日本製鉄が1901年に操業を始めた「八幡製鉄所」の名称を消滅させるという
記事を読んだ。
仲良しだった高校の2年先輩が東大(法)を出て就職するときに
「ブン(聞)屋になるつもりだったけれどカネ(鉄)屋になることになった」と
わたくしに告げて九州へ下っていった。
彼は後に新日鉄の取り締りになり、再び所長として八幡へ行くことになった
のだが、しばらくして本社に戻ってきた。
写真週刊誌に新日鉄の社長候補として数人の同僚と並んで取り上げられたことも
あったけれど結局系列会社の副社長になった。
彼は営業畑だったようで世界各地の出張先からよく絵葉書をくれたものだ。
また、忙しい時間をやりくりしてこま切れの歩き遍路をしていたので四国からも
よくはがきが届いた。
大学時代まではともかく、社会人になってからは数年に一回程度しか実際に
会うことはなかったように思うがはがきはよくくれた。。
彼は奈良に住む弟と待ち合わせて毎年年に2回両親のお墓参りに
故郷に来ていて、その折幼馴染の家を訪ね、その後わたくしの実家にも
「空也」などのちょっとした手土産を携えて訪れてくれていた。
その彼の訃報が突然届いたのは数年前のことである。
具合が悪いので病院に行ってくると家を出てその途中の道で倒れたとのこと
だった。
迷ったけれどお葬式には参列せず、お香典だけ送った。
その後、ご両親のお墓のそばに葬られたと聞いてお墓にはお参りした。
彼が亡くなってから彼の幼馴染という人に会ったとき、
「いつも僕んちへ来たあと、君の実家に行ってくるというので”彼女は
初恋の人なのか?”と聞いたら”ふふ・・”と笑っていたよ」と言われた。
わたくしの中では高校時代から亡くなるまでずっと彼が恋人だったことは
一度もない。
彼はいつも「おにいちゃん」だった。
「八幡製鉄所」の記事から彼のことを久しぶりに思い出した。懐かしい。