「近所の蝶と大谷と白鵬」という見出しで行く予定だったのですが、上記に変更しました。特に意味があるわけじゃなく、今後も気分次第で2つの総見出しを使い分けて行きます。
一周回っての“絶対悪”ですね。ちなみに僕は悪を全否定しているわけではありません。
「近所の森と道端の蝶・福岡編」やっと完成しました。
問題は(「中国蝴蝶野外観察図鑑」ともども)どうやって収入に結びつけることが出来るか。
148頁。印刷代1500円。僕の実益分に六本脚マージンを加算すると定価は3500~4000円、幾らなんでも高すぎるのではないでしょうか?
PDF原稿をそのままCDに収納、あるいは電子書籍としてネット販売すれば、コストはほぼゼロで、圧倒的にクオリティが良く廉価な作品を読者に提供することが出来ます。僕にとっても購入者にとっても、双方納得です。けれど、現実には、様々な柵や障碍があって、そうも行かない。
そのうちに、ブログでも梗概を紹介していこうと思っています。
ちなみに、この作品の肝は、↓前書き末尾の記述。
>本書は教科書ではない。内容は曖昧かつ適当で矛盾だらけである。殊に学名の選択を含む分類体系の記述は項目ごとに変わっていたりして全く不統一である。むろんそれぞれに根拠はあるのだが、本書ではその理由の説明は割愛する。敢えて定説とは逆の選択を行っている場合が多い、と認識しておいて頂きたい(単純に、文字スペースとの関連で選択した場合もあるが)。よく言えば臨機応変な処置なのだが、要するに著者の思い付きの出鱈目記述、と解釈して頂いても、差し支えない。
>著者の本意は、答えの提示ではなく、問題提起である。自然の生命体に関わる事柄を類型化し統一することは不可能である故、それでよいと思っている。将来はともかく、現在という時点での判定に於いては、本書の記述は間違いだらけなのかも知れぬ。答案用紙に「正しい答え」を書くための教科書・参考書を求める方は、別の(著者以外の執筆者に拠る)図鑑を参照して頂きたい。
僕の姿勢に心配した友人がこんなメールをくれました。
>何とかアカデミックな連中が使うのと共通の言語を持たないと、もったいない。
それはよくわかるのだけれど、僕のポリシーなので、いまさら変えるわけにもいかんです。反アカデミズムは貫き通します。
もう10数回目くらいの繰り返しですが、僕が嫌いなのは、
音楽雑誌「ローリングストーンズ誌」と、バンクシー(ついでにゼレンスキー)。
反権力を装った権力。
芸術なんていうのは、詐欺と依存症(それらによって構築される資本主義社会)の正当化に過ぎんです。科学も同じです。
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当面は、大谷君(以下敬称抜きで統一)絡みの話題を続けて行く予定。
今回の出来事は、単に事件で済まされる次元の問題ではなく、日本人とは何か、民主主義社会、資本主義社会とは何か、と言った、とんでもなく大きな問題が背景にあるように思います。
白鵬問題の裏表逆パターンですね。大谷にしろ白鵬にしろ、何らかの形でケリという問題ではない。これまで僕の携わってきた「香港デモ」「コロナ騒動」「ウクライナ問題」等々とともども、今後とも注意深く見守っていくつもりでいます。
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権力に従う。
これが日本人が日本人であるための絶対条件なのでしょう。
それが悪い事だとは思いません。要は、それを自覚しているかどうかということと。そしてそれが全てではない、と認識する事。
前回のブログにも書きましたが、大谷とごく身近な、彼の実像を極めて良く知っていると思われる、日本のプロ野球球団の某コーチ(誰だったか今名前を思い出せないけれど、皆も良く知っているはずの方)が、以前大谷について評していたこと。
