日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察①のつづき
60年代後半以降のポップ音楽は、誰もが“金太郎飴”のように、「主張」「反抗」「改革」、そして「愛」「平和」「平等」の合唱です。繰り返して言うけれど、それが本当の改革に繋がるとは僕には思えない。1000の叫びよりも、1の実行のほうが尊いと信じています。
全面否定される(というか頭からバカにされる)ことは承知しています。敢えて言います。「ロック」も「フォーク」も「ブルース」や「ソウル」も、“いかにも”感はたっぷりでも、言葉に“重み(深み、真実味)”がない。僕は、(改革に繋がりうる)真の言葉の重みは、それと気付くことの少ない、ごくありきたりの表現の中に見つけることが出来る、と思っているのです。
誰かがそのような前提で、別の視点から「60年代アメリカンポップス」を俯瞰してくれれば、と思うのですが、(ごくマニアックなものは別として)そのような視点からの言及は、上記の内田樹氏の文章以外に出会ったことがありません。残念でなりません(だから今「涙くんさよならの謎」の物語りを書いているのです)。
60年中期以降に成された「新時代への転換」を主導したのは、主張・反抗・反体制の「ロック」「R&B」「フォーク」を主体とした音楽(及びその周辺)カルチャーに関わる人々であることは確かでしょう。
しかし、その転換期には、「C&W」およびそれに基づく当時の「ポップス」も、別の次元から(ポジティブであるかネガティブであるかはともかく、そして非常に複雑な形で)大きく関わったはず、ということは先に書きました。
当時のポップカルチャー(大衆文化)の代表でもあった「アメリカンポップス」と、その一方の生みの親でもある「カントリー音楽」の関係には、極めて複雑な背景があるようです。以下はその一例。
Billboardのヒットチャート上では、1950年代中期に社会現象となるほどの爆発的な人気を博したエルヴィス・プレスリー、更に50年代末にかけてのリッキー・ネルソンやエヴァリー・ブラザースら若いポップシンガー達のメジャーヒット曲は、C&Wのチャートでもグロスオーバーして大ヒットするのが当たり前でした。
しかし、60年代に入ると、50年代後半の蜜月関係から一転して、両ジャンルに跨るクロスオーバーヒットが、ピタリとなくなってしまいます。60年代の中期に至るまで、両陣営は、互いのヒット曲を全く受け入れない(Popチャートのほうには、ごくまれにC&Wの大ヒット曲がランクされはしたが、C&Wチャートには、カントリー調のPopヒットは、ほぼ全く登場しなかった)鎖国状況が続きました。黒人歌手と白人歌手のヒット曲が入り乱れて登場していたR&Bチャートとは対照的に、C&Wチャートは(いくらカントリー要素が強い曲であっても)ポップ歌手の曲を断じて受け入れはしなかったのです。
不思議なことに、その全く同じ時期(ビートルズがアメリカに来襲、ボブ・ディランやモータウン勢が台頭するまでの数年間)、アメリカの一般大衆に最も受け入れられていたのが「ポップ・カントリー」です(「ナッシュビル・サウンド」もほぼ同義語、当時は、主にポップ歌手によるカントリー調の楽曲に対して呼ばれていたように思いますが、現在では「ポップ・カントリー」も「ナッシュビル・サウンド」もC&W界の歌手による楽曲に対してのみ使われているようです)。
カントリー要素がごく強い曲だけでなく、一般のヒット曲も、程度の差はあれカントリー的な要素を持ち合わせていました。
アメリカ文化の象徴ともいえるポップ音楽の世界は、カントリー系のポップヒットが大多数を占めていたのです。
にも拘わらず(だからこそ?)、ポップ界とカントリー界の交流遮断、これを一体どのように解釈すればいいのでしょうか? ことに「ポップカントリー」が興隆の極みにあった62年は、極めて僅かな例外を除き、両陣営の曲がクロスオーバーしてそれぞれのヒットチャート上位に現れることはなかったのです(唯一の例外がジョニー・ティロットソンの「涙ながらにIt Keeps Right On A Hurting」と「夢の枕をSend Me The Pillow That You Dream On」)。
カントリー界からすれば「親(カントリー)離れした手に負えない子供(ポップカントリー)の出現」あるいは「軒を貸して母屋を取られる」というところでしょうか。新時代到来の直前に、別の形での「大人と子供の家族内対立」があったわけです。
