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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

アイヌ文化の見直し

2008年08月24日 | 川柳
アイヌ文化の見直し

23年 知里幸恵の編になる「アイヌ神謡集」が刊行される。

24年 道庁によるアイヌ給与地の調査。成懇地の半分が和人に賃貸されていた。

26年 旭川で解放運動の影響を受けた「解平社」が結成される。労働運動や農民運動と結びつく。

30年 道庁の肝いりで北海道アイヌ協会が設立される。バチェラー系のキリスト教関係者や十勝の旭明社などが中心となり、旧土人保護法の改正を目指す。近文の解平社は参加せず。

31年 違星北斗遺稿「コタン」、バチェラー八重子「若きウタリに」、貝沢藤蔵「アイヌの叫び」などが相次いで出版される。

32年 「解平社」を中心とするアイヌ運動左派は、「全道アイヌ代表者会議」を開催。「旧土人保護法撤廃同盟」を結成する。

33年 樺太のアイヌに日本国籍があたえられる。

1934 解平社の運動を受け、「旭川市旧土人保護地処分法」が制定される。「貸付したる土地を、特別縁故ある旧土人に無償下付する」ことが認められる。しかし本来無条件に下付されるべき土地を、共有財産として北海道庁長官の管理下におくなど、後に問題を残す。

37年 旧土人保護法の第二回改正。アイヌ人は大日本帝国の国民として位置づけられる。

37年 知里真志保の「アイヌ民譚集」が発表される。

42年 高倉新一郎の「アイヌ政策史」が発表される。

46年 新生「北海道アイヌ協会」が設立される。給与地の農地改革からの除外を目指すが、敗北に終わり、その後長期の休眠状態に陥る。61年にはウタリ協会と改称。

60年4月 道庁の支持を受けて北海道アイヌ協会の再建総会が開かれる。会員は400名ほど。名称をウタリ協会と改める。

64年 行政管理庁、北海道旧土人保護法の廃止を勧告。その後、貧困者の子弟への学資援助や住宅改良資金などが次々に廃止される。

70年全道市長会、旧土人保護法の廃止を目指す決議。ウタリ協会は廃止反対の立場を明らかにする。

74年 政府は、第一次ウタリ対策7カ年計画を決定。その後三次、21年にわたり継続。

76年 十勝旭明社が解散。「アイヌ系住民が一般社会の中において渾然一体となり、一般日本民族として生活を営むにいたったため」とする。

1986 中曽根康弘総理大臣が「日本は単一民族国家」「日本国籍をもつ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言。大きな社会問題となる。

91年 外務省国連局人権難民課、「アイヌの人々は、独自の宗教および言語を有し、また文化の独自性を保持しており、国連の規定による少数民族であるとして差し支えない」と報告。

97年 アイヌ文化振興法が制定される。一般にはアイヌ新法と呼ばれる。国家の政策がアイヌの人たちの民族性を否認し同化と是としてきた従来の姿勢から転換することを促し、アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進することを国及び地方公共団体の責務と位置づける。これにともない「北海道旧土人保護法」並びに「旭川市旧土人保護地処分法」が廃止される。

アイヌ新法: 正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」といわれる。第一条の「目的」は、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与すること」と述べられている。


97年 二風谷ダム訴訟、アイヌ原告側の勝利。アイヌ民族を先住民と認め、土地強制収用を違法と判断。



川柳北海道はアイヌの歴史をウェブから転載させていただきました。
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オバマ新アメリカ大統領・・・イマジン

2008年08月24日 | 川柳
 
今世紀最大の重い政治の荷物を背負った横顔 
 
アフリカの200部族の存在をケニアへ父の墓参に行って知ったという
 
あのカリスマの演説は
 
きっとアフリカ人と白人との血肉の深くて遠い魂の響きだったのではないだろうか
 
演説の技術だけでは人々をこれほどに魅了はしないだろう。
 
 
 
先日、テレビで知ったのだけれど 
 
 ビルゲイツが経営者から慈善家へと生き方をチィェンジしたそうです。
 
アフリカとアジアの貧しい人々を救う活動をしているそうです。
 
オバマ氏とアフリカ、アジアへの援助資金は
削減しないと約束をしたそうです。
 
 
アメリカで巨万の富を得た人々は
 
このように慈善家にチィェンジする人が多いとも聞いています。
 
 
それからワシントンDCは黒人も多く住んでいると友人から聞きました。
 
夜は人通りも少なく静かなところだそうです。
 
 
リーダーシップはどん底から這い上がってこそ
 
本物のリーダーです。
 
 
川柳北海道散歩・川柳オバマ氏の父上は相当優秀な人だったんだねアフリカ散歩・
川柳北海道散歩は次のテーマ・川柳北海道はアメリカ政治を散歩しよう!
 
