青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

「香港デモ」と「新型コロナウイルス」 “現代ビジネス”との軋轢の経緯

2021-06-08 12:46:12 | コロナ、差別問題と民主化運動、講談社


★6月4日の記事に、いいね!その他ありがとうございます。



読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この記事は、ひと月余り前に、ほぼ概要を書き終えていたものです。もう少し整えてから、「明日にでもアップしよう」と毎日のように思っているうちに、他の記事が次々と割り込んで行ったものですから、気が付けばひと月が経ってしまいました。明日(2021年6月8日)が昨年の「現代ビジネス」最終掲載“記念日(笑)”に当たるので、この機会に(ひと月前に記述した内容をほぼ原形のまま)アップしておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一昨年の夏から始まった「香港デモ」と、その半年後に発生した「新型コロナウイルス」について、リアルタイムで見聞きし、考えたことを、「現代ビジネス」掲載記事を絡めつつ辿って行きます。

ミャンマーの話題には、(言いたいことは多々あるのだけれど)当面、敢えて触れないことにします。

前半(今回アップ分)は、2017年から2018年にかけての、僕の「現代ビジネス」連載記事に関する成り行きについて。
後半(次回アップ予定)は、(それとは直接関係なく)2019年から今年にかけての「香港デモ」→「コロナ問題」の本質考察。

「現代ビジネス」への寄稿は、2017年の夏から1年半、24回に亘って行われた後、2018年の暮れに打ち切りとなりました。その後、2019年6月8日付けで、「天安門事件30周年」の記事を執筆、3日後の6月11日から始まった香港デモの取材を行い、夏に記事を寄稿、昨年になって、いわゆる「コロナ問題」が発生、2020年6月8日に、コロナ関連の2つ目の記事「マスクが同調圧力になっていないか?」を掲載した当日から、編集部との連絡が一切途絶えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・

僕の肩書きは一応「昆虫写真家」ですが、実質上は野生植物を対象とすることも多いので「ネイチャー・フォトグラファー」ということにしています。

写真集というのは好きではない(そもそも収入に繋がらない)ので出しません。大抵は文章が主体で、ほぼ文章のみ、という作品も幾つかあります。1980年代から2000年代にかけて日本で(ちゃんとした出版社から)刊行した作品 は20作ほどです。「屋久島の自然」「日本の蝶」「日本の高山植物」が主体で、それぞれ5~6冊、他に「小笠原の自然」などがあります。この期間の大半は、中国で活動してきましたが、中国関係の単行本は一冊(「中国のチョウ」)刊行しただけです。

2005年からインターネットとデジタルカメラを使用し始めました。ブログのスタートもその頃からです。そしてそれと歩を併せるように、以降はぴったり仕事が無くなっています(日本では2005以降に刊行した単行本は1冊のみ、新聞連載記事も2本だけ)。

もちろん、活字(殊に紙の)業界全体の沈滞が主要因ではあるのですが、僕の側にも大きな原因が幾つかあります。
一言で言えば、(収入に繋がる)仕事への取り組みを、疎かにしてしまった、ということでしょう。

インターネットという媒体は、上手く活用できる人にとっては多大なメリットがあるのでしょうが、フィット出来ない人にとっては、デメリットの部分のほうがより多く齎されるのではないかと思われます。

また、日本に比べれば圧倒的に物価(殊に、交通費、宿泊費、食費)の安い中国での活動に比重が移るにつれ、予算捻出を日本を拠点としていた時ほど考えずに済んだことから、経済的な面での危機感が薄れてしまった、という部分もあります。

ということで、10年ほど前から完全に行き詰まってしまったのです。それまでは、対象は野生生物、地域は日本、表現手段は写真(唯一完全な例外が、25年ほど前に神戸新聞で短期間連載した「随筆」)、と限られていたわけですが、今後は何にでも取り組んでいこう、と決意していたのにも関わらず、、、。

昔から一緒に仕事をしてきた僕と同年輩の編集者の大半は引退してしまっているので、新たに若い編集者の人たち(週刊文春K氏/週刊現代U氏)との交流を始めました。彼らは僕が帰国するたびに食事会を開いてくれたりするのですが、仕事には繋がりません。

