川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

世界文化遺産候補・・・HAKODATE 大船縄文遺跡群も!

2008年09月29日 | 川柳

       世界文化遺産候補

 

 文化庁は二十六日、新たな世界文化遺産候補として、地方自治体から公募した三十二件のうち「金と銀の島、佐渡」(新潟県)など五件を選んだ。(国連教育科学文化機関)の暫定リスト記載日本の候補は既にリストに記載されている「平泉の文化遺産」(岩手県)など八件を含め計十三件となる。文化庁はこれで自治体公募を打ち切る。

 

ほかの候補四件は三内丸山遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」、大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」、「九州・山口の近代化産業遺産群」、福岡県の「宗像・沖ノ島と関連遺産群」。

 

 

 

<川柳的徒然>

しばし、目と耳を疑った「大阪府の百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産候補。仁徳天皇稜。

ある意味、日本史の今までのタブー、皇室の祖先が渡来人の系譜であるということを世界に示すことになる(朝鮮半島の系統)

早速、文化庁長官青木保氏の文化庁長官としてのご挨拶や、功績などを閲覧させていただき、納得が出来るような気がします。
文化人類学者であり、日本民族学会の会長でもありました。

 20万もあるといわれている日本中の古墳の中で敷地面積が秦の始皇帝よりクフ王のピラミッドより大きいそうです。

          世界三代古墳のひとつだそうです。

今まで、宮内庁しかその古墳の鍵を開けられなかったため、さまざまな歴史にかかわる研究者にとっては大きなジレンマでもありました。

    候補として世界遺産に登録申請するとどうなるか??

まず、ユネスコの世界遺産を検討する審議会は、「はい!落選!ですよ・・・」とはいえない。

かといって、宮内庁・皇室一族・日本の縄文人(一万年戦争がなかった時代から)と弥生人の先住民族まで歴史の史実は検討されることに当然なることでしょう。

そのとき、「歴史は動いた!」NHK番組ではないけれど・・・いろいろと足りない資料を日本文化庁に打診してくるでしょう・・・。

文化庁は、宮内庁に資料提出の協力を呼びかけて・・・どうなるか?認定されてもされなくても、日本の歴史のタブーの鍵を一歩進めることになります。(それが本当に出来る時代を向かえたのか?)

皇室も、お世継ぎ問題がこれからは少子化で?大変になります。

今の天皇・皇后はある意味では、終戦の鎮魂を日本中に行脚され、日本に住む人々の中では多方面に亘って「弱者と対面し続けた人生」でもあったような気がします。

もし、私が天皇陛下なら、「先祖の古墳を・・・この日本の政治下で後世まで守ってくれるのだろうか???」という不安はありすぎますね。

腑に落ちるような・・・落ちないような・・・感じですが・・・。

天皇のご意向もあったなら・・・すばらしい・・・日本史の開花です。

(他の4つの候補のうちちょっと足踏みした感があるようですが・・・ぜひ・・・東北・北海道の縄文遺跡群と並んで検討されたなら、縄文文化の平和の基層と、権力闘争の象徴との対比が21世紀のこの日本の歴史のお盆の上に乗るのです。歴史的な人類文明・文化の因果を感じます。)

私の住む函館の大船遺跡・森のストーンサークルも日本が一押しの平泉中尊寺が認定されれば、5年以内に「世界遺産の登録」も夢ではありません。一道民としてとても楽しみです。

そして、その東北、北海道縄文ロードすべてに足を運びたくなってしまいました。

やおろずの神も、和の精神もこの縄文時代のベースにあったのですね。

         縄文っていいね!北海道散歩。

 

 