 
 
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明治維新

2008年08月24日 | 川柳

明治維新

1868年

3月25日 新政府、蝦夷地開拓の事宜三条を発表。箱館奉行に代わって箱館府(当初は裁判所と呼ばれる)が設置される。反政府を唱える奥羽の騒乱が発生。東北諸藩の守備隊はすべて引き上げる。

7月28日 藩内の勤王派・正義隊がクーデター。松前勘解由ら藩重役を切腹させ、実権を掌握。箱館府の了解を取り付ける。

8月、職制を改め軍謀・合議・正議の3局を設置し役人を公選とする。

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10月 正義隊政権、農業開発を目指し厚沢部村の館(たて)に新城を築く。

10月 榎本武揚の幕府脱走軍が上陸。

11月 福山城、館城ともに落城。藩主徳広は熊石から小舟で青森に逃れる。

1868 この時点で道内の和人は約12万人とされる。

1869年

4月、新政府軍が攻撃開始。福山城を奪還する。

5月、函館戦争。榎本ら旧幕派が政府軍に最後の戦いを挑むが敗れる。

6月 藩主脩広(ながひろ)は版籍を奉還し、藩知事となり藩名が館藩となる。

7月 明治政府、蝦夷地を北海道と命名。開拓使を設置。

10月 場所請負人制度が廃止される。当面は「漁場持」という名目で漁場経営の継続を認める。

69年 東京で北海道移民を募集。500人が樺太や宗谷、根室などに入る。

69年 第1期上川アイヌ地問題が発生。兵部省は、旭川に近衛師団を配置。師団予定地のアイヌ住民を石狩に強制移住させようとする。首長クーチンコロはこれに抗議し、いったん構想を撤回させる。

69年 大政奉還により、朝廷側だった西本願寺が台頭。徳川側だった東本願寺は、現如上人を投入し北海道「開教」による巻き返しを図る。

70年3月 開拓判官となった松浦武四郎、新政府の無理解に激怒し、職を辞す。

70年 開拓使より樺太開拓使が分離され、黒田清隆が開拓次官となる。黒田は1か月余りかけて樺太を視察した後、帰京して建議書を提出。石狩に領府を置き、大臣を総督にして北海道、樺太を一体として経営するするようもとめる。

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アイヌ人骨盗掘事件

2008年08月24日 | 川柳
アイヌ人骨盗掘事件

1865年

10月21日 箱館駐在の英国領事館員によるアイヌ人骨盗掘事件。英国領事ワイスは、人類学研究のためアイヌ人骨の盗掘を計画。館員3名が森村などでアイヌの墓を発掘し、人骨を英本国に送る。

11.22 アイヌ人骨盗掘事件が発覚。箱館奉行小出大和守秀實は英国領事ワイスと直接交渉を開始。ワイスがあいまいな立場をとるため、小出は仏・蘭・米の三国領事立会の下に領事裁判を要求する。窮地に陥った英国側は13体の盗骨を奉行所に返還。

1866年1月 奉行小出大和守、「アイヌ墳墓の発掘は英国領事館全体の計画」とし、領事ワイスをはじめ館員が処罰されることをもとめる。横浜のパークス公使はワイスらを更迭することで誠意を示す。

4月下句 領事ガワーが落部村に来てアイヌに陳謝。慰霊祭を執行し、一分銀千枚(333ドル33セント)を慰謝料として、また出訴費用として一分銀424枚(142ドル)を支払う。

67年3月 ペテルスブルクで千島・樺太交換条約が締結される。樺太は日露の『雑居地』となる。

67年4月 英国商船エラスムス号が、盗掘された人骨を積んで箱館に入港。奉行所はこれをもって事件の決着を宣言。

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アイヌ政策の抜本転換

2008年08月24日 | 川柳
アイヌ政策の抜本転換

1856年

2月 幕府、松前藩では警備不能との判断から、松前の近隣村々を残し再上地させる。木古内と乙部を結ぶ線から南が松前藩領として残される。松前藩は蝦夷地上知の替地として梁川のほか出羽国村山郡東根をあたえられ、3万石の大名となる。