>大谷はジャイアン。
↑大谷崇拝者は皆見逃しているのでしょうが、、、必ずしもネガティブな意味で言っているのではなく、それが実態だということです。
ウイキペディアで“ジャイアン”(または“ジャイアン主義”)をチェックしてみました。その幾つかの要約。
>乱暴なガキ大将だが、友情に厚い男の子。
>「おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの」。自らの所有物(占有物)については当然に自分の所有権を主張しつつ、他者の所有物に対してさえも当人の所有権を否定、所有権が自分に属することを主張する。
>「正しいのは、いつもおれだ。」「この町で、おれにかなうものはいない。おれは王様だ。」
>しかし、本人はこれらの行為に悪気はない様子。周囲が嫌がっている事に気づいた際に見せた表情は悲しげで、ドラえもんにも「年に一度は心から祝ってもらいたい」と泣きつく姿からは、自分さえ良ければいいという暴君気質は見られません。
「ドラえもん」というのは、もちろん名前は知っていたのですが、アニメはおろか、マンガ自体も一度も見たことがありませんでした。今日、はじめてインターネットのウキペディアなどで、その梗概をなぞった次第ですが、なぜか、全部知ってた様な気がします。いつの間にか断片的に情報を得ていたのでしょうね。
ちなみに藤子F.不二雄(藤本弘)氏とは、若い頃スタジオ・ゼロの仕事場で何度もお会いはしているのですが、話したことは一度もなかったように記憶しています(雑用とかを頼まれたことはあったかも知れない)。手塚治虫先生ともども、僕が尊敬している、数少ない真の芸術家の一人だと思っています。
話が逸れてしまいました。
多くの日本人が“ヒーロー”として崇拝する大谷。彼の行いは、正しいのに決まっているのです。
一方、(主に)アメリカの少なからぬ人たちは、彼のことをどこか胡散臭い、信用できない人と見ている。
そのどちらとも判断できずにいる人も、一定数いるようです(たぶん僕もその一人)。
悪とは何か。正義とは何か。永遠の問いを追い続けるしかないのです。
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水原は「ギャンブル依存症」。そのような人物は皆「嘘つき」。
大谷は「野球以外の世俗には全く関心のない、聖人君子」。
それ自体はひとつの事実でしょう。
従って、「悪人は正しくない」「正義は正しい」の前提で、全ての物事が処理されていく。
しかし、事実は一つではないのです。別の側面・時空においては、違った解釈が可能です。
“This is a pen”“雨が降っている”“彼が歩いている”、、、それら自体は事実には違いありません。けれどそこに何かが関与した時に、その関係性は無限の可能性が広がる。
“And that is a book”“でも太陽が顔をだした”“石につまずいて転んだ”、、、展開次第で、事実の有り処は無限に広がって行きます。
「水原は賭博を度々やっていた」
「大谷は常に野球に専念している」
そこから先は、別次元の問題として捉えねばなりません。
極論すれば、真実とは無限の矛盾の構築の中で成り立っている、ということだと思います。
賭博は悪なのか?
賭博依存症、それはどういうことなのか?
物事への依存は、特別なことではなく、現実社会のほとんどが、本来必要の無い対象への依存で成り立っているのではないか?
依存症の人間を嘘つきと言うならば、大衆は皆嘘つきなのではなかろうか?
大谷が、脇目もふらず野球の道に邁進していることは、本当に素晴らしいことなのだろうか?
“かのように”的視点の外から見るならば、
ボールを飛ばす(投げる/打つ)ことに卓越している人と、
2か国語を自由に操れる人の、
どちらが人間として(社会・大衆への忖度なしに)優れていると言えるだろうか?