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エドワード・モース

2008年09月29日 | 川柳
 文明開化/外人がもたらした新しい知識
 モースの講演 明治十二年八月十三日、熊谷・石上寺の境内にある熊谷乙中教院で、本県では初めての外人講演会が開かれた。講師はその二年前、古代人の遺跡〝大森の貝塚〟を発見して有名になったアメリカ人、エドワード・S・モース博士。「ダーウィンの進化論」がテーマだった。
 〝進化論〟などといっても、当時の人は何のことやらさっぱりわからない。それでも、大学の先生をしているエライ外人さんが話をするというので、会場は朝からいっぱいだった。かたずをのんで見守るなかで、モース博士は静かに語りはじめた。ひとくぎりついて、若い学生風の通訳の口からでたことばに人々は耳を疑がった。
 「われわれ人間の祖先はサルである」
 これを聞いた講演会の発起人、田島玉造はすっかりハラを立ててしまった。「けしからん。紅毛人(ヨーロッパ人)の祖先はサルだったかも知れないが、われわれ日本人の祖先は違う。あんなやつは日本から追い出せ」とカンカンに怒り、講演なかばで席をけった。もっともこの話には玉造の顔つきが日吉丸そっくりだったというオチまでついているので真偽のほどは確かでない。
 それはともかく、集まった人たちは、モースの〝珍しい講演〟に耳を傾けた。海の向こうの人に初めて接した人たちは、青い目の外人さんの姿に〝文明開化〟の波をひしひしと感じ取った。
 本県へ外人がやってきたのは、これが初めてではない。前々年の十年、オーストリア公使で、考古学研究家のヘンリー・シーボルトが〝吉見の百穴〟と〝黒岩の百穴谷〟の調査にしばしば訪れている。モースが〝大森の貝塚〟を発見したニュースを東京日日新聞(いまの毎日新聞)でみ大里郡吉見村の根岸武香が「オレもいっぱつ」……とハッスル。黒岩の百穴谷の発掘を始めて金環などを発見、これがモースらの耳にはいって彼らの来県となった。

 吉見百穴論争 白い凝灰岩の岩ハダに掘りあけられた無数の穴の正体はそれまで不明。江戸時代の人々は「テングさまが掘った穴だ」「雷神さまがあけたんだ」とそれぞれ勝手に信じていた。根岸武香の発掘で初めて科学的な検討が行なわれるようになったわけだが、武香自身は先住民族の住居と断定した。シーボルトは随員に「アイヌの住居らしい」と語ったと伝えられ、モースは朝鮮人の墓だと考えていた。貝塚は欧米にもあったが、横穴は珍しいケース。先進諸国の学者たちにも正体はつかめなかった。
 吉見の百穴は明治二十年、東大の坪井正五郎らの手で本格的な発掘が行なわれ、二百三十の石室が掘り出された。大論争の末、古墳時代の墓地という結論に達したのは大正にはいってからだった。
 明治政府は欧米の知識や制度を取り入れるため多くの学者や技術者を招いた。彼らは政府の顧問や学校の教師になって、新しい時代への脱皮に尽した。モースも、シーボルトも〝外人顧問団〟の一員。彼らが県内にやってきたことで、チョンマゲを切り落としたばかりの人たちは、数多くの〝新しい知識〟を吸収、しだいに近代人としての身だしなみを整えていった。
 メ モ
モース〕(1838-1925)アメリカの博物学者で日本研究家。研究材料の腕足類が日本に多いと聞いて明治十年来日した。いったん帰国したが、東京大学に招かれて翌年再び来日した。大森の貝塚をはじめ、各地の古墳発掘なども行ない初期の日本の人類学、考古学にも寄与した。著書に「大森貝塚」「日本その日その日」がある。
シーボルト〕明治初期にオーストリア代理公使として来日した。幕末、長崎出島のオランダ商館の医官として来日、医学をはじめ蘭学の発達に寄与した大シーボルトの息子。明治十二年、邦文の「考古説略」という考古学の概説書を著わし、考古学という語を初めて使っている。

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HAKODATE 大船遺跡ご紹介!縄文時代

2008年09月26日 | 川柳

              縄文時代後期に作られた土器です。

 函館市立博物館でも、後期の出土品の数々を見ましたが、現在同じような土器を作るとしたら「古代」というより、「前衛的」と評価されるかも知れません。

用のために作られたとはいえ、まったく古さなど感じない、モダンさはいったいどこからその感性が磨かれていたのでしょう。

  感性がどんどん鈍ってきたのが、現代人の私たちなのかも知れません。

        「太古を知ることは未来を知ることだ」

          とは、常々言われていることですが、

  アニミズム(精霊崇拝)の意識の高さが、

   土器創りの精神の柱となっていたことだけは「土器」がちゃんと語っています。

 

                   詳しくはこちらへ ↓

               http://inoues.net/ruins/ofuna_c.html

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HAKODATE 南茅部縄文中期土器と火焔土器

2008年09月25日 | 川柳

                  

