
現代川柳『泥』二号 池 さとし
詩的な感興を、人々に感じさせる、魂の世界とでも表現できるような素晴らしい川柳に出会うことがある。
そんな時、どこからこのような瑞々しい発想が生まれるのだろうなどと考えこんでしまう。読む人の魂をゆさぶるような作品、そんなことを胸に川柳人は、日々戦い続けているのであろうか。
表面的には、言葉の順序組合せ的な要素を、多分に含んではいる短詩の世界だが、やはり川柳にはそれだけではない何かがある。
言葉の奥に付着している、人間の体臭とでもいうのだろうか、人間の心の響きのようなものを感知できる愉しさがある。
感じあえるもの、繋がりあえるものの内在する川柳。
ここに少しでも接近したいものである。
いうまでもなく川柳は言語表現のエリアに位置しているのだが、ともすると、ことばの持つ観念とか、概念のようなものに膠着してしまうことが、ままある。この線上に安住を決め込んでしまうと、この位置からの脱却が非常に難しい。
とはいえ、この位置からの脱却をなおざりにしていたのでは、いつも同じ枠の中での表現を繰り返すことになり、新しい光は見えてこない。
観念との膠着から抜け出す世界に、創造とか再生がある。創造や再生は、何も川柳のみに限らず、文化と名のつくもの全ての分野にわたって存在する。
創造などというと、何か大げさに聞こえるが、そんなに仰仰しいものではない。
なぜなら、新しいことを発見することとは、いささか意味が違うというように考えるからである。新しいことの発見ともなると、これはもう、はるかに日常性を越えた遠い所に存在することになり、日々の実存する現実からは見えてこない夢ものがたりのような気がする。
ひとりの川柳人が、一生涯川柳をつくり続けるところで、その人間の使用した「コトバ」の数などには限度がある。ことばは有限でありながらも、一人の川柳人が川柳に使用するコトバなどは、その中のほんの一部でしかあり得ない。
人間性などというものは、ひとりひとりが微妙な違いを具備しているはずである。
にもかかわらず類想・剽窃などと思われる作品が出現するのは、川柳人がいつまでも在来の観念・概念・価値観などに縛られているからに相違ない。そのようなひとつの枠での建前論的な拘りのようなものが、体臭・体液になってしまっているが為に時として類想、類似と思われるような作品に結びついてくるような気がしてならない。
続く・・・