)、「恋に弱い子」(63年7月)と、MGMに移ってからはともかく、ことCadence在席時は最後までスローペースのリリースなのです(ほかに企画もの、再発、移籍決定後のリリースが各1枚)。

ヒットに結びついていないのならともかく、いずれも結果を残している(「ポエトリー」以降は全曲Hot100の20位台以内)のですから、不思議です。

その理由は、ケイデンスのポリシー(所属アーティスト中の数少ない黒人歌手レニー・ウエルクのように、Hot100入りヒット曲がデビューシングル1つしかなかったアーティストでも、ジョニーとほぼ同じペースでリリースされていますし、エバリー兄弟のような超大物でも、リリース間隔は決して早くなかった)、または事情(予算がない?)によるものでしょうが、ジョニーの側にも事情があったのかも知れません。例えば、学業(ティーンアイドルでいる最中に博士号をとるのは大変なことと思う)とか、兵役とか、、、。

アルバムも少なく、普通、2~3曲のヒットを記録すれば、1枚や2枚のアルバムはリリースされるものです。ヒット9曲を積み重ねたところで初アルバム、しかもそれがベストヒット集というというのは異例でしょう。同時期にアルバムを量産していたボビー・ヴィー等と比べれば、その少なさは一目瞭然です。ケイデンス在籍5年間のうち、正式にリリースされたアルバムは3枚、うち3枚目は移籍直前の寄せ集めですから、実質、61年暮れから62年に相次いでリリースされた「ジョニー・ティロットソン・ベスト」と「涙ながらに」の2枚です。

しかし、この正反対のコンセプト(前者は「ポエトリー・イン・モーション」「ウイズアウト・ユー」を柱にした“ティーン・ポップス”集、後者は「涙ながらに」「夢の枕を」を柱とした“ポップ・カントリー・バラード”集)による2枚のアルバムは、実に計算され尽くした構成になっています。曲の配置が、唯一この並びしかないと思えるほど、見事に組まれている。「アルバム」としてひとつの作品になっているのです(ジョニーのアルバムはMGM移籍以降も一つ一つに独立した作品性が感じ取れます)。

発表曲が少ないのは残念ですが、ケイデンスの良い意味でのポリシー(実情は経済事情なのかも知れませんが、笑)と思えば、納得がいきます。以下に引くケイデンスのレーベルメイト、レニー・ウエルクの回想からも、そのことは伺い知れます。少々長くなりますが、彼へのインタビュー記事の中から、アーチ・ブレイヤーについての部分を抜粋しておきます。

Q -What kind of guy was Archie Bleyer.

A - Fabulous. He was a wonderful, wonderful, wonderful man. He knew the business. When I met him he was in his 50s or 60s. He used to go to the gym before he would come to the office. He owned Cadence Records. He was the arranger, the producer. He did everything. He mixed everything. He did everything himself. In my case, I was just a kid. I never had any experience traveling on the road. So he went out on the road with me. He was the conductor for The Arthur Godfrey Show. He was the musical conductor. When the show ended, he left and started his own record company. He married one of the Chordettes. He recorded them. "Mr. Sandman" was a big hit for them on his label. Then he had Julius La Rosa, Andy Williams. Many of Andy's big hits were with him. And he discovered The Everly Brothers. All of their big hits were with him. When they left him, they didn't really have any big hits like when they were with him. He also had Johnny Tillotson. Johnny and I are good friends today. Johnny thinks the world of Archie Bleyer and so do I.

大好き! 素敵な、素敵な、素敵な男。彼は商売を知っている。私が彼に出会ったとき、彼は50歳代か60歳代だった。He used to go to the gym before he would come to the office(*意味が良く分からない、、、、「彼はオフィスに来る前にジムに通った」で良いのかな?)。 彼はケイデンスレコードの社長で、アレンジャーであり、プロデューサーでもあった。彼は彼自身も含め、全てを取り仕切った。僕の場合、まるで子供のようだった。僕がまだ大きな旅をしたことが無かったときに、彼は僕を旅に連れ出してくれた。彼は(TVの)The Arthur Godfrey Showのミュージカル・コンダクターだった。そのショーが終わり、彼がそこから去ったあと、自らのレコード会社“ケイデンス”を立ち上げた。彼は、コーデッツのメンバーの一人と結婚した。そして共に作成した“Mr. サンドマン"は、彼のレーベルでの大ヒットとなった。そして、ジュリアス・ラ・ローサとアンディ・ウイリアムスを配下に擁した。数多くのアンディの大ヒット曲は、彼と共に成された。そしてまた、エバリー・ブラザースを発掘した。彼らの大ヒット曲群もまた、彼と共に作成された。彼の元を去ってから後は、彼と共に成されたときのような、真の意味での大ヒット曲は持ち得ていない。彼はまた、ジョニー・ティロットソンを擁した。ジョニーと僕は、今素敵な友達だ。ジョニーもアーチ・ブレイヤーの世界を、僕と同じように思っているだろう。