しかし、全ての物事は、“社会・大衆への忖度”から逃れて進めることはできません。
有無を言わさず、前者が圧倒的に(まるで比べものにならぬほど)優れているのです。
大衆はもとより、大谷自身も、もしかすると水原氏も、今回の出来事を、限りなく無かった事にする(全て水原氏の“悪行”に基づくとして処理する)ことで、阿吽の統一見解に至っているのだと思います。
誰もが成し得なかった未曾有の大記録達成に邁進する、それが全てであり、ほかは一切無視。少なくとも日本人の大多数は、その大谷の姿勢を絶対評価し、支持しているわけです。
一方、それで良いのだろうか?という疑問が(主にアメリカの)一部の人たちから噴出している。
僕が思うに、今回の水原氏の過ちは、特別な出来事ではない、ということ。
むろん、置かれた状況(国家規模の大谷フィーバー)が余りにも特別な舞台なわけですから、あらゆる出来事が特別視されなければならないわけですね。
額の多少、違法合法を別に考えると、賭け事依存による負担は、株はもとより買い物とかローンとかも同じであり、本質的には賭博依存と変わらないということ。
水原氏が、つまらんちっぽけな人間で、生まれた環境という宿命に、後に様々な自己責任も加わって、底辺人生を余儀なくされてきた、という背景がある以上、嘘もつかねばならなかったでしょうし、何らかの学歴詐称もせねばならなかったでしょう。
ちなみに、僕自身、まともな学歴は中学1年までしかないわけで、その後どのような教育機関に関わってきたかというと、東京大学に勝手に出入りして、弥生校舎の学内や農学部の演習林で活動を続けてきたわけです。そのこと自体は事実なので、その通りに言うしかない。と同時に、余計な疑念をかけられたくないので、ニセ学生であることを自ら強調してきました。しかし、中には「学歴詐称」という人も出てくる。そんなこと言われても、どうしようもないじゃないですか。
あるいは、中国では3度現地(重慶・成都・昆明)の大学に在籍していました。もっとも、卒業はしていないわけだし(授業にも大して出ていない)、本来中卒の身分では入学は出来ないのですから、在籍自体がたぶん裏口入学に等しいのではないかと思います。でも、裏口であるにせよ、書類上は在籍したことになっているはずです。その書類が、本物であるのか偽物であるのか、僕自身には判断のしようがない。
それに関しては、僕だって、水原氏だって、小池のバアさんだって、似たようなものだと思います。
ついでに、僕が自分の本を(いわゆる自費出版で)売りつけることを、詐欺行為と見做す人がいます。一方、正規の出版社からの刊行だと、大変立派な業績のようにほめたたえられる。なんだかなあ~、という思いです。
話を戻します。若い頃の水原氏は、まあ一般に言うところの正規のレールには乗ってなかったのだと思います。清濁併せのみつつ頑張り続けてきた。紆余曲折した後、日ハムの通訳の職をつかみ、大谷の専属通訳と成り、ともにドジャースに入団した。シンデレラ半生ですね。
しかしシンデレラになることで、全てが変わった訳ではないでしょう。過去(自らのアイデンティティ)は引きずり続けざるを得ない。大谷とは、所詮、置かれた立場が違うのです。
本来はミスマッチであるはずの2人が、人生に一生懸命(水原氏)、野球に一生懸命(大谷)、、、、一生懸命というキーワードを持って見事にマッチしたわけです。
でも、(水原氏が)引きずってきた負の部分は、そう簡単に解消できるものではない。
もう一度、同じことを書きます。
わき目も振らずに野球に邁進する、ということは、本当に(皆が考えているであろう様な)素晴らしいことなのでしょうか?
ボールを飛ばす(投げる/打つ)。
2か国語自由に操れる。
どちらが人間として、社会への忖度なしに、優れているのか?
水原氏も大谷も、そんなことは考えたこともないでしょう。むしろ、現実問題としては、比較にならない、と受け止めていたことでしょう。大谷は悪気ではなく、水原氏は卑下ではなく、当然であると(水原氏の意識の根源には、理不尽と言う思いはあったかも知れないにせよ)。
大谷は、皆が御存じのように人生スケジュールを立てていました。それに沿って邁進し、他のことは全て無視し、努力を重ねて、全てを実現してきた。もちろん、圧倒的な素質と本人の努力があってのことです。
そして、回りの理解(のちには讃美・崇拝)も重要なファクターであることを忘れてはなりません。
言い換えれば、ジャイアンのように、徹底して自分を押し通してきたわけです。それが許される立場にあった。
それが美徳として持ち上げられ続けているわけですが、本当にそうあるべきなのでしょうか?
