青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

秋山省吾と柳田悠岐

2018-10-25 19:49:24 | 雑記 報告


僕としては珍しくありきたりの感想なのですが、、、(笑)。最近、思うことと重なるので。

ソフトバンクの王会長が、ドラフト指名を前もって公表、根尾ではなく小園に決めた、ということに関して、
「柳田(現ソフトバンク)か秋山(現西武)か決めるときぐらい迷った」と例えました。

その発言に対しての、ヤフコメの反応は、
「はずれのない宝くじじゃん。」
「逆だったら2人とも育たなかったかも知れない。」
「2人とも1位指名じゃなかったので、両方取れていたのに。」
「外野手二人取ってれば、両方ダメになっていたかも。」
どれももっともな意見で、僕もどの意見に対しても同感です。

1秒違いで電車に乗り損ねて次の電車にしたとか、ラーメンを食おうかトンカツを食おうか迷って、ラーメンにしたとか、右ではなく左を見たとか、、、、日々行われている何気ない日常の一瞬が、人生のすべてを決定していく(こともある)のだと思います。

10時50分発の電車に乗ろうが、11時00分発の電車に乗ろうが、結局は東京駅で同じ電車に接続して、たぶんその先の人生には影響しないだろうけれども、そうでないこともあるでしょう。

柳田が西武に入団していても、秋山がSBに入団していても、今と同じように凄い打者になっていた可能性は大だろうけれど、実際にどうなっていたかは、神のみぞ知る(Beach Boys)です。レット・イット・ビー(Beatles)という心境に、齢70歳になって、やっと達してきたような気がします。






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輪島

2018-10-09 20:51:01 | 雑記 報告


黄金の左・横綱輪島が亡くなりました。僕と同じ年(昭和23年生まれ)の、プロ野球の英雄は江夏豊(僕より2週間半下)、大相撲の英雄が輪島大士(僕より一学年上)。ともに、社会的には非難を浴びたけれど、、、、「人間的評価」に比べれば、「社会的評価」なんて、どうでも良いことのように思えます。


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反省の記

2018-10-09 16:16:50 | 雑記 報告

先日、友子さんの父上G氏と、一年ぶりにお会いしました。僕より16歳年上(もうすぐ86歳)ですが、尊敬の対象であるとともに、日本における数少ない友人だと勝手に思っています。毎回、世田谷区のご自宅のすぐ近所の「珈琲館」で、一時間ばかり無駄話をするのが楽しみです。

大抵はG氏のほうが先に来ていて、僕が着くと軽く挨拶をしてからコーヒーを注文するのですが、今回はいきなり激怒されました。僕が時間を間違えていて、30分遅れたしまったからです。

もちろんのこと、必死に謝りました(横にいたウエイトレスがビビってしまっていた、笑)。すぐに許してはくれたのですけれど、嫌みを言われてしまったです。「青山さんは昔から時間を守らないものなあ」。

僕は、それは違う、と反論しました。確かに、昔は酷かった。友子さんと会うときは、ほとんど毎回のように、待ち合わせ時間に一時間単位で遅れて、待ちくたびれて彼女が帰ってしまったりすると、なぜ待っていなかった、と家に電話をかけて怒ったりする。今考えれば、(18年間)それはもう滅茶苦茶でした。

お父さん(G氏)からは、今後「友子と会うときは、1時間以上は遅れない、喫茶店でコップの水を投げつけない(etc.)」とかの、誓約状を書かされたりしました。

今は違いますよ。その頃の自分を恥じて、反省、矯正しているつもりです。約束の時間には、絶対遅れない、と。

「人間、年を重ねても、性格は変えられない」と言いますが、僕はそうは思っていません。変えられると思うし、変えるべきところは、(大抵もう手遅れであるとしても)変えなくてはならない。

G氏は、一応、フォローしてくれました。「確かに、人にはうっかりや思い違いはある、今回は許そう」

でも、どうやら僕には、客観的に見て、それが多すぎるように思われます(以前もうっかり勘違いで、午前と午後を間違え、編集者氏との打ち合わせをドタキャンしてしまったことがある)。