*なにしろ、今列車の中、ナップサックひとつの身で「辞書」もなければ、むろんネットの「自動翻訳機(ご存知かも知れませんが、これが大変な代物、ほとんど“お笑い”の世界です)」も使えない。したがって、おおむね感覚に頼った出鱈目翻訳なので、原文も併記しておきます。昆明-広州間26時間の時間つぶしに、原稿書きはちょうどいいのだけれど、バッテリーが充電出来ない。あと1時間ほどで無くなってしまうところです。

ケイデンスからリリースされたアンディーのアルバムは確か8枚、アルバムスターとして知られる割には意外に少ない数です。エヴァリーは6枚、うち一枚はアイドル歌手としては異質な(アイルランド民謡を中心とした)古い唄のカバー「Songs Our Daddy Taught Us」(これが素晴らしい!ジョニーの「涙ながらに」と双璧を成すアルバムと思っています)。

エヴァリーの在籍時も、日本のレーベルとの契約がなかったため、今では知らぬ人は居ないだろう彼らの大ヒット曲「バイバイラブ」や「夢を見るだけ」も、リアルタイムではほとんど知られていなかったものと思われます。当時エルヴィスの対抗馬であった彼らさえも、日本にあってはそのような状況だったわけで、後に「4エヴァリー(=ビートルズ)」「5エヴァリー(=ビーチボーイズ)」等として人口に介するようになってから、広く知れ渡るようになったのです。
 
62年、日本キングレコードが「セブンシーズ」という洋楽専門の配下レーベルを作り、ケイデンスと契約に至ります(エヴァリーやアンディーは既にメジャーレーベルに移籍)。ジョニーの全盛期であり、タイミング的にはベストのはずだったのですが、その最高のタイミングが逆に裏目に。

すなわち、「涙ながらに」(H3、C4、R6)、「夢の枕を」(A5、C11、H17)、「どうにも出来ない」(A8、H24)、「涙でいっぱい」(A11、H24)、「恋に弱い子」(A4、H18)と、当時連発していた本国ヒット曲が、日本ではまず受け入れられることのないC&Wバラード(その結果、ジョニーでもエヴァリーでもアンディーでもない、少年歌手エディー・ホッジスの「恋の売り込み」や「コーヒーデイト」が、ケイデンスレーベルの日本初ヒット曲となりました)。
*ジョニーとエディ・ホッジスのコンボアルバムが、ジョニーの日本でのブレイク前にリリースされています。

本国に於いても異例の立場に置かれていました。詳しい統計はそのうち紹介することにして、ここでは簡単に述べておきます。当時は「ポップ・カントリー」の全盛期。初期のエルヴィスも、ポップスとC&Wの両ジャンルをクロスオーバーし活躍していました。そもそもエルヴィスは、56年にポップス(ロックンロール)で大ブレークする依然の55年に、既にC&Wの分野でブレイクしていたのです。当時フロリダのラジオ局でDJをしていたジョニーが、いち早くエルヴィスを紹介した、という逸話もあります。

エルヴィスが、ポップス、C&W両分野で活躍し始めた年の翌57年、ジェリー・リー・ルイスをはじめとしたロックン・ローラー、リッキー・ネルソンやエヴァリー兄弟などのティーン・アイドル達が登場、彼らもポップスとC&Wの両分野に跨って、華々しい活動を開始します。50年代末のC&Wシーンは、若者の音楽(エルヴィスやルイスに代表される反抗的なロックンローラー、リッキーやエバリーに代表されるヤングアイドル)に占圧された状況に。古くから(従来の保守的な)C&W音楽を愛好してきた大人たちにとっては、面白くなかったのではないかと。

その結果、60年代に入って、C&Wの世界は、若いポップスターに対してピタリと門戸を閉ざしてしまいます。62年といえば、「ナッシュビルサウンド」「ポップカントリー」(これらの名称は今ではいろいろな解釈が成されていますが、最初は「ポップ歌手の唄うカントリー調の曲」という意味合いが強かったように思います、正確には「カントリーポップ」といったほうが良いのでしょうが)の全盛期です。

62年を挟んだ、61年後半から63年前半の、有名ポップ歌手のC&W調ヒット曲を思いつくままに取り上げてみます。

「好きにならずにいられない」エルヴィス・プレスリー
「恋のむせび泣き」ロイ・オービソン
「Don’t Break The Heart That Loves You」「Second Hand Love」コニー・フランシス
「フールNo.1」ブレンダ・リー
「愛さずにはいられない」「ユードントノーミー」「泣かずにはいられない」レイ・チャールス
「涙ながらに」「夢の枕を」ジョニー・ティロットソン
「愛しのジニー」「涙のくちづけ」ブライアン・ハイランド
「涙の紅バラ」「涙の太陽」ボビー・ヴィントン
「初恋の並木道」「君のための僕」ボビー・ダーリン
「河の娘パッチェス」デッキー・リー
「スイスの娘」デル・シャノン
「Be Careful of Stones That You Throw」ディオン
「ランブリン・ローズ」ナット・キング・コール
etc.