56年 幕府、アイヌの本格的な和風(同化)政策を開始。交易や保護を通してアイヌを懐柔し、さらに松前藩が禁じていた笠、簑、草履の着用を解禁する。アイヌが日本に帰属すること、そしてその住居地が日本領であることをロシアに主張するためのもの。同時に和人の蝦夷地への入植を奨励。

徳川幕府のアイヌ政策: 幕府はいっぽうで髪形、着衣、名前なども本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れ墨、髭、クマの霊送りなどアイヌの人たちの古来からの風俗、習慣を禁じようとした。役人が各地のアイヌを襲い剃髭を強行、同化・改俗を計る。和風化したアイヌを「帰俗土人」「新シャモ」などと呼び奨励する。


56年 幕府、蝦夷地への出入り禁止令を解除。和人の移民促進と永住者増加対策を施行。水田開発など農業推進を図る。

1857年

5月 白糠のシリエト、釧路市益浦のオソツナイ(獺津内)で石炭の採掘が始まる。流れ者のほかアイヌも使役されたという。

57年 東西蝦夷地で天然痘の予防のための巡回種痘を実施。実態としてはアイヌを利用した人体実験であったとされる。

57年 幕府、樺太を直轄地とし、開発を有力商人にゆだねる。クスリ場所の請負い人米屋孫右衛門は、クシュンコタン・イヌヌシナイに漁場をひらくが失敗。

57年 武四郎、「近世蝦夷人物誌」を著す。箱館奉行に提出されたが、出版のゆるしがでないまま放置される。(発行は明治45年)

おそらく理由はたとえば次のような記述にある。「クスリ場所にては、当時、41人の番人のうち36人まで、土人の女の子を奸奪して妾となしていた。その夫たちは厚岸や仙鳳趾に雇われて出張中だった」


58年 和人人口が増えたことから石狩場所の請負制度が廃止され、箱館奉行所直轄の石狩村となる。以後、長万部や山越内、小樽などで順次請負制度が廃止に向かう。

59年11月 江戸幕府、蝦夷地を東北六藩に分領し、警備を命ずる。永久守備の基礎を固める必要があるとして、守備と開墾の両方が行き届くようにすることとする。

59年 品川で日ロ交渉が始まる。ロシア使節ムラヴィヨフは、カラフト全島領有を主張。

62年 日本側、北緯50度線を樺太国境とする案を提示。ロシア側は宗谷海峡を国境とする案を示す。双方ともに提案を受け入れず。

1864年

4月 松前藩主崇広は幕閣に参加。寺社奉行に抜擢される。大名中では西洋通として高い評価を受けていた崇広は、さらに老中格に進み、海陸軍総奉行となった。

11月20日 大沢村櫃でイギリスの商船エゲリア号が遭難。大沢村名主は村民を総動員して船長モウーラら19名全員を救助した。イギリス国ビクトリア女帝は、 松前崇広に金側懐中時計を贈る。

1864 岩内の茅沼炭鉱で採炭が始まる。函館・江戸の囚人を集めて労働力をまかなう。これに伴い白糠の鉱山は閉鎖。

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開国と箱館開港

2008年08月24日 | 川柳
開国と箱館開港

1853年 プチャーチンがニコライ一世の特使として長崎に来航。日露通好条約の締結をもとめる。日本側代表遠山金四郎は、クリル諸島は「蝦夷詞」の使われてきた地域であり、わが国の諸領であると主張。

1854年

3月 日米和親条約、別名「神奈川条約」が締結される。箱館は下田とともにアメリカ船に対する薪水供給地となる。箱館を選んだのは中国航路を開くためとされる。この後1年以内に英国とも同様の条約。

4月15日 五隻のペリー艦隊が箱館入港。箱館湾や内浦湾 (噴火湾) の測量を行う。箱館住民に触書。もし、 アメリカ船が来航した場合、 浜辺や高い所に立って見物をしてはならない。 小舟を乗り出したり、 みだりに徘徊してはならない。 アメリカ人はよく人家に立入り食物や酒を求め、 「あるいは婦女子に目を掛け小児を愛する」ので、 婦女子は山手方面や遠方に避難させ、 商店は休業せよと指示。