 函館市南茅部(みなみかやべ)縄文群から発掘された縄文中期の土器です。前期の実用を重んじた土器から、装飾を施した個性ある土器が多く出土されています。縄文中期は気候も比較的温暖で食べ物にも恵まれていた証拠には、縄文人のこころのゆとりがその意匠に伝わってきます。

北海道と東北の縄文人との流通があったそうで、今、その15箇所の遺跡を世界遺産に登録申請中だそうです。

  素朴な生活の中で、ひえやあわなども栽培していたそうです。

 海の幸・川の幸・山の幸の恵みと縄文人の知恵を駆使した生活。

そんな中でも、下記のような現代の技術を持っても創ることが困難な土器 。

              「火焔土器」

   函館と新潟長岡を結び合った「影響力」が感じられますね。

     それにしても火の神様の炎 を表現するとは、

             すばらしいの一語に尽きます。

下記の写真のような、一部をまねたような土器が北海道函館市内からもたくさん出土しています。

 

長岡市


深鉢 火焔土器
出土地:馬高遺跡 ( うまたか いせき )
所在地:長岡市関原町
時期:縄文時代中期 ( 約4500年前 )
高さ:32.5cm
指定:長岡市指定文化財 ( 考古資料、昭和42年指定 )
所蔵:長岡市立科学博物館

この種の土器は大きく立ち上がる四つの突起(鶏頭冠)が燃え盛る炎のようにみえることから「火焔型土器」と呼ばれています。もともと「火焔土器」とは、関原町の近藤篤三郎氏が馬高遺跡で最初に発見した土器に名づけたもので、その後に発見された類似の土器を一般に「火焔型土器」と言います。この火焔土器の様式は、中期の中ごろにはほぼ現在の新潟県全域に広がり、特に信濃川流域で最も発達しました。新潟県域はまさに「火焔土器の国」であり、長岡周辺はその中心地のひとつです。


深鉢 火焔型土器
出土地:千石原遺跡 ( せんごくばら いせき )
所在地:長岡市吉崎
時期:縄文時代中期 ( 約4500年前 )
高さ:38.5cm
所蔵:長岡市立科学博物館

深鉢 王冠型土器
出土地:岩野原遺跡 ( いわのはら いせき )
所在地:長岡市深沢町
時期:縄文時代中期 ( 約4500年前 )
高さ:30cm
所蔵:長岡市立科学博物館

火焔土器の様式には装飾的なものと非装飾的なものがあり、装飾的なものに「火焔型」と「王冠型」の2種類がみられます。火焔型は「鶏冠状把手」と4単位の大きな突起をもつもので、突起や口縁には鋸歯状の連続した小突起がつきます。一方、王冠型は、基本的な文様は火焔型と共通しますが、大型の突起はシンプルな山形で、鋸歯状の連続突起はありません。装飾的な火焔型土器や王冠型土器は、非装飾的な土器に比べると、出土量は多くありません。また、ススやおこげの痕が残ることから煮炊きに使われたことがわかります。おそらく、村の祭りなどの儀式の場で、調理の道具として使っていたと考えられます。

火焔型や王冠型の土器は、馬高遺跡のほか、岩野原遺跡や千石原遺跡に典型的な特徴を示す資料があります。特に千石原遺跡の土器は、胴の部分がくびれて装飾的な突起が大きく開いており、火焔型の最も発展した姿を良く顕しています。

 

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9/18  アイヌ民族第2回有識者懇談会

2008年09月24日 | 川柳

<アイヌ民族>支援具体策、七つ提案--第2回有識者懇

        2008年9月18日(木)13:00
  • 毎日新聞

 政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」(座長、佐藤幸治・京都大名誉教授)の第2回会合が17日、首相官邸であり、北海道ウタリ協会の加藤忠理事長がアイヌ民族の生活や教育を幅広く支援する新法制定を政府に求めた。北海道の高橋はるみ知事も新法要求で足並みをそろえ、97年に制定されたアイヌ文化振興法とは別に、アイヌの先住民族認定を前提とした新規立法に踏み込むかどうかが今後の議論の焦点となりそうだ。

