23年 知里幸恵の編になる「アイヌ神謡集」が刊行される。
24年 道庁によるアイヌ給与地の調査。成懇地の半分が和人に賃貸されていた。
26年 旭川で解放運動の影響を受けた「解平社」が結成される。労働運動や農民運動と結びつく。
30年 道庁の肝いりで北海道アイヌ協会が設立される。バチェラー系のキリスト教関係者や十勝の旭明社などが中心となり、旧土人保護法の改正を目指す。近文の解平社は参加せず。
31年 違星北斗遺稿「コタン」、バチェラー八重子「若きウタリに」、貝沢藤蔵「アイヌの叫び」などが相次いで出版される。
32年 「解平社」を中心とするアイヌ運動左派は、「全道アイヌ代表者会議」を開催。「旧土人保護法撤廃同盟」を結成する。
33年 樺太のアイヌに日本国籍があたえられる。
1934 解平社の運動を受け、「旭川市旧土人保護地処分法」が制定される。「貸付したる土地を、特別縁故ある旧土人に無償下付する」ことが認められる。しかし本来無条件に下付されるべき土地を、共有財産として北海道庁長官の管理下におくなど、後に問題を残す。
37年 旧土人保護法の第二回改正。アイヌ人は大日本帝国の国民として位置づけられる。
37年 知里真志保の「アイヌ民譚集」が発表される。
42年 高倉新一郎の「アイヌ政策史」が発表される。
46年 新生「北海道アイヌ協会」が設立される。給与地の農地改革からの除外を目指すが、敗北に終わり、その後長期の休眠状態に陥る。61年にはウタリ協会と改称。
60年4月 道庁の支持を受けて北海道アイヌ協会の再建総会が開かれる。会員は400名ほど。名称をウタリ協会と改める。
64年 行政管理庁、北海道旧土人保護法の廃止を勧告。その後、貧困者の子弟への学資援助や住宅改良資金などが次々に廃止される。
70年全道市長会、旧土人保護法の廃止を目指す決議。ウタリ協会は廃止反対の立場を明らかにする。
74年 政府は、第一次ウタリ対策7カ年計画を決定。その後三次、21年にわたり継続。
76年 十勝旭明社が解散。「アイヌ系住民が一般社会の中において渾然一体となり、一般日本民族として生活を営むにいたったため」とする。
1986 中曽根康弘総理大臣が「日本は単一民族国家」「日本国籍をもつ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言。大きな社会問題となる。
91年 外務省国連局人権難民課、「アイヌの人々は、独自の宗教および言語を有し、また文化の独自性を保持しており、国連の規定による少数民族であるとして差し支えない」と報告。
97年 アイヌ文化振興法が制定される。一般にはアイヌ新法と呼ばれる。国家の政策がアイヌの人たちの民族性を否認し同化と是としてきた従来の姿勢から転換することを促し、アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進することを国及び地方公共団体の責務と位置づける。これにともない「北海道旧土人保護法」並びに「旭川市旧土人保護地処分法」が廃止される。
アイヌ新法: 正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」といわれる。第一条の「目的」は、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与すること」と述べられている。
97年 二風谷ダム訴訟、アイヌ原告側の勝利。アイヌ民族を先住民と認め、土地強制収用を違法と判断。
川柳北海道はアイヌの歴史をウェブから転載させていただきました。