読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。
【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?
【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。
*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。
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前回のブログに書いたように、福岡県飯塚市に移住して生活保護の受給を再開して以来、毎日完璧な同じスケジュールで生活しています。ジョイフルで原稿書き(ハンディフィールドガイドブック「中国の蝶」と「中国の野生植物(四川雲南山嶺花)」)に没頭。8時朝食(目玉焼きトースト&ドリンクバー)、2時昼食(日替わりランチ)、9時夕食(大盛りご飯とキャベツサラダ)。あとは徒歩4分のアパートで帰って寝るだけ。そんなわけで、ブログ書いている時間ありません。書き溜めてたのを小出しにしていきます。
有名芸能人(ドリフの仲本工事さん)逝去の記事。(結果として事故を起こしたことになる)「運転手が可哀そう」というコメントが溢れています。それはそうなんだけれど、非常な違和感を覚えます。
その“違和感”を説明する前に、(全く無関係ではありますが)大谷選手関連の話を。多くの日本人と同じで、僕も「お母さん状態」で応援しているのですね。見事にミーハーです。大谷君が活躍してくれると、嬉しいし、元気が出る。でも、ヤフコメで関連ニュースを見ると、落ち込む。
なんというか、、、大谷上げ(ほか下げ)一択、必要以上の賛美、、、むろん、幾ら賛美しても、し足らないほどの偉業だと思うのですよ。でも、(当たり前の事なんだけれど)それが「全て」でもない。仮に異見(批判的な意見)があったとしても、尊重しなくてはならいはず。なのに、見事に「一定方向」の「答え」を導き出し、他の意見を排除する。別に排除しても良いのだけれど、問題は自分たちがそれを行っていることが、わかっていないということ。
「大谷信者」と「ブライアン・ウイルソン信者」が重なります。ビーチ・ボーイズは、ブライアン・ウイルソンが偉大なんですね。その意見には賛成です。マイク・ラブに対しては、ボロクソ。ブライアンとマイクは、ビートルズで言えば、ポールとジョンのポジションに相当するはずなんだけれど、評価は、決定的に異なります。
なんでなんだろうと不思議でしかないのだけれど、不思議だと思ってるのは僕ぐらいで、世間一般にとっては、当たり前なわけです。空気の流れが、そのようになっている(ジョン・レノンは偉大な芸術家、マイク・ラブは取るに足らない俗人)、ただそれだけの問題です。
マイク的な存在は、本来は「主流」だったわけです。ビーチ・ボーイズがメジャーに成り得たのは、一にも二にもマイクの功績です。それに対する、いわば「カウンター・カルチャー」的、ローリング・ストーンズ誌(注:ザ・ローリング・ストーンズではない)的なスタンス。先進的な思想を持つ有名人(村上某とか)らが、高説を述べる。本当に素晴らしいのはブライアンである、と。大衆(自分も先進的な思想を持っていると信じている人たち)は、知らずとその“斬新な見解”に乗っかっちゃってる。
ブライアン命の某音楽評論家。彼の「ブライアン上げ」「マイク下げ」は、もはや「芸」の域です。ここまで徹底してブライアンを賛美し、マイクを軽蔑する。それはそれで面白いんです(すくなくとも半分は当たってるし)。彼の評論は、読んでて笑い転げてしまうほど、素直に面白い。
しかし、考えてみれば、とんでもないパワハラ・ヘイト・いじめですよね。まあ、マイクほどの有名人・成功者であれば、外野が何言っても蚊に刺されたほどの痛手もないでしょうが(小室さんとかメーガン妃とか二階氏とかも同様)。
まあ、麻生・二階クラスになれば、何が起ころうともビクともしませんね。これが甘利クラスだと、空気の代弁の浸透による「正義の大衆の鉄槌」で失脚させられてしまう。なんせ、「正義」「空気」「大衆」がスクラム組めば、あらゆることが可能になる。
でもそれは、(“かのように”成り立っている)元はといえば実体のない、砂上の楼閣でもあるわけです。
面白い話があって、そのブライアン命の評論家が、念願叶って本人に単独インタビューを行った。しかしブライアンの反応が、自分の予想していたのと、どうも違うのですね。
そのうちの一つの質問。今後、ソング・ライティングをするに当たって、誰と組みたいか?
