川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

『柳多留』(やなぎだる)と一句独立

2008年01月31日 | 川柳
               尾 藤 三 柳

 この前句附がのちに「川柳」の名で呼ばれたのには、何より点者(選者)自身の並々ならぬ実力と名望、加えるに選集『俳風柳多留』(はいふうやなぎだる)(以下柳多留)の刊行がありました。

 昭和2年(1765)夏、呉陵軒可有の編になる初編が、下谷山下の書肆花屋久治朗方から公刊されるや、たちまちベストセラーになった本書は、川柳点のエキスとも名句の宝庫ともいうべく、これによって点者(選者)川柳の名が一気に高まり、同時期の黄表紙や洒落本(しゃれ)とともに江戸文学の一角にたしかな地歩を固めました。

       本降りになっても出て行く雨宿り   タル1
       かんざしも逆手にもてばおそろしい  タル2
       柄杓売り何にもないを汲んでみせ   タル4
       朝帰りだんだん内へ近くなり     タル11
       孝行のしたい時分に親はなし     タル22

 穿ち(うがち)の眼に、口調の「軽味」を加えて「おかしみ」(これを、<三要素>といいます)に彩どられた世態人情の機微が、読むものを唸らせ、聞くものの膝を打たせる、そんな句がひしめいているばかりか、前句附の前句を省いて一句立ての句を選んだ『柳多留』は、現在のような575を形式とする独立句に発展する契機となった点でも、画期的な意味を持ちます。

 それまで、前句⇒附付という定まった文芸形態を介してしか生まれなかった附句から前句のくびきを切り放して、「一句にて句意お分かり易きを挙げて」収録された柳多留の句は、短詩型文学としての川柳の基本形になりました。

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前句附(まえくづけ)とは?

2008年01月30日 | 川柳
             尾 藤 三 柳

 前句附けとは、「前句」に「附句」を継ぐという意味で、連歌や俳諧の一部、短句と長句のワンセットだけを取り出したからです。

 すなわち、短歌の下の句に当たる77の短句(前句)を題として、上の句に当たる575の長句(附付)を案出、ウィットを競い合う文芸で、もともとは連歌の修練、俳諧の階梯としておこなわれていた形式が、独立したものです。たとえば、

『前句』  切りたくもあり 切りたくもなし

『附付』  盗人を捕らえてみれば我が子なり    「大筑波集」

      などは、古くから人口に膾炙しています。

      なお、冒頭に掲げた「日本橋」ももちろん前句附で、

『前句』  にぎやかなこと にぎやかなこと

『附付』  降る雪の白きを見せぬ日本橋

                       として成立した勝句です。
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「川柳」は点者(選者)の俳名(名前)

2008年01月29日 | 川柳
                尾藤三柳

 当時、江戸時代には前句附という庶民的な文芸が流行していました。

 これが万句合という一種の懸賞募集形式で、まず点者(選者)から出題して応募句を集め、定まった日に勝句あるいは番勝と呼ばれる入選句を発表、高点順に褒賞が与えられるというシステムになっており、三都(大阪、京都、江戸)には、数多くの点者がいましたが、その江戸点者の一人が無名庵川柳こと柄井八右衛門(1718~1790)でした。

 江戸は浅草新堀端、天台宗龍宝寺前(現・台東区浅草蔵前4丁目)の名主を勤めるかたわら、この日、宗主として初めて開キ(開巻とも。入選句発表)を行ったのです。この点者の俳号「川柳」が、やがて文芸の名として呼ばれるようになります。江戸時代の音曲などは別として、これは他の文芸と比較してもきわめて異例のことですが、この理由につい
ては後で考えます。

 いずれにせよ、この第一回の開キが、以来250年を経て現代にいたる新たな短詩文芸の扉を、初めて押し開いたのです。
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江戸生まれの文芸・・・川柳(歴史)

2008年01月28日 | 川柳
   川柳250年・・その生い立ちと今後 より      尾藤三柳

 短歌、俳句とともに短詩文芸として親しまれている川柳は、和歌の1000年、俳諧の500年に比べたら、まだまだ若い文芸です。その川柳が、江戸時代の中後期、新興都市江戸の真ん中に産声を上げてから、今年は250年の節目の年にあたります。

         降る雪の白きを見せぬ日本橋    宝暦 7

 五海道の発着点、日本のカナメとして終日人馬が行き交う日本橋。

 大名行列から野良犬まで、絶えることない往来に踏み荒らされて、雪が降っている暇がないから、風景にならないという殷賑ぶりは、そのまま江戸の繁盛を物語っています。
 この句が生まれたのは、いまから250年前の宝暦7年(1757)8月25日で、川柳が初めて川柳と認められた発表句のひとつです。

