持つべきものは友である。
以前、友人のMさんに電話をしたら「今ハーバードのいい子が来てるのでオイデ!」と言うのである。
彼女は世界の学生をホームスティさせて、かれこれ20年以上になる。
多い時は1年の8ヶ月くらい受け入れているのだから・・単に外人かぶれなどではないのだ。
本人から「世界平和」だのなんだのとは聞いたことがないけれど、きっとこころの奥底には、そんな強いポリシーがあるのだと思う。
「私が受け入れた学生が、成長してどんな風になっているのか楽しみだから・・・」
と言って、6年前にアメリカ、ヨーロッパへ彼らに会いに行ったのです。
ところで大学生の彼は、日本語はそこそこ堪能、俳句に興味があると言う。
これで、2人目のハーバード大学生との対面でしたが、ワタシはどんな学生でも挨拶をした後は、すぐに心を交わす事にしているので彼に「スティディはいるの?」と聞いた。
彼は、はにかんだ美しいまなざしで「NO・・ガールフレンドならいる」と答えた。
ガールフレンドぐらいはいるのは分かってこちらも聞いている。
「俳句もいいけど川柳もいいよ」と言ったら「川柳は知らない」と彼。
「今度、川柳も調べておいて・・・」と言ったら「オーケー」と彼。
勉強も大変だと思うけれど、「女性の勉強はちゃんとできているの?」とワタシ。
「・・・NNこれからだと思う・・」と恥ずかしそうに答える彼。
「専攻に女性学ってないの?」とワタシ。彼も冗談を察知して「残念だがない」と答えた。
すっかり意気投合して・・と言うか・・彼の中では、ニッポンの変なおっかさん感覚なのでしょう・・・Mさんも笑いこけながら時たま、通訳を助けてくれる。
そして、将来の彼の人生設計やお母さんを尊敬してる話に話がはずむ。
「結婚するならやっぱりブロンドの美しい女性がいいでしょう!」とワタシ。
(ここまで、読んでくださった方々は何てつまらない話をしてると思われていませんか?
もうちょっとお付き合いください!)
「NO・・スタイルは関係ない!結婚は価値観と彼女の性格が大事です」と誠実に答えてくれる・・やはり・・若さだ!
不純なワタシは「年齢は?」と聞いたら「それは関係ない」と彼・・・すかさず「じゃーワタシは?」と聞くと・・・満面に慈愛のまなざしで笑いを抑えて「それも選択肢の一つだ」と答えた。
彼の顔がどんどん柔和になって行く、頭脳だけでなく内面も自分でしっかり磨いて来たのだなーと言語の受け答えに感動する。
俳句に興味があるなんて・・なんて・・嬉しいこと!
「結婚は、母のルーツのウガンダの女性にしようと思っている・・・僕は母の生き方を尊敬しているから・・・」
ともかく・・人間性がにじみ出てくるいい感じ・・・。
変な、エリート感覚が感じられない。
彼の皮膚の色はブラックでも、ワタシの皮膚がイエローでも、国境を越えて心の琴線が通い合う。
Mさんが「もうすっかり、時間だよ!勉強だよ・・」と彼を促した。
彼の目は、まだ話がしたかった。
こんなつまるような、つまらない会話でも、彼の人生にはとっても貴重であったと思う。
どれほどの努力をして、自制をしてハーバードに入学したかである・・・。
彼には、川柳が似合うと思った・・・。また、逢いたい!
さとしの川柳だより・・・5月号より
温かい心をありがとう
五月十日、計画していた「容子さんを偲ぶ会」が、沢山の柳人の温かい心に包まれて無事に、しかも盛会に行うことができました。平日のため、仕事を持っている人、そしていろいろな行事と重なった人などもおりましたが、そんな中でのご参加には本当に頭が下がりました。
遠くは北見の花王子さんはじめ、旭川、江別、札幌、、小樽、登別、追分、室蘭、苫小牧、七飯、北斗、函館から、現在活躍中の素晴らしい顔ぶれが揃いました。
・・・・・・・・・中略・・・・・・・・
川柳は人間詩、この会はまさに人間詩そのものであったと言えそうです。
この日のために、たくさんのエネルギーを注いでくれた青葉テイコさんの懸命さ、そしてテイコさんをサポートしてくれた、M清さんをはじめ苫小牧川柳社の方々にも「有難うございました」と言いたいです。
たった三人の「泥の会」、すでに解散していたとはいえ、何かをしようという二人の気持ちが、こんな容(かたち)になりました。
非常に無謀なこころみだったかも。しかし今は、やって良かったという充実感だけが残っています。
都合がつかず参加出来なかった方、病のために断念した方々からも、非常に丁寧な言葉を寄せていただきました。あたたかい心も届きました。
嬉しかったですね。
この集いで、また新しい出会いもありました。
「たかが川柳されど川柳」そして「たかが川柳人されど川柳人」です。そんな矜持を、再認識しているところです。
句会・大会で作品を競うのもまたよし。そしてそれ以上に、柳情を大切に育んでいきたいものだと、強く思っています。
幸い今年は、札幌での北海道川柳大会・北見での東北大会に選者を仰せつかっていますので、沢山の再会が、そして新しい出会いがあるものと、今から期待に胸がふくらむばかりです。
池 さとし

手垢のつかない、まっすぐでしかも膨らみのある表現には、容子の純粋と言い切ってもいいほどの人間性が、そして川柳と真摯に向き合う姿勢までもが窺えるようで、思わず深読みをしてしまいそうになってしまうから不思議だ。
・・・・北海道の川柳界で、これからがリーダーとしての彼女の資質が発揮されるはずであった。万依さんという川柳人を目標にして・・・・さとし「佐藤容子と川柳」より。
ワタシは「知の人」佐藤容子さんの川柳の軌跡をちょっと追ってみましたが、もし、生意気にも私見は?と聞かれたら・・・率直過ぎるかも知れませんが・・「川柳で勝つ法則を解明するまでに自分のステージの脳を使い切った知者」と答えます。
2002・2003年の五呂八全国誌上大会で2年連続総合一位と言う実力は彼女の最後のステージとなりました。
遠藤泰江選 生に触れ死に触れ十指渇かない 容子
この句をどう解読するか・・・・
は読み手が10人いたのなら十通りの読み方がある。と言う。
川柳と言う大きな懐は日本人が残した、精神性に他なりません。
私なりの解読です。
17文字しか入らない、人生の旅行カバンが川柳としたなら・・・彼女はその旅行カバンに人生の最大のテーマである「生」と「死」を詰めました。
日本一になる為には、他者が追従できない発想と句の重み、句のリズム、普遍性などを計算し尽してカバンに17文字を詰め込んだのです。(普通はこの時点で失敗するのです)
生も死も触れるも十指も渇かないも、言葉としては、川柳ではうんざりするくらい使われ過ぎている語句です。平易・平明の極みです。
選者はおそらく、ああと思いながら見逃しそうになるのですが川柳人の性、解明できない句は後回しにしてその後じっくり、その解明に向き合います。
・・・・渇かないとは?・・普通は下五には・・「渇きだす」「濡れている」「こぼれ出す」とかを、使うのが半ば定説のように氾濫しているのを、彼女は『渇かない』と下五に勝負を賭けたのだと思います。「触れ」を二度繰り返して「生」と「死」を軽いリズムでタッチしました。あくまでも句の主人公は容子さんです。
「私は生きて来たちょっとだけ、私は死にますちょっとだけ、私は生きていても、死んだとしても、いつも輝き潤っていますよ!」と言うメッセージならどうだろう?
