
作 品 の 風 格 池 さ と し
作品を支えているもの、あるいは作品の基底に息づいているものは、ひとりひとりが微妙に異質である。
例えば、浜本美茶(ミサ)さんの典雅・格調、石井有人さんの直戴・緻密、佐々木久枝さんの天衣無縫・軽快、進藤一車さんの創意・奇趣。青葉テイ子さんの抒情、新井笑葉さんの詩情追求、一戸涼子さんの知巧というように、もう何十年も川柳を創っている人達には、知らず知らずのうちにこのような風格が沁みついている。
更にあげると、堅実・柔軟・純真・穏健・平明・明朗・清楚・快活・・不易・静謐などの特徴を、あたかも動脈血のようにとくとくと体内に宿らせているものである。
「あっ自分はこれだ。」と気付いている川柳人もいる筈だ。
さまざまなファクターによって形成された人間性、これはまさしく精神風土といってもいいだろう。
精神風土についての論は次の機会にゆずる。
はじめに 池 さとし
新しい詩情に深い感銘を受けながらも、一歩踏み出すことに躊躇し、現状に甘んじている作品が有ったとしても、そのことを否定したり批判することは厳に慎まなければならない。
川柳という十七音字の文芸の世界に共存している事実を認めた上で、それぞれがその方向性を模索しているのだと考えるからである。
重要なのは、伝統・革新を問わず文芸としての川柳と真摯に向き合い、批評する力を高めていくことであろう。
批評と批判は自ずと違う。
そんな意味合いも込めて、現代川柳に懸命な作家と作品の趣きなどに触れてみる事にする。
「北の川柳女性開拓史」久保裕美子
『北の女性史』北海道新聞社発行の本が私の書斎に懐かしくうずくまっています。
若い頃、日本の女性が置かれた社会的地位の低さの不平等さを嘆き「まずは自分自身が自立した意識の下、生き方の中で実践せねば!」と、いつも自身を奮い立たせていたような気がします。
「現代川柳の広場」の表現のスペースに自分自身も又、女性開拓者の一員になりたいと何かが疼き出します。
北海道南ルートから一歩ずつ初心に戻り、故五十嵐万依先生の頑張りを想起し、日本川柳史に輝く西村恕葉先生の後姿に憧れ、北の女性を描くことが私の現代川柳。
五十年、百年後には今がどのように映るのだろか?
北の女性は開拓者の遺伝子。そう弱くはない。
イメージの取り合わせ 中村迷々亭
そもそも川柳の本領は伝統川柳にあると思うが、私のように、単なる伝統川柳にあきたらなくなったものがなにかしら新境地を開拓すべく、いわゆる現代川柳の荒野に足を踏み入れて苦闘しているのが現状ではないだろうか。
先日、札幌川柳社の本社句会に出席した折、席題「雑詠」で三才「地」となった自句について、現代川柳の特徴のひとつ、イメージの取り合わせについて語ってみたい。
雑詠 櫛引麻見選
飢餓の街無声映画が生きている 迷々亭
これは、飢餓の街と無声映画という一見なんの関連もなさそうなイメージの取り合わせである。
席題であるから、その場で作るわけであるが、まず私の愛用している辞典は旺文社発行の「標準国語辞典」昭和45重版発行 定価550円958ページの古いものである。
子ども達が二人使い古して、その後私が捨てもせず便利に使用しているわけである。
近頃は、電子辞書が流行ってこのような旧型の辞書を使っている人はめったに見かけないようであるが、私にはこれ無しで川柳をつくることは出来ないほど重宝なものである。
まずパラパラと捲って「無声映画」という文字に出会う。すぐ「無声映画が生きている」と一応中7下5を作って、さて「無声映画が生きている」に響く上5はないか、また辞書をぺらぺら捲る。「飢餓」という文字に目を止める。すぐ「飢餓の街」という言葉になる。
これは大島洋の「枯れた街」から誘発された発想である。これを上5において「飢餓の街無声映画が生きている」という現代川柳が出来上がる。
飢餓の街は私は見たことはない。曽根綾子とか辺見庸のルポタージュからなんとなくイメージしているだけである。
無声映画、これは子どもの頃に何度か見た記憶があるのでこの両方のイメージが私の中で、なんとなく響いているような気がして一句となしたのである。