 加藤理事長は懇談会で(1)教育の充実(2)アイヌ研究への支援(3)全国の大学などに分散している遺骨の返還と慰霊施設設置――など7項目の具体策を提案。

生活や教育の支援には予算措置が必要となるため、新規立法を要望するとともに、先住権の扱いなど総合的なアイヌ政策を検討する審議機関の設置も政府に求めた。

 

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縄文国宝中空土偶と9千年前の漆工芸・・・IN HAKODATE

2008年09月23日 | 川柳

                 約9000年前の漆の装飾品(垣ノ島B遺跡)

今まで世界の漆の装飾品としては、中国の6500年前のものが一番古かったそうです。JAPANは漆と言う意味ですが、函館から車で約一時間の所から出土したなんて・・・浪漫・・・ロマン・・・ろまん。

             悠久と触れ合えるすばらしい刻を得る事ができます。

    国宝中空土偶


 今日、函館市立博物館で、中空土偶をまじまじと見学してきましたが・・・。すばらしい細工の土偶です。神秘的でオリエンタルでそして・・・モダン。

下腹部と背中に蛇のような模様が付いています。それは世界の古代の遺跡や遺品には共通してある模様だそうです。

蛇というのは人間のたましいを運ぶ象徴だそうです。人間が亡くなっても蛇が人間の中の魂を運び、その死者の頭部の渦巻きから魂を蛇が吐き出してくれるという言い伝えが多いともうかがいました。

      それにしても・・・不思議な土偶です。ハマリます。

豊穣に感謝してつくり、その年が過ぎると割っていたともうかがいましたが、どのようにして、中身を空洞にしたのかその技術の高さにはプロの陶芸家の方々も唸ることでしょう。

「地震の時に壊れたら心配ですね?」とうかがったら、

「大丈夫ですよ!地震や火事対応の600万円のケースに入れていますから・・」で、一安心。

話は変わり、土偶が発掘されてすぐ、ある財界関係のルートで、この土偶を発見した小阪アエさんの元に「いくらでもお金は積むから売ってください」と交渉があったそうです。(新聞記事より)アエさんは町の宝として首を横に振り続けたそうです。

      北海道で始めて国宝の指定を受けた中空土偶。

博物館の案内係のボランティアの方が、着物姿でアイヌ模様の帯を絞め、

「今日が中空土偶展が最後の日なので、この土偶に敬意を表してこの着物と帯を締めてきたのです!」と教えてくださいました。

         モダンなアイヌ模様の帯にも出会えました。

それから、学芸員の方にアイヌの質問をたくさんさせていただきました。

  その学芸員の方は、「千島アイヌの研究」をされている方でした。

        またまた、アイヌの謎が深まってしまいました。

天皇制の存在が、明治期・大正期と古代の遺跡が出土しても年数をゆがめられてしまったのですから・・・。

汗して・・・人生を発掘作業に携わった方々への悠久からのプレゼント、そして大きな報いにもなった中空土偶・・・縄文時代が語りかける日本への民族の歴史。ここが日本史のふるさとか。

                中空土偶

   函館の神秘・・・悠久から天を越え、地を越え出土されました。

      ずーと見ていると・・時空へのとりこになりそうです。

 

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函館南かやべ大船縄文遺跡の土器に・・・ドキッ!

2008年09月22日 | 川柳

 こちらの土器は約6千年前に作られたそうです。(縄文時代前期)

                         模様のように見えるのは、

       土器を持つ時にすべらないようにしたのかな.。

     この繊細な線の数々は誰がつけたのでしょうか・・・。

(とてもやさしくて、デリケートな人の性格がにじんでいる仕上がりです)

たくさんあった縄文土器の中で、あたかも隣に住むやさしいおじさんが作ったような、時空を超えた身近な皮膚感覚に訴えてくる風合いがありました。

 土器を野焼きにすると3mm全体が縮むようですが、見た目ほど土器そのものはごつごつしていなくて、厚さが全体に薄いのです。(6000年が薄くさせたのでしょうか?)用の美か。

6千年前の貴重な土器にそっと触れさせていただきましたが・・・まるで、縄文版宇宙の「ET」との交信のような、親近感とあたたかな人間の肌合いが伝わってきました。

入館して、目の前にたくさん並べられている土器に縄文人の何百人ものたましいが一気にグッと訴えて来るようで、ドキリンコ!!