或る時は、「尖閣諸島」についての情報(中国で集めた資料*)を提供したり、僕なりに頑張って仕事に繋げようと努力はしたのですが、結局無視をされたまま、何故か「豪華なご馳走」だけは戴ける、という状況が続きました。
*もう10年近く前から、中国の書店では尖閣諸島の詳細な地図や単行本が山積みになって売られていました。事の良し悪しは別として、関心の高さ(まあ、一種のパフォーマンスなのでしょうけれど)は日本とは比べ物になりません。

具体的な仕事がらみの話がU氏から初めてきたのは、2016年のゴールデンウイークの直前です。
>新たに「現代ビジネス」とういうネットマガジンが始まった。雑誌(「週刊現代」)への掲載は無理でも、そこにならば何か載っけることが出来るかも知れない。尖閣絡みで、とりあえず「琉球(南西諸島)」の話題を、何回か書いてみませんか?
>ついては、とりあえず何篇か書いて送ってみてください。出来ればゴールデンウイーク明けまでに。6月からスタートする予定です。

尖閣諸島そのものについての、具体的な知識は何もありません(飛行機の空路によっては台湾手前で真上を通るので何度か見下ろしたことがあるだけ)。岩礁を大きくした程度の小島ですから、生物相は貧弱です。棲んでいる生物たちの出自を周辺地域との関連で考えると、日本(沖縄、ことに行政上所属する八重山地方)ではなく、中国大陸南部や台湾との結びつきが深そうです。

生物地理的な視点から尖閣諸島の性格を真面目に考えたなら「尖閣は日本ではない」と言わざるを得なくなってしまいます。それは僕の本意ではありません(そもそも八重山諸島の位置づけを再確認しなくてはならない)。

ということで、琉球(南西諸島)全体をトータルに俯瞰し、そのうえで尖閣の位置づけを浮き彫りにしていくことで、了解を得ました。

一気に数編を書き上げて、ゴールデンウイーク前に原稿を送りました。「こんなので良いでしょうか?ダメなら、何とでも書き直すので言ってください」と伝えました。U氏からは「これで良いです、リライトして6月から掲載する予定です」と返事がありました。

しかし、いつまで経ってもリライトは届きません。 「どうなっているのですか?」と尋ねると、「来週から取り組みます」の返事。それが(大袈裟ではなく)何10回も繰り返されました(時には「今夜送信予定」というので待っていたこともある)。結局、結果として無視されたまま、一年が経ってしまいました。

翌2017年の6月、U氏から、“「週刊現代」から「現代ビジネス」に正式に移動になった、ついては、青山さんの記事にも改めて取り組むことが出来る”という連絡が来ました。

“「尖閣諸島(琉球)」のテーマは一度白紙にして、生物全般を対象にしよう”と。ちょうど季節が夏だったこともあって、セミの話題から始めました(2017年7月29日)。次いで「帰化生物問題」「対馬のカワウソ」、、、、。

良くも悪くも、まあまあの反応です。僕の記事は「現代ビジネス」全体から見れば比較的アクセスが多い方、しかし非常に多いというわけではない、と言ったところで、そのことは全28回を通して、(多い少ないの振れ幅はあるとしても)共通していたようです。

ちなみに(対馬の回もそうですが)韓国に関係する記事の時は、アクセスがどっと増えます(むろんヘイトの材料として)。中国テーマも、(同様の意味で)概ね反応が良い。

逆に、28編中、最も反応が悪かったのが「小笠原の蝶」と「北米大陸の生物」の回です。多くの人は、アメリカには興味あっても、そこに住む野生生物の事などには、(派手でセンセーショナルなもの以外には)全く関心が無いのだと思います。

それで、必ずしも生物を対象とするのではなく、中国の日常生活(の日本との比較のようなもの)を書いてみよう、と方向転換することになりました。これが、結構人気を得たのですね。