元婚約者(?)のスーリン曰く「アオヤマ(彼女は僕をそう呼びます)の度重なる失敗や忘れ物癖は病気の末期症状レベルである」。僕は「運が悪いだけ」と反論しますが、「とんでもない、アオヤマは、まるっきり反省できていない、同じ失敗を、よく何度も何度も繰り返せるものだ」、、、そう言われれば、現実にそうなのだから、反省せざるを得ません。 

「注意不足」は、昔からずっと、そうだったような気がします。 

今年は、キャッシュカードを2度紛失しました(一度はATMからの受け取り忘れ)。

今春には、成田空港と羽田空港を間違えて、飛行機に乗り損ねてしまったことがあります。一昨年も、バンコクで空港を間違えて、この時はタクシーでもう一つの空港に移動し、間一髪間に合いました。バンコク(タイ)に行くつもりが、ヤンゴン(ミャンマー)に行ってしまったこともあります。あるいは、香港から搭乗するつもりが、購入したのが上海発のチケットだったり(上記二例は僕の責任じゃないのですが)。また、タイのチェンライから(路線バスで)ラオス経由で中国に戻るとき、間違ってミャンマーの国境に行ってしまったとか、、、。

もう30年近く前ですが、、、友子さんから僕の誕生日に成田空港で財布をプレゼントされたことがあります。僕は普段財布は使わないのだけれど、そのとき初めて使ったのです。その財布(もちろん全財産入り)を、香港空港に着いたとたん、盗まれてしまった。カートから目を離していた一瞬の間です。目的地には行けずに、航空会社の人に帰りのチケットを代替えしてもらい、そのまま帰国した、という苦い思い出があります。

それからはずっと、もう二度と財布は使用しない、と決めていたのですが、5年前の、やはり僕の誕生日に、香港空港から台湾に向かう際、モニカが財布(小さなポーチ)をプレゼントしてくれたのです。30年前の失敗が頭を過ぎりはしたのですが、いくら何でも同じ失敗はしないだろうと、有難く受け取りました。そして、、、空港のトイレに置き忘れてしまい、、、、、万事休す。現金、カードだけでなく、パスポートなど全て中に入れていたので、前回以上の悲惨なことになりました。

うっかりも、度が過ぎると、愛嬌で済まされる範囲を超えてしまっているかも知れません。人生、それでダメにした部分も、かなりありそうです。

「運が悪い」で済まさずに、客観的、真剣に取り組まねばならない、と考え始めているのです。
今後、改善が為され、人生向上に遅まきながら繋がるでしょうか?




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人は見た目が、、、、

2018-10-09 16:15:27 | 雑記 報告


知人のメディア関係者から、「中東の生物を題材に何か面白い話はないだろうか?」という連絡が来ました。

面白いのは何と言ってもイエメンです(でも今は無理なことは分かっている)。それ以外では、、、結局「中東に野菜とか果物の起源を探る」という話になってくると思います。

メディアで発表する題材は、テレビや雑誌に限らず、インパクトの強い、奇妙奇天烈な生物とか、誰も知らないようなものすごく希少価値のあるのとかでないと、視聴者・読者受けはしないでしょう。このような地味な(学究的な)テーマでは企画が成り立たない可能性大です。企画に携わることのできる「マニアックな」(熱意のある)関係者はいないのかも知れません。

「マニア」という言葉自体には、互いに次元の異なる要素が含まれているように思われます。

上記した「マニアック」というのは、「熱意を持って」という意味ですが、それとは別に、ごく一般に理解されている「マニアック」というのは、例えば「すごいヘンテコだったり、とても珍しかったり、(いわゆるマニアとかコレクター)が喜びそうな「普遍的でない」特定の対象に、熱意を帯びて取り組むこと」だと思っているのです。

「野菜や果物の起源を探る」というのは、(僕の感覚では)後者の意味するマニアックな行為とは正反対の、極めてオーソドックスな、普遍的な所作として位置づけられると思うのですが、、、。おそらく、一般の人々の考えは、そうではないのでしょう。