このような、メッセージを選者は棄てる事なんかできやしない。
川柳は人情の機微を詠む・・・が哲学です。
どんな選者の心までも読み切ってしまう、人間の感性の極みまで到達した彼女を天は
「もうゆっくりおやすみなさい・・・もう勝たなくていいんだよ」
と優しく手を差し伸べ、安息を与えたのでしょう・・・。
彼女が残した川柳の遺産は、「言葉の種」となって私たちの頭上に蒔かれたのです。
その種を拾い集め、一つずつ水を与えながら、川柳の花を大切に育てて行きます。
ゆっくり、ゆっくり楽しみながら・・・。

フツー川柳をやっていると、本人の句や文筆力から魅せられるものですが、この「泥」の現代川柳誌は、池さとし、青葉テイコ、佐藤容子各氏の句のレベル、文筆力のすごさはワタシごときがとやかく言える次元のものではなかったのです。
彼女の写真から飛び出して来る瞳の輝き、3年間の「泥」に命をかけた充実感と達成感がこちらにもビンビン伝わってくるオーラに満ちた華々しい最高の笑顔なのでした。
終刊号は日本中の「泥」を支援してくれた柳人の句を掲載するので、池さとしさんからワタシに三句投句してよ!と軽く要請されました。・・はあああ・・・マジで・・?それ・・あり?チンプンカンプン状態で、のほほんと句を提出させていただきました。
終刊号を手にしてびっくりしたのは、日本中の著名な川柳家のすごい句が並んでおり・・・その中にワタシの句も並んでいました。
怖いもの知らずのワタシは正直・・・ウレシカッタ!。
今となっては、とっても思い出深い「泥」終刊号でした。
佐藤容子(本名洋子)さんの略歴です。句集「修正液」より
昭和22年7月26日生まれ
昭和44年 より川柳を始める
昭和57年 室蘭文芸奨励賞受賞
昭和58年 ぽぷら賞受賞(札幌川柳社)
昭和63年 あかしや賞受賞(札幌川柳社)
平成9年 北玄賞受賞(かもしか川柳社)
平成10年 北海道川柳連盟賞受賞
札幌川柳社・室蘭川柳社・北見川柳社同人・かもしか川柳社幹事
「泥」に奮闘されていた3年間に彼女は、小樽の「五呂八全国誌上大会に」に2002年2003年と連続、総合第一位の栄誉を手に入れたのです。(全国から特にすごい方々が応募する大会です)
< 知の人 佐藤容子さんの一句です>
遠藤泰江選 生に触れ死に触れ十指渇かない 容子
*ワタシは正直、この句がどんなにすごい句であるのか・・・
しばらくはわかりませんでした。
(川柳はその句の裏に流れている意味を知りなさい・・という容子さんの言葉の助けを借 りてその意味に到達した時・・・彼女の「知」のすごさ「奥義の深さ」・・選者の懐の すごさを思い知らされました。そして、句想がどこから湧いてきたのかを思うと涙が溢 れて来るのです。)

「かもしか川柳文庫」第57集
佐藤容子句集『 修正液 』より 抜粋
<あした>
貝がらを砕くと砂の詩がひとつ
熱帯魚四角い平和しか知らず
愛つめたポストへ雪の降りつづく
追憶の中を走るよ汽車ポッポ
<だから>
正視する子へとまどいの語が並び
四・五人と婚約をして幼稚園
子が待っているのにサンタ寝てしまい
ある日ふと燃えるマニュキュア買って見る
<ひとり>
くるくると昨日が廻る洗濯機
夕やけがとてもきれいで泣いてます
幾千語秘めカーネーションの赤を買う
殻抜ける夢を見ただけかたつむり
ふたありでひとりぽっちの箸を持つ
父老いて母も老いたよ青い月
<やがて>
空の青人の愚かを責めますか
くちびるを通り過ぎてく紙の舟
酢でしめるやがてあなたもこのように
<うしろ>
ぶつ切りの大根 別れは突然に
輪の中でシナリオ通り死者送る
一歩ずつ遅れる靴ならたんとある
<きっと>
日めくりをやさしく剥ぐと 海いちめん
玉葱の一枚ずつの黙秘権
逝くときのルージュはすでに決めてある
曖昧も答えのひとつ冬の雨
神さまのいろに菜を茹で菜を刻む
<あとがき>より
「あした」から「きっと」までの作品の推移は、ひとりの人間のちっぽけな呟きにさえ「想」の流れがあることを物語っていますが、修正液の一滴一滴は生きた雫となって今までの作品を何処までも問いつめ決して妥協をしてくれません。
1998年晩夏 佐 藤 容 子
13年程前に、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある日本の展示室に入った時のことです。
ワタシの記憶では、狭い館内に展示してあったのは、畳のベンチと障子、安藤広重の「東海道五十三次」の版画が数点、その他にも何かあったのですが、この3点が日本美術文化へのアメリカの造詣紹介です。(アメリカの日本を理解する文化的な頭脳と言っていいかな?)
