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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

川柳批評・・・普川素床

2007年10月31日 | 川柳
            現代川柳『泥』三号作品より

         日常をふっと抜け出す夢ひと夜   さとし
(一句解釈)

 日常にとじこめられ、振り回される日々だが、夢をみたときはその日常から抜け出して非日常の冒険をすることができる。めったに夢は来てくれないが・・・。

       (川柳の属性)
           詩 性・・・やや甘いがある。
           社会性・・なし。
           批評性・・かすかに、ある。
           ユーモア・なし。
           実存性・・あり。

  (批評後によう川柳批評)

①音数律・・五・七・五=十七音。完全な定型。

②比 喩・・に託さず、ありのままの表現。

③ことば・・日常、抜け出す、夢、ひと夜、と漢字主体のオーソドックスな文字使用。
      ひと夜、を一夜としないのは、イチヤと読まれるのを避けたのか。ひとよ、
      の方が確かにやわらかくなるようだ。

④母音声・・に(い)ち(ち)じょ(お)う(う)を(お)ふっ(う)と(お)ぬ(う)      け(え)だ(あ)す(う)ゆ(う)め(え)ひ(い)と(お)よ(お)
      いいうえお うおうえあう うえいおお
      ○う、お、が多い感じ。やや静かな感じか。

⑤作品の俳句性  ゼロ。完全な川柳。俳句が写生・モノ。川柳が物語り。コト。
         とすればコト的。物語的。

⑥使用言語・・ことば、の項とダブルが、やさしい言葉ばかりで、言葉の難解性なし。

⑦言語構成と難解性・・言葉がやさしくても言語的配列構成により難解になるが、この作           品はわかりやすい。というか、分かり易すぎて、予定調和的に            なり、平凡になった。日常を抜けることと、夢、はあまりにダイ           レクトなためだろう。もう少し別の表現で飛躍させれば、現代川           柳的な深みが出たと思う。

                          続く・・・・。

                 不整脈の川を流れてゆくえにし 不凍

   流れ着く海のえにしか不整脈
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川柳批評・・・普川素床

2007年10月31日 | 川柳
             現代川柳『泥』三号より
・・・続き。

         蛇口から零れるホタルてのひらに  テイ子
(一句解釈)

 蛇口から水がてのひらに迸った。水沫の光るさまは蛍のようで、生きる一瞬の大切さへの思いを感じ、また亡くなった人を思い出させた。

(川柳の属性)作品がどういう傾向のものか判断する。

        詩 性・・あり
        社会性・・・他者性とみればある。
        批評性・・・なし。素直な抒情作品の為。
        ユーモア・・なし。同右
       イロニー性・・なし。同右
        実存性・・・あり。

(批評語による川柳批評)

       ①音律性・・五・七・五=十七音定型。
       ②比 喩・・水沫を蛍(蛍のようだ)と見るメタファー
       ③カタカナ、ひらがな

ホタル・・何故カタカナか。水沫や其の光の表現がカタカナのほうが適切という意味か。蛍、でもよさそう。安易な使用は疑問だが・・・、狙いは?

てのひらに・・掌、は固い感じだし、てのひらと読んでくれないことを心配したのか。蛍掌の連続を避けるとか。理由を明確に。

          CF・・蛇口から零れる蛍 掌に
          蛇口から零れるホタル掌に
          蛇口から零れる蛍てのひらに

④母音声・・じゃ(あ)ぐ(う)ち(い)か(あ)ら(あ)こ(お)ぼ(お)れ(え)る(う)ほ(お)た(あ)る(う)て(え)の(お)ひ(い)ら(あ)に(い)

         あういああ おおえうおあう えおいあい

         母音声あまり意識しないで作句している?

上五はあ音のあかるさ?