明らかにポップスの分野の歌手たち(上記のうち、ブレンダとディッキーの両リーは、後にC&Wへの移行に成功)ですが、曲は明らかにカントリー調です。 

このうち日本で受け入れられたのは、R&B界の大スター、レイ・チャールスの「愛さずにはいられない」と、同じく黒人のベテラン・ジャズボーカリスト、ナット・キング・コールの「ランブリン・ローズ」ぐらい。ほかの大多数は(ボビー・ダーリンの「初恋の並木道」とディキー・リーの「河の娘パッチェス」はいくらかヒットしたように記憶していますが)リアルタイムでは全く話題にならなかった。

本国アメリカでは、日本とはまた違った意味で、「C&W調のポップス曲」が、C&Wの世界に於いて、全く受け入れられなくなっていました。上記した(後述する唯一の例外のジョニーの2曲を除く)全ての曲をはじめ、ポップ歌手の唄うC&W調の曲は、(50年台末の盛況が嘘のように)C&Wのチャートに登場することは皆無だったのです。

さらに、C&Wの側の大物歌手のヒット曲も、ポップスの上位チャートには見出すことが出来なくなっていました。62年からは2~3年後ですが、分かりやすい例を挙げておきます。

「トークバック・トレンブリン・リップス」
アーネスト・アシュワーズ盤 C1位/P101位
ジョニー・テイロットソン盤 P7位/A6位

「ザ・レース・イズ・オン」
ジョージ・ジョーンズ盤 C2位/P96位
ジャック・ジョーンズ盤 P15位/A1位

若手女性C&W歌手コニー・スミスの大ヒット曲「ワンス・ア・デイ」なども、有名曲ゆえポップスでも上位にランクされたと思っていたのですが、実際は、C1位、P101位。おおむね、C&W1位がポップス100位あたりに相当する、そんなところではないかと思われます。

ということで62年度のC&Wチャートの中から、Popチャートとクロスオーバーしてランクインした曲を、徹底して調べてみました。20代の若手歌手で、両チャートの上位にランクされたのは、ジョニーの2曲(Pop3/C&W4、Pop17/C&W11)を除いて(Pop、C&W両陣営の歌手を合わせても)皆無!

唯一見つけたのが、英フォークグループ「スプリングフィールズ」の「金の針と銀の糸」(Pop20/C&W16)。実質、ダスティー・スプリングフィールドのソロボーカルですから、米国と英国、男女の差、カントリーとフォークの違いはあっても、誕生日も4日違い(ダスティ=1939.4.16、ジョニー=1939.4.20)の両者は、似たポジションのあったものと思われます。

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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第6回】(全面再編草稿)後半

2013-06-02 15:07:49 | アメリカン・ポップスearly60’s


ともかくジョニーへの待遇は“例外中の例外”と言って良いでしょう。C&Wの住人たちが大歓迎で仲間として迎えてくれ、この年のグラミー賞には「涙ながらに」が最優秀C&Wシングルにノミネートされています。

これは想像ですが、、、、結果としてジョニーはその温情?を見事に裏切ったのではないかと。その後も、ハンク・ウイリアムスの「どうにも出来ない」、自作の「涙でいっぱい」(現在ではカントリークラシックとして紹介されています)と、ギンギンのC&W調の曲を発表し続けますが、結局はC&Wから締め出されてしまった。想像するに、歌唱そのものは正調のカントリーであるにせよ、ティーンアイドルのスタイルのまま(例えば「デイック・クラークの“アメリカン・バンドスタンド”」などのアイドルの世界に身を置いて)歌い続けたのでしょう、せっかく迎え入れてやったのに、なんだその姿勢は、と反感を買ったのかも知れません。

翌63年には、ジョニーよりはやや年上ながら若手の範疇に入る何人かのC&W系の歌手が、クロスオーバー ヒットを放ちます。すなわち、ボビー・ベアーの「シェイム・オン・ミー」「デトロイト・シティー」「500マイル」、ジョージ・ハミルトン・4世の「アビリーン」、ビル・アンダーソンの「スティル」、スキーター・デイビスの「この世の果てまで」など。彼らもジョニー同様、この機会に“ティーンアイドル”歌手として君臨する選択肢もあったはずですが、きっぱりとカントリーの世界に戻ります。

もっとも、スキーター・デイビスは、60年代において唯一究極のクロスオーバーヒット(Pop/R&B/C&W/ACの4大チャート全てのトップ10にランク=ある意味60年代最大のヒット曲)となった「この世の果てまで」の成功によって、その後、長い間、一部のC&Wの世界の住人たちから妬まれ続け、辛い思いをしてきたと聞いています。

ちなみに、以前にも紹介しましたが、60年代に於ける“4冠曲”は、「この世の果てまで」一曲だけ。“3冠曲”は60年代を通して何曲か存在しますが、そのほとんど全てがP-R-A、P-C-A、A-C-Rの組み合わせで、最も難しいと思われるP-C-Rの組み合わせは、ジョニーの「涙ながらに」一曲だけです(「夢の枕を」以降の主要曲が軒並みAdult上位に食い込んでいることを考えれば、「涙ながらに」もAdultにノミネートされていたなら当然トップ10に入り得、“4冠曲”となっていたでしょう、それを想うとちょっと残念です)。

話が逸れてしまいました。ジョニーは、本国でも「ギンギンのカントリーを唄う典型的ティーンアイドル」として、相当に特殊な位置付けにあったわけです。日本での状況は、もって知る如し。全盛期とは言えども、リアルタイムでのヒット曲は全てC&W調。せっかくの大チャンスなのに、そのまま勝負しても日本のリスナーには受け入れられるはずがありません。

といって、せっかく本国でヒットを放ち続けているわけですから、それを出さないわけにはいかない。ということで、販売権獲得以降「涙ながらに」「夢の枕を」「どうにも出来ない」「涙でいっぱい」と、アメリカンヒットをそのままリリースし続けました。でも、さすがに4曲連続ハズレとならば、幾ら本国での成功曲といえども、日本では駄目だということが分かります。もしかしたらジョニー本人も悩んでいたでしょうし、日本キングレコードの洋盤製作スタッフや営業も頭を絞ったに違いありません。

同じ洋楽とは言っても、日本とアメリカではヒットする曲が全く異なる、という例は、これまでにも少なからずありました。ニール・セダカの日本での最大のヒット曲は、アメリカではB面で全くヒットしなかった「恋の片道切符」ですし、ブライアン・ハイランドは、やはり本国ノンヒットの「ベビー・フェイス」ほか、多くの日本独自のヒット曲(おおむね本国ではB面)を持っています。ジーン・ピットニーに至っては、幾多の本国リリースシングルのうち、ただ一曲ヒットに結びつかなかった「ルイジアナ・ママ」が、皮肉なことに日本に於ける唯一の大ヒット曲と成っています。

ジョニーの場合も、リアルタイムの本国ヒット曲で勝負することはこの際きっぱり止めて、日本のリスナーに受け入れられそうな昔のヒット曲で勝負したほうがいいのではないか?と考えても不思議はありません。次の本国ヒット曲も「A4位」「P18位」と依然好調を維持する「You Can Never Stop Me Loving You」。そのまま出したいところですが、迷った末の決断は「古い曲」のリリース。2年前のヒット曲の、しかもそのB面曲の「キューティー・パイ」。これが予想を上回る大成功を収めます。

こと日本に於いては「イット・キープス・ライト・オン・ア・ハーテイング」「センド・ミー・ザ・ピロウ・ザット・ユー・ドリーム・オン」「アイ・キャント・ヘルプ・イット・イフ・アイム・ステイル・イン・ラブ・ウイズ・ユー」「ユー・キャン・ネヴァー・ストップ・ミー・ラヴィング・ユー」といった長ったらしいタイトルの曲が、(日本人でも意味が分かる)「キューティー・パイ」「プリンセス・プリンセス」に叶うわけがないのです。

この決断、この成功は、今考えると“紙一重”の結果でした。もし、「せっかく本国でヒットし続けているのだから、もう一曲アメリカンヒットにかけて様子を見てみよう」と「ユー・キャン~」を先にリリースしていれば、永久にチャンスを逃していた可能性大です。というのは、本国では「ユー・キャン~」リリース直後、MGMへの移籍が決まったのですから。むろん、新曲の日本に於ける販売権は、日本キングの  許から、MGMを配下に収める日本コロムビアに移ってしまいます。となれば、あえて冒険はしなかったかも知れない。

しかも、その直後にビートルズ米国上陸。ヒットチャートも新勢力に占圧され、ファンたちの嗜好も一気に大転換してしまいます。決断が数ヶ月遅れていたならば、(たとえ移籍がなかったとしても)「キューティー・パイ」等の曲は既に時代遅れの音楽となってしまって、大ヒットには結びつかなかった可能性があります。「恋のウルトラC」「涙くんさよなら」ほかMGM傘下の日本ヒット曲も「キューティ・パイ」の成功を持って成されたわけですから、それなくしては企画自体が成り立っていなかったでしょう。ジョニーの日本での大成功は、唯一可能なタイミングをものにした、というわけです。

