現代日本語「誤」百科 789 不必要なものを割愛する を、例題にしている。よく出される例に、時間の都合で割愛します というのがあって、これを惜しいけれど時間が来たのでやめますという、ことわり文句だとするが、誰しもがそうは思わないことだろう。時間を守らないで延長して続けるようなことは時間管理からすれば不都合なことである。だから、この文言をもって儀礼的にそこでカットするわけである。きまりきったあいさつ言葉はそんなものだとわたしたちは心得ている。割愛 の意味を調べて本来にあるのは、愛着を断つ、惜しいものを切り捨てるというような解釈は、このコラムの解説にあるように、不必要とは結びつかないとしての意味づけが行われる。国語の世論調査でこの誤った考え方を広めることがあったりで常々あの調査で行われる解釈は困ったことだと思っているが、愛着はとらわれる心であり、切り捨てるのは煩悩であるから、割愛という表現が持つ意味をわたしたちは文に即して言えばよく承知して使うべきだと考えるべきである。 . . . 本文を読む
主語を示す 文法用語に主語を用い、加えて主題、主格という。文に主語があるという説明から文にある主格が主語であると言われ、主格はどうか、日本語ではわかりにくい。主格は語にあるとするのがよいが、日本語の膠着語の現象のため説明が行われなくなったようである。それに話題、題目と言った主題があるということになると、その主題はどうかとなってくる。
主語を文の要素とするとらえ方は語の自立を見る。語の構成とそれに格変化を含める自立性についてみると、日本語の主語の要素に語形変化がないとすることになる。国語の規定では、語形変化をしない、主語になることがある、これが品詞分類でとらえる名詞である。主格が語にあるかどうかは第1の格を名詞の語形変化に求めたとらえ方である。
主語を文に規定する、主格を語に規定する、主題は何に規定するか、それは文章にとなれば日本語文法は考えやすくなる。ただ文法は文の単位を規定するものとしての考え方が長く行われてきたので、文についての文法にさらに文章についての文法論議が必要である。とすると語についての文法があるかとなるとそれは語法というとらえ方もしてきた。 . . . 本文を読む