 今まで、ルーブル美術館・故宮博物館・大英博物館・アメリカのメトロポリタン美術館・韓国博物館などの世界の歴史の遺品(美術品ともいいますが・・・)を少し見させていただきましたが・・・いつも脳裏をよぎるのは・・・ピラミッドにあったものは「エジプトへ返せ!」「海賊がごっそり持ってきた世界のものは・・・あったところに戻せ!」・・・「ゴッホのひまわりの絵はゴッホにいくら払ったの?」などとふと頭をよぎり・・・100パーセントの感動を得られないできましたが・・・ここの大船遺跡館は施設こそ小さいですが・・・日本の古代史を誇る超すごものの価値の高い逸品がそろっています。

日本の歴史の根幹を変えるさまざまな証拠が南かやべの町民のみなさんの手厚い保護の下で守られています。(これがすばらしい!!)

 そして、6000年の眠りからこの土器たちは、ニョキッと土の中から出てくださったのです、それはそれは、ようこそ21世紀へおいで下さいました、という気持ちになりますが・・・縄文時代も今も、私たち人間の衣食住の根本は変わっていないことに気が付きます。

それにしても、久しぶりに五臓六腑からジーンと押し寄せる深い感動の渦の中にいました。 館を後にするときは、何度も自然に合掌をしていました。

縄文時代の一万年の長い生活の跡をこの二つの目で見れることにも妙な感動が湧いてきました。

彼らが必死に生きた知恵と証に触れ・・・かなりのパワーがじわじわ漂って来ました。

        すばらしい本物の世界に、浸れた至福のひとときでした。

 

                   それにしても、

縄文時代って、東北・北海道を中心とした時代じゃないの?

      縄文の土器を見ていると、 私達のすぐ足裏にある時代を感じます。

              (国盗り合戦の歴史ではないからです)

 

一万年の間、平等の精神を作ってきたともいわれるそのこころを現代人は学びたいものです!!

           (数々の墓地が実証しているそうです。)

         詳しくはこちら↓です。

 http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/minamikayabe/i_oohune_c1.html

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縄文時代、石は何を語るや?

2008年09月19日 | 川柳

野中堂
大湯・野中堂環状列石

万座
大湯・野中堂環状列石

秋田県鹿角市にある縄文時代後期4千年前の遺跡

祈りと祀りに使用されていたそうです。

少し前まで東北・北海道でしか発掘されなかったストーンサークル。

最近は東京郊外でも発掘されているようです。

 

お祈りのためとか、墓石、日時計とかいろいろな説が各地方にあるようです。

日本はよく「木の文化」といわれますが、その前は石の文化だったのですね。

明日は、函館駅よりバスで1時間余りの南茅部という山奥の「大船縄文遺跡」を見学に行きます。

1000年間も人が定住していたといわれる遺跡です。

東北・北海道の海道を挟んだ共通の文化がたくさん実証されているそうです。

その中でもJAPAN(漆)

日本の工芸が国名になったのですが、

その漆塗りのルーツがこの大船縄文遺跡です。

世界各国で展示もされた国宝の「中空土偶」もここで発掘されています。

縄文前期中期後期の人々の生きた証のすばらしいパワー

を感じてくることでしょう。

 

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ストーンサークルから縄文人(ブリヤード人からアイヌ人)を探そう!

2008年09月19日 | 川柳

国指定史跡 忍路環状列石


小樽市忍路2丁目118の3
種吉沢に面した三笠山の北側麓、標高20mの河岸段丘上




忍路環状列石の造られた時期と発見
忍路環状列石の造られた時期は今から約3,500年前の縄文時代の後期です。文久元(1861)年、小高い山の麓に大きな石をいくつも円形に建て並べた遺構(ストーンサークル)が発見されました。大きさは現在の指定の面積で821平方メートル、直径は南北約33m・東西約22mの楕円形でサークルは2~3mの幅に高さ10~20cmの小石を環状に重ね置き、その内側に高さ100~200cmの大石を配置されいます。明治19年の報告(渡瀬1886)には、小高い山は「三笠山」と呼ばれており、その為古くは三笠山環状石籬(現在は忍路環状列石)と呼ばれていました。近代になり、一部手を加えられ、造られた当時とは異なった所があります。