上記したように、決断がひと月でも遅れていればブレイクは無かったでしょうし、早めに切り替えが決行されていればいたで、日本でもそれなりの人気を有していた他のティーンアイドル(ニール・セダカやポール・アンカやリッキー・ネルソンやブライアン・ハイランドやデル・シャノンやボビー・ヴィーやボビー・ライデルやフランキー・アヴァロンetc.)同様、(こと63~64年頃の日本に於いては)賞味期限切れということで、「新世代」に対抗する「旧世代一番手」としての位置付けは得られなかったでしょう。「日本ではついにブレークすることのなかった伝説のティーンアイドル」として、それなりの評価(現在の状況を考えれば、むしろその方が評価が高くなっていた?)は得られたことでしょうが。

といったような話は、これまでにも何回もして来ました。ここからは、その後のこと(これも一応何回かは話してきた)について。

本国旧ヒット(61年「ウイズアウト・ユー」)B面曲「キューティー・パイ」での、日本初ブレイクに続いて、同じく本国旧ヒット(60年「ポエトリー」)B面曲「プリンセス・プリンセス」も大ヒットします。ここで興味深いのは、この2曲の間を縫って、一応順番通りに、リアルタイム本国ヒット「ユー・キャン~」もリリースされていること。ただしAB面を裏返し、いかにも日本人受けしそうな「ジュディー、ジュディ、ジュディ」をA面に持って来ました。

上に記したことを自ら否定することになってしまいますが、仮に、本国ヒット曲のリアルタイムリリースを一端中止し、旧ヒットB面曲の「キューティ・パイ」で勝負を賭ける決断が成されなかったとしても、順番通りにリアルタイムヒット曲(ただしAB面を裏返して「ジュディー、ジュディ、ジュディ」)が発売されていれば、日本での初ヒットとなった可能性もあるような気がします。

「キューティー・パイ」でのブレイク直後に、いかにも日本受けしそうな「ジュディ、ジュデイ、ジュデイ」と、あまりによく出来たシュチュエーションではあるのですが、実は意外なことに、日本ではほとんどヒットしなかったのです。その原因は、相次いでリリースされた日本独自企画の“旧ヒット裏返しB面曲”「プリンセス・プリンセス」のほうがより日本人受けする曲であったこと、さらに、いわば起死回生の企画物「キューティー・パイ」「プリンセス・プリンセス」と、全く偶然たまたま順番が回ってきた「ジュディ、ジュディ、ジュディ」とでは、レコード会社営業部の力の入れ方が違ったのだろうと思います。その結果、「ジュディ、ジュディ、ジュディ」は、2つの大ヒット曲の間に埋没してしまった。案外、綺麗すぎるメロディーの曲は、日本受けしないのかも知れません。

「ジュディ、ジュディ、ジュディ」は、謎の曲です。58年から唄い続けてきた“ティーン・ポップス”は、62年1月8日に録音した「素敵なガールハント」で終止符をうち、同じ日、同じスタジオで録音した「涙ながらに」以降は、C&WやAC系の曲が中心となって、(現在に至るまで50年の間)ティーン・ポップス系の曲は封印されてきました。唯一の例外が63年になって録音された「ジュディ、ジュディ、ジュディ」(ただしすでに62年から何度か繰り返し別バージョンが録音されていた)。イギリス映画「ジャスト・フォー・ファン」(63年)の収録曲であること、ジョニー自身と有名作家コンビの、3人の共作という変則的作品であること、などと併せ、アメリカ、イギリス、日本では全くヒットしなかったのに、それ以外の多くの国で大ヒットしたことなど、よく分かっていない謎が多数あります。その実態の検証と謎の解明は、改めて「ジュディ、ジュディ、ジュディの謎」として、一項を設ける予定です。

それはさておき、旧ヒットB面曲「キューティー・パイ」で大成功を収めてからは、新ヒットB面曲「ジュディ、ジュディ、ジュディ」、旧ヒットB面曲「プリンセス・プリンセス」、新ヒットB面曲「素敵なガールハント」、、、と、順風漫歩。ケイデンスからの最後のリリース曲「Fanny How Time Slips Away」(アルバム「涙ながらに」収録の別テイク)と、MGM移籍後初リリースの「Talk Back Trembling Lips」は競作となり、本国ではもちろん「トーク・バック~」の圧勝となりましたが、逆に日本では引き続きAB面ひっくり返してリリースされた「素敵なガールハント」の圧勝に終わりました。

こうなれば、日本キング洋楽関係者にとって怖いものなし。MGMのほうは本国ではヒットを続けるかも知れませんが、日本人受けしないカントリー系の曲が大半でしょう。キングのほうには、日本人受けすること確実の、本国旧ヒット曲やそのB面曲(61年以前のティーン・ポップス)が、何曲も未発売のまま残っている。こののち2~3年は独自のヒット曲を量産できそうです。ほかの同時代歌手は(少なくとも日本に於いては)かつての勢いを失っているので、一人勝ちです。