もう一度書きます、日本の畳と障子・版画があの大きく広い世界三大美術館での日本美術文化の象徴です。
ただ、ただ唖然としました・・・こんなものかね?アメリカから見る日本の文化って!!
そのうちに、「日本」と言う国の憐れさが、心の中にひたひたと湧いて来ました。
日本はワタシにとっては、わが祖国です。嫌いなところもいっぱいあるけれど・・歴史観で考えればすばらしい国です。・・経済的には資本主義の通過点ですが・・・でも美術文化はこの三点なの?
考えているうちに・・日本独自の美術文化って少ないことに気づいて来ました。
日本人は戦後、敗戦の苦労を仕事にチャレンジさせ、どれ程の血を流して生きてきたのか!!
人生の先輩たちは、皆戦争で苦労し尽くし、仕事と生活で苦労し尽くして生きて来たんだよ!!そのために星条旗だって潤ってなびいて来ただろうに・・・。
当時も今も、短絡的でシンプルな思考性しかないワタシは、激怒と言うのじゃなく、はらからとした無力感に包まれ展示室を後にした。
この体験から、日本文化にいそしんでおられる人を見るにつけ、人一倍喜んでしまう性になってしまった。
もーもー(牛じゃないよ)単純・単純。
まして、日本の川柳が生まれてからまだ250年。
北海道で、それも親子二代で優秀な女流川柳作家が生まれるのは、今後あり?か?と思うのですよ。
ましてや、十七文字に集約させた・・「世界の歴史の中で一番短い詩」を作るなどと言う行為・表現能力は遺伝子だけでは世襲などできる世界ではないのです。
この思考の鍛錬こそが、近代日本を生み出してきた原動力なのだと思うのです。
単に、趣味の世界じゃない!・・・日本人の遺伝子にある何かを生み出すエネルギーが
具体化される時・・・必ずそこには発想があり、より効果的な、効率的な意図を生み出します。
発想の泉を耕し続けてきた一句です。
平成13年 函館川柳社主管 北海道川柳大会 北海道知事賞受賞作品
昭和史を包む私の再生紙 容子
五七五に昭和の64年間と、自分の人生のリセットを再生紙にくるむようにして、これからまた、あらたな道に進み出す姿勢・・時代の要請でもある資源問題まで内包するなんて・・この句が北海道トップデビューです。これからが彼女の軌跡です。
ちなみに、ワタシの句は見事な全没でした。これもあっぱれ!いさぎよし・・です。
天と地の差とはこの事を言うのですよ。
さあさあ、コーヒーでも飲みますか・・仕事もさぼって、窓際気分ですから。

まだ生きる夢が資本の鏡見る 花王子
川柳人ってどこからを高齢者と呼んでいいのか正直迷います???。
92・3歳から50歳位の年齢構成なので、「私はもう歳ですからあ・・」などとは口が裂けても言えない!
「あなたは若い・・これからの人だから・・」この励ましを何十回嫌、百回くらいは聞いたような気がします。
人間って不思議なものです・・・その気になって完璧、自分の歳を忘れています。
年齢に鈍感になるのが、川柳のすばらしき効能です。
生前の佐藤容子さんはきっと、そんな重石をひとり背負っておられたような気がします。
原子修・・「泥」終刊号に「現代の詩」への肉迫・・・より抜粋。
それにしても、『泥』三人衆に共通の、肉声リズムの響きたかさは、いったいどこからくるのか?
最後です 月をきれいに拭いている 容子
読む者の耳元に唇を寄せてくるような、この肉感的な声調によって、実に巧妙に音数律の枠組みをカモフラージュしてしまう、この、技法を感じさせない技法の冴えは、どこからくるのか。「月をきれいに拭く」という想像力を、想像力と思わせない、この、超イマジネーションの発露は、いかなる試練の果ての仙術なのか?