28回中の約半数が中国関係の記事になりました。僕の立場は、中国の方向性を(日本の方向性も)半分否定、半分肯定。

「立ち位置が鮮明でない人はジャーナリストとして失格」
といったコメントもありました。
ジャーナリストには「立ち位置」が必要なんですね、、、知らなかった。それに僕はジャーナリストじゃないもん。

「共産党の回し者、たっぷりお金を貰っているね」
「こいつは正規の教育を受けていない、幼稚である」
「中国には(自分たち日本人記者の)コミュニュティがあるのだが、この人の情報については一切知らない、我々の仲間ではないこのような人の記事を載せてはならない」
といったコメントも何度も貰いました。

一方
「最近は自分の脚と目で取材している記事が少なくなった、この人はそれが出来ている」
「頭でっかちの、既存の知識を垂れ流ししているだけの御用学者の記事はうんざり、こんな記事を待っていた」
「分かり易い語り口、もっと読みたい」
「公平な立場の記事が何故少ないのか疑問、このような客観的な記事を積極的に載せて欲しい」
といったコメントも、けっこう沢山あるのです。

しかし、トータルで見れば、後者は多数派ではありません。「企業」としては、少数の意見は無視をしなくてはならない。

それと、現在の価値観においては、僕の書く記事の趣旨や表現のスタイルは、逸脱したものになっている。「未熟」「勉強不足」「理論武装がない」、、、U氏の言葉を借りれば、「“現代ビジネス・クオリティ”に達していない」というわけです。

もとより、U氏(および編集部の諸氏)とは、価値観や(文章などに対する)感性が、ことごとく違います。40歳の年齢差、東大卒のエリートと、中学1年までしか行っていない落ちこぼれ、、、、。

U氏曰く、全執筆者の中でも、青山さんの文章は余りに異質で、酷く幼稚すぎる(理論武装がない)。答えが示されていない(大多数の読者は答えを知りたい)。「現代ビジネス」記事としてのクオリティ*に達していない。

*その「現代ビジネス」のクオリティに失望している人たちが僕の読者なわけですが、いかんせん少数、U氏は「少数は意味がない」と明言します。

従って「クオリティ」に達するべく直さねばならない。U氏曰く、
>そのために余分な時間がかかる、こうやって対面して議論を交わすことも、非常に無駄な労力である、青山さんの記事の掲載は(全体としてのアクセス数が多かろうが)コスト的に「仕事」に成らない、、、
ということなのです。

U氏は、真面目な人です。彼の苦労も分かるし、申し訳ないという思いもあります。

「青山さんの記事は、クオリティに到達していないのでどうしようもない、他の執筆者の記事は受け取った草稿をそのまま掲載すれば良いだけなのだけれど、青山さんの記事をそのまま掲載することは不可能だし、といって直すのには、非常な苦労な苦労と時間が伴う。とてもそんな余裕はない」。

28編全てについて、そのように言われてきたのです。ロジカルとエビデンスに欠ける。答えが示されていない。文章や内容が幼稚である(「ですます調」にしたのはU氏の指示)。

じゃあ、具体的に何処がおかしいのか、と言えば、結局、語尾や順序を少し入れ替えるだけで、最後にちょこっと当たり障りのない結論を持ってくる。「正規」とされる現在の画一的表現スタイルに整えるわけです。

僕の記事に関わらず、大手メディアのエリート記者の手が入った(あるいは同じ価値観や方法論に基づいて執筆する作者たち)の文章には、決まった語彙や調子、起承転結で構築されていて、他の作者のどの記事を読んでも、全部同じ記者が担当したようなイメージを受けます。

そのことは、どの記事でも、タイトルが「~の理由」「なぜ~なのか」といった、「答えの提出」に統一されてしまっていることでも伺い知れます。

記事の梗概を提出すると、「なんで完成原稿を書いてこないんだ」と言われるのですが、僕の理念や様式で完成原稿を書けば、100%拒否されるに決まっています。よって、「書き直し」想定内で提出する。必ずダメ出しが出ます。僕なりに(編集部側の)意向をくんで、全面書き直して再送。