ちなみに、例えばニューヨーク遠征時、野球以外に何にも興味が無いので、街には出なかった、、、等々、俗世間やお金には興味を示さない、我々一般人には到底マネが出来ない聖人君子であると。
僕には違和感があります。大谷が普通で、一般大衆がおかしいのかも知れない。
烏滸がましいですが、僕なんかも、大谷と全く同様ですね。所有欲、物欲は、皆無だと思います。酒、タバコ、ギャンブル、女遊び等々には全く興味ないし、そのほかの遊びも、(最低限必要なものは別として)買い物とかにも、一切興味がない。嘘もほとんど言わない正直人間だと思います。ひたすら自分の目標(日本の自然の根源を中国の自然の中に探し出すこと)に向けて努力邁進している。大谷に負けない聖人君子なのです(笑)。
でも、当たり前のことですが、聖人君子には程遠い。実質的には、たぶん水原氏により近い(と言うよりも彼には遥かに劣る)出鱈目なダメ人間です。
それはともかく、大谷のやっていることは、皆と同じ行動が取れない(同調圧力に応じない)本来なら社会を乱す、大衆とは異なる価値観に基づいています。普通は排除されてしまうのですが、彼がそれを許され、なおかつ讃美・崇拝の対象になっているのは、ひとつは日本人が欧米人を圧倒する、という現象に、日本の大衆が狂喜乱舞している背景に拠ります(戦後の力道山に被ります、、、後に刺殺され、やがて北朝鮮人であることが判明、諸々の裏の顔も明らかになるのですが、リアルタイムでの熱狂は、それは凄いものでした)。
見方によれば、投手である大谷がDH(代打ヒッター)を独占し続けていることは、集団競技としての野球を考えた場合、大いなるマイナス面もあるわけです。しかし、崇拝されている限り、プラスに捉えることしか許されない。
大谷が、自分の道を突き進むことが、必ずしも「正解」であるとは言えないのですが、日本人大衆の側には、それを指摘することが許されない「空気」(同調圧力)が、頑として確立されてしまっている(早い話、僕にしても、そのことが分かっていながら、大谷に拠る前人未踏の活躍を応援していたわけです)。
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水原氏は懸命に生きてきた。ネガティブな過去の境遇を引きずりながら。
「生活レベルを大谷の(あるいは彼を取り巻く)世界に合わせるのがどれだけ大変だったか」という水原氏の言には、思いのほか大きな意味があると思います。
今回の事件の成り行きは、2つの物語に集約されるでしょう(実際はその2つが混然一体となり複雑多様な様相を示している)。
多くの人が指摘しているように、僕も水原氏の最初のインタビュー内容が、(事実ではないとしても)より事実に近いのではないか、と考えています。
他チームに移籍したフレッチャー選手(大谷の親友として日本の大衆が美談物語を造り挙げていることには辟易していますが、ナイスガイには違いないと僕も思っている)の以前の証言。「賭け事がチーム内に蔓延している、その中心人物の一人が水原氏」。これはネガティブな意味での発言ではないのです。皆が、水原氏を中心に、和気あいあいと楽しんでいる、と。むろん(本人が参加しているか否かは別として)大谷も周りにいて承知しているわけです。単純に、アメリカにおいてはごく当たり前の、皆の楽しみごとのひとつであるわけです。
たまたま違法であったことを除けば、水原氏の“ギャンブル依存症”は、特別なことではないように思います。彼が依存症というならば、フレッチャー以下、皆依存症と言えなくもない。我々大衆も、様々な局面で、(アニメとか音楽とかグルメとかファッションとか)依存症なわけです。
水原氏の場合は、(バックに大谷がいることで)狙い撃ちでターゲットにされちゃったのですね。そして、がんじ搦めになって、抜け出しようにも抜け出せなくなった。
自分は依存症である。水原氏は、正直すぎるほど正直なんだと思います(正直であることは必ずしも美徳ではない)。
けれど、それでは、球界の宝であり、日本人の崇拝の対象である大谷に危機が及んでしまう。水原氏を含めた全員で口裏合わせをする。水原氏が窃盗した。大谷は野球で結果を出せばいい。それもひとつの(というよりもほとんど唯一の)解決策だとは思います。
もうひとつのパターン。本当に大谷は何も知らなかった。全くの寝耳に水。従って現在の捜査進行状況のままで何ら問題はないわけで、野球で結果を出せば良い。
その場合、批判の声は、そんなにリスク管理出来ていないということは、大人(社会人)として失格である、と。
けれど、僕を含む一握りの人たちの思いは、どちらのパターンであるにせよ(特に後者のパターンの場合より強く)、そこはかとない違和感を覚えている。
2人は、二人三脚で頑張ってきたのですね。お互いに全面信頼しながら。
しかし、過去を引きずりつつ周囲(その中心は大谷)に気を配り続けねばならない(なおかつ心ならずも?表舞台に立たされ続ける破目になった)元・出来損ないの水原氏と、回りのことなど何一つ気にせずに自分のやりたい放題(悪い意味で言っているのではない)野球道に邁進することが出来る聖人君子の大谷では、余りにも置かれた立場が異なります。
問題の多少は有れ、(たとえ賭博問題が起こらなくても)何らかの局面で今回のような事態に至ったのは、必然ではないだろうか、という思いもあります。
大谷がお金に無頓着、というのは、その通りなのだと思います。一部(一割としても何10億円)を誰の束縛も受けず自由に使い、それを水原氏に全任、必要とあらば勝手に使って良い、という状況下にあったのではないかと。
背番号譲ってくれた選手の奥さんにポルシェ贈呈、日本の全小学校にグローブ配布、留学の招待、、、、膨大な金額を、大谷の思いのまま動かしている。
それが素晴らしい事であるのは間違いないのでしょうけれど、別の側面から見れば、自分の気の向くまま大量のお金をばらまいているわけで、なんだかモヤモヤも残る、と感じるのは、僕だけではないと思うのです。
水原氏は、それを任されていた可能性が強いです。背番号の奥さんにホイ何千万円、グローブにホイ何千万、、、、。
後払い1000億円だって、山本投手を入団させるため、ひいては勝ちたいがための(お金なんてどうでも良い、勝ちたいんだ)策略であったとも言えます。
暗号資産への賛同(主催者は逮捕はされたけれど、違法と言うのとはまた意味が違うので、大谷ら賛同者にはお咎めなし)も含め、お金に興味がないからこそ、ホイホイとお金を動かすことが出来る。
世界中に、(幾ら必死で努力を重ねようが)お金の為に苦しんでいる人が、どれほどいる事か。それらの人たち(盲目崇拝する日本人貧乏人は除く)にしてみれば、大谷の存在は、違和感満載であっても不思議ではありません。
ある意味では大富豪の余興とも言える大判振る舞いのお金の窓口になっている水原氏自体はお金に苦しんでいる、という状況。けれど自分は大谷の為に全力を挙げ、助けを求めるなんてもってのほか。ジャイアン大谷と違って、水原氏は自分に自信はないし気が弱いのです。
任されているお金は、大谷の夢を叶えることに繋がるならば、湯水のように使うことが出来ます。ならば自分に降りかかっている苦境をゼロにする為に、そのお金を使うことは、大谷にとっても(全体からすると大した額ではないとも言えるわけですから)望ましい事と言えるのかも知れません。
奥さんポルシェや小学校グローブと同じように、プールしてある資金から勝手に支払っておく、というのが、ベストの選択であったのかも知れません。後で自分の犯した不始末は、(今後はもうしませんと誓ったうえで)片付きましたよ、と報告しておけば、大谷への渾身によるこれまでの膨大なメリット考えれば、大谷にとっても、お安い御用、ということで、一件落着だったはず。
大谷は、水原氏の事を、もっと真剣に考えてあげるべきだったのではないかと、僕は思います。その余裕がなかったとすれば、水原自身の負責を含めて、お金のことは最後まで水原氏に全任すべきだった(たぶんそのつもりでいたのだと思う)。
けれど、違法ということで、途中で捜査が入って、取り返しの付かない事態になり、一方的に水原氏を切り捨てざるを得なくなった。
ある意味、自分の目標達成の為に、結果として水原氏を追い込んだのです。
いずれにせよ、大谷が本当に聖人君子なら、野球で結果を残すことではなく、水原氏を助けることを第一義に置くべきではないだろうか?と考える人が、多数派ではないにしろ、少なからずいる、ということも、また事実なのです。
僕ですか? うーん、難しいですね。大谷君には、野球に於いて未曽有の結果も残して欲しいし、それらを超越した“義”も見せて欲しいし、、、、。
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福岡県に於けるコロナ感染状況の発表は、今日を持って終了するとのこと。実質、(コロナが特別な禍では)無かった事にする、ということです。