古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

父の 『引揚げ記』 (8)

2017年10月14日 01時03分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 山田錦の稲刈りの時季なのに、雨がちの天気がつづきます。大雨なら仕方ありませんが、これくらいの雨なら刈ってしまおうと、きのうもコンバインが動きまわっていました。今年の実りはわるくないし、スカッと晴れたらいいのですが。
 ぼくらも、「畑に出ようか出まいか」と迷う天気でしたが、結局家でぐずぐずして過ごしました。


 父の『引揚げ記』  昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で (8)
                                  ※ 用字、仮名遣いは原文のままです。

 焼けつくような太陽は照りつけている。その暑い道を一歩一歩と歩いて行く。両手は荷物や子どもに奪われているので、顔から流れる汗を拭うこともできない。目にしみる汗をまばたきしながらひたすらに歩く。
「日本はなぜ負けたのだろう」
 と奥さんが嘆く。
「私達があれ程頑張ったのに。その努力も何の役にも立たなかったのね」
 お互いにどうにもならない事であるが、つい嘆きは口をついて出てくる。奥さんの背の子供は飢えと暑さのため泣き出す。それにつれてその上の子供も泣き出す。大人も子供も皆情けない心持ちで一杯である。そして重い足を引きずりながら伊川へと歩いて行く。
「頑張るのよ。日本は戦争に敗けたんだから仕方がないの」
 母は子供をやさしく励ましながら歩く。すると背の子は益々大きな声を出して泣き出した。背の子は空腹に耐えられなくなったのに違いない。母も今朝から何も食べていないので乳も出ない。
 母はとうとうたまらなくなり、道の横の畠に作られているトウモロコシをもぎると、それを生のままかじり、それを子供に與えようとする。それを畠の主の朝鮮人が見つけてとがめる。母は朝鮮人に拝む頼むと云いながら、何度も頭を下げる。その哀れさによって、やっと三本のトーキビにありつく事ができた。
「先生、すみませんねえ。日本人がこんな恥かしい事をして」
 と奥さんが云う。
「いや、仕方ありませんよ。もうお昼になりましたからね。子供も可哀相ですよ」
 となぐさめる。
 喉が乾いて子供達が水を欲しがる。大人達もさっきから喉がからからで水を飲みたいのだが、その一杯の水もまわりの人に頼んで恵みを乞う事もできない有様である。まわりの朝鮮人は、鋭い目で私達を眺めるばかりである。戦に破れた日本人の哀れさ、頭もまともに上げて歩けないのである。
 それでもお昼も過ぎて、やっと憧れの伊川に辿り着く。伊川は無事であった。伊川といえば伊川郡では一番大きな巴(あら = 町のこと)で日本人も合わせて十名位は住んでいる。何といってもこの付近の中心地である。その中心である伊川の近くの面からは、一人か二人しかいない日本人達がぞくぞく集ってくる。
 私はまず日本人の旅館を訪ねたが、「あなたは一人だから何とかしてくれ」とすげなく宿泊する事を断られた。後からこの日本人旅館に集ってくる日本人家族は、拝む頼むでこの旅館に泊る事になる。
 私は仕方がないので、同じ日本人である校長の家に厄介させてもらえないかと頼む。この人は日本人学校の校長で、同じ鳥取県出身であった。生徒といっても一年から六年まで八人いて、それを校長が教えているのである。その住宅に頼み込んだのである。
 だがこの校長さんの奥さんは大きなお腹をしていて、いつ子供が生まれるかわからないという有様である。それでも同県人出身のよしみで快く引き受けてくれたので、ほっと安堵の胸をなで下ろした。
 伊川でも独立の示威運動がさかんであって、毎日毎夜鐘を鳴らし叫び続けて、騒々しい日々が続く。そのうちにいろいろなデマが飛ぶようになった。
 どこそこの駐在所の主任は叩き殺されたとか、どこの校長は叩かれて大怪我をしたとか、どこの面長の家は日本に協力した事で、その家を叩き壊されたという噂であった。どこからどこまでが真なのか偽なのか区別がつかない。
 実際、面長はどこの面長も、敗戦と同時に山の中に姿を隠さねばならない程、同じ朝鮮人でありながら日本に協力した事で憎まれていたのである。どこの駐在所もその主任は、またその他の巡査もすべて逃亡しなくてはならなかった。 (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする