青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

今日は斎藤緑雨の誕生日

2021-12-30 20:48:48 | コロナ、差別問題と民主化運動、明治文学


★12月29日の記事に、応援ありがとうございます。



読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・・・

スーリンの西暦での誕生日は12月19日なんですが、本人は無視してます。中国歴?の日付が本当の誕生日由、今年(来年)は1月21日だそうです。毎年、春節(今年は2月1日から、庶民には年末まで伝えられません)共々変わります。そこいらへんが、僕にはもうひとつよく把握できない。ちなみに、モニカは誕生日への拘りはあんまりないようで、僕は正確な誕生日を知りません(たぶんキャッシュカードの暗証番号、笑)。

明治の文学者も面倒ですね。
坪内逍遥 安政6年
半井桃水 万延元年
森鴎外 文久2年
二葉亭四迷 元治元年
夏目漱石 慶応3年
山田美妙 明治元年

逍遥と美妙の間に6つの元号があるので、どれだけ年が離れているのか、と思うのですが、9年(1859/1868)ですね。9年の間に6回元号が変わっている。明治はそのあと45年続きます。江戸時代の元号もそれぞれ結構長いです。幕末の特殊事情、と言う事なんでしょう。

もうひとつややこしいのは、旧暦と新暦の関係。上記した中国の場合同様に、ひと月ほどずれます。斎藤緑雨の場合は、旧暦では今日12月30日(慶応3年=1867年相当)が誕生日ですが、新暦では来年1月24日(1868年=明治元年相当)です。現在の中国での組み合わせとは逆で、また、中国の場合と違って、毎年日付は変わりません。(*注:面倒なので「西暦」「中国歴」/「新暦」「旧暦」としましたが、実際はもっと複雑です)。 

ということで、緑雨の誕生日は、旧暦では、江戸時代の最後の年、慶応3年の大晦日の一日前、ということになります。「最後の江戸文学者」と呼ばれる緑雨に相応しいのですが、12月31日ではなく12月30日というのが、(もちろん偶然ですが)いかにもへそ曲がりな緑雨に、より相応しいと感じます。

緑雨に関しては、書きたいことが山ほどあるので、どこから書いて行って良いのか、、、。

現代における教科書的な位置づけは、概ねこんなところではないでしょうか?(最近の日本文学史関係のネットコラムから)
>斎藤緑雨は、坪内逍遥や二葉亭四迷を始めとする、西洋から導入された新しい文学観を明確に否定し、真っ向から皮肉をぶつけた稀有な作家でした。明治に花開いた近代文学に対する挑戦を試みたのですが、結果的に文学観は変遷し、緑雨のパロディは、パロディの域に留まりました。

でも、そんな単純な話じゃないです。

坪内逍遥の随筆に、「斎藤緑雨と内田不知庵(魯庵)」というのがあります。逍遥が緑雨に最初に会ったのは、明治18年という事なので、満年齢で逍遥25歳、緑雨17歳。このとき緑雨は「小説改良案」というのを持って、既に文壇の大老と目されていた逍遥を訪ねたそうですが、当時の文学者というのは、なんとまあ早熟だったことでしょうか。

逍遥は、魯庵も緑雨も文壇の嫌われ者で、毛虫扱いにされていた、と書きます。

その、魯庵の緑雨回想から(敢えて批判的な部分を抄出しました)。

「僕、本月本日を以て目出たく死去支候」という死亡の自家広告を出したのは、斎藤緑雨が一生のお別れの皮肉というよりも江戸ッ子作者の最後のシャレの吐きじまいをしたので、化政期戯作文学のラスト・スパークである。緑雨以後真の江戸ッ子文学は絶えてしまった。

緑雨の全盛期は『国会新聞』時代で、それから次第に不如意となり、わざわざ世に背き人に逆らうを売物としたので益々世間から遠ざかるようになった。元来緑雨の皮肉には憎気がなくて愛嬌があった。緑雨に冷笑されて緑雨を憎む気には決してなれなかった。が、世間から持て囃されやされて非常な大文豪であるかのように持上げられて自分を高く買うようになってからの緑雨の皮肉は冴を失って、或時は田舎のお大尽のように横柄で鼻持ちがならなかったり、或時は女に振り捨てられた色男のように愚痴ッぽく嫌味であったりした。

世間からも重く見られず、自らも世間の毀誉褒貶に頓着しなかった頃は宣かったが、段々重く見られて自分でも高く買うようになると自負と評判とに相応する創作なり批評なりを書かねばならなくなるから、苦しくもなり固くもなった。同時に自分を案外安く扱う世間の声が耳に入ると不愉快で堪らなくなって愚痴を覆すようになった。緑雨の愚痴は壱岐殿坂時代から初まったが、それ以後失意となればなるほど世間の影口に対する弁明即ち愚痴がいよいよ多くなった。私が緑雨と次第に疎遠になったのは緑雨の話柄が段々低級になって嫌気がさしたからであるが、一つは皮肉の冴を失った愚痴を聞くのが気の毒で堪らなかったからだ。

緑雨は逍遥や鴎外と結んで新らしい流れに棹さしていた。が、根が昔の戯作者系統であったから、人生問題や社会問題を文人には無用な野暮臭い詮索と思っていた。露骨にいうと、こういうマジメな問題に興味を持つだけの根柢を持たなかった。が、不思議に新らしい傾向を直覚する明敏な頭を持っていて、魯文門下の「江東みどり」から「正直正太夫」となると忽ち逍遥博士と交を訂し、絶えず向上して若い新らしい知識に接触するに少しも油断がなかった。根柢ある学問はなかったが、不断の新傾向の聡明なる理解者であった。が、この学問という点が緑雨の弱点であって、新知識を振廻すものがあると痛く癪に触るらしく、独逸語や拉丁語を知っていたって端唄の文句は解るまいと空ぶいて、「君、和田平の鰻を食った事があるかい?」などと敵を討ったもんだ。

緑雨の傑作は何といっても『油地獄』であろう。が、緑雨自身は『油地獄』を褒めるような批評家さまだからカタキシお話しにならぬといって、『かくれんぼ』や『門三味線』を得意がっていた。『門三味線』は全く油汗を搾って苦辛した真の名文章であった。けれども苦辛というは修辞一点張であったゆえ、私の如きは初めから少しも感服しないで明らさまに面白くないというと、頗る不平で、「君も少し端唄の稽古でもし玉え、」と面白くない顔をした。緑雨のデリケートな江戸趣味からは言文一致の飜訳調子の新文体の或るものは気障であったり、或るものは田舎臭かったりして堪らなかったようだ。

聡明な眼識を持っていたが、やはり江戸作者の系統を引いてシャレや小唄の粋を拾って練りに練り上げた文章上の「穿ち」を得意とし、世間に通用しない「独りよがり」が世間に認められないのを不満としつつも、誰にも理解されないのをかえって得意がる気味があった。が、紅葉も露伴も飽かれた今日、緑雨だけが相変らず読まれて、昨年縮印された全集がかなりな部数を売ったというは緑雨の随喜者が今でもマダ絶えないものと見える。緑雨は定めし苔の下でニヤリニヤリと脂下ってるだろう。緑雨の作の価値を秤量するにニーチェやトルストイを持出すは牛肉の香味を以て酢の物を論ずるようなものである。緑雨の通人的観察もまたしばしば人生の一角に触れているので、シミッ垂れな貧乏臭いプロの論客が鼻を衝く今日、緑雨のような小唄で人生を論ずるものも一人ぐらいはあってもイイような気がする。が、こう世の中が世智辛くなっては緑雨のような人物はモウ出まいと思うと何となく落莫の感がある。

う~ん、魯庵のいう事、分かるような気がする。

魯庵(緑雨と同じ年)は、実際の緑雨をよく知っているわけですから、いろんな方向から洞察した上で、深い示唆も込めて、敢えて「江戸の最後の文学者」と位置付けているわけです。

でも、違った意見もありますね。

>内田魯庵が緑雨を評して、「化政期戯作文学のラストスパーク」と言ったのは、“魯庵の眼鏡違い”である。

>一般には斎藤緑雨は、江戸文学趣味が云々とされ「最後の戯作者」と呼ばれて来た。そして、近代社会と激しく格闘することもなく、一定の距離を保ったところから世の中を嘲笑していたものと思われている。だが、緑雨の放った皮肉は、もっと違ったコンテクストの許に捉えられなければならない。緑雨を、単なる前時代の生き残りとしてではなく、明治と言う時代の中に生きた作家として見直そう、とする動きもある。(塚本章子「日清戦争後の緑雨」から要約抄出)

それもまた是だと思います。

ちなみに、緑雨自身は、自分が仮名書魯文(江戸末期の戯作家・ジャーナリスト)の最後の弟子であったことを誇りに思っている旨のことを書き記しています。

「最後の戯作者」「明治近代文学の魁」。どっちも正しいと思います。(誰の場合もそうですけれど)評価をひとつに限定してはならないと思います。

魯庵の緑雨回想。

ひとりの見舞う者もない寂しい終焉だったが、緑雨の一番古い友達の野崎左文と一番新しい親友の馬場孤蝶との肝煎で、駒込の菩提所で告別式を行った。緑雨の竹馬の友たる上田博士も緑雨の第一の知己なる坪内博士も参列し、緑雨の最も莫逆を許した幸田露伴が最も悲痛なる祭文を読んだ。丁度風交りの雨がドシャドシャ降った日で、一代の皮肉家緑雨を弔うには極めて相応しい意地の悪い天気であった。

ということで、「竹馬の友」と「第一の知己」の緑雨評を(ネットのブログのコメント共々)紹介しておきましょう。

上田萬年の緑雨評
【緑雨という男は幸福になるには骨がありすぎた。小骨もね】
>相当な才能を持ちながらも貧苦と病苦と時代の荒波にもまれて夭折した斎藤緑雨、教授として博士として大学や学会に大きな影響を持ち、多大なる権力と名誉を得た上田萬年。2人は、境遇や生涯こそ違ったけれど、緑雨が死ぬまで良き親友であり続けたそうです。そんな盟友が、たった一言で評して見せた「斎藤緑雨」。なかなかいえるものではありません。名評中の名評。(ブログ話の横丁「文壇逸話“幸せになるには骨がありすぎた斎藤緑雨”」から)。

坪内逍遥の緑雨評
【内気で義理堅く、用心深くて気が小さい。見識が高く、時に高慢高く、親分肌で優しい。狷介で、好みがうるさく、面と向かうと口数は少なく、おとなしい。ひょろりとして色白で、目元に愛嬌があり、白い歯をチラリと見せ、冷ややかに笑う若旦那風。新人からは恐れられ、古参からは憎まれるシニシズムの持ち主。常識豊かで唯物主義で楽観家。貧困であったにもかかわらずひねくれておらず、高慢であっただけに卑屈でも軽薄でもない。懐かしみがあって、純粋】
>あまりに書きすぎてどんな人かまるでわかりません。要は大好きだったんだね、緑雨を。そうなの。結構人気者なのよ。緑雨さん。なんというか気に入られる人にはとことん気に入られるタイプみたいねw (本が好き!さんのブログ「“元祖ハンカチ王子”は斎藤緑雨!?花柳界で“ハンケチさん”という異名を持った緑雨は、ハンケチで始終口元を覆い、まるでお嬢さんのようだった」から)。

“毛虫扱いにされていた”という「定説」とは裏腹に、周囲の人たちには、案外愛されていたのですね。光の当て方次第で、180度変わってきます。

以下、緑雨と明治文学の話題は、とめどもなく長くなりそうなので、今回はここらへんで、、、。





「三人冗語」 右から、緑雨、露伴、鴎外(緑雨逝去時は日露戦争に出征中)。



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