⑤作品の俳句性
 切れ字、きれなし。季語・・蛍(6月)、使用あるも、泥誌4月号の4月は当季ではないし、また季節的使用でもないので、俳句性はゼロと見る。純粋に川柳。

⑥使用言語
 蛇口、零れる、蛍、掌で構成され、使用され、特別な飛躍がないので、解釈・鑑賞に特に支障はない。

 強いて言えば、水の飛沫が蛍のように飛ぶ暗喩レトリックだが、まあ普通のレベルの比喩と言える。

 むしろ、もう少し飛翔性や面白い比喩・象徴性を入れて、作品世界を膨らませたらと思うのだが・・・。               
                             続く・・・・。

               劣情の水は流るる葦ながるる  不凍

  葦揺れて水の流るる情の劣





          
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川柳批評・・・普川素床

2007年10月29日 | 川柳
          現代川柳『泥』第三号作品より

 (前節)
 川柳の解釈・鑑賞・批評のポジションは二つある。

①裸の作品のみを対象にする場合。

イ、句会の選のときは、作者の作句状況もわからないので、作品も十七文字(音)
  のみが手がかり。読者、選者の想像力、論理力のみが頼りとなる。

ロ、遊(ゆう)誌に「一句解釈」の場は、作者名を伏せて、作品のみを対象にする      ので、句会の選の場と同じ。

②作品以外の情報がある場合

イ、川柳マガジン誌。5、6人の柳人による一作品の作品鑑賞。これは、作者名が事前に  明らかにされている。
  ということは、鑑賞者はありとあらゆる作者情報を調べた上で鑑賞に臨む。
  この場合は情報が多いほうが有利な鑑賞を出来ることが多い。

ロ、公論・朱雀会での鑑賞例

 いくつかの作品のみが提示され、みんなで鑑賞する。
 このとき、次の作品が示された。

            むらさきは放埓の汗 蘭の汗

 参加者は、この句を知っている人と知らない人に分かれた。

一、知らない人の解釈

 むらさき、蘭、から女性か高貴な人と解する。放埓は奔放とかやりたい放題と見る。そ こから、情野千里氏の様なエネルギッシュな女性の、演劇や詩のボクシングなどのパフ ォーマンスと考えた。(一例)

二、知っている人の解釈

 三柳氏の作品であり、宝井其角のことを詠んでいることまで知っている。ここまで情報があると、其角の人生、人物、性格までに及ぶ細かい鑑賞になる。けれども情報を持たない人は、この句から其角だとは考え及びようがないわけです。

 作品・作者情報を知ると知らないでは、鑑賞は全く違ってくる(こともある)ことを理解したい。
 ただ、どっちが正しいかという判断は難しい(保留する)。
ケースにより違う鑑賞が成立することを考慮に入れたい。(各論)
                              続く・・・・。

                  点滴の海の向こうのいくさの火  不凍

 いくさの火僕の点滴で消せますか
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ステンレスの沖・・・池さとし

2007年10月28日 | 川柳
              現代川柳『泥』第4号

            モノクロの静止画像は終戦日

遠い日の闇一面の蕎麦の花
     まだ迷い続ける影の水墨画
                        
            ステンレスの沖八月を照り返す
         
                         ミサイルに似てくる街の消火栓
                      トラウマの八月炎天下セピアいろ

花はらりはらり死体を埋めに来る
    窓ガラス伝わる雨はセロテープ
                        光ってる笑ってる路傍の石たち

            落書きのように居座る昼の月

波打ち際をいつも歩いている耳か
                   哲学者のように白髪溢れ出るスクリュー
函館湾光る写楽の顎ひかる
  夢はゆめ必死に叩くキーボード
                      朝露のしたたり天使のコンタクト
                   祭り後の見知らぬ闇に襲われる

            神は哀しみ未来を探す手を呉れた

埋もれ火のぬくさに触れる古本屋
    疑いの目玉ぽろっと枇杷の種

                        銃口になるなよシャツのボタン穴
                     切り株にぽつんと座っている仏
展翅針ぼくの鱗もねんごろに
    情報漏洩十一桁の現在地
                        砂を掘る底の見えない焦燥感
                    ちっぽけなボタン勇気を呉れたのは
月光串刺し愚弟賢弟五指十指
  いつ見ても曇天だった象の耳
                        また一人去ってブランコもの思い
                    れんこんの穴から覗いて見る有事

              路上から神の嗚咽が漏れ始め


                 さだかならぬ人来て茣蓙を敷いている  不凍

遠い日の茣蓙にひとひらさくらの手
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ぽあんぽあん・・・青葉テイ子

2007年10月27日 | 川柳
           現代川柳『泥』第4号 青葉テイ子

 ぽあんぽあんと生きる乾いた右脳
     優先順位ふいに崩れた春の訃
       捻じくれた執着があるパンの耳

                         桃を剥く指よ裏切りはなかったか
                     たとえば自虐腐り易きはわが輪廻
                 禁猟区にまぎれ込んだか背が痒い
ふるさとの山へ告げたいことがある
    二匹目の泥魚鰌に飢えた跡がある
       なにを語らんとて喃語をつかうキリン

                一蓮托生朝のしじみと砂を噛む
                   傷痕に沁みる水の重さと水の刑
                         風を待つ性善説もほどほどに
蜘蛛の糸からめ上手な風媒花
   ひとり斬りふたり切り女の午後回る
       バス停でとろんと犬の目を拾う

               不毛な会話ばかりする夕暮れの猫
                   優しそうな眼の中にいた人
                         頑ななバリアのそとで風を待つ
不退転なおとこが下げる頭陀袋
   誰がいようと砂漠はさばく沖の灯よ
       餌を拾うこともなく彷徨う 狂女たり

              これ以上なにをためらう花キャベツ
                   万華鏡くるくる自嘲ほのめかす
                       透き通るまで緑の糸たぐる 獏
枝のたわみから零れる花曼荼羅
   舌の荒野で人語鳥語を切りおとす
          眠れねむれロ嗾しかけている鬼の舌
                    たそがれの曠野に立つ青いカメレオン
風が点火したのは目贖罪か砂あらし
            落日に焦がれてみしても風ばかり


                 嗚呼という切符一枚ノラの掌に  不凍

一枚の切符が語る 嗚呼ノラよ



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箸の位置・・・佐藤容子

2007年10月26日 | 川柳
              現代川柳『泥』第4号

 駄菓子屋の前にぽつんと錆びた影
       薄墨に溶かすひとつの影法師
   はずむ影あり古い帯を干す
                   掃除機の吸引力に負けた影
                     ざわざわと隠した影を揺らし秋
                        ひびわれた影も並んでいる本屋
声のするはがきを時々手にのせる
   大切にしたいいつもの箸の位置
     身のうちになに積もらせて夜の長さ
                        夜は透き許すかたちに伸びる爪
                   立ち上がるたびに零してしまう海
             ひかりあうために逢うこと話すこと
去年より小さく揺れて手の海は
    瓶に押すいっぽんきりの川の音
          雨音や詩人になれず狂女にも
                      無意識に閉じた目かがみ荒れている
                   風になる前に花くび切り落とす
             海見える部屋でたたんでおく尻尾
わたくしも防犯カメラに写される
     醒めた肌から発ってゆく夜汽車
          萩すすき死後のはなしは曖昧に
                        井戸のある町で洗っている背骨
                    正座して聞く過去形のオルゴール
                  約束の小指を流す夜の川
丁寧に今日の夕陽を手で洗う
   たっぷりと遊んだ足の裏は晴れ
      ワンテンポ遅れてビニール傘の息
                        あたたかい便座思想のない家族
                    夜の襞ひそひそ伸びる豆の蔓
              人ごみのひとりになって覗く穴



                    生きている限り眼に入る造り花  不凍

   造花にはなれぬ秘の花抱いて逝く
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壁・・・青葉テイ子

2007年10月24日 | 川柳
         現代川柳『泥』第四号   青葉テイ子

 人は生まれてから死を迎えるまでの一生の間に、一体どれほどの見える壁、見えない壁に苛まされながら生きてきたことだろう。

 半世紀にわたって、東西の冷戦が続いたドイツ、そのベルリンの壁が崩壊したのは、1989年11月9日、大衆は熱狂して厚い壁を叩き割っている光景が、メディアを通じて目に飛び込んできたのは、まだ記憶に新しい。

 頑強な鉄のカーテンは、どれほど沢山の人びとのこころを蝕んできたことか。この壁によって、人間はどれほどの悲喜劇を繰り返してきたことか。親子でさえ、いわれなき争いをして血を流してきた。