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海ゆかば散った桜に手を振ろう! E

2008年01月27日 | 川柳
 戦後63年の今、世界の経済活動はスタグフレーション(経済活動が停滞しているにも関わらず、インフレが進む現象)に突入しているという。

 以前の、オイルショックのような現象だという。それが、もっと深刻になると恐慌・大恐慌という順番なのだそうです。

   最悪のことも想定しておかなければいけないな、と思う今日この頃。

 それにしても、戦争という「人間の超最悪で悲惨な状況を体験しないだけいいじゃない。」と、心底思う。

 63年間も戦争を経験しない国は、世界でNIPPONだけなのだから、喜ばしいことです。

 それでも、アメリカと裏で手を組んで「戦争特需」で成長してきたこの日本。

 でも、これからの政治の舵取りは、信じられないくらい難しいだろうと思います。ロシア・中国・韓国・北朝鮮・アメリカ・ヨーロッパ・に八方美人的な関わりしか出来ない政治・経済の流れになるのでしょうと感じます。(日本に資金の求心力と、魅力がなくなっているからです)

 こんなときは、故元大平首相のように「ああああ・・・うううう・・・んんん。」とやっていれば、各国が「????????」となって、手も足も出しようがなく、ただ世界の非難・批判の矢面になるだけです。これは、自国防衛の戦略になりますね!(笑えないなー)

 京都がなぜはっきり自己主張できない「物言い」をするのかを以前、聞いたことがあります。それは、近江(滋賀県)から、水を供給してもらうのに、ライフラインを止められると大変なので・・「そうどすなーあ・・」。堺(大阪)から、物資が供給されなくなると困るので「いいおすなーあ・・」のどっちつかずで、わが身を守る「言語」になったというのです。

 京都には、民衆が酒盛りをして、手拍子で唄う唄がないという。それは、いつも「戦」があって、民衆はその動向に固唾を飲んで生活していたからだというのです。

 「あいまいな国で、自国を守ってきた手腕に又、逆戻りするのですかねー」

 故元橋本総理のように、ブラックマンデー後、アメリカへ行って世界に向けて「日本の国債も引き下げることも考えたけれど・・」とスピーチした時はすっきりしましたね。
 アメリカに対して、言うべきは言わないとだーめよ!議論しなくては。

「日本はアジアの田舎になる」という本を昔読みましたが、その通りになって来ました。

 今一度、次世代に63年前の敗戦の事実を伝え,戦争で戦って死んだ数より、「餓死」した兵隊さんの数が三倍多かったなどということも、伝えることは大切なことなのだと思います。(生きることと、死ぬことは表裏一体で、餓死するとは、自分の人生の経済活動の最悪のシナリオであること。そのためには、転ばぬ先の杖を内観できる思考の意識づけをしなければ、暖簾に腕押し、糠に杭です。)

 今、日本は戦争が無くても「いつも経済戦争の渦中にいます。」そんなことも、伝えなければいけないなーと、思うことしきり。

 そして、今の若者が、[戦争で犠牲になった方々に手を振って報いる生き方]が出来たなら、彼らは自らの意思で「しっかり者」に育つのでしょう。

(私たちは時代という荷物を背負う責任者です。次世代に贈る魂のエールが大切なのだと 感じています。)

 課題 仲間 一本杉選  海ゆかば散った桜に手を振ろう (久々に特選でした。)


   「五感」と「意識」を、どう鍛えるかが、人間の「課題」だそうです。

     「シンプル イズ ベスト」また流行りそうな気がします。

 



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現代川柳『泥』にまみれて、いー感じ ! E

2008年01月25日 | 川柳
  2002年の本社句会で初めて「泥」誌を手にしたときの衝撃は忘れられない。

 全国各地から送られてくる柳誌を毎月4・5冊頂き、目を通したり通さなかったりのグータラ川柳人の端くれであったのは私。

 そこに、川柳に対してこれほど真剣に取り組む川柳家の御三人(テイ子・容子・さとし各氏)の崇高な姿勢を活字に見たとき、それ以後「泥」誌は私にとって川柳のバイブルのような存在となりました。

 それまでは、川柳歴の浅さと浅はかさが重なり、五七五・五七五とどうにか辻褄合わせで句を創っていたに違いないと自分を振り返りそう思う。

 いつからか、池さとし氏が句会に出席されるようになってから、月日を重ねるごとにさとし氏の「句の世界」が今まで、見聞きした事の無い、着想・深淵さの別世界に吟社の柳人たちも一呼吸おいて、その実力に唸るばかりでありました。

 今までの川柳といえば、伝統という箍のようなものが静かに流れる歴史の川の中で「川柳の普遍性」を重視して創らなければいけないと、自分ながらに理解するしかすべがなかった。

 けれど、私たちは現代に生きている。人間の喜怒哀楽を悟ったように創ることは出来ても、いつもどこかで消化不良の何かを抱えていたのも、いつわりのない私の中のもうひとりの私であったのです。

<池 さとし氏>

「現代川柳」の異才「さとし氏の言語の宇宙」は北海道で独自の世界を切り開いて進む川柳のパイオニアのおひとりでもあります。

<佐藤 容子氏>

 そして、生まれながらに川柳の洗礼を受けて育った佐藤容子氏亡き後は、道内各川柳誌に「追悼文」が次々と載せられ、容子さんを悼む言葉を見るにつけ、聞くにつけ、まるで彼女が「冬に咲く真っ赤な椿の花のような川柳人生」と詠んだ柳人の意味がよく理解できました。この半年、彼女の筆跡を追いながらその聡明さ、賢明さ,そしてそのひたむきさに魅了され、いつも心の底から彼女に癒され励まされ、私自身も支えられていたような気がします。

北海道川柳界の大きな期待の水を注がれ咲かせた一輪の真っ赤な美しい「つばきの花」。

   それが、ある日突然満開に咲いたとたんに、音もなくポトリと散ったのです。

今でも、北海道の各柳誌に容子氏の話題が載るのですから・・すごい華のある川柳家です。

     2006年旭川「原流」誌に記載された容子氏の絶句です。

          雪を吸い尽くして林檎の樹にりんご

    まるで、ご自分の人生そのものを集約させたような句姿です。

  容子さんの軌跡は、これからも北海道川柳界の伝説のおひとりになって行くのだと信じて疑いません。

<青葉テイ子氏>

 それから、忘れてならないのは、この函館が生んだ青葉テイ子氏の文筆力の高度さです。

 ひと言・ひと言が織り成すテイ子流儀の訴求力のすごさは「一体ナニモノゾ!」。
彼女の文章を記載するごとに、「はっしと言霊がうねる!跳ねる!踊る!」あー!それをなんと言おう・・この抑揚・リズム・ことばのコンビネーション。ともかく凄い・すごい・スゴイ。何がすごいって・・テイ子さんの作家魂が凄い!!。

  これほどの筆跡を残せるようになるまでの道程に、思わず合掌したくなります。

 彼女の優秀な「遺伝子脳」プラス・信じられないほどの鍛錬の賜物の結晶であるその時間の重さ・良い意味での過酷さを感じずにはいられません。・・それを賞賛する的確な言葉が出てきません。

 テイ子さんの「いつも涙を流しながら書いているの・・」の声がふと聞こえてきます。

   「原流」誌近詠です。
             朱い実が熟れた喪の家ふんわりと
             ルビを振る少し外れた脳抱いて    テイ子

 川柳の学習は今、始まったばかりの自分です。体得という今回の学習方法は、今まで、本を読んでいたのとはまったく次元が異なる、視覚に触覚が重なり、何度も同じページに目を通す度に、不思議と「泥」誌が自分の中でスムースに消化されていくのが大きな喜びでありました。

  御三人の川柳に対する真摯で、実直で芳醇なことばのまなざしを浴びた日々。

 北海道川柳史に燦然と煌くみっつの星を、これからも眩しく仰ぎ見るつもりです。

          ありがとうございました。×100回です。

           








    
                    