リライトが来ます。その際、僕のほうは(来たリライト原稿を)一切直さずに、最終稿にします。リライトと言っても上記したように(あれだけ全然ダメとボロクソに言ってるのにも関わらず)概ねごく些細なテニオハを(“今風の表現”に)直されるぐらいです(むろんそれで良くなった部分もあるので素直に感謝もしています)。

全体で見渡せば、最初のオリジナル原稿のほうがずっとましなように思うんですけれどね。中途半端に直したのは、結局ちぐはぐになってしまって、僕自身失望してしまう事が多々あります。でもまあそれで載っけてくれて原稿料貰えるなら文句は言えません。

そもそも、価値観とか、理念とか、それから表現(伝達)手法とかが、エリート編集者たちや論客執筆陣とは、根本的に異なるんですね。

例えば中国の現状の悲惨さを伝え、「中国はどうしようもない滅茶苦茶出鱈目国家であり、共産主義独裁国家で自由の欠片もない、、、、それに比べて、日本はなんて素晴らしい国であることか」。まずはそれを強調します。

しかし、僕が読者に伝えたいことは、そこから先に有るのです。敢えて言えば、中国(主に非近代部分への)支持、日本(近代的民度)批判。その反語的な表現姿勢は、「首尾一貫していない」「理論武装がない(エビデンス云々、笑)」とかで、許されない。材料は誰よりも持っているので、具体的な考察を行っていこうと思えば、いくらでも出来ます。でも、答えを出さない、という姿勢が僕にとっての答えなので、それを安易に推し進めるつもりはない。

いわゆる“知識人”から発信される「(僕に言わせれば見かけ上の安易な)ロジカル」で成り立つ世論を否定し、本質的な部分でロジカルであろうと模索しているわけですが、僕の場合いかんせん伝達能力に(そのチャンスの獲得を含めて)欠けるので、「幼稚な邪推」「陰謀論の追従」として無視されてしまいます。

とにかく、支持してくれる読者が少々居ようとも、メディア側のコスバと、多数派読者に与えるマイナスの影響を考えれば、(より多くの読者が欲している)空気の流れと異なる少数派の意見は、受け入れてくれません。読者が具体的に欲しているのは、皆(ここで言う「皆」とは全員ということではなく多数)が一様に賛同できる、分かり易い「答」です。

或る意味、「作者」は常に上から目線の「エリート」である必要があるのです。問題提起と、理路整然とした答えの提示は、常にセットになっているのですね。それが「教育」(見方を変えれば「洗脳」と同義語)なのでしょう。

理論武装が為されていない、そもそも「答えを出すこと」自体を否定するという大前提で為されている、僕が問いかけるテーマは、頭から拒否されてしまいます。

具体例を2つ、U氏が激賞する他の人気記事と対照しながら挙げておきましょう。

【人気記事】⓵(以下僕の解読要旨)
中国の著しい繁栄を直視するべきである。年配者は躊躇して具体的な行動に踏み出せないでいるが、我々若者 は流れに乗り遅れては成らない。今こそ既成概念に囚われず、日本の持つ技術や人材を送り出し、中国の民主化に力を貸さねばならない。それが日中双方にとって、大きな利益を生み出す。
【僕の意見】⓵
上記の(若い人たちの持つ)熱意は分かる。それ自体は否定しない。しかし、「中国」と「日本」では、元々、価値観の方向性や素材が異なる。日本人の視点からの「指導」は、拒絶反応を起こすだけになりかねない。我々が出来ること、やらねばならぬことは、「手を貸す」のではなく、「寄り添い見守ること」だと思う。(←完全に無視されてます、笑)