 壁は、無言で、いつも人間を圧しつづける。

 行動が先行する私は、いつも壁にぶち当たってはじめて痛さを知るという愚行を繰り返して来た。

 しかし、この壁があるからこそ、人は嘆き悲しみ考える。超人的な努力で、それを乗り越えた者のみが知る歓びもある。加齢と共に、壁こそ人生の醍醐味をもたらす要因ではなかろうか、と、最近思いはじめてきた。

 特に見えざる壁こそ、人間の力を強靭なものにする何かが秘められているような気がする。

 素地は、音もなく忍びやかに近づいてくる。

 ゲーテの「ファースト」の中に
 「戦慄は人間のもっとも深い精神の部分だ」と記されているが、その言葉の「深い部分」の精神のありようは一種の快楽にも似ている。酷烈な静寂が、柱にも壁にも侵み通って、人間を冷徹な目で見つめている壁。その壁をぶち破るのも川柳なら、川柳がもたらす壁もある。

 川柳、この一筋縄ではいかぬもの、苦しみ抜いて生まれた一句と対峙する時、無意識の中で念じているカタルシス、ヘドロのような無数の澱みの積み重なりが、いつしか透明なうわ澄みへと変化した時、やっと私は本来の姿を取り戻す。生きるとは苛酷なことの連続だ。奥歯をきりりと噛んだとて、歯の根が合わぬことがままある。

 そんな時、活字に溺れ、とっぷりと音の世界に溺れる。

そして人に出会い、人の情に触れることで癒される。

 人生のターニングポイントをひとつ超えたあたりで再びの壁にぶち当たる。殆どの人がおちる落とし穴だ。

 胸の中に飢餓感が泡立つ壁だ。黙して歩くしかない。

 生きることの狂攔は川柳を産み、やがて鎮まる。清謐なひとときの中で、かけがえのない、狂をいとおしむ。

 私の生のありようを照らし出す壁だからこそ、壁は全も希求する母なる回帰かも知れない。


                泥つきでいい大根も生い立ちも  不凍

大根も生きる 泥つきのいい顔だ
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現代川柳『泥』四号・・・メリット・・さとし。

2007年10月23日 | 川柳
 発表された作品は、いかなる場合でも、その作者の心が、投影されていてこそのものである。

 深浅、濃淡の違いは、読む人によって大きな差がつくことは言うまでもない。

 知に傾く作品、情に傾く作品、そしてその中間を進む作品、これはひとりひとりのの人間性にも左右されることが、ことのほか大きい。

 文芸の世界、わけても川柳の世界。

 ひとつの作品に、立ち向かった時のリアクションは、千差万別、しかも正解らしきものが、なかなか見当たらないから面白い。

 それを承知で、「泥」は今回、お互いの作品を、厳しく見つめてみようということに。
 いいかげんな妥協はしない。おかしな所はおかしいと、はっきり発言してみようという 試みである。

 三人だからこそのメリットを、最大限に活用しようということである。

 さて三人、思うがままに心を吐き出させたかどうか、是非ご意見を!


 
         「凍裂」より    生きるも才死ぬも才の比岸劇場   不凍

   生や死や劇場の裏に主人公







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思考の森の探査・・『泥』三号

2007年10月23日 | 川柳
             現代川柳『泥』三号「思考の森の探査」

「森には、いろいろな樹があるでしょう・・いろいろな樹があるからこそ、森を形成して いるということでしょう。川柳もいろいろな考えがあって、川柳なのですよ。」

       これは池さとし氏の最近の談話の一部であります。

 第三号の『泥樹』は、三者三様の「思考の森の探査」にも似て、4つのテーマに川柳の進むべく道を見出しております。

①「今を生きる自分になぜ川柳か」・・4つのテーマの中では、案外一番難しいテーマではなかったのでしょうか?

 それは、道大会のご講演で「川柳マガジン」の方が、「日本の川柳大家の方々に、なぜ?川柳をやっているのですか?の問いに・・はっきりとした答えを下さった方がいないのです・・。」の言葉からも解るように、一言では言い尽くせないのが川柳なのだろうと・・客観的には理解ができます。

     さとし氏の「カタルシス」 
              テイ子氏の「精神の均衡を保ってきた」

 の答えの2点は、今後の現代社会に必要不可欠な、「精神衛生」の分野に「川柳」が大きくクローズアップされていく時代がすぐそこまで来ている、否、もう到来していると・・・私は、時代認識をしています。そして、「脳」の細胞を、情緒良く鍛えることは、長生きの秘訣であるという実態も川柳人にとっては、半ば常識になっていると言って良いのでしょう。

②どのような作品に感動するか・・・

       さとし氏が選んだ句は、殆どが柳友の句です。

 さとし氏の他者への配慮を怠らない、深い優しさから身近な柳友・・いつも切磋琢磨している良きライバルへ花束を・・・。・・なのでしょう・・と、思う。

     鶴彬の句を最後に止めてあるのは、川柳家の真骨頂ですね。

 容子氏は、「不凍」氏オンリー!で綴られておりますが、力量のある川柳家(随筆家でもある)だからこそ「不凍氏」を書き得たと感じています。容子氏が描く不凍氏の句の鑑賞がこれで絶筆になってしまったのが、悔しいかぎりです。美しい雪がしとしとと舞うようなリズムで逸る思いをかみ殺しながらの真摯な心の綾は、唸るばかりです。

 テイ子氏は「情の人」選んだ作家も、情念句の前田芙巳代、男の背中が優しくて強い川柳の鬼・・定金冬二氏。日本の選者の大御所大木俊秀氏でありました。

③川柳をつくるときどんなことにエネルギーを注いでいるか・・・川柳を創る上で、作者の姿勢、もしくは余り聞くこともない川柳の秘すれば花・・の奥義なのかも知れません。三氏の「風姿花伝」と、書き加えたいものです。

④大会・句会での課題については「提言」と認識して、良いのでしょう。
 三氏とも、言語には記されてはおりませんが、「後進者にも道を」「初心者にもチャン スを」と心の底に在ればこその、「課題肯定」のご発言なのだと察しております。
                                   以上

 <不凍氏コーナー>
 今まで、不凍氏の論評とかを、どこかの柳誌で読んではいても、「矍鑠(かくしゃく)、凛々しい、男の中の男、切り口絶妙、頭脳明晰・・エトセトラ」で、文体はいつも、健康体そのもの・・・。

18年10月号の不凍氏「道産子」作品評の一文。

「自己戯画化は精神的余裕の所産である。」私は、魚になったり、風になったり、波になったり自己戯画化が好きなのですが・・先輩から、「又、自分が消えたよ!」といつも、温かいアドバイスをいただいておりますが・・この一文で大いに!自己戯画化に専念する勇気を得ました・・ありがとうございます!不凍様。

             
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大会・句会での課題について

2007年10月21日 | 川柳
             現代川柳『泥』三号 (提言)

           さとし・・・意欲をかきたてるもの
       (課題肯定・秀句が生み出せるような課題の選定を)

・大会での課題は、川柳人がいい作品を創り出すためのひとつのてがかりになるものと考 えたい。
・課題吟に稀薄になりがちな人間性を、いくらでも膨らませたり、投影出来うるような課 題の提出を心がけている川柳人や関係者がいる大会。そこには必然的に参加者の顔ぶれ も前向きである。
・作者のイメージが、大空にはばたく鳥のように自在に百態を演じる風のように伸びやか に、そんなきっかけを与えてくれるような課題であるならばそこから産み出される作品 は創作吟と同一化がはかられたと考えられるような作品に結びつくこと明白である。

         容子・・・しなやかな翼

        (課題肯定・イメージ吟も取り入れて欲しい)

・課題吟はひとつのテーマへ、同等に向き合い句作することは、より豊かに華やかに個性 の差異を観るたのしさであり、雑詠の個性とは又違った個性の発見がある。
・課題の問題点は、同想句が集中しやすい。
・イメージ吟の提案
・課題吟やイメージ吟には、おおらかさがある。
・課題吟の連帯感は大会には不可欠な存在である。


              テイ子・・・祭りの場
          (課題肯定・初心者を念頭に入れる)

・大会は祭りの場、そして、人との出会いの場、そして選者が試される場、秀句と出会う 場である。
・風土性、独自性、彩りが欲しい。
・課題の効用は初心者でもできる。

           
           
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