大衆が喜ぶ(普通に受け入れられる)対象が「普遍的」なものあって、大衆の興味の外の対象は、それが普遍的な存在であるかどうかにかかわらず、全て「マニアックな存在」と見做されてしまう可能性があります。

ある意味、大衆は、いわゆるマニアとかコレクターとかを、(自分とは違った)ちょっと変わった、でも共感はできる、普遍的な存在と見做している。自分たちの社会の、延長線上にあると思うのです。

一方、金儲けにもつながらず、人生の楽しみにとっても、何の得にもならない、基礎学問めいた対象に(ことに正規の研究者以外が)熱心に取り組むことは、非常にマニアックな行動と映るわけです。

この話題は、もう何十年も前に、ある新聞のコラムに書いたのですが、今でも、状況は変わりません。僕に仕事が回って来ず、ずっと貧乏でいなければならない理由は、そのあたりの連鎖にあるような気がします。

僕のキャラは、良くも悪くも「変てこな、常人離れした、とんでもない人」なのですね。でも実像はそうではありません。実につまらない、まともな志向の人間です(誰も信じないだろうけれど自分ではそう思っている)。

僕のような、外観(風貌・行動・精神)の人間は、外観に相応しい行動をとって、初めて大衆に認知されるのかも知れません。

僕は、数十年もの間、ほとんどの人が行こうとしないような僻地を訪ね歩いています。しかし、僕は冒険家でも、探検家でもありません。僕を冒険家呼ばわりするのは、本当の冒険家に対して失礼です。

彼らは、あえて危険を冒し、僻地を訪ね歩いています。たぶん、その行動自体が目的でしょう。お金がないから、山道を歩いたり、ヒッチハイクをしたり、野宿をしたりしているのではないはずです。

僕は、全く逆。冒険などしたくないし、僻地などに行かなくて済むものなら行きたくないし(可能ならば、青い海白い砂浜のトロピカルなリゾートアイランドで、若くて可愛いビキニの女の子たちに囲まれて、終日ハンモックに揺られて過ごしていたい)、調査に行くならば、舗装された道をタクシーですっ飛ばし、豪華なホテルに泊まりたい。

それが出来ないのは、僕の目的(対象としている生物たちのチェック)を果たすには、そのような手段でもって、それらの地に行かざるを得ないわけで、それに何よりも資金がない。

人は見た目が9割、だそうです。1割の人間は辛いです。


2018.10.8 記


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野茂と佐野

2018-10-09 16:10:22 | 雑記 報告


自分のことを言われているようで、、、、、、。穴があったら入りたい気持ちです。

借金をした佐野(元・近鉄、ピッカリ投法)を、野茂(元・大リーガー、トルネード投法)が司法に訴えました。いつまで経っても返してくれない、と。

それはともかく、この記事を読んで当惑した人は多いでしょうね。文字通りの「英雄」が、なんとチャチなことに拘るのか、と。

でも、野茂の本意は、「愛情・友情」だと思います。「佐野よ、分かってくれよ」という。ヤフコメ民はバカですから、その辺りの心情は汲み取れない。

佐野は「返す気はあるのだ、でも現時点では困窮していて、どうにもならない、もう少し待ってほしい」と言っているわけです。でも、このままの状態では、いつまで経っても返済は出来ないのでは? というのが、衆目の一致するところだと思います。

何人かの方に個人的な(佐野の借金とは桁が違いますが)借金があって、返済が滞っている僕の場合も、全く同じパターンです。何とかしてお金を稼いで、名誉挽回しようと。でも、その余裕がない。

日本と中国に部屋を持っていて、その家賃支払いが合わせて月4万5700円。電気代と水道代などが月1000円前後。食費が月2万円ほど。仕事のための経費が月2万円前後。これが贅沢なのかどうか? まあ、佐野さんが、借金返済もできないのに、何十万もする家賃の家に住み続けている、ということは、僕には理解できないのですけれど、、、僕よりも更に貧乏な人から見れば、僕だって十分に贅沢なのかも知れません。