【人気記事】⓶(以下僕の解読要旨)
地方(北海道釧路)から東京に出て東大に入学。地方は、情報の収集や伝達に、非常なハンディがある。中央(東京)に出なければ全てのことが始まらない。地方に於ける学問(教育)・文化の遅れは、日本社会の歪であり、大きな欠点である。遅れを取り戻すため、地方の底上げ、あるいは中央進出に向けてのインフラの是正を、一刻も早く必要とする。U氏の先輩に当たる東大O.B.の気鋭の社会学者の記事です。U氏は「素晴らしい意見だ」と手放しで褒めています。僕は、それも一つの見解だと思うし、否定はしないけれど、それだけが問題視されることは、違うと思う。
【僕の意見】⓶
地方に存在する、人間にとって「何の役に立たない」と思われている「無駄」な空間は、人類の文化を育んできたバックボーンである。人類の将来を見据えたとき、その(一見無意味と思える)空間こそ、必要になってくる時があるのではないか(その根拠については生物学の分野になるので割愛)。例えば「一票の格差の是正」。僕は逆の意味での懸念を持っている。人間の数に応じた(目前の利益の追求のために配置される)議員数ではなく、空間の広がりに対応した(将来を見据えた)為政者の数を、念頭に置いて考えるべきではないだろうか?(←U氏によると、幼稚極まりない意見なんだそうな)

コロナ問題(マスク、ワクチンの絶対正義)への疑問についても同じです。僕は、目前のリスク云々とか、経済云々とかの視野で言っているのではないのです。もっと大きな、人類としての根本的な問題(自然との共存の提議、科学・文明への過信に対する警告)。

そして、U氏(あるいは「現代ビジネス」編集部)との軋轢の極めつけは、「熱中症」絡みの問題です。エアコン否定論者(「熱中症」の事を本気で考えるならば、今すぐにでもエアコン依存を止めなければならない)の僕の考えは、「間違った姿勢」として断罪されるわけですね。

その話は一先ず置きます。そのような状況下で、「現代ビジネス」には、中国の日常に対しての話題に、僕の守備範囲であるセミや野生植物の話題を交えながら、一年余に亘って、20数回の記事の掲載を続けてきたわけです。

当初は「尖閣問題」を、“沖縄”(ひいては南西諸島)全体を通しての視点から紐解いていく、という企画でした。しかし、その話題は、結局却下されてしまった。

僕の想いは、こういうことです。

沖縄(琉球)について、多くの人たちは、表に現れた部分(主に政治的な視点)からのみ考えるだけで、本質部分(日本本土との関係性、中国大陸との関係性「琉球」内の各地域間の関係性)での深い考察に取り組まないでいる。

そのことは、こと人文分野だけでなく、自然科学(生物学)についても同様です。僕の言う「楼閣に築きあげられた体系に沿ってのステレオタイプ」の「教科書的」見解だけが、「正論」として流布しているのが現状です。沖縄(琉球)の本質を知るには、様々な野生生物を対象にした、根本のそのまた根本からの、色眼鏡なしでの解析・考証を改めて行う必要がある。それがあってこそ、政治的な対象にしろ、自然科学の分野にしろ、しっかりした基盤の上での具体的な議論に取組むことが出来る。僕には、誰よりも資格がある(材料を持っている)と思っているのです。

そのような想いで以て、最初の掲載から一年余経った2018年の夏、満を持して「琉球は何処にある?(総タイトル仮題)」をスタートしたのです。それまでの、主に中国を対象とした記事とは違って、読者の反応はいまひとつだったのですが、U氏も編集部も最終的に12回の掲載と言う事で承認してくれました。読者の方々にも、今後の掲載予定の大筋を伝えておいたのです。

ところが、4回目を掲載した2018年12月に、突然打ち切りになってしまった。のみならず、今後僕の記事は、一切掲載しないとの宣告。編集部との間の力関係からして、それは受け入れるしかないのですが、(ごく一部だとはしても続編掲載を楽しみにしてくれている)読者には「突然の断絶」の経過を説明する責任があります。作者としての、読者に対する義務であり権利です。

ということで、2019年4月、予告していた「琉球は何処にある?」の今後の全項目を掲載せずに終了するという、お詫びの回を設けて貰いました。

ここまでで「現代ビジネス」への掲載24回。「琉球」関連はともかく、僕の記事全体で見れば、実質上ほぼ連載です。しかし公的(?)には「連載」とはされていません。他の作者の、僕よりもずっと掲載回数が少なく、アクセス数も少ない人が、「連載メンバー」として顔写真入りで紹介されているのに対し、僕は顔写真無しで連載陣には加えてくれていません。