まずは満を持して4年遅れの「ポエトリー・イン・モーション」。もちろん日本でも大ヒットを記録します。ちなみに、ごく最近、クリフ・リチャードがこの曲を録音、新アルバムの目玉としてリリースされたニュースが伝わってきました。これはもう、絶対に聞きたいですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(10数年後にリリースされる予定の、、、笑)ジョニーへのトリュビュート・アルバムです(●は自作曲)。

「ポエトリー」 クリフ・リチャード
「ポエトリー」 パット・ブーン
「●ウイズアウト・ユー」 (未定)
「●涙でいっぱい」 ジョニー・シンバル
「ジミーズ・ガール」 リッキー・ヴァランス or 「恋に弱い子」ケニー・リンチ 
「こんなに愛して」 (フィリッピンの女性歌手)
「●ジュディ、ジュディ、ジュディ」 ぺトゥラ・クラーク
「●夢見る瞳」 ブライアン・ハイランド
「トレンブリン・キッス」 コニー・フランシス
「夢の枕を」 エヴァリー・ブラザース
「●キューティー・パイ」(伊東ゆかり?) or 「●プロミス・ミー」 カール・ダブキンJR
「●Who’s Gonna Take the Garbage Out」 アーネスト・タブ&ロレッタ・リン
「恋はつらいね」(少女C&Wシンガー)
「シー・アンダースタンズ・ミー“ダムディダ”」 ボビー・ヴィントン
「●君の面影」 コニー・スミス
「●アナザー・ユー」 スキーター・デイヴィス
「恋のウルトラC」 ジェイ&アメリカンズ
「涙くんさよなら」 ジミー・オズモンド
「●涙ながらに」 ハンク・ロックリン
「●涙ながらに」 エルヴィス・プレスリー

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ウイズアウト・ユー」とか「こんなに愛して」とか「アース・エンジェル」とか「ネヴァー・レット・ミー・ゴー」とか、、、、いかにも日本でもヒットしそうな本国旧ヒット曲や、そのB面曲は後に残し、小出しにして行こうと考えたのでしょう、次はアルバムカットで「カム・ソフトリー・トゥー・ミー」。これもそこそこのヒットを記録します。

日本コロンビア(MGM)のほうは、本国ヒットの「I’m A Warred Gay/ナイスガイジョニー」で対抗しますが、可哀想なことに、勝ち目はありません。日本キング(セブンシーズ~ケイデンス)にとっては“ウハウハ”というところでしょう。しかし思わぬ事態が相次いで起こります。

ひとつはビートルズの登場。以降、リスナーの嗜好は一気に変わってしまいます。もっとも、考え方によれば“旧勢力”の代表として新勢力への対抗馬の役割を一手に引き受けるわけで、当分、一人勝ちということも考えられたのです。

もうひとつは決定的な出来事です。ジョニーがMGMへ移籍して間もなく、ケイデンスは解散、アンデイ・ウイリアムスによる全楽曲権利の買収に伴い、キングレコードは日本での販売権を失ってしまいました。残された日本でのヒット確実の、無尽蔵(はちょっと大袈裟だけれど)とも言えるケイデンス音源のティーン・ポップスは、半永久的に日の目を見ることが出来なくなってしまったのです。ウハウハ一転、ジ・エンド。

そこで漁夫の利を得たのが、MGMの発売権を持つ日本コロンビア。日本で人気絶頂のジョニーを独り占めすることが出来ます。ケイデンス音源の日本人好みの旧録音曲は望めなくとも、新勢力への対抗馬一番手として、なんとか別の形で突破口を開かねばなりません。

まずは順番通り、本国ヒットの「君に心を奪われて/I Rise, I Fall」をリアルタイムでリリース。ここで予想外のことが起こります。旧譜の発売権をなくした日本キングが(即刻廃盤になることを承知の上で)消滅直前に“新譜”をぶつけてきたのです。僕が聞いた話では、個人的にジョニーのファンでもあったキングレコードのディレクターが個人の判断(リリース直後に廃盤ですから会社にとっての利益はほとんどない)で新譜をリリースしたのです(“ファンへのプレゼント”と聞きました)。発売権がなくなっていなければ、次の順番は「アース・エンジェル」に決まっていたそうです。しかし、最後のリリースになってしまうわけですから、ここはカントリータッチの曲、なおかつ日本人リスナーにも受け入れられそうな曲、ということで、一度、1年前に「涙でいっぱい」のB面「悲しき恋心」として発売された「Empty Feeling」を「うつろなハート」の邦題で再リリース。

これが、想いのほか人気を呼び、日本の各ヒットパレードを駆け上がりました。日本キング(セブンシーズ~ケイデンス)に於ける、日本最後の(売れ行きには繋がらない)ヒット曲となったのです。

この曲は、日本キングからリリースされた「キューテーィ・パイ」以降の7曲の中では異色のカントリータッチの曲、なおかつポップス色要素も色濃く残されています。日本ではカントリータッチの曲がほとんどヒットしなかったジョニーにとっても、何よりのプレゼントになったものと思われます。