これが現代川柳の醍醐味でもあろうか。選者が反応してくれなければ「何じゃこれ」、と前抜きにもならないだろうと思う。
川柳を初めて15年経って、やっと、こんな遊びを楽しことができるようになりましたということだろうか。
非日常性と詩性 池 さとし
ここに掲げたタイトル、「非日常性と詩性」は、石井有人氏が重点目標として提言した中の一項目である。
たとえば、印象吟の題として一本のボールペンが置かれてある。問題はここにおかれてある一本のボールペンをどう表現するかではない。このボールペンに誘発された無意識からの意識化、そこからひとつの詩的なしかも華麗でダイナミックな異次元・異空間の世界の構築にある。
構築された作品は、提示された一本のボールペンとはまったくかけ離れていようが、そんなことは何の問題にもならない。
250年以上の歴史を持つ川柳だが、静謐がすべてであってはいけない。
人間誰でもが持っている想像力・創造力を十二分に発光させながら、言霊の持つ魅力を大空いっぱい羽ばたかせてやりたいものである。
むろんその過程においては、当然のように苦悩と挫折がつきまとい、その果ては達成感・充実感の喜びが大手を広げて待っている。
川柳が人間詩と言われる所以がそこにある。
一車さんの提言で印象吟をやります。
おおいに挑戦して欲しい。
『極光』 を立ち上げる 代表 石 井 有 人
(北極 オーロラ)
これまで現代川柳を標榜して柳誌を発行した諸サークルの活動目標と、『極光』も分母はそんなに差はないと思っている。
しかし、新しくスタートするので、独自の重点目標として次の四項目を挙げておきたい。
1、作品的には非日常をメインに据え、詩性を出来るだけ織り込むように心掛ける。
2、柳誌は作品の外に、参加者の主張や要望を含めた意見を随時発表し、個性的な魅力を生み出すように努めると共に、作家相互の作品評も組み入れる。
3、発表内容及び形式も、固定的ワンパターン化はなるべく避ける方針で編んでいく。
4、年に少なくとも一回は、会員の集いを開催し、会員間の交流を深めると共に、集いを通して、参加作品について時間をかけて徹底的に討論を重ね、次のステップに進む意欲を掻き立てるような結果を積み上げていく。
【ワシントン時事】24日付の米紙ワシントン・ポスト(電子版)は日米両政府当局者の話として、岡田克也外相が23日にルース駐日米大使と会談し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設をめぐり、現行計画を一部修正して受け入れる方向で調整中であることを伝えたと報じた。
同紙によると、岡田外相は都内の米大使館で行われた会談で、同県名護市の辺野古沿岸部に代替施設を建設する現行案に、滑走路の位置変更など幾つかの修正点を加えた代替案を検討していると語った。
米当局者は同紙に対し、提案を歓迎しているとしつつ、日本側から来週に詳細の説明を受ける予定になっているとして、「第一歩」にすぎないと強調した。
同紙はまた、12日にワシントンで行われた日米非公式首脳会談で、オバマ大統領が鳩山由紀夫首相に対し、普天間問題解決の「時間が切れつつある」と述べるとともに、首相を信用してもいいのかどうかただしたとの関係筋の話も伝えた。 (2010/04/24-13:08)
辺野古案「大筋受け入れ」 岡田外相が発言と米紙報道
2010年4月24日13時39分
<メモ>
以前、小沢幹事長とルース大使とキャンベル次官補との話し合いがもたれた時に予測していた通りの流れになってきました。
私は良く予知能力があるといわれるのですが・・・邪心なくことの流れを汲みとっていると予測は、メカニズムなのだから…やっぱり・・・と思うのです。
小沢逮捕ならずの・・・バーター取引をどこのマスコミも取り上げなければ・・・この国もアメリカと同じ・・・真のジャーナリズムは…死す!・・・だな。。。
せっかく、オーロラの写真の美しさをファイルしていたのですが・・・。
辺野古でへのこになるって・・・こんな私にも見透かされるような幼稚なことやってんじゃないよ!!! 小沢さん・鳩山さん。