「極光を求めて・・・石井先生を偲ぶ」
昭和四 十二年小樽商業高校(旧緑凌高校)入学式での校長先生のご挨拶を今でも鮮明に覚えています。
「諸君等は小林多喜二の母校でもある我校に入学されました。選ばれし君たちは小林多喜二の云々・・・」と、生まれて初めてプロレタリア作家の名前と功績を知った驚きの瞬間でもありました。
我校と隣接している小樽商科大学の学生と地獄坂を登り降りしながら通学した三年間はちょっと大人の世界を垣間見る貴重な体験でもありました。
ベトナム戦争が悪化する中、共産党の機関誌などでベトナム戦争の写真や記事を各クラスでも回覧されたり、高校生でも生徒会長自らがデモに参加したり、担任の先生方がデモに出かけたりで、高校三年生後半になってからは自習時間も多くなりました。
三無主義の真っ只中・・・しらけ世代の申し子のような時代背景において、各教師の方々も生徒の扱いには大変苦慮された時代ではなかったかと思います。
生徒会対学校という対立が我校にもあり制帽焼き事件・校則見直しなど小林多喜二の遺伝子があちらこちらに萌芽していたように思います。
そんな中、高校二・三年時代物理化学の担当教任が・・先日お亡くなりになった石井先生でした。
まだ、三十歳前半の石井先生はいつも清潔な白衣を着られ、廊下を歩く姿も凛として、何かに向かって颯爽とした風貌で生徒と先生の節度をきっちり守った感じの方でした。
私にとってはとても『近寄りがたい』存在でもありました。
そんな高校三年最後の文化祭は「我校から平和を」と名打った反戦色一色の催し物でした。
全学年二十四クラス殆どが反戦歌に染まったステージは思い出しても圧巻でありました。
私たちのクラスは、二部合唱で『イムジン川』と『若者達』の楽曲を選び、真っ暗な大きな運動場のステージから反戦を叫ぶべく、おもむろに静かに歌い始めました。
そんな臨場感の中、運動場の四隅に立っておられた先生方が次から次へと目頭を押えている光景が目に飛び込んで来ました。
運動場の入り口に凛と立っておられた石井先生。
普段は冷静沈着で生徒に対しておくびれることも無い、威厳のあるあの石井先生が、中でもひときは目頭を何度も拭いているのです。(本能的に石井先生はとてもこころのいい人だ!・・と、当時の私たちは思ったものでした。)
合唱が終わり、クラスに戻った私たちは、地理の○○先生も、何々先生も泣いてたぞ!
と、私たちの純粋な思いが各先生に伝わった意外性が、更に何倍もの喜びを深めたものでした。
そんな石井先生との断片的な思い出ではあっても、物理化学の先生が『川柳』という文系の趣味を持たれ、北海道川柳界においても詩性川柳のメッカでもある小樽川柳社主幹を長きに亘って務められました。
まして、北海道を代表する詩性川柳の第一人者であることを知った時は「文字を科学する石井先生」であったのではないかと出来の悪かった生徒の私は勝手にそのように考察しておりました。
そんな先生が人生で叶わなかったことの一つが『オーロラを見る』ことだったと聞いております。『この地球のすべてのものが無くなったその最後に残るものは・・光だ!』と、何かで聞いたことがあります。
そんな思いが、川柳誌『極光』のネーミングにも具現化されております。
教育という普遍的なお仕事をされ、小樽潮凌高校校長も勤められ、定年後は様々な役職を兼務された多忙な晩年であったと窺っております。
絶筆となった、『泥』誌の文筆は奇しくも故佐藤容子氏への鎮魂にも触れられております。
心不全で還らぬ先生となりましたが、きっと天の彼方の光を求めてさらなる飛躍の旅へと向かわれたことと思います。
残された私たちは天空に向かいただ、手をかざすしか他ありません。
石井先生のご冥福をこころよりお祈り申し上げます。
ありそうです。とりあえず書かせていただきました。