当然、評論家氏は、例えばヴァン・ダイク・パークスとか、斬新なブライアン・ウイルソン・ワールドに相応しいパートナーの名が返ってくると思い込んでいたところ、「そりゃマイクさ」と即答。評論氏にとっては予測外の、まさかの答えに、思考が停止してしまったそうな。
ブライアンは続けて言います。「僕はブライアン、アルはアル、そして今はマイクがビーチ・ボーイズなんだ、彼はよくやってくれているよ」
第三者がいつの間にやら作り上げた「空気」に基づく“事実”と、当人たちの絆(のようなもの)に基づく“事実”は、別物なんですね。
大谷選手の話に戻します。ヤフコメに頻繁に現れるフレーズ。
(大谷に対してだけでなく一般論としての)ピッチャーの評価。「勝利数」について、必ずと言って良いほど、こんなコメントが付されてきます。
>なに時代遅れのこと言ってんの?勝ち星が重視されたのは昔の話、今は何よりもクオリティスタート数が重要。
確かにその通りでしょう。大半の人がそのようには考えていなかった、ひと昔前まで(今もですが)僕はそう捉えていた。個人の勝ち星よりも、重要な指標はチーム全体に与える貢献度。
でも、勝利数には勝利数の意味があるのですね。
それまで端にもかけなかったある価値観が、権力者や偉い人達によって新たに定義づけられることによって、それこそが正しいと、方向づけられてしまう。掌を返したように、(以前の価値観は否定され)それだけが正解であると。
「空気」に従うことが全て。答えはそれ一つ。今の若者が忌み嫌う、昭和の頑固ジジイと、ある意味同じなんですね(いかにもそれらしい理屈付けがなされるので、もっと始末が悪い)。
最初の話題。
志村けん氏は、偶像です。特別な存在。むろんそれだけの実力があるとしても、偶像を作り上げているのは「空気」です。(たまたま誕生日が同じらしい)長嶋や猪木もそうですね。
その時々の空気によって生み出された、突出して有名な偶像(カリスマ)は、正面切った批判を許し得ぬアンタッチャブルな存在です。
志村氏が亡くなった時、「コロナが難い」という大合唱が沸き起こりました。
なに、ジジイが金に飽かせてガールスバーで遊びまくった成れの果て、風邪を拗らせてウイルスに感染して、それだけの話です。別に「コロナ」が関与しなくとも、普通に起こり得る現象です。コロナが悪いわけじゃなく、自身が悪いのです。それに(風邪の媒体拡散は)回りにとっていい迷惑です。でも、そのような批判的な指摘は、僕の知る限り、全くと言って良いほどなかった。
今回の仲本氏の場合、ヤフコメ民の反応は、ある意味対極のように感じました。
ちなみに、僕はドリフターズとかほとんど興味ない(よく知らない)し、そもそも僕にとっての(日本の大衆を除く世界の大多数の人々にとっても)ドリフターズといえば、「ラストダンスは私と」「渚のボードウオーク」の本家のほうです。
それはともかく、仲本氏も有名人には違いないでしょうが、志村氏のような、絶対的存在・カリスマではない。
昔、蓮舫さんが言ってましたね。2番じゃダメなんですか?って。総攻撃を受けていましたけれど、実に意味のある問いかけだと思います。
たまたま1番であることで、桁外れの付加価値を伴った空気が形成される。2番(象徴的な意味です)は空気からの逸脱。首位打者や2000本安打も、打率2位や1900本安打も、実質似たようなもの、同じレベルで評価・尊敬を受けてよいはず。しかし「空気」はそれを許さない。
「日本100名山」というのがあって、絶対的存在になっていますね。皆それらの山を目指す。深田久弥氏は嘆いていると思いますよ(ちゃんと読めばそのことは分かる)。膨大な百名山信者がいるわけですが、雑誌に連載時から読み続けていた読者(僕もその一人)は、どれぐらいいるのでしょうか? ちなみに僕は百名山は出来るだけ登らないようにしています。あと、何度か同じことを書いたけれど、西丸震也氏の「日本百山」(「名山」ではない)は名著です。
志村氏も仲本氏も、同じように冷静に悲しみ惜しまれるべきと思いますが、ヤフコメ民の反応に関しては、片や「コロナが悪い」に集約されて「ガールスバー通い」ほかの問題はスルー、片や「横断歩道渡らなかったのは自己責任」「撥ねた運転手が悪者にされて可哀そう」。むろん、それもそれはそうなんだけれど、少数の意見ならともかく、お約束のように皆が皆「交通マナー(ルール)」に向けての意見を発するのには、違和感を覚える、ということです。
「そうなん」「お約束」絡みで。山での遭難が記事になる(ヤフーニュースにやたらと多い)たびに、ヤフコメ民はお約束のごとく叩きまくりますね。
曰く、遭難によって、救助隊の人たちが危険に晒される、「自己責任」なのに税金が使われるのがケシカラン。年寄りは山に登るな。そもそも登山など自分勝手な(危険な)行動は禁止してしまえ。
税金云々に関しては、生活保護に対する大衆(ヤフコメ民)の反応も同様ですね。自分の税金が弱者の為に使われるのは、我慢がならない。
「自己責任」というのは、立脚点を変えれば「自己保身」「責任逃れ」「異質の排除」。日本という国の特質を象徴する言葉だと思います。
これも何度も言いますが、「多様性」という言葉を皆安易に使っているけれど、本当に分かって使っているのか。多様性は、体系的な認知が為し得ない、矛盾の集合体です。
作り上げられた空気を基準にしてだけしか物事を考えられない(答えだけを求める)若者が多いことに、
暗澹たる気持ちになります。
ニュース(特にロシア関連)では、「一方的に」という表現が、当たり前のように連呼されている。おかしいとは思わないのでしょうか?
どんな行為においても、「一方的」という表現はあり得ない(「恨み」が全部「逆恨み」として認識されるのと同様)。しかるに、「一方的」に「一方的」という言葉が正当な市民権を得てしまっている。
「事実の報道を行わねばならない」という表現も頻繁に見聞きします。事実とは何なんでしょうか?
何が正しいか否かを知るということではなく、自分たちの思考や見解が「かのように」の許で成り立っているという自覚。
それ(俯瞰的な思考姿勢)が為されないまま、事実や正義の在りどころを求めるのは、非常に恐ろしい事だと思うのです。
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中国共産党大会のニュース。
胡錦涛前主席の、実質強制退席の映像は、衝撃です。
心に刺さるコメントがあったので、紹介しておきます。
>なんか随分失礼な仕打ちだよね…。でも、独裁者というのは、こんな風に嫌われる人しかなれない。 それより最後に胡錦濤が李克強の肩に手を掛けた意味を知りたいです。①守ってやれなくてすまないね。②おつかれさま。③さようなら。などなどいろいろ考えられますよね。ひょっとしたら、もっと言い尽くせないほどのメッセージがあったのかもしれませんね…。
(深いです)。