収入(年金などを含む)/支出が、それぞれ月10万円ほどです。一回分2万9000円×月2回ペース掲載の「現代ビジネス」が、あと2回、せめて1回増えてくれたら、だいぶ余裕が出来るのですが、いつまでたっても増やしてもらえない。マクドナルドの深夜便所掃除とか、ビール会社の段ボール詰めとかも、年齢そのほか様々な制約があって、なかなかありつけません。

それでも何事もなければ、滞納家賃の支払いとか、個人的借金の返済とかまで、予算をカバーすることが出来るのですが、パソコンが壊れる、ハード・ディスクがクラッシュする、、、と、災難続きです。それらは僕の命綱ですから、最優先で修復しなくてはなりません。プラス要素の芽は摘まれ、マイナス要素ばかりが積み重なっていく。

このような状況から抜け出すことが出来ない、自分が恥ずかしく、かつ悔しいのですが、それはともかく、いつも考えています。以下、自分が貧乏なことに対する言い訳かつ恨みつらみ(笑)でしかないのですが。

僕は、身寄りがなく病弱で貧乏な老人です。

この数年間、何度か死にかけたことがあります。

「無理するなよ」「体を治せよ」「頑張って」「祈っている」、、、と言ってくれる人達がいます。有難いことです。でも、どう「無理をしなければいい」のでしょうか? 無理をせずに、お金が一銭もなくても、霞みを食って生きていく?

「そんなことは言っていない、栄養のあるものを食べて、自分の体を大事にすればいいのだ」、、、でも、どうやって栄養のあるものを食べれば良いのでしょうか? どうやって怪我や病気を直せば良いのでしょうか?

で、助けを求めても、10中8・9は応じてくれない。無視されますね。助けを求められた方々は、当惑しているに違いありません。「体を大事に」は、換言すれば「死んでしまっていいよ」と言っているのに、実質上は等しいのだと思いますが、、、。

いかなる状況でも「お金の貸し借り(原稿料の前払いなども含めて)はご法度」というのは、よく分かりますし、そのような対応をされたとしても、(いろんな意味で)自分が悪いわけで、相手を非難したりするのは、お門違いです。

それはそうなのですけれど、「悪いけれど、他を当たって下さい、くれぐれも無理をせずに体を大事にして下さい」とか言われると、余りいい気分はしません。

死にかけの老人に、暖かい言葉をかけることは出来るのでしょうけれど(いわば「おもてなし」の精神ですね)、助け合い、お互い様、といった(他人を無条件で「受け入れる」)精神は、今の日本には、存在しないものと思われます。実際、僕が死にかけたとき(2014年7月)に、助けてくれたのは、みな中国人です(助けを求めた日本人には、ほぼ全員無視された)。

さて、上記の「佐野の借金」に対するヤフコメ住人のコメントは、ほぼ100%、次のような要旨で統一されています。

絶対に貸し借りをしてはいけない。友人間こそ厳禁。貸したほうも、借りたほうも、(返済が為される為されないに関わらず)その考えが生じた時点で、アウトである。

ほとんど全員、意見が一致していますね(もっとも、「貸し借りはいけない」という人ほど、金融機関からは借金しているようですが、笑)。 

「お金の貸し借りは人間関係の終わり」、、、これが日本の常識なのだと思われます。無心を相談されて、それを引き受けるときは、そのお金は(戻ってこないという前提で)あげたものだと思って、即、縁を切る。

中国の場合は、(良し悪しはともかく)正反対なのかも知れません。「お金の貸し借りが人間関係の始まり」、、、といったような側面も感じられます。

むろん問題は、その後にあります。貸したお金は、絶対に(お金を稼いで)返して貰う、というのが、大前提。次は自分が助けてもらう立場に成るかも知れない、という想いが、常にあるのです(もし返して貰えなかったときは、非常に残念に思うわけです)。

野茂は、その辺の日本人とは、全く異なる感覚を持っているのでしょうね。貸した金は絶対返して貰う。友情とお金は、無関係。周りの罵倒を浴びながら、大リーグで成功した初の日本人である「本物の英雄」です。
掌を返したように、彼を褒め称える大衆には、彼の実像は分からないことでしょう。
 