1962年は、ジョニー・ティロットソンが「涙ながらに」で(60年の「ポエトリー」に続く)2度目のブレイクを成した年でもあるとともに、“ポップス黄金期”の主役たちが、最も光り輝いていた年でもあります。同時に、イギリスのビートルズやアメリカのビーチ・ボーイズらの、新時代のアイドルたちがブレイクの兆しを見せ、ボブ・ディランを旗手とした、“メッセージ”を込めた新たな歌の担い手たち”も、虎視眈々と台頭の機会を狙っていたのです。
そして、「天地変異」が起こりました。ビートルズのアメリカ来襲。ある意味成熟の極みに達し、膨らみに膨らんだ「the Golden Age of American Pops」は、その頂点で、一気に破壊したのです。
ところで、ジョニー・ティロットソンをはじめとした“旧時代”のティーンアイドルたちは、ビートルズの出現によって、すべからく“駆逐”されてしまった、というのが定説となっています。それは事実なのでしょうか? 答えは「そうである」、と同時に「そうではない」。二つの相反する、別次元の“事実”が存在するのです。すなわち「天地変動により崩壊した」「崩壊とともに天地異変が起こった」(鶏と卵の関係)。
ビートルズの出現を境に、旧時代のティーン・アイドルたちが駆逐されてしまったのは、紛いもなき事実です。「狭間の世代24人衆」の、ビートルズ登場の1964年を挟んだ前後数年の、ビルボード・トップ10ランクイン曲数の推移を見ていきましょう。
年度、トップ10曲数(アダルトのみのトップ10曲を加えた数)、Johnny Tillotsonのトップ10曲数(同)。*原著では表で表示。
1962年 37(49) 1(3)
1963年 21(37) 1(2)
1964年 11(24) 1(3)
1965年 03(14) 0(1)
1966年 03(04) 0(0)
1967年 02(02) 0(0)
一目了然ですね。64年以降のビートルズ達の登場と共に一気に消えてしまった、というのは、間違いのない事実ではあるようです。
でも、それとは違う見方も出来ます。ジョニー・ティロットソンたちティーン・アイドルの衰退と、ビートルズ以下ブリティッシュ勢の台頭は、それぞれ個別に起こった現象であると。時代の要求が、旧勢力を廃し、新勢力を求めていた、、、たまたま、そこにビートルズたちが出現した、そうは考えられないでしょうか。
もし、この時(64年春)にビートルズが登場していなくても、それに代わる“誰か”(おそらく今では無名のアーティスト)が、その役目を担っていたはずです。
次章で紹介する“狭間の時代のシンガー24人衆”についての表を、改めて眺めて下さい。連続ヒット期間が10年近くに亘る2人の女性歌手コニー・フランシスとブレンダ・リーを除けば、大半の歌手の“賞味期限”は、5~6年というところです。
ということは、初ヒットが早ければ早いほど、ヒット・チャートからの退場も早い。少なからぬ歌手が、ビートルズ登場より、かなり前からヒット・チャートから姿を消したり、勢力が衰えたりしているわけです。
逆に、登場が遅い歌手はより遅くまで、すなわちビートルズ登場後も1~2年間は、ヒット曲をチャートに送りこんでいる傾向があります。ついでに言えば、早めに退場した歌手には、もう一回復活の機会が与えられている傾向もあります(復活というよりも一発ヒット、本当に復活したと言えるのは、ポール・アンカとニール・セダカの2人だけ)。
ビートルズの登場と、自らの退場が、見事に完全に重なるのは、ディオン。50年代の末から60年代前半にかけての5年間余、Top10ヒットを連発、それが64年1月の「ドリップ・ドロップ」をもって、突如途切れます。以降(メッセージソングでの突発的一時復活があるとはいえ)、Hot100からも、ほとんど姿を消してしまうのです。
彼の場合は、ティストがビートルズと重なるので、そのために見事にとって代わられてしまった、ということもあるのでしょうが、実際のところは別の理由があったようです(薬物中毒のためとも言われています、、、ちなみに2000年代に入って最も溌剌と活動を続けているのが、彼ディオンです)。
「フォーゲット・ヒム」で打ち止めのボビー・ライデルや、「ロデイ・ロー b/w ホッカ・トッカ」が最後のビッグヒットとなったチャビー・チェッカー、「フールス・ラッシュ・イン」「フォー・ユー」「ザ・ベリー・ソート・オブ・ユー」の “ロッキン・スタンダード”3部作で最後の踏ん張りを見せたリック・ネルソンも、それに近いといえるかも知れません。もっともリッキーの場合は、7年半も連続ヒットを続けてきたわけですから、この辺りでの退場は、仕方が無いことなのだと思います(さすがに彼は、ヒットパレード界の第一線から退場後も、メジャーヒットの「シー・ビロングス・トゥー・ミー」「ガーデン・パーティー」をはじめ、時折C&Wチャートなどに顔を出しています)。
ビートルズ登場よりも少し前に、勢いが衰えていたのは、ニール・セダカ、ジミー・クラントン、ボビー・ヴィー、ボビー・ダーリンといった面々です。二人の“ボビー”は、早めに退場した分、後(66年)に一次的復活(ヴィーは「すてきなカムバック」など、ダーリンは「イフ・アイ・ウァー・ア・カーペンター」など)、もう一人の“ボビー”、ライデルは、より遅くまでメジャーヒット(「フォーゲット・ヒム」)を放っていたため、復活の機会は無し、という図式です。
ジョニー・ティロットソンは、ビートルズ登場の後も、丸2年間頑張りました。ポップスのトップ10に関しては、ディオンやライデルと同様、64年年頭の一曲(「トーク・バック・トレンブリング・リップス」)が最後となり、ビートルズと見事に入れ替わるのですが、その後もポップスのトップ40ヒットや、アダルトのベスト5に入るヒットを何曲も続けます(コニー・フランシスやブレンダ・リーも似た形跡)。
リッキー以外の57年デビー組、エヴァリー・ブラザース、フランキー・アヴァロン、ポール・アンカ(彼とニール・セダカは、70年代に入って大復活を遂げます)といった面々は、ビートルズの登場よりずっと前、62年後半~63年初頭にはヒットパレード界から姿を消しています。
逆に、56年に初ヒットを放つも、その後丸4年間ヒット曲が無かったロイ・オービソンや、61年初ヒット組の、ジーン・ピットニー、デル・シャノンらは、出足が遅れた分と、ビートルズやストーンズと何らかの縁があったということも関与してか、ビートルズ登場後の64年-65年にもTop10ヒットを持ち、その後も何年か、チャートヒットを続けていました。
さらに62年初ヒット組の、ボビー・ヴィントン、ヴィック・ダナ、トミー・ロー、ルー・クリスティーらになると、チャートヒットはより遅くまで続きます(もっとも後2者は、60年初ヒットのブライアン・ハイランド共々、ヒット曲が連続せず、1年前後おきに、断続します)。ヴィントンは、24人衆のなかで例外中の例外で、断続してもすぐ復活し、60年代のみならず、70年代を通して、第一線で活躍し続けます。
いずれにしろ、彼らの退場は、ビートルズの登場と、直接の関係があるわけではないのです。引き金となった要因~大衆が新しい波を求めていた~は同じだとしても。片方は、それに乗って登場し、片方は、それに流されて退場したというわけです。周囲の状況とは関係なく、自らが息切れしてしまった、ということもあるでしょうし、結婚によって、“アイドル”としての存在意義が薄れてしまった、ということも関係しているかも知れません。 狭間の歌手たちの衰退と、ビートルズらの台頭が、たまたま見事に一致した、それだけです。むろん、時代の要求によって、そうなったのには違いないのですけれど。
次の表(*原著では2種の表で表示)は「狭間の世代24人衆」の、デビー(初ヒット)からの連続ヒット(一年以内の間にHot100チャートインを継続)の期間です。
初ヒット(Billboard Hot100)から最終連続ヒットまでの年数。最も短いのがLesley Goreで4年3カ月19曲、以下Frankie Avaronの4年7カ月24曲、Jimmy Clantonの4年8カ月11曲、Vic Danaの4年9カ月13曲、Freddy Chanonの5年1カ月20曲(7年2カ月22曲)、De Shannonの5年2カ月16曲、The Everly Brothersの5年7カ月34曲(7年8カ月36曲)、Bobby Rydelの5年8カ月30曲、Bobby Veeの5年9カ月29曲(8年8カ月37曲)、Gene Pitneyの6年21曲(8年24曲)、Dionの6年1カ月28曲、Chubby Checkerの6年1カ月31曲(7年3カ月32曲)、Paul Ancaの6年6カ月34曲、Bobby Darinの6年8カ月33曲(10年8カ月40曲)、Roy Orbisonの6年8カ月28曲、Neil Sedakaの7年3カ月20曲、Johnny Tillotsonの7年3カ月26曲、Rick Nelsonの7年6カ月50曲、Bobby Vintonの8年1カ月36曲(15年46曲)、Brenda Leeの9年50曲(11年51曲)、Connie Francisの9年5カ月55曲。
*()内は連続ヒットの基準をやや緩やかにした場合の集計。Brian Hyland、Tommy Roe、Lou Christieはヒット曲が断続するので除外。
その因果関係はともかく、「旧世代」と「新世代」が見事に入れ替わっているのは、事実なわけです。ビートルズがアメリカ上陸を果たした64年初めに巨大な波が押し寄せ、その2年後の66年前後には、ほぼ完璧に入れ替わってしまったことになります。
ジョニー・ティロットソンに関して言えば、ビートルズの初チャート週に最後のTop10から陥落、しかしその後も丸2年間、激動する新世代音楽に混って第一線に踏みとどまったのですが、力尽きて65年最終週を最後にBillboard Hot100チャートに別れを告げます。
面白いいことに、直後の66年初頭から、それまでリリースは繰り返していてもヒットに結びつかないでいた、年齢の上では同世代(あるいはむしろ上の世代)の将来の大物歌手たちや、あるいは、なぜかその期間(60年代前半)だけヒット曲が途切れ低迷していた以前からの大物アーティストたちが、一気に台頭あるいは復活してきたのです。
それは、単に歌手や楽曲が入れ替わったというだけではなく、様々な仕組みや現象も一転してしまいました。例えば、、、66年以降になって、それまでの数年間(ちょうどティロットソンの活躍期間に当たる60~65年)ほとんど記録されることのなかった公認ミリオンセラー曲が、次々と出現したこと。
ヒット曲のHot100へのチャート期間が、大幅に伸びたこと(ジョニー・ティロットソン自身は、どちらかと言えば、チャート期間が長いほうだった)。
カントリー界の鎖国(ポップカントリーの勘当?)が解け、カントリー系ポップシンガーの曲が、C&Wチャートも多く現れるようになったこと(以上3点は、新たな現象ではなく、60年以前の状況に戻った)。
60年代前半までは、一曲につき2分30秒前後(1分半~3分)が常識だった曲の長さが、大幅に増えて4分前後の曲も珍しくなくなってきたこと(その嚆矢は66年暮れのビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレイション」)。
曲にプロモーションビデオがセッティングされたこと(ついでに言えば、日本でジャケットが総カラーになったのは64年前後、ただし欧米では50年代末からカラージャケットになっていた)。
その転期には、必ずしも全く新しく成された事例だけではなく、ちょうどジョニー・ティロットソンたちが活躍していた60年代前半を挟んだ“特別な期間”(すなわち「ポップス黄金期」)だけを例外期間として、以前の状況が改めて復活したものも含まれています。
ジョニー・ティロットソンの第一線での活動期間は、その“特別な期間”に、見事にすっぽりと収まってしまいます。まるで意識的に彼(をはじめとする“狭間の世代”の面々)を仲間外れにしているような(笑)。
ポップ音楽とアメリカ文化(政治・経済・宗教も)は、川崎氏の指摘のように、密接に係っています。そのことを踏まえて、源流としてのロックやジャズやR&Bとポップ音楽との関係については、多くの人々が、様々な問題提起を行い、関係を考察し、歴史を堀り起こす作業を行っています。
しかし「ポップス黄金期」(とその母体を成すと言えるカントリーミュージック)は、現在のポップ音楽の源流に直接つながらない無関係な(あるいは厄介な、目障りな)存在と見做され、存在自体がスルーされてしまっているように思えてしまう。
「American pops of Golden age」は、アメリカ文化の一完成形であるとともに、歴史の波に洗い流されてしまった幻の楼閣です。あるいは、現代ポップスに、源流とは異なる方向から流れ込む「幻の巨大な湖」と言って良いでしょう。当時の主役でありながら、現代に連なるポップ音楽の流れから見れば、それとは無縁の“特別な空間”に咲き誇った仇花なのかも知れません。
だとしても、「新時代のカルチャー」がスタートした時にそこにあった背景は、その時点での完成形としての文化「特別な空間=ポップス黄金時代」です。評価や好き嫌いは別として、それに対する認識をきちんと行わなっておかないことには先に進めないのではないかと思うのです。
でも、(僕の知る限り、唯一当時のポップスとカントリー音楽の関係について多くの的確な評論を著わし続けてきた高山宏之氏を除き)誰一人として、正面から取り組もうとはしない。そして、有無を言わせず「旧時代のポップ音楽」を無視する(または蔑む)ことで、結果として60年代中期以降の(現代に繋がる)「新時代ポップ音楽」(及びそのルーツとされるロックやジャズやR&B)の正統性をより強調しているように思えてなりません。
ある意味、ジョニー・ティロットソンは「特別な時代」の象徴的存在です。なぜ、Johnny Tillotson的なものが排除され、非Johnny Tillotson的なものが評価されるようになったのか?無視・軽蔑・排除の対象となったJohnny Tillotson的なものとは何か?
ジョニー・ティロットソンで、すぐに思い浮かぶフレーズは、
まず、「ビートルズらに駆逐された旧世代の代表」。
ポジティブには、「ポップスとカントリーを結びつけたティーン・アイドル歌手」
日本に於いては、「日本とアメリカでヒット曲が全く異なる」。
オールデイズにある程度詳しい人なら、この三つのどれかを答えるでしょう。
さらに細かく彼特有の現象を示すと(マニアック過ぎて誰も知らないでしょうが、笑)「コンスタントヒットメーカー、デビュー以来7年余23枚のシングル盤が全てBillboard Hot100にチャートインし、3曲続けてランクポジションが下降したことが一度もない」「リリースしたシングル盤の曲調が、毎回ガラリと異なる」「24人衆+1組中、女性2人と後発のボビー・ヴィントンを除いては、他ジャンル(Adult- componteraly,C&W, R&B)とのクロスオーバーヒットが際立って多い」。
それらの現象(後3つはともかくとして)は、「旧世代音楽」と「新世代音楽」の関係、ひいては現代アメリカのカルチャーや人々の思想の形成を考える上に於いて、意外に大きなカギを握っているのではないかと思うのです。ジョニー・ティロットソンの(それが微々たるものだとはしても)功績と航跡を探ることで、何かが見えてくるのではないかと。
ジョニー・ティロットソンは、ビートルズの曲を、一曲も取り上げていません(メンバーの作った曲だけでなく、レコーディングした全ての曲を)。同時代のメジャー歌手としては、異例中の異例でしょう(ちなみにエルヴィスとは数十曲が重なる)。偶然ではないと思います。67年、自作の「Long Hear Commitiiビートルズなんて怖くない=仮邦題」に見て取れるように、彼なりの意地や反発があったのかも知れません。
僕は、思想的にはリベラルな、いわば左寄りの(それも相当過激な)立場にあると自認しています。しかし、いわゆる左寄りの文化人の多くに対しては、かなりの違和感を持っています。素直に信用できない、というか、言っていることと、実際の行動が違うのではないかという想いがあります。あるいは、いかにも高尚なかっこいい言葉や行動の中に、どうしようもない薄っぺらさを感じてしまう。僕は自分で思っているようなリベラルな人間ではないのでしょうか? ほかの人々より感受性が劣っているのでしょうか? それとも、よほど頭が悪いのでしょうか?
馬鹿にされることを承知で言います。僕は「環境破壊」に反対するために、生涯車を運転しませんでした。世界人類の平等な平和を願うために、自らの家庭を築くことを放棄してきました。路傍で物乞いする人々には、仮に自分が100円しか持っていないときでも、応えてきました。「そんなのまるで意味がない、単なる自己満足」と言われても構わない。実践が可能なことを実践しているだけです。
でも、「愛」や「平和」を、まるでファッションのように捉え、自分では少数派で革新的な思考の人間と思い込み、実のところは大衆迎合の多数派にほかならない、リベラルを(無自覚に)装った口先だけの平和・平等主義者よりはマシだと思っています。
もう一度、川崎氏と内田氏のsymmetricな文章を、ピックアップしておきます(◆:川崎、■:内田)。70年代以降の主流ポップス(ロックやソウルなど)に対する礼賛と、それらに対する疑問視(違和感)の対比です。
◆1970年代以降のロックのみならず、ソウル音楽が、ファンクが花開き、ヒップホップにまでつながっていく道筋が形作られていった。
■1977年を最後に私たちが聴くことになった音楽では、シンガーたちは怒声を挙げ、権利を主張し、罵声を浴びせ、ついには無機的な機械のように痙攣的な発声をするようになった。
◆「必要なときにはいつでも立ち上がり自らの意思を表明する」アメリカの大人。
■「泣くべきときに正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男。