ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

「指輪物語」4回目読了

2004年09月14日 | 指輪物語&トールキン

今日の写真は、前にも出したMuseum of Sienceのロビーの天井のフラッグの全体像です。うーん、これでは何が何だかですね(汗)左前がガンダルフ(白)とフロド、左奥がエルロンドとギムリ(謎の組み合わせ・・・)、右前がアラゴルンとアルウェン、右奥がサルマンとオークでした。(オーク写ってないですが)。全体的に人選がよくわからないボストンのLotR展のPOP類です・・・

さて、昨日原作4回目読了しました。読み始めたのRotK公開前だったのですが、中断しながらだらだら読んでいたらこんなことに(汗)一応クリストファー・リーに倣って年1回は読み直したいと思っていたりするのですが、私のペースだと年がら年中指輪読んでることになりそうな(汗)
でも、そのおかげで、映画を観た後に「王の帰還」を読むことになり、色々と考えさせられてしまいました。
一番に思ったのは・・・「PJ映画やっぱだめだめじゃん!」ということでした(汗)映画ファンの方には申し訳ないですが、って今まで散々文句言ってていまさらですね(汗)
映画RotKを初めて観た時に感じた違和感には色々と理由があったと思うんですが、一番の理由は、ほとんどの場面で原作から得た感動に及ばなかったということだったんでしょうね。というのを原作を読み直していて実感しました。
デネソールはもう論外として(汗)戦闘シーン好きなPJならペレンノール野はさぞかし・・・と思いきや、原作の方がはるかに感動できたのには驚きでした。ガンダルフとアングマールの魔王の対峙で息詰まるその瞬間に聞こえるローハンの角笛・・・なんでここ原作どおりにしなかったのか疑問です。他にもそんなシーンがごろごろと・・・アングマールの魔王を倒す場面も、特にメリーの扱いに疑問ありですしね・・・
しかし、それ以上に違和感があったのは、やはりフロド、サム、ゴラムルートでした。
原作のモルドールのあたりを読んでいて感じたこと。映画ではあのレンバス事件がないとイベントが少ないと思われてしまったのでしょうが、全然そんなことないと思いました。原作のようにただ静かに、フロドとサムの絆を描くこともできたはずなのに。4回目にして一番フロドたちの旅が心に染みたのは、映画の反動もあったのかもしれません・・・ということはやっぱり映画のおかげってこと?(笑)
そして、今回今までで一番、「ホビット庄の掃討」が心に残りました。やはり映画でもやるべきだったのではないかな、と初めて思いました。今までは「なくても仕方ないのでは」派(?)だったのですが。
メリーとピピンがカッコイイので映画でも観たかった、というミーハーな理由もありますが(笑)やはりフロドの存在感のためにやって欲しかった、というのがありますね。やっぱり映画のフロドを全部見てしまったからなのかな・・・
メリーとピピンが戦うことを選び、そのために栄誉を勝ち取る一方、「殺してはいけない」と説くフロドの存在感がホビット庄の中でだんだん薄くなってしまうということは、今の世の中にドキッとするくらい合っている部分があって、考えてしまいます。
私がTTTまでは弱すぎるフロドをOKと思っていたのは、あれは原作の「戦わない」フロドの姿を拡大解釈したものだと勝手に思っていたからなんですよね。今ではそうではなかったことがわかったのでまた考え方違って来ましたけど・・・
「THE END OF THE THIRD AGE」によると、「ホビット庄の掃討」は、最初の案ではフロドの台詞だったところがメリーになっていたり、改稿を重ねるにつれて戦いの中でのフロドの影を薄くして行った様子が分かります。戦わないフロドが主人公であるということ。トールキンは寓意ではないと言うでしょうが、それでも戦争の影響がないとは言い切れないよなあ、というのが正直な感想です。
サルマンとフロドの最後の対峙にも、今まで感じなかったようなことを感じました。賢者であったサルマンだけが、フロドの真の成長を見て取ったのだなあと。フロドの仲間たち(サム、メリー、ピピン)にはわからなかったことを、サルマンだけがフロドに告げたのですね。これも今回初めて、サルマンが悲しく思えました。
そして、そこから後は涙なしでは読めなくなってしまいました(汗)3月と10月に病むフロドの様子がこれほど胸に応えたのは初めてでした。サムが忙しくて気がつかないこと、フロドがサムのために病気のことを隠していた様子もただただ悲しくて。サムが何も気づかないまま、別れのときが近づいているのだなあと思うと・・・
いよいよフロドがサムに全てを託し、「ちょっと一緒に来て欲しい」と頼む時、何も知らないサムは、裂け谷まで行くこともできないとフロドに言います。フロドは本当は無理と分かっていてもサムに一緒に来て欲しかったのかもしれない、とふと思いました。そんなフロドの思いを、何も知らないながらもサムの言葉は拒絶してしまっているようで、フロドのことが悲しくてなりませんでした。
そこから後、エルフたちの一行に出会うところも、フロドがサムに「私が持っていたもの、これから持ったかもしれないものは全てお前に残して行くからね」という言葉、何もかもが悲しくて、泣けて仕方ありませんでした。結末知っているのにこんなに泣けるのってすごいなあと(汗)いや、知ってるからこそ泣けるのかもしれませんが・・・
ガンダルフのホビットたちへの別れの言葉、そしてフロドのサムたちとの別れのキスは原作ではとてもあっさりと書かれていますが、今回初めて、もしかしたらトールキンはあっさりとしか書けなかったのかもしれないなあ、と思いました。もしトールキン自身がサムと同じ「清められて苦悩を伴わない悲しみ」に心を満たされてこの場面を書いていたのだとしたら、過剰に涙を誘うような描写はできなかったはずだよな、と思って・・・少なくともその場面までで充分に悲しくなっていた私には、それ以上の描写はいらない、と思えました。
という訳で、4回目だというのに思いがけず泣かせられてしまった原作読書でした。今まで見えて来なかったところが感じ取れるようになったのは、PJ映画を見て色々と考えたせいなのかな、とも思います。特にフロドについては、PJ映画であのように描かれたからこそ、色々と考えるきっかけになりましたし。
そもそもPJ映画がなかったら、ネット上で色んな方の意見を知ることもなかったと思いますし、原作を何度も読み返すことすらしていなかったかもしれないんですよね。そう思うと、はじめの方で「だめだめじゃん」とか書いたのですが(汗)やはりPJ映画のおかげで得た物は多いんだなあ、とも思うのでした。
コメント
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