僕のファブロートソングは、この曲の本国(アメリカ)でのA面「涙でいっぱい」、この「うつろなハート」もそれに負けない素敵な曲です。「涙でいっぱい」がポップ要素満載のC&Wなら、こちらはカントリーフレバーに溢れたPopチュエーンということが出来るでしょう。

実は、イギリスでは組み合わせが違っていて、「涙でいっぱい」のB面が、あの「ジュディ、ジュディ、ジュディ」。アメリカでの「ジュディ~」のA面「ユー・キャン・ネヴァー・ストップ・ミー・ラヴィング・ユー」は、イギリスの黒人ポップ歌手、ケニー・リンチのヒット曲(ジョニーとは仲がよく、彼の勧めで録音 したとされています、幾つものバージョンがあり、初期録音のアレンジは、ケニー盤にそっくりです)であるため、彼に配慮して発売されなかったものと思われます。

いずれにせよ、ケイデンス最後期(ジョニーの移籍、レーベルの消滅寸前)に録音・リリースされた「涙でいっぱい」「うつろなハート」「ジュディー~」「ユーキャン~」は、いずれも謎を秘めた曲なのです。

「涙でいっぱい」は、ジョニーのキャリアの中で“谷間の曲”ということが出来るかも知れません。「涙ながらに」「夢の枕を」「どうにもできない」と同一アルバムのカッティング曲を3曲続けてリリースした後のこの曲は、なぜか以降どのアルバムにも収められることがありませんでした。同じく自作の「涙ながらに」勝るとも劣らないポップ・カントリーの名曲だと思いますが、シンプルな歌詞と曲、モノラル録音で伴奏も単純(コーラスもない)、人気の絶頂期とはいえ、よくヒットしたものと思います。ただし、アウトテイクの別の2テイクを聴く限りでは、ひとつは澄んだ響きのベース、もうひとつはリリカルなギターが印象的で、じっくり聞けば極めて凝った構成であることが分かります(共にステレオ録音です)。

この曲は、ブライアン・ハイランドのために作成した、という話をどこかで読んだ記憶があるのですが、彼が取り上げた記録はありません。ハイランドが録音したジョニーのペンによる作品は、「涙ながらに」(ノンリリース)と「夢見る瞳」(シングルリリース)。ちなみに「涙でいっぱい」は、「ミスター・ベースマン」や「僕のマシュマロちゃん」など、日本ではジョニーと同時期にヒットを飛ばした、ジョニー・シンバル盤があります。

B面の「悲しき恋心/うつろなハート」は、ジョニーのプロデューサーでマネージャーも兼ねていたポール・タンネンの作品。ジョニーとタンネンは、初期にはこのAB面のようにそれぞれ単独で作詞作曲を行っていましたが、後に多くの曲を共作しています。どちらかが詩/曲を分担したというのではなく、(ジョニーの最初の奥さんルシルとの共作の場合ともども)その時々で臨機応変に受け持ちを分担したようです。

ただし、僕の感想では、タンネンが一人で作った曲(例えば「不思議なことが起こった/Strange Things Happen」「どうしようかな?/What Am I Gonna Do」)に、特に佳曲が多いように思われます。「うつろなハート」もそのひとつです。

タンネンはジョニーとの共同出資と言われる「タンリッジ・プロダクション」を設立、その後大出世して、今ではジョニーを上回る業界知名人になっているようです。ジョニーのHPのリンクのコーナーには、イの一番に、タンネンとタンリッジ・プロダクションが紹介されています。ちなみに、歌手のコーナーには、トミー・ロウとボビー・ヴィーが、友人のコーナーには、やはり多くの曲をジョニーに提供している作詞作曲家のもう一人のポール、ポール・エヴァンスが、最初に紹介されています。

僕にとってのタンネンに纏わる思い出。66年の2回(映画と講演)の来日時、確か一回目にはタンネンが同行していたと思うのですが、2回目のときは姿を見なかったように思います。大阪公演を終え、新大阪駅のプラットホームで見送ったとき、関西支部からのお土産として、(僕の母の妹のご主人が神戸で日本人形やこけしの卸業をやっていたため、そこで貰ってきた)人形をジョニーにプレゼントし、それに付け加えて「こけし」のほうを「タンネンにあげてください」とジョニーに渡しました。ジョニーは「ポールにプレゼントだって?彼、喜ぶよ!」と、笑いながら大袈裟にびっくりして、とても喜んでくれたことを思い出します。

本題に戻ります。

漁夫の利を得た、日本コロンビアは、まずは順番通り本国ヒットの「君に心を奪われて」をリリースするわけですが、立場上、まるっきり不利なはずの「うつろなハート」に完敗してしまいます。しかし、次からはどこからも邪魔される(?)ことはありません。

