禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

すべてはまぼろしか?

2017-02-21 10:45:32 | 仏教

前回記事の「世の中を陽炎(かげろう)のように看(み)よ」について、「すべては虚妄である」と龍樹自身が述べている、とある人から指摘されました。私は仏典に疎いので、そこまで言われたらそうかもしれないとも思います。しかし、あえて言いたいのですが、重要なのは龍樹の表層的な言葉ではなく、その精神その真意です。龍樹の著作というものは古くて多くの人の手を経ています。細かく見て行けば矛盾も多々あるはずです。彼の真意をくみ取れば、「すべては虚妄である。」などと彼自身が言ったはずはないと私は思うのです。重要なのは表層的な言葉による理解ではなく、実感を伴った理解でなくてはならないということです。

「すべては幻のようなものだから、執着してはならない。」というお坊さんもいます。私はこれを非常にまずい説き方であると考えているのです。なぜまずいかと言うと、仏教についてあまり知識のない人だとそれを神秘的な言葉として受け取ってしまうからです。「ふーん、よく分からないけど、本当のところはみんなまぼろしなんだ」などという了解にどれほどの意味があるでしょうか。
愛する子供が死んだとします。「すべてはまぼろしだから」って平気でいられますか? 恋人を抱擁している時に、自分の腕の中のものはまぼろしだなんて思えますか?

釈尊はわが子の死を受け入れることのできないキサー・ゴータミーという女性に対し、「身内からひとりも死者を出したことのない家から白いけしの実をもらって飲ませなさい。そうすればその子は生き返るでしょう。」と言いました。キサー・ゴータミーは必死になって駆けずり回り、「ひとりも死者を出したことのない家」を探します。わが子を取り返したいという情熱のあまり、精も魂も尽き果てるまで探し回った結果、「ひとりも死者を出したことのない家」など無いのだという悟りに到達します。

釈尊は愛する子供を失くした悲しみがまぼろしだと教えたわけではありません。子供を亡くした親が悲しくないわけはないのです。その悲しみはあくまでリアルです。ゴータミーは、すべての人は死ぬということ、いわば無常の理を知ったのです。

人は、今の幸せがいつまでも続く、子が親より早く亡くなることはない、と思いがちです。ゴータミーはそれらが根拠のない思い込みに過ぎないことを悟ったのです。走り回って精根尽き果てたその時に、この世界の無根拠性を腹の底から了解した、ということでありましょう。その時、この悲しみを受け入れるしかないという覚悟ができたのです。あらゆる思い込みに根拠はないということ、つまりすべては無自性であるということ、それが龍樹の言いたいことではなかろうかと私は考えているのです。決して神秘的なことを龍樹は述べているわけではなく、実に当たり前のことを言っているのです。

すべてはまぼろしと言い、苦しみもなく悲しみもないなどと言っていると、行き着く先は離人症です。そのような仏教理解は邪道と考えます。私たちは、ありありと現前する世界をそのままリアルに受け止めるしかない。柳は緑花は紅というのはそういうことであろうと思うのです。

( 参考 ==> 公案に関する哲学的見解 )

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