6月  開港場箱館の外交処理機関として箱館奉行所が作られる。外国人遊歩地域として箱館より五里四方が上地される。

6月 江戸幕府、開国政策に転じる。日米和親条約により箱館・下田を開港。松前藩より箱館および周辺5~6里四方を上知し、箱館奉行所を開く。箱館(69年に函館と改称)の人口は急増し、数年のあいだに松前・江差を追い抜く。

9月 ロシア艦二隻が樺太南端近くの九春古丹を占拠する。これに対し松前藩が出兵する。ロシアはクリミア戦争への対処を優先するために樺太から撤兵。

12月 プチャーチンが再度来航。サハリンの国境問題を保留にしたまま日露和親条約を締結。蝦夷地が日本領、得撫島以北の千島列島がロシア領に決まる。樺太の領属は棚上げし、両国民の雑居地となる。

1854年 福山城が日本最後の旧式城郭として竣工。

1855年

2月 箱館開港にともない、幕府は千島・樺太を含む蝦夷地を再び上知し箱館奉行所の直轄とする。仙台・秋田・南部・津軽の奥羽諸藩と松前藩の5藩に命じ、土地を区分して警衛させる。知内ー乙部線の南側は松前藩所領として残される。

厚岸駐在の仙台藩士が書いた玉虫「入北記」では、バラサン岬に300目の砲筒が一挺あるだけで、「何ノ防ギニモナルマジ」と述べられている。


3月 日米・日露和親条約にもとづき箱館の港が正式に開かれる。

6月 日米、 露、 英、 蘭、 仏との五か国間に通商条約が締結。箱館は貿易港として開港。人口は急激に増加し、西洋文化に浸される。アメリカ、イギリス、オランダが箱館で蝦夷地の昆布を買取り、中国にむけて売込んだため、生産量や出荷量が大幅増加。

55年 島小牧から古平にかけての漁場で、乙部から熊石にかけての漁民約500人が、「場所請負人」らの漁業経営に対する不満から、「網切り騒動」を起こす。

55年 この頃、幕府の把握していたアイヌの人口は17810人、石狩・宗谷・積丹3400人、釧路・根室・斜里3609人。

55年 松浦武四郎、蝦夷御用雇となり、これ以後4年間、幕府の蝦夷政策の問題点に関する報告を行った(三航蝦夷日誌・東西蝦夷山川地理取調日誌・近世蝦夷人物誌)。これらの書物は松前藩の妨害にあい、明治45まで刊行されず。

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松前藩の蝦夷地支配の復活

2008年08月24日 | 川柳
松前藩の蝦夷地支配の復活

21年2月 幕府、財政難から蝦夷地直営を断念。ロシアに対する警戒心も薄れたたことから、ふたたび松前氏に管轄をゆだねる。松前藩の賄賂攻勢を受けた老中水野出羽守忠成の独断ともいわれる。この頃、幕府の把握しいたアイヌの人口は23720人、石狩・宗谷・積丹6131人、釧路・根室・斜里5975人。

21年 伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を完成。伊能は実際は東蝦夷地の東海岸を除き測量はしておらず。間宮林蔵の協力を得て測量図を完成させた。

1822年5月 松前章広、松前に戻る。蝦夷地および和人地のすべてを直領と定め、以前に知行地として場所を与えられていた家臣に対しては、米および金をもって支給することとし、蝦夷地の各場所は、幕府の請負人制を踏襲して請負人の統制を強化する。北辺警備にも意を用い、松前に6、箱館に4の台場を設けるなど体制を強化する。

25 異国船打ち払い条例

31年 松前家、万石格に準ずる家格を認められる。

32年 天保の大飢饉。各地で一揆が相次ぐ。

45年 松浦武四郎、この年から6次にわたり蝦夷各地を探検。虐げられたアイヌの生活を記録。松前藩などの妨害に会い、その記録は生前には発表されなかった。

48年3月 ペリイ提督の艦隊が浦賀からの帰途、箱館へ寄港。

49年 幕府、警備強化のため松前藩に福山城の築城を命ずる。

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ゴロウニン艦長拘留事件

2008年08月24日 | 川柳
ゴロウニン艦長拘留事件

1811年

5月 国後島でゴロウニン事件が発生。ロシア軍艦ディアナ号は、 南部千島の海域を測量調査。国後島の泊に入港し水、薪、米等を求める。同所在勤の松前奉行調役と南部藩士は、上陸した艦長ゴロウニン少佐、 ムール少尉ら八名を逮捕。ディアナ号副艦長リコルドは、 南部藩との間で砲撃戦を行った上帰航。

5月 ゴローウニンら八名は松前に連行され、 奉行直々の取調べの上、捕虜として抑留される。フォストフ事件への日本側の報復行動とされる。

11年 この年、蝦夷全道の人口5万4,097人(和人地3万330人、蝦夷地2万3,767人)

1812年

4月 ゴローウニンらが拘留先から脱走。13日間山中や海岸を隠れ歩いたのち、木ノ子村 (上ノ国町) で捕えられる。一行はバッコ沢に建てられた堅牢な牢屋に再収容された。

8月 リコルド少佐が国後島の泊に来訪。中川五郎治および六名の漂民を返還するのと引き換えに、ゴローウニンの釈放について交渉したが不調に終る。帰路、高田屋嘉兵衞の手船観世丸を襲い、嘉兵衞と四名の水主を捕えカムチャッカ半島ペテロパブロフスクに連行。

9月 リコルド少佐、高田屋嘉兵衛をともないクナシリ島を訪れゴロウニン釈放を求める。ロシア側からシベリア総督・オホーツク長官連名の謝罪文が提出される。

9月 ゴローウニンらと高田屋嘉兵衞らの交換で合意に達する。リコルド副艦長の指揮するディアナ号が箱館に入港し、 両者の交換。高田屋嘉兵衛の尽力により両国関係は正常化される。

12年 蝦夷地運営にかかわる経費が高騰。幕府内部で、直接経営より商人にゆだねたほうが効率がよいとの意見が強まる。松前奉行所は、東蝦夷地直捌を断念し、各場所の請負人を入札で決定することを決定。

12年 漁場運営権の入札が行なわれる。競争入札のための高額落札が相次ぎ、どの場所においても経営を圧迫したという。

17年 石狩で天然痘が流行、住民2130名中833名が死亡する。以後数次にわたり天然痘が猛威を振るう

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ロシア

2008年08月24日 | 川柳
ロシアの樺太・千島攻撃

06年 レザノフの指示を受けた部下フォストフ、樺太クシュンコタンの運上屋を攻撃。

1807年3月 松前藩が北辺警備に対する積極的対策をとらなかったため、幕府は西蝦夷地をふくむ蝦夷全島を直轄することを決定。「蝦夷地は外国に接し今や魯国の侵略下にあり、松前一藩では到底治める事はできない」とされる。

07年5月 フォストフ、前年に引き続きエトロフを襲い、ナイボ(内保)、シャナ(紗那)の番屋・会所から番人を連行する。遮那では小規模な交戦事態も発生。これはロシア政府の意向と反していたため、フォストフはカムチャッカでロシア官憲に処罰されたという。

07年5月 箱館奉行はロシア来襲に対応するため南部・津軽・秋田・庄内・仙台・会津など奥羽諸藩に4000名の出兵を命じる。

各藩の割り当て: 松前:会津藩200人、箱館:仙台藩800人、江差:津軽藩100人、クナシリ・エトロフ:仙台藩1200人、根室~砂原:南部藩250人、樺太:会津藩1300人、宗谷~シャリおよび天塩~マシケ:津軽藩50人、石狩~利尻:幕府直轄、高島~熊石:津軽藩100人、


07年9月 幕府、松前藩を福島の梁川領9000石に移封する。松前藩に代わり松前奉行が設置され、これにともない、蝦夷奉行改め箱館奉行所は廃止される。この時点で幕府の把握したアイヌ人人口は26800人。

07年 近藤重藏、箱館から西蝦夷地の海岸を北上し宗谷に達する。樺太のアイヌを召集して事情を聴取。帰路は天塩川-石狩川-中山峠と陸路をとる。視察後、「総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」を提出。総蝦夷地の中央に要害を立て四方へ道路を開くよう提案。候補地として①石狩川筋カバト山、②浜通りタカシマ・ヲタルナイ、③イシカリサツホロの西テンゴ山があげられる。