池さとし・・らんふう「佐藤容子と川柳」・・・より抜粋
終刊号の最初の一句目に持ってきていることを考えても、容子の思い入れのきわめて強い作品であろう・・・読者は百人百様の感じ取りをしながら・・思いっきり翼を広げてすばらしい世界を構築してくれるに違いない。
・・・僕はストレートに「月」は「泥」を支えてくれた人たちだろうと思う。光を当ててくれた人たちへの感謝の気持ちが「きれいに拭いている」の表現になったのではないだろうか。
会食会談も進み、さとしさんテイコサン守さん等が円卓を回り、皆さんとの再会に酔っている。
靖政さんも、ニコニコと楽しそうです。句のイメージと違いすぎる人ばかりです。
(もう慣れっこになってます)
ディフェンスが甘くなってく春時計 靖政
万依さんの閉会の挨拶が始まった、「本日は容子のために・・・ありがとう・・・ご・・ざ・・・い・・ます」
最後の・・ます・・が聞き取れない・・万依さんの仏顔が・・母の顔になった。
(くも膜下で川柳を抱いてあっちへ行った泥の花・・人はその花の名を蓮華・ハスと呼びます。)
きっと・・嬉しかったのでしょう・・・。
もう桃は造花になった宵まつり 万依
桃は・・容子さん

万依さんは容子さんがあっち(天の国)に行ってからも以前にもまして句作、選者にと精力的に活躍しておられるようです。
小樽のI有人さんは、お話の中で「容子さんが「泥」を終えてから・・手紙をいただきまして・・言っていいのかなー?・・もう私、川柳が作れません・・と言う内容のものでした・・」
命ざんばら笑わぬ役を演じ切る 有人
やっぱり・・と私は思いました。
ありがとうさようなら穴は掘り終えた 容子「泥」終刊号
交通事故の後遺症もあったのか、晩年は斜めに歩きがちであったそうです。
「泥」の句集は、2002年発行、三年限定で6冊と初めから規定された中での刊行でした。
私個人にとっては、川柳が何たるかも知らない時期に読ませていただき、自分の句が小学校の一年生だとしたら「泥」の三作家(池さとし・青葉テイコ・佐藤容子三氏)は大学院以上に思えたものでした。
遥か彼方の・・崇高な川柳のエリートと呼んだほうが適切でしょうか・・。
ちちははとルビ打つ巨大なる壁に 容子
この句が理解できる程度であったかも知れません。
池さとしさんは、「理」の人。
青葉テイコさんは「情」の人。
佐藤容子さんは 「知」の人。とは作家の木村政子さんの分析です。
皆さんのお話が終わり、題詠「泥」を提出し吟詠に入りました。
青葉テイコさんの美声が会場に鳴り響きます。
39名の泥の作品です。それぞれの容子さんに捧げる句が一句一句胸打たれます。
天上の華 すっくと佇った泥の耳 テイコ
寂光院 の やがては花となる泥か さとし

行われた。
池さとしさん青葉テイコさんの呼びかけで全道各地から39名の柳人が集まった。
容子さんのお母上の万依さんは・・なんとキュート!!なこと。
まるで、笠地蔵に洋服を着せたような、愛らしい少女のような満面の笑みが絶えない。(82歳)
万依「100歳まではがんばらなくちゃねー!」
テイコ「ナーニおっしゃってるの!!今は、125歳説の時代ですよ!万依さん!」
万依 「あーら・・そうなったの・・それじゃー125さいにしようかしら!!」
今泣けば母を泣かせることになる 容子
池さとしさんのご挨拶、そしてテイコさんの司会で、室蘭文芸を通じての盟友、作家の木村政子さんが「容子さんの人となり」をお話の後、守さんは「室蘭時代の若い頃は、万依さんの家で句会をし、容子さんが妹、万依さんは母です・・」と屈託のない笑顔で「亡くなった者は帰らないから・・靖政さんと車の中で話してたのですが・・僕たちがもっと年老いて亡くなったら追悼会なんて・・・やってもらえないよなー・・よー子は幸せじゃないか?そう思うんですよ!こんなに皆に惜しまれてるって・・しあわせだよなー・・」
真冬日の生命 しばれたクルス 守
万依さんの顔を見たら、ニッコリうなずいている。
容赦せず河は流れてゆくばかり 万依
笑葉さんは「千の風になって」の歌詞を紐どきながら、容子さんを語る。
最後に「僕はまだ彼女の死が信じられないし・・まだ信じたくない・・・」抑えていた思いなのか・・・ふーと目頭を潤ませていた。
泣き終えて 海もわたしも透明に 笑葉
85歳のたかしさんは、「鎮魂」という小冊子を自身でワープロで打ち、容子さんが指導に当たった「句評集」をきちんと装丁され、皆に配われた。
「今日は、全道からすばらしい柳人が集まった・・・僕はもう、いつ死んでもいい!!」笑顔でご挨拶。室蘭文学誌「らんふう」の16号の本も93p中24p「容子さん特集」
今日の日に合わせて印刷を仕上げたそうです。
ヒト科との一戦 月のひとり言 たかし
しばしつづく・・。
「元始紫式部は川柳人だった」という、テーマで綴ったらこのブログも格調高くなるかな??やってみよう!!
滋賀県の瀬田の唐橋抜けて、源氏物語を構想したと言い伝えられる「花の石山寺」に立った、若い時の身の震えはきっと、紫式部への淡いあこがれだったのかも知れません。
一千年もの時を超え、日本の女流文学者の金字塔に立った・与謝野晶子・円地文子・瀬戸内寂聴・俵万智さんなどもあなたのことを書いています。
わたしは、たいしてあなたのことはわかりませんが・・なぜ?あなたがこんなに長い物語を作って40歳(はっきりわからない)そこそこで死んでしまったのか・・そこはかとなく寂しい気がします。
秋冬は十二単衣に身を包み、夏の暑い盛りも5・6枚も着物を重ね(夏の京都だよー)
髪は長々と伸ばし・・お手入れ大変!!コピーもない時代に和紙に草書体で間違わずに一字一字を書き込んで行く、電気もない薄暗い蜀台で・・月の明かり、星の明かりの下で綴ったのでありましょう長編大作。
生みの母に早く死なれ、たった一人の姉も若き頃に失い、学者の血を受け継ぐ才女としての躾を受け、20歳も年上のおじさんからしつこく求愛され、挙句の果て子供をひとり残してすぐ、他界され。たったひとりのこどもさえ置いて、一条天皇の中宮彰子に仕えた。
物書きよりも、先に和歌の歌人であったことが・・ちょっとキーポイント。
源氏物語には800句近い和歌が詠まれているという。登場人物は400名と書いてあった。
光の源氏の君が・・続々差し出す恋歌(贈答歌)に続々不特定多数の女性の返歌。
源氏もいつまでも若くはない・・不特定多数の女性も年老いていく。
そこを、その本人になり切って和歌を作るのだ。(頭いたーい・・五七五の句もろくに作れない・・わが身は、花と散るらん、ひよこが生まれる前からコケコッコーです。)
人物描写も然ることながら、ひとりひとりの年齢体験も重ね合わせて、その人になって句を作る作業の方が、物語の展開よりもはるかに時間がかかることは歌人ならわかるはず。
万葉集も、古今和歌集も、小説も、短歌も、俳句も、元を正せば・・言葉の表現です。
紫式部が本当に伝えたかったのは、男と女の物語だったのでしょうか?
どこまで、自分を表現できるかではなかったのでしょうか?
たくさんの身にかかる死を見つめ、無力な自分を奮い立たせた自分の証の結果が
「源氏物語」だとしたら・・。
男と女のモチーフが後世まで残せることくらいは、万葉集で実証済み。
本人もわかっていたはず。
和歌の勉強の方が略歴長いのですから。
良く、空蝉は式部を投影したと言われますが・・。
これから、まだまだいろんな解釈がなされて行くでしょうね・・抑圧された宮中の中で彼女の女性としての精神解放の書であることだけは、まちがいないでしょうね。
和歌で疑似体験をしまくった・・式部さん。「元始あなたは川柳人であった」
アカデミックな人たちに石投げられそうですが・・それは安心!読まれませんから。
<小倉百人一首>
めぐりあいて見しやそれともわかぬまに 雲かくれにし夜半の月影 紫式部