むろん、個人的には顔写真入りじゃない方が圧倒的に嬉しいし、「連載」で縛られてしまうよりも、名目上「不定期掲載」としておいてもらった方がやり易いわけですから、そこら辺の僕の気持ちも分かってくれての処置だと思っています。

でも、敢えて穿った見方をすれば、実際はたぶんそうじゃないような気がします(僕としては結果オーライだとはしても)。「肩書き」「経歴(“実績”とは別)」「所属」等々、、、、見方によっては、明らかに「見下された差別」と受けとることも出来そうです。或る意味「パワハラ」を受けている、と見做しても良いのかも知れません。

といったような推移で、2017年夏からの一年余、ひと月に一回半ぐらいのペースで、中国に於ける日常の報告や、生物地理的なテーマを柱として、日中の様々な比較を、出来る限り中立的な立場から俯瞰した記事を発表し続け、しかし、2018年暮を以て、掲載の道を絶たれてしまったわけです。 

ところが、2019年6月はじめ、天安門事件30周年に当たって、以前から打診されていた、リアルタイム天安門事件遭遇経験の記事の執筆(全くイレギュラーな形で掲載すること)を、受けてくれたのです。

「民主化運動」のイデオロギーから離れて、現場で見た通りのことだけを、再現記述しました。かなりの反響がありました。

その記事(2018.6.8付け)がアップされた3日後に、香港経由で中国に向かいました。夜の便で香港空港に着き、すぐに中国側の深圳に渡って一泊した後、雲南の奥地に向かう予定でいました。

空港でパソコンを開いてインターネットのチェックをしたら、U氏からのメールが来ていました。
>今どこにいるのですか?香港で大規模デモが始まって、大変な事態になりそうな気配です。もし青山さんが香港の近くにいるなら、取材に行ってくれませんか?

「現代ビジネス」には、これまで25回の記事を書いているわけですけれど、実は「取材」という依頼は、初めてのことです。

U氏言うに、
>今回のデモは自分にとっても非常に重要な意味を持つムーブメントである。青山さんの写真を使って、リアルタイムでの情報を発信したい。

予定している雲南奥地(ミャンマー北部カチン州と国境を接する独龍江)探索は、僕にとっては長年の課題だった最大のイベントです。ホンコンなどでうろうろしている場合じゃありません。

と同時に、この企画の遂行するための、予算の確保も(それに伴う日程的調節も)難しい、という現実があります。おそらく、予算と日程の兼ね合いで、途中で引き返す羽目になる可能性が大です。客観的に考えれば、無理に決行することは諦めるべきなのかも知れません。

それならば、腹をくくって、全く異なる対象の、U氏からの取材依頼に応えることもアリかも知れない。

ということで、6月12日の深夜の、最初に起こった大規模香港デモの当日から、取材に当たることにしたのです。

我ながら相当に頑張って取材・撮影したのです。大規模デモも、自賛出来る写真を多数ものにしました。最初の記事
はU氏の名で発表しました。ほぼ写真のみの紹介ですが、インパクトは有ったと思います。

しかし、一斉にどのメディアでもデモ隊に関するニュースが取り上げられたこと、U氏が敢えて(大袈裟に煽るような表現は控えて)事実のみを淡々と伝えたことから、他の記事に埋もれて、突出した成功には結び付きませんでした。

U氏は、その時点で、「香港デモ」への関わりを断念しました(あとは「専門家」に任せる、と)。

僕は、中に入り込みました。それから丸4か月間(途中一か月のギリシャ滞在を挟んで)、香港デモに張り付くことになったのです。

張り付いた、と言っても、僕の場合(編集部でデモ発生現場近くのホテルを取っていてくれた最初の一週間以降は)主に中国側の深圳のホテル(あるいは広州のアパート)からの往復、という形を取りました。宿泊費の予算を鑑みての処置ですが、それはそれで、かえって周辺部のいろいろなことが見えてきて、プラスに作用したと思っています。