1807年 蝦夷出兵した各藩藩士に病死が相次ぐ。斜里に出陣した津軽藩士100人は最初の冬に85人が病死。翌年の樺太への出陣では708人の内の119人が病死した。

08年 松田伝十郎、間宮林蔵両人が樺太のラッカに達する。

10年 間宮林蔵、二回目の樺太探検。ナニオーから間宮海峡を渡りアムール川を遡上。満州のデレンに達する。帰国後『東韃地方紀行』を著す。

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幕府による東蝦夷地の直轄

2008年08月24日 | 川柳
幕府による東蝦夷地の直轄

1799年

1月 江戸幕府は松前藩のアイヌに対する苛斂誅求ぶりが、ロシアを利するとの疑念を持ち介入。「辺海警備の為暫く東蝦夷地官の直轄となす」とし、向こう7年間、幕府が仮に上地する決定。

2月 東蝦夷地のうち、「浦川より東北の知床半島及び国後、択捉」までが、松前藩から召し上げられる。松前藩には東蝦夷地に替えて新たに武蔵の国の久喜五千石を采地とする告示。

8月 松前藩、「知内川以東浦河までの地」も返上したい旨を願い出る。幕府はこれも上地する。これにより幕府直轄地の範囲が箱館もふくめて拡大。

11月 幕府は、南部・津軽の両藩に対し、1か年それぞれ重役3名、足軽500名をもって、津軽藩は砂原以東、南部藩は浦河以東の地を警衛するよう命じる。箱館を本陣とし、南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフ、津軽藩はサハラ・エトロフに勤番所を設ける。

1799年 幕府、「三章の法」を発布。アイヌ同志の窃盗や殺人を幕府が裁定することとする。松前藩による場所請負制度を廃止し、運上屋に代え「会所」を設け、幕府の直捌制度にする。実態は変わらなかったとされる。蝦夷地の産物は江戸伊勢崎町の会所を通じて販売された。またまた禁止していた和語の修得を指示し、同化・改俗を計る。

99年 近藤重藏、高田屋嘉兵衛にエトロフ開発を命じる。場17か所を開かせ、択捉島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜那など7郷と25村の名称を定める。

1800年

2月 両藩は箱館に本陣屋を置き、南部藩は根室・国後・択捉に、津軽藩は砂原と択捉に勤番所を設け、藩士を駐屯させる。これに伴い和人居住区が噴火湾の野田追まで拡大される。

4月 八王子千人同心の原半左衛門、農業をしつつ、南部藩の警備をおぎなうこととなる。天明の飢饉の救済策と考えられる。130人がユウフツ、シラヌカに入る。このうち33人が現地で死亡。3年後に残ったのは85人であった。

1800年 高田屋嘉兵衛、手船辰悦丸(1500石積)と図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草その他雑貨日用品等を満載して択捉に向かう。

1800年 伊能忠敬が蝦夷地を測量。翌年には蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を完成。

01年 最上得内、富山元十郎などがウルップ島を探検。「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる。

1802年2月 幕府は、東蝦夷地一帯の直轄地を永久上地することに決定。箱館に蝦夷奉行をおく。アイヌに対する和人風俗化、農耕の指導を禁止。(99年政策と矛盾しているようだが?)

02年 近藤重蔵、「蝦夷地図式二」を作成。過去10年ほどのあいだに作成された各種の蝦夷地図を総合したもの。

1804年 長崎でのロシア通商使節ザレノフとの交渉は決裂に終わる。レザノフは帰路、宗谷地方や樺太を探検。蝦夷地の防備の手薄を知る。

04年 ユウフツ、シラヌカの八王子千人同心、入植を断念。箱館地役雇というかたちで幕府雇となる。

04年 江戸幕府、土人教化のため有珠に善光寺(浄土宗)、様似に等樹院(天台宗)、厚岸に国秦寺(臨済宗)を設立。蝦夷三官寺と呼ばれる。これらの寺は檀家を持たず、全て財政は幕府持ちの出先機関であり、アイヌ教化と和人の橋頭堡確保を目的とする拠点と位置づけられる。

1805 海岸部で鮭捕獲のため定置網がもちいられるようになる。さらに1864年になると大謀網(たいぼうあみ)の使用も開始される。網をおこすのに船3隻、漁夫25人を要したという。鮭を主要な生活資源とする内陸部のアイヌは、生活に困窮する。また漁業労働者としてアイヌを大量に使用したことから、内陸部の過疎化が進む。

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