登校拒否・不登校に学ぶ フレンズネットワーク くまもと  【不登校 命を守る 子の反応】  一人で悩まないで!  

不登校から学んで、子どもたちを取り巻く環境を改善しようと1997年に設立した団体です。その活動や想い等をつづります。

気がつけば三年と半年

2023-05-13 21:34:58 | 会報「ふれんず」から

お便りコーナー より

 

気がつけば三年と半年    R.O. 

                   
 長男は高校2年生の10月から不登校になりました。親からしてみると、手のかからなかった子供が突然学校に行かなくなりました。当時、私の中では学校に行かないことは、人生をやめる事に等しかったので、何とか学校に戻るべく説得のようなことをしましたが、手応えは全くありませんでした。

 不登校になる少し前にスマホを持たせていたので、部屋でゲームをしたり、カードを作ったりして時間をつぶしているようでした。親としては当然そのことをとがめました。するとその夜初めて話し合いが出来、「僕は消えたほうがいい、死にたい」と涙ながらに訴え「眠れないんだ」と打ち明けられた時に、子供の辛い状況を知り、一番きついのは本人なのだと初めて気付かされました。

 フレンズネットワークには夫に誘われて11月から2人で親の会に参加しました。私は涙ながらに夢中で息子の現状と自分の苦しい胸の内を話したのを覚えています。でも家に帰りしばらくすると、我が家の事情をさらけ出したようで後悔し、次の親の会は行くのをやめようと言うと、夫に、もう少し参加してみようと言われ、気付くとそれから毎月参加していました。するとだんだん他の参加者の話も耳に入ってくるようになり、自分のふり返りやヒントのようなものが見つかり、息子との関わり方を色々と試すようになりました。ファシリテーターに「時間がかかると思いますよ」と言われたことは今でも心にとどめています。当時は1か月?半年?と思いましたが(笑)

 思い返すと、私は子供にいつも早く早くとせかしていました。親が元気な内に成長して早く一人前になって欲しいという親心からでした。子供からすると、待ったなしの駆け足がずっと続いていたのかも知れません。私がその立場だったらとっくに逃げ出していたでしょう。
学校に行かなくなって8か月間、勉強机に向かうどころか、椅子に座ることもなかった長男でしたが、2年生に留年していた6月、本人の希望で完全リモート授業という形で通信制高校に転校する事が出来ました。当時私たち夫婦はとにかく高校を卒業して欲しいという思いでいっぱいでした。山都町での年2回のスクーリングに参加出来るのかとても心配しましたが、去年、1年遅れで高校を卒業することができ、本当にほっとしました。そんな中、大学受験もしましたが合格は叶いませんでした。  1月の共通テストに始まり3月の後期試験まで頑張っている姿を見ていただけに、私の方が落ち込んでしまい、次男に、お兄ちゃんの事は他の人に話さないようにと口止めすると、「お母さんはお兄ちゃんのことを可哀想だとか恥だと思ってるの?」と言われた事で、更に沈んでしまい、しばらくまた涙、涙の日々でした。

 今年、次男の大学受験と重なり去年とは違う状況でもあったためか、私の中で何か覚悟のようなものが出来ました。長男が、今年は大学に行きたいから、私立大学も受験すると言ったのが大きかったかも知れません。そして合格通知を受け取った長男は、県内の大学ではなく、自分で第一志望にした県外の大学へ進学する事を決めて、4月1日に巣立っていきました。1日遅い合格通知を次男が受け取ったとき、長男が、これで溜飲が下がった気がすると、何か吹っ切れたように言いました。弟に対して本人なりに何か思いがあったようでした。私は子供達のそれぞれの努力に改めてありがとうと言いたいです。

 三年と半年の間、リモート授業以外はほぼ家族とだけ接してきた長男ですが、不安を感じながらも前を向いている姿に、この地から見守ってエールを送りたいと思います。 

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