衝突現場には、やがて日本のメディアの取材陣も押しかけて、彼らは皆、(空気に乗って)「デモ隊側の正義のアピール」を現場から“熱く”報道していたわけですが、僕は、あくまで周辺部の状況を見渡したうえで、冷静に客観的にチェックすることを心がけました。

蝶や蝉や野生アジサイの調査・撮影と、同じ姿勢で、、、、、。

その結果、(おそらくU氏が当初想い描いたであろう図式(それは日本のメディアの共通認識でもある)とは、全く逆の形での認識が、僕の中に齎されることになったのです。

「これは天安門の続きだ」と確信しました。
多くの日本人たちの受け取りかたとは、全く逆の意味で。

日本のメディア全体が、特定の立脚点に立って「民主主義の正義」をアピールし、「中国共産党」を「絶対悪」と見做す。そのこと自体は、全面否定するつもりは有りません。同時に、全面肯定するつもりもない。

その表れが、メディアによる「香港警察」を“仮想敵(悪)”と見做した報道です。

完璧ともいえる、「民主主義」学生たちを中心としたパフォーマンスとしての、アピールの垂れ流し。
善意の(かつ虚偽の)「正義」報道。

これは(たとえそれが僕一人であっても)正確に、客観的に、伝えなければならない。

そのような想いで、(ひと月間ギリシャに渡った直後に)書いたのが、この記事です。

香港デモで「正義の香港市民」に暴行されかけて抱いた悲しみと違和感(青山 潤三) | 現代ビジネス | 講談社(1/6) (ismedia.jp)

非常に反響がありました。
「正義の香港デモの否定」ということから、多くの人たちからの反感(「正義の香港の若者たちを批判する」この記者は「人間としての心を持っていない」)も買ったのですが、一部の(といってもかなり多数の)読者からは、「こういった客観的な記事を求めていた、よく言った」という共感も得ました。

しかし、そのような意見は、編集部からは完全無視されてしまった。せっかくの「問題提起」も、(少なくても日本では)世論の「正義の空気」の中に、握りつぶされてしまう形になりました。

その後、ギリシャ滞在中に、三世が新たに作ったインスタグラムで、この記事を紹介したところ、香港のメディアから改めて多大な反響を得たのです。複数の翻訳(簡体字/繁体字とも)が為され、多くの現地メディアに転載が為されました。後に、香港の出版社から、(僕のブログに掲載した新たな記事を加え)欧米記者らと共著という形で、単行本化もされました。

「香港デモ」の主題は、「マスク」です。

そして、(中国滞在中の)2020年1月、「コロナ問題」が発生。2月に帰国を余儀なくされ、その後、発生当初から一貫して、「コロナ問題」は、いわゆる「コロナ」自体に問題があるのではなく、「コロナ問題」が問題なのである、という姿勢をとり続けています。

そもそもなぜ中国・武漢は「新型コロナの発生地」になったのか?(青山 潤三) | 現代ビジネス | 講談社(1/6) (ismedia.jp)

3月に一回目の寄稿をし、ちょうど今日から一年前に当たる2020年6月8日(奇しくも2019年の天安門についての記事の一年後)に、二回目の記事を掲載しました。

「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感(青山 潤三) | 現代ビジネス | 講談社(1/7) (ismedia.jp)

敢えて「陰謀論」と評されることを甘受しますが、「コロナ問題」は(ある意味「マスク」を介しての)「香港デモ」の流れの一環だと思っています。

冒頭に記したように、一年前の6月8日に、二度目の「コロナ問題」の記事を書いた当日から、U氏や編集部とは一切連絡が取れなくなっています。おそらく、僕の記事は、今後一切載「現代ビジネス」には掲載出来ないものと思います。

その直接原因は「熱中症」関連の記事の寄稿に関連するのですけれど、それについては、次回のブログで書いて行く予定です。

私憤を表すのではないのです。「コロナ問題」は、マスメディア主導の、「無意識強要正義同調空気」形成の象徴だと思っています。人類の未来のためには、その構造の基盤を変える必要がある、と思っているのです。

[この項つづく]






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする