30年前の今日、筆者は中国成都(四川省の省都)にいた。中国の野生生物を対象に日本との比較を始めてから3年目、大学に留学してから1年弱のことである。
世界中の人々に知れ渡った、北京の核心部でのあの出来事だけでなく、似たような出来事は、広い中国のあちこちで、(規模は小さいとは言えども)同時多発的に起こっていた可能性があろう(具体的な騒動だけでなく、動きとしての連携も含めて)。
しかし、それらの「周辺的な」mini-8964の実態は、今に至るまで余り取り上げられては来なかったように思う(当然政府は、当時から「地方での出来事」自体を報道していない訳だし)。
筆者の知る限り、地方の大学ではあっても、中国人学生達の盛り上がり方は大変なものであった(少なくとも事件が勃発するまでは)。
地方の大学にも、かなりの数の日本人留学生たちがいたはずである。彼らもまた、事の成り行きに、強く関心を寄せていたように思う。
当時20歳前後だった留学生たちは、今50代に差し掛かり、例えば「政治家」「中国関連企業」「研究者」「評論家」「メディア関係者」といった、様々な立場で社会の中枢を担いつつある。30年の節目にあって、それぞれの地方における8964との関りや、その後の総括が、彼らから発信されるべく期待している。
一方、中国の政治や歴史について、昔も今も何の知識も興味もない筆者の場合は、「事件」自体に全く無関心だった。ただ、あの時、地方の片隅で、中国全土を覆った空気の中で、8964の幾つかの“余波”に遭遇したのは、確かである。
格調高い「論客」の記事とは対照的に、解説にもなっていなければ結論も示されていない、まるで小学生が書いた作文のようではあるが、8964前後2~3か月間の、(政治に全く無関心な一個人が感じた)「雰囲気」を時系列に書き留めて置くことも、意味がない事ではないと思う。
A fragment of the remembrance, pre-8964.
筆者が中国重慶市(今は国家直轄都市だが当時は四川省の一部)の大学に留学したのは、1988年の9月。その前年(共著を除く)最初の自著である「ギフチョウ」(日本固有の蝶の一つ)の児童科学書を刊行し、そこに(数年前に中国で新種記載されたばかりのオナガギフチョウを含む)世界のギフチョウの仲間4種を紹介した。
そのギフチョウの“祖先種”とも考えうるオナガギフチョウと、「日本の国蝶」とされるオオムラサキの中国に於ける唯一の姉妹種クロオオムラサキを撮影・探索する目的で、中国に向かったのである。
当時、限られた観光地以外での中国での自由行動は、非常に困難だった。そこで考えたのが大学への留学。普通外国人が入れぬ地域であっても、学生の身分であれば自由に行動できるらしい(実際、学生証が非常に役立った)。
それで、東京の中国在日大使館に申請に行ったのだが、中卒では留学の資格がない由、諦めざるを得なくて、夏の間は、小笠原諸島で撮影・調査を行っていた。ところが、筆者の彼女の父上が、中国大使館にウイスキー数本を持って交渉したら、OKが出たという。慌てて東京に戻り、何の準備も為さぬまま、入学式に2日ほど遅れて中国に向かった。
クロオオムラサキの棲む成都か、オナガギフチョウの棲む西安の大学が希望だったのだが、振りあてられたのは重慶の大学。秋はそれらの蝶の活動期ではないことだし、まあ重慶でもいいかと、授業も授ずに、ひたすらツクツクボウシの鳴き声を録音したりしていた。
留学生はロシア人が最も多く、次いでドイツ人・フランス人・アメリカ人。日本人は僕を含めて5人。うち3人は、東京の超エリート大学に在籍する若い学生である。
40歳、学歴なし、職業無しの筆者は、場違いな存在だ。案の定、着いた翌日から完全疎外。授業や学校行事などのスケジュールも、一切伝達してくれない。もう一人、あまり偏差値の高くない大学から来たO君も同じように無視されていて、筆者としては唯一の仲間である彼の存在が心の支えになった(後に中国人の学生が教えてくれたのだけれど、ある日本人教師が「あんな中年で無職で無学な人間は、犯罪者か出身者に違いない、近寄らないように」と触れ回っていたらしい)。
中国の大学は、とにかくスケールがデカい。大学が一つの町を成しているという様相。敷地内を何本もの鉄道が走り、食堂だけでも10か所近くある。喫茶店も数軒あって、そこに日本語学科の中国人若者達が集まってくる。彼らは、僕に対しても本当に親しく接してくれた。
一人、飛び抜けて日本語が上手な(ほとんどネイティブレベル)学生がいた。訪日経験はない。
父親が熱心な共産党員で抗日の闘士、息子に「戦」という名を付けたとのこと。その反発もあって、日本熱が加速したのだろう。北原白秋とか萩原朔太郎とかの詩を、淀みない日本語で暗読する。今度日本に帰ったときは、漱石全集と鴎外全集を買ってきてくれ、などと言う。いやもう、とんでもない秀才がいるものである。
彼からは、いろんな質問を受けた。ことに次の二つは、何度も繰り返された。
>先日、党の重鎮で改革派の某が失脚し、誰それが死んだ。今こそ決起のタイミングである。60年安保と70年安保の際の、日本の若者たちの行動を参考にしたい。その実態について教えてほしい。
ノンポリの筆者には、全く答えようが無かった。
もう一つ、ほかの何人もの学生からも聞かれた質問。
>今の中国は日本よりもずっと遅れている、あと20年か30年経てば、追い付くことが出来るだろうか?
こちらの問には明確に答えることが出来る。
「無理、いつまでたっても追い付けないと思う」
A fragment of the remembrance, just 8964.
年末に一度帰国し、翌春から成都の大学に移ろうと考えた。こういう話を聞いたからだ。
>以前、重慶の大学に行くつもりが、間違って成都の大学に行ってしまった新入生がいた。すると大学の担当者曰く「入学費と授業料を支払うなら、ここでもいいよ」と。で、彼はそのまま成都のほうの大学に入学してしまった。斯様に適当なんだから君も簡単に移れると思うよ。
実際に申し込んでみたら、すんなりO.K. それで4月から転校することにした。
日本人の留学生も多く、除け者にされ感は重慶の時よりもずっと悲惨だったが、場所的にも 季節的にも、やることはたっぷりあって、むしろ歓迎である。
チベット高原東縁と四川盆地が接する成都西郊の都江堰や青城山に、蝶の撮影や蝉の鳴き声録音のため、ほとんど「通勤」のごとく、毎日のように往復し続けた。
日本人の留学生たちは、刻々と移り変わる北京の大学生たちの情報や、政府の動きを分析しあい、今か今かと「事が起こる」のを待ち続けている。
新学期に入って以降、授業は何時まで経っても始まる気配がない。5月の下旬には、一種異様な雰囲気になっていた。
そして6月のその日。北京から遠く千数百㎞離れた成都でも「事」は起こった。
筆者は、町の中心地にある外国人が多く宿泊する老舗のホテル「錦江賓館」屋上のレストランで、終日過ごしていた。
見下ろすと、向かいのもう一つの高級ホテル「岷山飯店」との間に挟まれたメインストリートに、多くの人の人が集まってくるのが知れた。
その数は時間が経つにつれて、まるで砂糖に群がる蟻のように急速に増えていった。やがて、機動隊が群衆を制圧し始めた。
夜になって、ホテルを出て、裏通りからタクシーで大学に戻った。大学宿舎には、なぜか留学生たちの姿が、一人も見当たらなかった。現場に取材に行って戻って来ないのか、息をひそめて自室に籠っているのか。いずれにせよ、どんな騒ぎになろうとも、留学生楼の中は安全地帯なのだ。
夜中近くなって、守衛さんが筆者の部屋にやってきた。日本のテレビ局?から電話があった、他に誰も見当たらないので貴方が出てくれと。知っていることだけを伝えた。
翌日、改めて町の中心部に行った。車と言う車がひっくり返され、あちこちで焼き討ちに会っていた。筆者の目には、思想的な暴動というよりも、(一部の思想的な人々による煽動はあったとしても)唯の野次馬群衆によるものに感じた。
筆者もしばしば宿泊したことのある岷山飯店に行ってみた。1階のガラスは破られ、ロビーは静まり返っていた。レセプションにも誰も見当たらない。大声で呼びかけたら、フロントディスクの下から女の子たちが顔を出した。いつまた襲撃されるかわからないので、目立たないように隠れているのだとのこと。
成都でも(すぐ後に一時戻った重慶でも)、北京のそれとは比べようもないとしても、これまで目にしたことのない、大きな暴動があったのは確かである。何人もの犠牲者(おそらくは一般市民)が出ただろうことも一目瞭然だ。
でも不思議なことに、どの中国人も、そのことを一切話題に挙げない。テレビでは、一日中 “首謀者”たる北京の大学生たちの名と写真を流し、見かけたら通報せよ、と呼びかけていた。
大学では、各国の留学生たちに、次々と帰国勧告(命令)が出されていたが、主要国では日本が最後だったとも聞く。
A fragment of the remembrance, post-8964.
