京都の等持院だと思うが、そこの掛け軸で恐らく「忍」と言う字だろう。私はお寺が好きだが横着であまり調べていかないし、見た目の直感だけで写真を撮るので記憶に無いことが多い。いわば好き嫌いが優先するのだ。
この忍と言う書は、部屋の雰囲気に合っていて、時代を感じさせる。私は書は全くわからないが、勢いがあり、生半可な忍ではないぞと思った。
今は「忍」よりも「饒舌」の時代である。このブログも一歩間違うとその世界に嵌まっていて、もうすでに手遅れかもしれない。
人と話していて、阿吽の呼吸でピンと来ることが少なくなったように感じている。相手も同じように考えているのかもしれない。話す言葉は心の表現ではない。
コミュニケーションの道具なのだ。言葉や文章は、根底に人の持つ感性や価値観がどこかに出て来るものなのだろう。だとしたら、私の言葉や文章は、きっとへそ曲がりが茶を沸かしたようなものかなあ。
この忍と言う書は、部屋の雰囲気に合っていて、時代を感じさせる。私は書は全くわからないが、勢いがあり、生半可な忍ではないぞと思った。
今は「忍」よりも「饒舌」の時代である。このブログも一歩間違うとその世界に嵌まっていて、もうすでに手遅れかもしれない。
人と話していて、阿吽の呼吸でピンと来ることが少なくなったように感じている。相手も同じように考えているのかもしれない。話す言葉は心の表現ではない。
コミュニケーションの道具なのだ。言葉や文章は、根底に人の持つ感性や価値観がどこかに出て来るものなのだろう。だとしたら、私の言葉や文章は、きっとへそ曲がりが茶を沸かしたようなものかなあ。