まず、日本独自のユニット(?)「コロンビア・ヤング4」をでっち上げました。

ボビー・ヴントン「There I’ve Said It Again」
ジーン・ピットニー「That Girl Belongs To Yesterday」(*)
ディオン「Drip, Drop」
ジョニー・ティロットソン「Talk Back Trembling Lips」

「」内は当時本国でヒットしていたそれぞれの曲。(*)は、まだアメリカでは全く無名だったローリング・ストーンズのミック&キースの作によるアメリカ初ヒット曲で、その他の3曲もベスト10入りを果たした大ヒット曲。ビートルズ上陸直前の“ポップス黄金期”最後の絶頂期、最高のラインアップだったのですが、まるっきり反響を得ることなく、この後述べるMGM発売権消滅によるジョニーの脱離で、代わってフランキー・アヴァロンが加わったのだけれど、すでに第一線から離れていることもあって、すぐに解消してしまいました。

ただ、この時期、唯一カルテットの一員の日本でのヒット曲となったのが、日本独自シングルカット、ボビー・ヴィントンの「ミスター・ブルー」。たまたまジョニーのほうも、旧レーベルからの「カム・ソフトリー・トゥー・ミー」をリリースしていて、ともにそこそこのヒットとなったように覚えています。その時点では 気付かなかったのですが、60年代初頭の“ポップス黄金期”No.1コーラスグループといって良い、しかし日本では全く無名だった「ザ・フリートウッズ」の2大ヒット(ともにBillboard Hot100 No.1)が、ジョニーとボビーのカバーによって、ほぼ同時期に日本のリスナーに紹介されたわけです。

ミスター・ブルー Bobby Vinton
カム・ソフトリー・トゥー・ミー Johnny Tillotson

そんなような状況で、“ポップス黄金期”最強のカルテットといえども、もはや日本ではお呼びではなくなってしまっていました。

どうやら、ジョニーの場合、今後とも日本向けじゃない本国ヒット曲が続きそうです。リスナーの嗜好はビートルズらの新世代音楽へ急速に移行しつつあります。普通に勝負しても勝ち目はない。作戦を考えました。出された結論は、「日本語で唄う」こと。MGMと言えば、コニー・フランシス。コニーといえば日本語です。64-65年に関して言えば、コニーとジョニーはMGMの2枚看板です。で、「君に~」に次いで(というよりも踵を接して)、前作の「ナイスガイ・ジョニー b/wドント・ゴー・アウェイ」を日本語録音することにしました。漣健児(すなわち新興音楽出版社社長の草野昌一)訳詩による、このジョニーの日本語盤第1弾は、テスト盤が出来上がり、表紙も刷り上って、後は店頭に並ぶだけだったのですが、結局発売されませんでした(たしか、相次いでリリースする予定だった「君に心を奪われて b/w恋のいらだちI’m Watching My Watch」の日本語盤も、完成していたように覚えています)。

なぜなら、僅かほんの数ヶ月(数週間?)前に、日本キングレコードに降りかかった同じ災難が、突如、日本コロンビアにも降りかかり、MGMとの契約が消滅してしまったのです。

日本での人気絶頂にあって、ジョニーの曲は旧譜・新譜とも、相次いで発売が成されなくなってしまった。これが64年の中頃です。65年に入って、日本グラムフォンがMGMとの契約を結びます。このあと、「恋のウルトラC」「涙くんさよなら」など、ジョニーの日本での第二期ブレイクに繋がるわけですが、それらのゴタゴタの中にあって(あるいはその前から)「涙くんさよなら」をはじめとする日本作成(英語/日本語)盤の企画が、ジョニー、新興音楽出版社(漣健児)、浜口庫之介の間で、企画検討されていた可能性があります。

それに伴う、様々な予想外の出来事の連鎖。日本キング、日本コロンビア、日本グラムフォン(担当者の渡辺栄吉氏は後の大作曲家「筒美京平」)の、それぞれの洋楽企画部や宣伝部の思惑。ことに、漣健児訳詞による(発売されなかった)本国ヒット曲群の日本語盤と、浜口庫之介が依頼を受け作成したといわれる「バラが咲いた」や「涙くんさよなら」の由来、後年「涙くんさよなら」が、なぜか「坂本九」のヒット曲と誤認され続けていることの理由、等々の詳しい検証と実態の解明については、「涙くんさよならの謎」の項に譲ります。

【2012.5.30~31 昆明-広州の車中、および6.1~2 広州のY.H.にて記述】


Out Of My Mind/涙でいっぱい
Empty Feeling/うつろなハート(悲しき恋心)
I Rise, I Fall/恋のウルトラC(君に心を奪われて)


Ⅱ「涙くんさよなら」の謎

Good-by Mr. Tears/涙くんさよなら JOHNNY TILLOTSON 1965
http://www.youtube.com/watch?v=B4NpJQfvKF0

【文章後送】

Ⅲ「Judy, Judy, Judy」の謎


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