今回も建立年のわかる二十三夜塔です。
廿三夜(河和田36°21'29.6"N 140°24'30.7"Eあたり)
天明6年(1786)です。徳川治保(はるもり)の時代で、浅間山の噴火が天明3年(1783)にあり、天明の大飢饉の最中の頃です。この年は、那珂川、千波湖の大洪水もあったそうです。石碑上部の丸は、二十三夜の月の形か、守護仏の勢至菩薩の梵字があったのでしょうが、よくわかりません。
二十三夜供養(鹿島神社 内原町1085 36°22'01.7"N 140°21'09.4"Eあたり)
寛政5年(1793)です。この年には、木村謙次らが蝦夷地視察に行きました。治保の時代です。碑の上部にあるのは、守護仏の勢至菩薩をあらわす梵字のサクです。碑の左側には、「十一月吉日内原村」まで読めます。寛政年間は、二十三夜信仰が盛んだったようです。
二十三夜供養塔(木葉下(あぼっけ)36°25'24.7"N 140°21'21.1"Eあたり)
享和1年(1801)です。これも治保の時代です。碑の上部にあるのは、守護仏の勢至菩薩をあらわす梵字のサクのようです。左下には「惣村講中」とあります。
二十三夜塔(和光院 田島町415)
天保7年(1836)です。斉昭の時代です。この年も飢饉だったそうです。飢饉と碑の建立に関係があるのでしょうか。碑の下部には講中の名前が彫られているようです。碑の左側に「丙申十一月」とありますが、霜月(11月)に建てられるのが大部分だそうです。
二十三夜塔(高田十字路信号近く 36°20'06.9"N 140°23'35.9"Eあたり)
天保8年(1837)です。斉昭の時代ですが、飢饉による年貢減少が背景にあるのでしょう、藩士の扶持を事実上半分減らすという、「半知借上」をしているようです。この石碑の上部には、日と月の姿が二つ並んで彫られています。