登校拒否・不登校に学ぶ フレンズネットワーク くまもと  【不登校 命を守る 子の反応】  一人で悩まないで!  

不登校から学んで、子どもたちを取り巻く環境を改善しようと1997年に設立した団体です。その活動や想い等をつづります。

会報ふれんず121号

2019-09-06 22:41:01 | 会報「ふれんず」から

10年前の会報から

 

シンポジウム   参加者約80名(子ども約10名を含む)

 パネリストは●永さん親子と中■さん親子、そして現役中学校教員の二見先生です。

 

A ●永○希子さん20とお母さんの話

 

娘 私が不登校になったのは中2の6月からです。でも、小学3年のクラス替えの時から仲間はずれにされたり、無視されたりして学校に行きたくなくて、仮病を使ったりしていました。両親に学校でこんなことがあって学校へ行きたくないと説明しても分かってくれず、親からの連絡で学校から先生が来て、家から引っ張り出され学校に連れていかれました。その時は、泣きながらそのまんま学校には行っていたけど、孤立して、誰も分かってくれないと思い、それくらいなら「消えてしまいたい」と思っていました。小学3年生の時はどれぐらいで死ねるかなんて分からなくて、ここから飛び降りたら死ねるかなと安易なことを考えて、3階の窓からよく下を見たりしていました。

中学校に入って自分を変えようと思って努めて明るくして学校に行っていました。でも、中1の夏休みに家庭の事情が大きく変化して、田舎から町の方に引っ越しました。母に心配かけてはいけないと思い、我慢して学校に毎日通っていました。転校生は最初はちやほやされるけど、大人しくてノリが悪いと陰口を言われるようになりました。2年になっていい高校に入ろうと頑張っていたけど、曾祖母を亡くして落ち込んでいる時に、口調の強い担任の先生から「泣くな!」とひどい言い方をされ、その言葉がきっかけでずっと我慢していたものが爆発しました。

これで分かってくれなかったら消えようかなと思って、学校で今まであったことを母に話しました。この時はさすがに母も一緒になって泣いて、話を聴いてくれました。行きたくないことも分かってくれて、それから一年間家にひきこもりました。

 

 小学生の時無理矢理行かせたことは忘れていました。娘が不登校になってかなり経ってから聴かされました。ただ「さぼり」と思って無理矢理行かせたのは、すまなかったと反省しました。不登校になったことも青天の霹靂で不安でした。私の両親は私以上に理解できず、家の空気が暗く、辛く、張り詰めていました。会話がなくとても苦しくて、わらにもすがるつもりで、保護者会で「うちの子が不登校で」と話したら、ある方が「うちの子も」と話しかけてくださって、フレンズの親の会を知って、たくさんの方と繋がることができました。

トンネルの出口があるのだろうかと不安で一杯でしたが、子どもの不登校によって自分自身を省みるきっかけになって、学ばせていただいたことがたくさんあります。今では、子どもが不登校になって良かったと思います。

 

娘 私も親の会に参加するようになって、同じ年の娘さんのいるお母さんと知り合い、その娘さんと文通するようになり、すぐ仲良くなって同じフリースクールへ行くようになりました。

そこへは一日も休まず通いました。同じような悩みを持つ人もいて、先生も優しかったし。高校に行こうと思うようになって、不登校にとても理解のある市外の学校に一時間半かけて通っていたけど、人間関係がうまくいかず、不登校ぎみでした。

  高1の時、「高校生自主活動」に参加した時、愛知まで行き、そこで募金活動を高校生が主体となってやっている姿を見ました。すごく生き生きして輝いているように見えて、私には夢の世界に見え、私もしたいと思いました。それで、引っ込み思案だった私が実行委員長をやるようになり、どんどん元気になっていきました。そして今は大学で心理学を勉強しています。

  不登校の時はとても辛く厳しくて先が見えなかったけど、そのまま何も知らずに生きていたら、深いこと、他の人のことを考えられないような人になっていたと思うので、不登校はプラスになったと思います。

 

母 中3の時、不登校に理解のある二見先生が担任で、学校に親の会を立ち上げて下さって、いろんな情報を交換できたのも心強かったです。

コメント
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