忍路環状列石の調査
明治10年代に札幌農学校の第一期生である田内捨六氏によって内部の33平方メートルばかりが発掘されました。黒土層の3センチ下の赤土を約1メートル掘ったところ、一カ所に直径3~13センチぐらいの浜石が層をなしているのをみつけました。渡瀬荘三郎(庄三郎)氏がそれを明治19(1886)年に「人類学会報告」(第1巻1号)に報告して以来、有名になる。その後、列石の石は家屋の土台石や庭石として運び出され大正11(1922)年、皇太子行啓にそなえて修復されたりしている為、現状が必ずしも往時のものをはいいがたいですが、縄文時代の石造記念物としては第一級の趣があります。列石に使用されている石がどこから運ばれたのか、正確なところはまだわ かっていませんが、余市湾を隔てたシリパ岬からの石も含まれているという説があります。昭和36(1961)年3月、国指定史跡となりました。

資料提供 小樽市教育委員会

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ちかごろ日本の偽装に飽きたところよ!!・・・UFO !!

2008年09月18日 | 川柳

司馬遼太郎『手堀リ日本史』より抜粋・・・昭和55年発行

 日本人には、朝鮮の影響が、文化的にだけでなく、血液的にも濃いんです。たとえば長州。大内氏は朝鮮人を祖としていると、正式に言っています。地理的にも朝鮮の影響が強い。長州人的な発想法や気質は、非常に理屈っぽく、議論が好きです。そしてうまい。やはり、地理的関係から朝鮮の血をうけることが他地方より濃かった。朝鮮人が非常にすぐれているのは、論理的な能力です。

              これは日本人の及ばないところです。

 日本民族は長州において、あるいは裏日本において、朝鮮の血を浴びている。が、薩摩はそれほどでない。関係が割合薄いといえます。だから、というのは飛躍かもしれませんが、薩摩人は形而上的な思考法で昂奮するのではなく、現実的に判断する。幕末における薩摩藩の外交政策はみごとなものです。彼ら現実外交の見事さは、それ以前からのものですが、私たちのなかに入っている異なる血なのでしょう。ポリネシアかインドネシアかわかりませんが、非常に現実的な血ですね。幕末の薩摩で観念主義者は寺小屋で死んだ有馬新七ぐらいのものではないでしょうか。有馬は、長州型です。

長州と薩摩という、幕末から維新にかけて、大きな力を発揮した二つの藩の体質というか、それぞれの資質のちがいをみても、日本人というものはおもしろいと思いますね。むろん、こういう発想は深堀りしては変わることになりますが。

<川柳的徒然>

  ずいぶん久しぶりに司馬遼太郎氏の本のページをめくりました。

 なーるほど・・・と思いながら、今の自民党総裁選の5人の顔ぶれを思い起こしてみる。

     麻生氏はポリネシア系・小池氏は朝鮮系・

       石破氏も朝鮮系・石原氏は南方系・

与謝野氏は中国系の顔立ちに見えてこないでもありません。

 今の日本はアメリカの金融不安の波にのまれて、昨日も日銀総裁が4400億の特別融資を金融系に引き当てたそうです。

    事前にアメリカから知らされたからこそ、早い手が打てたのでしょう・・・。

               話は戻して、総裁選です。

             司馬遼太郎氏のデーターに基づくならば、

          日本の政治の最高リーダーも大臣も

           薩摩藩の傾向の考えを持った現実派でなければ、

       日本丸の沈没ぎりぎりを救う手立てがないのではないでしょうか?

               川柳の風刺で言わせて頂ければ・・・

  ミトコンドリアで抽出した薩摩藩の血を        受け継いだものが、

         これからの国会運営をした方が・・・いいんでないかい!!

     ねじれている・・・ひまなど・・・ないですたい!!

笑い話ではなく・・・それほど・・・これからの日本の国民生活は大変な時代になるということです。

幸い今、アイヌの歴史に興味を持っている私は・・・アイヌ人の辿ってきた歴史の足跡と自分史を重ねても・・・どうやら・・・ものすごく恵まれすぎていることに気づくのです。

    どうってこともない!!・・・と平然といられるからありがたいことです。

昔、ピンクレディーの「UFO」という歌詞の中に ♪「ちかごろ~地球の男に飽きたところよッ」♪という一節がありますが、

「ちかごろ~偽装だらけの和人に・・・飽きたところよ!」

                    という感じです。

 

            皆さんも、

         うんざりでしょう!!

 

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