日中の文化の顕著な違いの一つが、「割り勘文化」と「御馳走文化」ですね。中国の場合は、良くも悪くも、人間関係を引きずるのです。困っているときはお互い様、その代わり貸した恩(その中にはお金も含まれます)は絶対に返して貰う、、、「お金を貸すときは、返ってこないものと思って、即、縁を切る」という日本の文化とは、対極にあると思います(昔はどうだったか知らないけれど)。

笑ってしまうのは、モニカです。

大方の中国人同様、お金には実にシビアです。ふだん現金は一銭も持っていません(ほかの現代中国人同様全てカード清算)。買い物時は、長時間吟味して、一銭でも安いものを選びます。(日本人の感覚からすれば)それはもう異常なほどですが、中国人としては、これが普通なのだと思います。

話は変わりますが、、、モニカは僕が「メールをくれ」と要請しても、まずメールを寄こさない(昔からそうです)。最近は、電話をかけても出ない。別に理由はなく、面倒だからです(あえて理由を探れば、小七に手を離せない?)。

ところが、必殺の手があります。「飛行機のチケットを買ってくれ」とメールすると、ほぼ100%、すぐに反応する(即刻返事が来るし、電話にも出る)。そして、吟味する間もなく、即、買ってしまう(昔からそうなのです)。

もちろん、僕が後でモニカに支払うわけですが、(場合によっては周りの人から借りてでも)立て替え購入してくれる。

返済するときに、いつもほんのちょっと色(といっても日本円で数100円とか数1000円単位)を付けてあげるので、それが目的なのかも知れません。

でもきっと、「私はジュンゾウを助けてやっているのだ」という想いがあるのだと思います。困ったときは、お互い様、と。

再び話は変わりますが、、、日本人は、寄付が好きですね。大災害があれば、我先に寄付しようとする。あくまで、世間に知れ渡った、「国民の共通認識」としての、大災害被災者に対して。

知人の窮状も含め、普段目にしている、日々刻刻、常に起こっている日常的な小災害に対しては、無関心なのですね。不特定多数の「災害」には見向きもしない大衆が、それが日本人としての義務でもあるかのように、「有名大災害」に対しては、我先にと「ボランティア」「寄付」を行うのです。

日本特有の(他者を受け入れはしないけれど)「おもてなし上手文化」の、一つの現れのようにも、思えます。



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“「000の理由」症候群”について考える

2018-10-09 16:07:50 | 雑記 報告


「現代ビジネス」に限らず、インターネットニュースの記事は、「0000の理由は」「0000のわけ」「なぜ0000なのか?」「0000の答え」、、、と、似たパターンのタイトルが溢れています。中には「表題と記事の内容が違う、“理由”と言いながら、答えが書かれていないじゃないか」とのお叱りも少なくありません。

その理由(理由が書かれていない理由、笑)は簡単です。そうしておかないと読者を引き付けられないからです。一種の釣り記事。言い換えれば、それだけ読者の多くが、世の中に起こっている様々な現象についての「理由」「答え」を求めている、ということになります。

日本の教育制度は、「答えを求める」ことに、最大の重点を置いているように思えます。「事実は一つ」「正義は一つ」といった思いが過剰に強いのが、日本人の思考の特徴なのではないかと。

その結果、左であろうが右であろうが、上であろうが下であろうが、世論がひとたびどこかに向かうと、みな一斉にその方向に傾いてしまう。

「曖昧さの否定」が、日本の教育文化に馴染んでいるのだと思います。

僕の基本姿勢は、「事実は一つでない」「正義は一つでない」ことに基づいています。

国民のみんなが、事実や正義を特定し、それに従って生きることで、世の中はスムーズに回っていくのかも知れません。でも、例外を無視することは、必ずや差別や排除に繋がります。

僕は、あらゆる事例に対し、答えは求めません。いや、求める努力はするのです。でも、そこで止まってしまうことは、絶対にしたくない。大事なのは、常に動いていることです。考え続けることです。

「0000の理由を示す」(答えを出す)ことではなく、「0000について考える」(答えは出さない)、それが僕のポリシーです。



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