筆者は、翌々日から、いつものように都江堰に蝶の撮影や蝉の録音に出かけた。
さすがに検問が通常より厳しく、都江堰に向かう途中のバスの中に公安が乗り込んできて、乗客の身分チェックが行われた。筆者と、同行してくれていた友人の中国人大学生が、バスから降ろされ、取り調べを受けた。友人は、筆者の目的などを説明してくれた。公安の人たちは思いのほか分かりがよく、すぐに解放してくれ、筆者たち2人をサイドカー付きのパトカーに乗せて、目的地まで送ってくれた。
数日後、成都を離れて、(当時はまだ今のように大観光地にはなっていなかった)九賽溝に行くことにした。むろんツアーなどではなくローカルバスを乗り継いで。意外にスムーズに行きつくことが出来た。現地で出会った欧米系の人たち7~8人(全て別の国からの一人旅)と、チベット民家の宿泊施設を確保して、あちこちの撮影を行った。
4~5日後、皆で入口のゲートまで戻り、筆者とイギリス出身の女の子は、他の人たちと別れて北周りの帰路を採った。
バスの切符は、前もって確保していたのに、筆者たち2人は乗せてくれない。イギリスの女の子(金髪碧眼)は泣き喚きながら抗議している。バスの運転手も、全ての乗客も、筆者達2人から視線を逸らし続けたまま時が過ぎていく。やがて諦めてバスを降りるしかなかった。
そのことが「全て」を表している、と思った。
結局、3日かかりで、トラックをヒッチハイクして目的地の駅に辿り着くことが出来、翌週帰国した。
秋口になって成都を再訪した。山際の村に(筑摩版「漱石全集」と「鴎外全集」の各一部を携えて)例の「戦」君を訪ねた。
戦君は、日本との貿易を試みていた。チベット高原の山で採れたマツタケを輸出しようというのである。問題は鮮度を保ったまま迅速に輸送する方法、それに苦慮している、と。
帰り際に、あの「出来事」の話題を唐突に始めた。首謀者の一人の女性が(たぶん香港経由で)アメリカに出国するのを、我々(各地の大学生)で連携して手助けした。そのメモの一部が手元にある。出来れば日本のメデイアで紹介してほしい。O.K.なら、次に会った時に手渡す、と。
帰国後、某新聞社に持ちかけたが、鼻にもかけられなかった。そのままになって、戦君とも30年間会っていない。今でも「反権力」を貫いているのだろうか? それとも(松茸貿易が成功して)企業のオーナーにでも収まっているのだろうか?
ところで、「30年経てば日本に追い付く?」という話。
結果として、権力と反権力が鬩ぎ合ったまま、強引な繁栄を遂げ、追い付くどころか、日本の遥かに先を行く近代国家になってしまっている。
でも、超近代的な街並みも、ちょっと目を逸らせてみれば、汚いゴミだらけ。バスや地下鉄は、相変わらず乗客が降りる前に一斉に乗ってきて、常に押しくら饅頭状態。ホテルのドアのノブは(少々大袈裟かも知れないが実感としては)大抵壊れていて、電気のコンセントもスムーズに差し込めない。30年経っても、少しも変っちゃいない。
やっぱり、永遠に追い付けないのだろう。
、、、だって、別の道を進んでいるのだから。