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現代川柳『泥』終刊号によせて

2008年01月24日 | 川柳
◎現代詩への肉迫より・・・原子 修

 ポエジーは不滅であり、万能であり、時空の制約をはねのけ、ジャンルの壁を突き破り、形態のちがいを超越する。

 たった今この世に誕生したばかりの初発の言葉あれば、自由詩と川柳の表現あれば、定型詩と非定型詩の区別は霧散する。

 言葉であって、言葉ではなく、音数律であって音数律ではなく、生であって生ではなく、死であって死ではないものへの、烈しい渇きと到達と離反こそが、詩というものなのか。

◎狼煙はどこまで届くか・・・かなまる よしあき

 川柳界一般の、月並み亜流がまたしてもはびこっているというのが、常々私の印象でこれを容易に拭いとれない。

 表現者が全能でない以上、常時切っ先にかぶさっているのだから、うかうか耳障りの良い俗性世論にひっかっかると、なし崩しの情緒に解消してしまう例に事欠かないだろう。

◎花は咲いたか・・・青葉テイ子

 川柳人よ
  企業川柳を軽んじてはならぬ
  平明な川柳に甘んじてはならぬ
  そして、現代川柳を揶揄してはならぬ

全宇宙の中での川柳、残り得る川柳は、総ての拘りを捨て共存しか外にない。

◎私泥摸泥(しどろもどろ)佐藤容子

 北海道のゴツゴツとした硬さを誇りたい。北海道という土地が、日本の歴史の中では例を見ないかたちで、作り拓かれたものだから。そして無限の怖ろしい力が、自然の美しさを極めていることを知っているから。

◎翔ぶ勇気・・・池さとし

 ・文学は溌剌とした精神の若さにこそ存在するということを、明確に意識するべきであ る。常に前へ前へと進む気概・姿勢なくして今日の川柳を語ることはできない。
  枠の外へ飛び出してみる勇気も、これからの川柳界には、一層必要となってくるような気がしてならない。

 ・川柳としての「かたち」「味わい」「リズム」「バランス」「風刺」「韻」などが、ひとつの概念として川柳に携る人たちにインプットされている。
  「現在を生き抜く川柳」が大切。
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現代川柳『泥』終刊号によせて

2008年01月23日 | 川柳
 
◎良質な川柳・・・池さとし

 ひとりの川柳人が精神や魂にかかわるようなことを表現しようとするとき、その川柳人のパーソナリティーが、作品をつらぬいている筈である。
 (個性のある作品とはこのことを言い表している。)

ひとりひとりが違う素質を持っていることを念頭において、適格に掘りおこして育て上げる努力を積み重ねることで、良質の作品が誕生することだろう。

◎優しいユダ・遠方探美・ゆたかな闇 川柳句(イリュージョン)

     一句目  日和見のユダと虚実語り合う   テイ子

 いつもどっちを向いているの!まるであなたは聖人のような、悪魔のようなつかみ所の無い男。
でもキリストにそむいたユダだって、キリストにとってまずい恥部を知られたから世記を超えて悪者になってるだけ・・あちらこちらの社会の体制にどこでもあることじゃない。だからあなたと語れる。毅然としているときは聖人。自己保身の虚はユダ。
虚も実も分かって語る。さしずめあなたって優しいユダってとこね。

     最終句  おやゆび姫サンバのリズムに酔い痴れる  テイ子

 終わった!終わった!『泥』。今までの三年間は、好きなダンスも「泥」のことが脳裏から離れることがなかった。やっと川柳の難産から開放されて、私はおやゆび姫・・皆のものおおお・・・踊るわよー!!飲むわよー!白痴と呼ばれても・・。

          ポケットをまさぐる僕だけの楽園     さとし

 仕事・仕事・男は仕事第一が原則通念。外は7人の敵どころか足を引っ張るものばかり。家に帰れば男の休まる居場所は無い。女房は雲龍型の相撲取りのようにでーんとしている。こども達は物質文明の落とし児。やれやれ・・僕の穴のあきそうな小さなポケットをまさぐる。ここが僕の小宇宙なのか。のぞいてみよう僕だけの森羅万象パラダイス。

    最終句   きらめく夜景夢追い人の滑走路      さとし

 故郷は遠い北見に近い生田原。終の棲家はここ函館。夜景を見ながら自分もこの一灯の下で生きる覚悟。現実主義者だから夢を・追える。理想主義者には・・夢は・・遠い・・。
 僕の羽根はここから又、夢を携えて飛び立とう!

           散乱の机上助走はもうしない      容 子

本・本・本・柳誌・柳誌・柳誌・国語辞典・漢和辞典・広辞苑・和英辞典・英和辞典・小説の積読。料理本・読みかけの柳論。柳友の作品集。書きかけのエッセイ。締め切りが迫った投句の宿題・課題。鑑賞句のコメント・各大会の出場・全国誌上大会。柳人へ手紙の返事の数々。こども達の晩ご飯。そして生活の糧の仕事。
終刊号「泥」への構想。あーあー完璧主義のわたし。しばらくは・・走りたくない!

     最終句   はればれと秋雨に打たれ泥の魚     容 子

二の腕をぷるんぷるんと春爛漫・・あれから三年。もう三年目の秋。はやいなー月日の流れは・・。それなりに頑張った「泥」。でもそれは、私のほんのひとこま。いろいろな川柳の賞を頂いたのだけれど・・満足なんてしていない。まるでスタートラインに戻されたようなゼロ地点。でも書こう・・はればれだって!泥の中で泳ぐ川柳の魚は容子です。


                                 続く・・・。
   

 

       
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現代川柳『泥』終刊号によせて

2008年01月22日 | 川柳
続き・・・。

◎全道・全国「泥」誌の支持者から、270句が記載された、「葦のささやき」のページ  は、個性豊かな、人間賛歌の句が並んでおります。

              抜粋させていただきます

         泥にまみれて 光るもの 三つ  靖 政
 
        ・テイ子・容子・さとし各氏をたたえる句です。

         天使じゃない煩悩の固形です   花王子

        ・人間は、天使じゃない煩悩の固まりですよ。

         笑うこと泣くこと人間で良かったな  百合子

        ・そのままです。

        こどもらに地球ひとつ残さねば    忠兵衛

        ・大御所の残したい遺産です。

     おーいお茶 いやばあさんは死んだのだ   素 床

        ・この句の余韻がなんともリアルです。

        しあわせが崩れた夜も葱きざむ    一 車

   ・札幌「どん底」主宰 2007年五呂八大会(詩性川柳のルーツ)
               総合一位。

        あおい月またひとつ吐き獣たり    美 茶

      ・旭川原流社の「宿題」「課題」席題」の王者。

        地下街を抜け出ていこう天の川    羊 孤
   
      ・全国川柳誌「川柳マガジン」北海道の女王です。

        炎天に自爆したかな花いろいろ    森中恵美子

      ・日本女流作家の代表(故時実新子と袂をわけあっておりました)

        舐めてみる出雲大社の塩加減     石部 明

      ・マーノ主宰。現代川柳の提言者のおひとりです。

        生き抜けと仏の掌からまたこぼれ   大 雄

      ・北海道・日本を代表する「川柳論者」著書多数あり。

        死ぬときは石のオブジェを抱くだろう 森田栄一

      ・今は天上人になられました。(道内ファンは多い)
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北海道現代川柳『泥』終刊号によせて E

2008年01月21日 | 川柳
 青葉テイ子・佐藤容子・池さとし各氏が三年間という時間設定をして、発刊された川柳誌『泥』が第六号をもって終刊の運びとなりました。

 2002年4月から2004年10月まで、御三人が自分達のキャラクターを失わず、三角形の原型を留めたまま、渾身の筆で綴られた「泥」。「泥」。「泥」。

「泥」という「誌名」であっても、御三人の川柳に対する深淵な思いは「真清水のごとく」真摯で実直なこころざしに溢れておりました。その気概を載せた三人の舟は、とうとうと流れみなぎる言語の河を旅して今、私もブログの記載を終えることが出来ました。

 お三人の心の底から湧きあがる美しいまでに昇華された「たましい」に触れることも出来ました。
じんわりと五臓六腑のすみずみまで、ひたひたと感じずにはいられない、幸福感。そして充実感をたっぷり・たっぷり噛みしめられたことは、私にとって、この上ない人生の喜びであります。

 あっ!という間の「人生の息継ぎ」であったやも知れません。

 それでは、終刊号のまとめに入ります。(これが、転載するわたしの課題であります。)

◎「緞帳はゆっくり」テイ子さんの「ご挨拶」からページは始まります。
・・日本人の心を捉えて咲く、さくら ぱっと咲いて散る花の美学にも似ての「泥」と言ったら、少し格好よすぎるかな・・・

 「泥」に明け暮れ、産まねばならなかった三年の歳月はたまらなく愛おしい。
星になれたか・・ありがとうの・・の言葉を残して舞台を去る、深々と頭を垂れて・・・

◎一種の、狂気に近い状態に精神を放出したとき、剥き出しになった思考や感情が、抽象と具象を行きつ戻りつ自然体になって行くのである。

        書くことで自分を開き、書くことで自分を閉じる。
        創ることで想を結び、解くことで想をひろげる。
        「泥」の誕生と解散、これも呼吸のひとつである。(容子)

◎全国から投句された90名の川柳が並ぶ。
             トップバッターは、函館川柳社主幹の句。

        正論の槍はいつでも研いでおく   苦郎

   一般社会ではなかなか「正論」が受け入れられないことが多い・・が。

 川柳界では、正論を磨くことが「川柳人として生きる」大事な心構えの一つであります。

        泣くもんか雨の日に咲く青いバラ   万依(容子さんのお母様)

 親子二代の北海道を代表する女流川柳家でありますが、容子さん亡き後に、この一句を鑑賞するのはちょっと辛いものがあります。

                                  続く・・・。





 
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